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第三話『二つ目の学校』
しおりを挟む 火曜日の朝。
慧一は早めに家を出て、会社の駐車場で峰子を待つことにした。
電話やメールより、直接会って話がしたい。
会社は明日から夏季休業に入る。彼女をデートに誘って、その時に話してもいいのだが、一日でも早く伝えたかった。
峰子は普段、慧一より十五分ほど早く出勤している。今朝も、いつもと同じ時間に彼女は現れた。
慧一は駐車場前の坂道に立ち、歩いてくる彼女をじっと見つめた。
お下げに眼鏡。白いブラウスと紺のタイトスカート。真面目な会社員として、隙のない通勤スタイルだ。
峰子はまだ慧一に気付かない。
トートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、俯きかげんで歩く彼女は、どこか緊張しているように見える。
かなり近付いてきたところで、峰子が顔を上げた。坂道で待つ慧一を見つけると、たちまち笑顔になる。
「慧一さん、おはようございます!」
元気よく挨拶し、駆け寄ってくる。さっきとは打って変わって、明るい印象だ。
「そんなに慌てるなよ。転ぶぞ」
思わず微笑み、慧一も彼女のほうへと歩き出した。
「体調はよさそうだな」
「はい。あの、絶好調です」
峰子はガッツポーズを作った。ユーモラスな仕草に慧一は目を細め、彼女の顔をあらためて見つめる。
今日も唇が紅い。
よく見ると、メイクもいつもより丁寧にほどこされていた。
慧一は反射的に若い営業マンを思い出すが、すぐに打ち消す。
二人は並んで歩き出した。
「今朝は早いんですね」
「ああ。君に言っておきたいことがあって、待ってたんだ」
「私に?」
峰子が不思議そうな顔で、慧一を見上げる。
「あのな、峰子」
「はい」
「俺、転勤するかもしれん」
「え……」
峰子のパンプスが止まった。
「遠くですか」
「うん」
少し時間が早いと、出勤してくる社員もまばらである。今、ここは二人きりの坂道だった。
静かな空気を震わせ、峰子が訊ねる。
「国内、ですよね」
「……いや」
慧一はイギリス工場の所在地を教えた。
峰子は声を上げそうになったのか、口元を抑える。
「まだ本決まりじゃないけど、多分、行くことになると思う。状況が変わらない限り」
駐車場から会社の正門まで、徒歩五分。
こんな短い距離で伝えるのは、無理があったかな。
慧一は少し後悔するが、こうなっては仕方ない。かえって自分に発破をかけることが出来て幸いだ。と、ポジティブに考える。
立ちすくむ峰子に一歩近付き、昨夜からずっと考えていた言葉を口にした。
「一緒に来ないか」
「……」
彼女は驚きのあまり、ものも言えずに固まっている。瞬きもせず、彼女の周りだけ時が止まったかのよう。
予想を上回る反応だった。
「よく考えて、返事をしてくれ。待ってるから」
慧一は峰子の肩に手を置いてから、先に歩き出した。
正門に着くまでの途中、何度か振り向こうと思った。
だが出来なかった。
峰子がどんな表情でいるのか、確認するのが怖い。昨夜はあれほど意気込んで、この申し込みを計画したのに、いざとなると自信がなくなる。
あんな反応をされると、自分の思いどおりに事を運ぶなど、とても無理な話ではないかと、怯んでしまう。
しかし、慧一は考える。
あんな峰子だから俺は好きになったのだ。惚れてしまったのだ。
もうあとは彼女の判断に任せるしかない。どんな答えでも受け入れよう。
慧一は心を決めると、真っ直ぐに前を向いて門を潜った。
◇ ◇ ◇
峰子はいつのまにか更衣室にいた。
自分のロッカーの前でぼんやり考えている。
(私は、両親……特に母親に対して、一度だけ自分の意思を通した。高校卒業後は就職するという進路選択。学校という枠が苦しくて、中学の頃から、早く外に出て働こうと思っていたから)
念願かなって勤めることが出来たこの会社は、峰子にとって大切な居場所である。そして、就職して最も幸運に思ったのは、滝口慧一と出会えたことだ。
親の言うなりに進学していたら、彼との接点は失われ、一生彼を知らずに過ごしただろう。そんな恐ろしくて悲しい人生、想像したくもない。
ぼんやりと制服に着替え、更衣室を出た。
組合事務所のカウンター内にある自分の席に、無意識に座った。いつもの流れ、いつもどおりの動作。
(何も考えなくても、この場所に、当然のようにたどり着くことが出来る。これが私の安定した日常。さっきまでずっと幸せで、いつまでもこの生活が続くと思っていたのに……)
大切な居場所と、大好きな人。
その二つが離れ離れになるなんて、峰子の考えにまるでなかった。
峰子はデスクに置かれた広報誌を、何となく開いた。ある社員がハネムーンに出かけたという記事に目が留まる。
若い男女が幸せそうに寄り添っている。
背景は外国の風景。
遠い、海の向こうの国……
峰子は海外旅行をしたことが無い。でも、いつか行ってみたいと思う。世界中の博物館や図書館を巡りたいという夢がある。
――そんな一人旅が夢です。
朝礼でのスピーチを思い出す。あの時は、本当にそう思っていた。
一人旅が気楽で、望ましいと。
でも、今は……
峰子は広報誌を閉じると、デスクに突っ伏した。
そろそろ朝の掃除を始めなければ。でも、体が動かない。
頭の中は、あの人のことでいっぱいだ。このところずっとそう。何をしていても、あの人のことが頭に浮かぶ。胸を締め付ける。
