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20.「企画決行」
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「ただいまぁー」
消えいった声を出して鈴華が学校から帰ると、玄関の奥からピアノの音色が流れ聞こえてきた。
帰宅したら顔を見せて挨拶するのが家庭のルールだったが、気が重かった。それでも、気力を持ち上げてリビングへと向かうと、弟のピアノのレッスンに母親が付き添っていた。
「ただいま」
もう一度言ったものの、ピアノの音色にかき消されてしまう。だが、こちらの気配に気づいた弟が、
「お姉ちゃん、おかえり」
とピアノを弾く手を止めて言った。
母親もこちらを向くと、「あら、帰ったの。おかえりなさい」
嫌味でも何でもないと分かりつつ、帰って来て悪いのかと、鈴華は悪い方へと受け取ってしまい、心をモヤモヤさせる。
「うん」
と一言だけ返して、すぐに二階にある自室へと上がろうとしたが、
「お姉ちゃん、ピアノの先生から、お土産のサブレもらったんだけど、一緒に食べよ」
感性の鋭い弟は薄々気づいている。ここのところ元気がないのと、母親との間の空気が穏やかではないことに。だから、こうして仲立ちをしてくる。
ピアノの才能をおごることもなく、優しい自慢の弟のはずだった。けれど、最近は少し鬱陶しい。
「お姉ちゃんはいいよ。ちょっと、ダイエットしようかなって思ってて、エヘッ」
「えー? なんで?」
決して太って見えない鈴華のダイエット宣言に、不思議に弟は驚き、「女の子は、ほんの少しでも気にするものなのよ」と母が妥当に説明したが、「ふぅん」と、どこかまだ納得いかない顔をしていた。
「わたし、上で宿題してるから」
そう言って、その場を逃げるようリビングを後にした。
二階の自室に戻ると、鞄を机の上へと慎重な扱いで置いた。
リラックスしたルームウェアに着替えると、何か甘い飲み物が欲しくなった。だが、一階へと降りるのが憂うつなのと気力が出ないのもあり、お昼に学校の自販機で買った残りのペットボトルのお茶で我慢した。
鞄の中を開けて、紙袋がちゃんと入っているかを再確認する。その中身には白い包み紙に入った三種類の錠剤。
そっと手にして、
「……ユキ、ごめんね」
つぶやくと目に涙が滲んできた。一度、涙腺が緩むと、次から次へとボロボロとこぼれ落ちる。
自分でもよく分からない悲しさや虚しさが入り混じった感情に襲われる。しばらく、ベッドで布団にくるまって声を押し殺して泣いた。
そうしている間に日は沈み部屋の中は暗くなっていった。下からパタパタと人の動き回る気配に、鈴華は急いで電気を付け、机に向かう。
「ごはんよー」
と、母親の呼び声がする。
正直、食欲は一切なかったが、最後くらいは――重い体と気を立ち上がらせて、階段を降りた。
食卓には皮肉か幸運か、鈴華の好きなミートスパゲッティやコーンスープにサラダが色とりどりに並んでいた。
スパゲッティのソースは市販のレトルトだと知っているが、母が用意してくれた料理だ。「いただきます」と皆で挨拶すると、弟はフォークでスパゲッティをくるくると巻いていく。改めて器用だと、やけに感慨深く見つめて、「上手だね」と言うと、「なに?」と弟はおかしそうに笑った。
いつも帰りが遅い父親も、今日は皆の夕飯が終わりかけた頃にギリギリセーフで帰って来た。
そこには何事もなく平和な空間が時を止めて存在しているようだった。視界に入るもの全てが慈しんで感じられる。心がふわふわと宙に浮いているようだった。
「鈴華、お風呂は? お父さんは先にご飯食べるって。先、入りなさい。昨日、入ってなかったわね? どうしたの?」
「あ、うん。入る。昨日は眠かったから」
今日も億劫ではあったが、最後は綺麗でありたい。風呂場へと向かって入ると、身を清めるつもりで丁寧に体を洗った。湯舟に浸かると、ぼんやりしながら考えた。これから自分が行おうとしている事について。けれど、まるで実感がない。本当に実行するつもりなのか。まるで使命に突き動かされるよう、着々と進んでいく。
風呂から上がり、「出たよ」と家族に伝えると、ハッキリとしない思考のまま自室へと戻る。そして、狭いクローゼットを開けた。
中には、庭の倉庫からこっそり運んだ七輪と練炭あった。小学生の頃にキャンプへ行くのに何度か使ったもので、まだ使えるはずだ。あとは、ガムテープが一個。用意する物はたったそれだけだった。
いつ準備に取り掛かろうかと迷った。日程など何も決めてはいなかったが、何となく今日にしたかった。
皆が寝静まってからにしようとしたが、準備だけは先に整えておいた方が、音に気をつけなくて良いと考える。
一旦、湯上りで火照った体が落ち着くのを待った。
まず、窓の四方を外気が入ったり抜けたりしないよう、ガムテープでしっかり塞ごうとした。鈴華の部屋にはベランダがあり、窓の大きさは足元から頭の上まで、自分の身長以上ある。机の椅子はキャスター式で動くため、先程こっそりと持ち出した玄関に置いてある折り畳み式の脚立を使ってガムテープを貼っていった。同様に、部屋のドアにも。それから、七輪に練炭をセットする。最後に机の引き出しから、コンビニで初めて買った一本の可愛いキャラクター柄のライターを七輪の側に置いた。
これで準備は完了した。
あまりにも簡単で時間もさほどかからず、何だか気が抜けてベッドへと転がる。あとは、時が近づくのを息を殺して静かに待つのみだ。
怖いなどという気持ちはなかった。むしろ、これでが終わるのだという解放感と安心感さえある。
「……あ」
遺書というものを書いていない事に気づくが、特に残したいメッセージなどはない。自殺の原因や理由もはっきりとしていなかった。ただ──、
「ありがとう、ごめんなさい」
そう、白いノートに書き記した。その気持ちだけは忘れていない。
「……ユキ」
取り引きを行った時にはすでに、この企画は心のどこかにあったのかもしれない。秀一の自殺はただのきっかけに過ぎず、直接的ではない。ユキから薬を手に入れた時点で、いつでも決行はできた。それなのに……あの強い意志で輝く大きな瞳が、鈴華の心を引き止めさせていた。
時計は十時を過ぎ、皆が風呂を終えて、各自それぞれの部屋へと戻った頃。
何度かのためらいを繰り返したのち、ベッドから出る。そして、ライターを手に七輪に火を点けた。
白い煙が立ちのぼりながら、少しずつ部屋の中が暖まっていく。
鈴華は例の薬と水が入ったコップを手に取る。
強い作用の睡眠薬だと聞いた。きっと目が覚めないまま、一酸化炭素中毒を起こして、手遅れになりそのままだろう。
包み袋を破ってしまうと、もう手が勝手に動き飲み込んでいた。
「さようなら」
と、まだ薬が効くより早く、そこで鈴華の意識は眠った。
消えいった声を出して鈴華が学校から帰ると、玄関の奥からピアノの音色が流れ聞こえてきた。
帰宅したら顔を見せて挨拶するのが家庭のルールだったが、気が重かった。それでも、気力を持ち上げてリビングへと向かうと、弟のピアノのレッスンに母親が付き添っていた。
「ただいま」
もう一度言ったものの、ピアノの音色にかき消されてしまう。だが、こちらの気配に気づいた弟が、
「お姉ちゃん、おかえり」
とピアノを弾く手を止めて言った。
母親もこちらを向くと、「あら、帰ったの。おかえりなさい」
嫌味でも何でもないと分かりつつ、帰って来て悪いのかと、鈴華は悪い方へと受け取ってしまい、心をモヤモヤさせる。
「うん」
と一言だけ返して、すぐに二階にある自室へと上がろうとしたが、
「お姉ちゃん、ピアノの先生から、お土産のサブレもらったんだけど、一緒に食べよ」
感性の鋭い弟は薄々気づいている。ここのところ元気がないのと、母親との間の空気が穏やかではないことに。だから、こうして仲立ちをしてくる。
ピアノの才能をおごることもなく、優しい自慢の弟のはずだった。けれど、最近は少し鬱陶しい。
「お姉ちゃんはいいよ。ちょっと、ダイエットしようかなって思ってて、エヘッ」
「えー? なんで?」
決して太って見えない鈴華のダイエット宣言に、不思議に弟は驚き、「女の子は、ほんの少しでも気にするものなのよ」と母が妥当に説明したが、「ふぅん」と、どこかまだ納得いかない顔をしていた。
「わたし、上で宿題してるから」
そう言って、その場を逃げるようリビングを後にした。
二階の自室に戻ると、鞄を机の上へと慎重な扱いで置いた。
リラックスしたルームウェアに着替えると、何か甘い飲み物が欲しくなった。だが、一階へと降りるのが憂うつなのと気力が出ないのもあり、お昼に学校の自販機で買った残りのペットボトルのお茶で我慢した。
鞄の中を開けて、紙袋がちゃんと入っているかを再確認する。その中身には白い包み紙に入った三種類の錠剤。
そっと手にして、
「……ユキ、ごめんね」
つぶやくと目に涙が滲んできた。一度、涙腺が緩むと、次から次へとボロボロとこぼれ落ちる。
自分でもよく分からない悲しさや虚しさが入り混じった感情に襲われる。しばらく、ベッドで布団にくるまって声を押し殺して泣いた。
そうしている間に日は沈み部屋の中は暗くなっていった。下からパタパタと人の動き回る気配に、鈴華は急いで電気を付け、机に向かう。
「ごはんよー」
と、母親の呼び声がする。
正直、食欲は一切なかったが、最後くらいは――重い体と気を立ち上がらせて、階段を降りた。
食卓には皮肉か幸運か、鈴華の好きなミートスパゲッティやコーンスープにサラダが色とりどりに並んでいた。
スパゲッティのソースは市販のレトルトだと知っているが、母が用意してくれた料理だ。「いただきます」と皆で挨拶すると、弟はフォークでスパゲッティをくるくると巻いていく。改めて器用だと、やけに感慨深く見つめて、「上手だね」と言うと、「なに?」と弟はおかしそうに笑った。
いつも帰りが遅い父親も、今日は皆の夕飯が終わりかけた頃にギリギリセーフで帰って来た。
そこには何事もなく平和な空間が時を止めて存在しているようだった。視界に入るもの全てが慈しんで感じられる。心がふわふわと宙に浮いているようだった。
「鈴華、お風呂は? お父さんは先にご飯食べるって。先、入りなさい。昨日、入ってなかったわね? どうしたの?」
「あ、うん。入る。昨日は眠かったから」
今日も億劫ではあったが、最後は綺麗でありたい。風呂場へと向かって入ると、身を清めるつもりで丁寧に体を洗った。湯舟に浸かると、ぼんやりしながら考えた。これから自分が行おうとしている事について。けれど、まるで実感がない。本当に実行するつもりなのか。まるで使命に突き動かされるよう、着々と進んでいく。
風呂から上がり、「出たよ」と家族に伝えると、ハッキリとしない思考のまま自室へと戻る。そして、狭いクローゼットを開けた。
中には、庭の倉庫からこっそり運んだ七輪と練炭あった。小学生の頃にキャンプへ行くのに何度か使ったもので、まだ使えるはずだ。あとは、ガムテープが一個。用意する物はたったそれだけだった。
いつ準備に取り掛かろうかと迷った。日程など何も決めてはいなかったが、何となく今日にしたかった。
皆が寝静まってからにしようとしたが、準備だけは先に整えておいた方が、音に気をつけなくて良いと考える。
一旦、湯上りで火照った体が落ち着くのを待った。
まず、窓の四方を外気が入ったり抜けたりしないよう、ガムテープでしっかり塞ごうとした。鈴華の部屋にはベランダがあり、窓の大きさは足元から頭の上まで、自分の身長以上ある。机の椅子はキャスター式で動くため、先程こっそりと持ち出した玄関に置いてある折り畳み式の脚立を使ってガムテープを貼っていった。同様に、部屋のドアにも。それから、七輪に練炭をセットする。最後に机の引き出しから、コンビニで初めて買った一本の可愛いキャラクター柄のライターを七輪の側に置いた。
これで準備は完了した。
あまりにも簡単で時間もさほどかからず、何だか気が抜けてベッドへと転がる。あとは、時が近づくのを息を殺して静かに待つのみだ。
怖いなどという気持ちはなかった。むしろ、これでが終わるのだという解放感と安心感さえある。
「……あ」
遺書というものを書いていない事に気づくが、特に残したいメッセージなどはない。自殺の原因や理由もはっきりとしていなかった。ただ──、
「ありがとう、ごめんなさい」
そう、白いノートに書き記した。その気持ちだけは忘れていない。
「……ユキ」
取り引きを行った時にはすでに、この企画は心のどこかにあったのかもしれない。秀一の自殺はただのきっかけに過ぎず、直接的ではない。ユキから薬を手に入れた時点で、いつでも決行はできた。それなのに……あの強い意志で輝く大きな瞳が、鈴華の心を引き止めさせていた。
時計は十時を過ぎ、皆が風呂を終えて、各自それぞれの部屋へと戻った頃。
何度かのためらいを繰り返したのち、ベッドから出る。そして、ライターを手に七輪に火を点けた。
白い煙が立ちのぼりながら、少しずつ部屋の中が暖まっていく。
鈴華は例の薬と水が入ったコップを手に取る。
強い作用の睡眠薬だと聞いた。きっと目が覚めないまま、一酸化炭素中毒を起こして、手遅れになりそのままだろう。
包み袋を破ってしまうと、もう手が勝手に動き飲み込んでいた。
「さようなら」
と、まだ薬が効くより早く、そこで鈴華の意識は眠った。
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