ついさっきも、坂道で私を待つ彼を見つけた時の、嬉しさ、幸せな気持ち。
あの人に伝わっただろうか。
一緒に来ないか――
耳に心地よい温かな声。
峰子は顔を上げる。泣きそうだった。
どうして「はい」と言えないのだろう。
自分の意気地のなさに、彼女は再びくじけて顔を伏せてしまった。
慧一は早めに家を出て、会社の駐車場で峰子を待つことにした。
電話やメールより、直接会って話がしたい。
会社は明日から夏季休業に入る。彼女をデートに誘って、その時に話してもいいのだが、一日でも早く伝えたかった。
峰子は普段、慧一より十五分ほど早く出勤している。今朝も、いつもと同じ時間に彼女は現れた。
慧一は駐車場前の坂道に立ち、歩いてくる彼女をじっと見つめた。
お下げに眼鏡。白いブラウスと紺のタイトスカート。真面目な会社員として、隙のない通勤スタイルだ。
峰子はまだ慧一に気付かない。
トートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、俯きかげんで歩く彼女は、どこか緊張しているように見える。
かなり近付いてきたところで、峰子が顔を上げた。坂道で待つ慧一を見つけると、たちまち笑顔になる。
「慧一さん、おはようございます!」
元気よく挨拶し、駆け寄ってくる。さっきとは打って変わって、明るい印象だ。
「そんなに慌てるなよ。転ぶぞ」
思わず微笑み、慧一も彼女のほうへと歩き出した。
「体調はよさそうだな」
「はい。あの、絶好調です」
峰子はガッツポーズを作った。ユーモラスな仕草に慧一は目を細め、彼女の顔をあらためて見つめる。
今日も唇が紅い。
よく見ると、メイクもいつもより丁寧にほどこされていた。
慧一は反射的に若い営業マンを思い出すが、すぐに打ち消す。
二人は並んで歩き出した。
「今朝は早いんですね」
「ああ。君に言っておきたいことがあって、待ってたんだ」
「私に?」
峰子が不思議そうな顔で、慧一を見上げる。
「あのな、峰子」
「はい」
「俺、転勤するかもしれん」
「え……」
峰子のパンプスが止まった。
「遠くですか」
「うん」
少し時間が早いと、出勤してくる社員もまばらである。今、ここは二人きりの坂道だった。
静かな空気を震わせ、峰子が訊ねる。
「国内、ですよね」
「……いや」
慧一はイギリス工場の所在地を教えた。
峰子は声を上げそうになったのか、口元を抑える。
「まだ本決まりじゃないけど、多分、行くことになると思う。状況が変わらない限り」
駐車場から会社の正門まで、徒歩五分。
こんな短い距離で伝えるのは、無理があったかな。
慧一は少し後悔するが、こうなっては仕方ない。かえって自分に発破をかけることが出来て幸いだ。と、ポジティブに考える。
立ちすくむ峰子に一歩近付き、昨夜からずっと考えていた言葉を口にした。
「一緒に来ないか」
「……」
彼女は驚きのあまり、ものも言えずに固まっている。瞬きもせず、彼女の周りだけ時が止まったかのよう。
予想を上回る反応だった。
「よく考えて、返事をしてくれ。待ってるから」
慧一は峰子の肩に手を置いてから、先に歩き出した。
正門に着くまでの途中、何度か振り向こうと思った。
だが出来なかった。
峰子がどんな表情でいるのか、確認するのが怖い。昨夜はあれほど意気込んで、この申し込みを計画したのに、いざとなると自信がなくなる。
あんな反応をされると、自分の思いどおりに事を運ぶなど、とても無理な話ではないかと、怯んでしまう。
しかし、慧一は考える。
あんな峰子だから俺は好きになったのだ。惚れてしまったのだ。
もうあとは彼女の判断に任せるしかない。どんな答えでも受け入れよう。
慧一は心を決めると、真っ直ぐに前を向いて門を潜った。
◇ ◇ ◇
峰子はいつのまにか更衣室にいた。
自分のロッカーの前でぼんやり考えている。
(私は、両親……特に母親に対して、一度だけ自分の意思を通した。高校卒業後は就職するという進路選択。学校という枠が苦しくて、中学の頃から、早く外に出て働こうと思っていたから)
念願かなって勤めることが出来たこの会社は、峰子にとって大切な居場所である。そして、就職して最も幸運に思ったのは、滝口慧一と出会えたことだ。
親の言うなりに進学していたら、彼との接点は失われ、一生彼を知らずに過ごしただろう。そんな恐ろしくて悲しい人生、想像したくもない。
ぼんやりと制服に着替え、更衣室を出た。
組合事務所のカウンター内にある自分の席に、無意識に座った。いつもの流れ、いつもどおりの動作。
(何も考えなくても、この場所に、当然のようにたどり着くことが出来る。これが私の安定した日常。さっきまでずっと幸せで、いつまでもこの生活が続くと思っていたのに……)
大切な居場所と、大好きな人。
その二つが離れ離れになるなんて、峰子の考えにまるでなかった。
峰子はデスクに置かれた広報誌を、何となく開いた。ある社員がハネムーンに出かけたという記事に目が留まる。
若い男女が幸せそうに寄り添っている。
背景は外国の風景。
遠い、海の向こうの国……
峰子は海外旅行をしたことが無い。でも、いつか行ってみたいと思う。世界中の博物館や図書館を巡りたいという夢がある。
――そんな一人旅が夢です。
朝礼でのスピーチを思い出す。あの時は、本当にそう思っていた。
一人旅が気楽で、望ましいと。
でも、今は……
峰子は広報誌を閉じると、デスクに突っ伏した。
そろそろ朝の掃除を始めなければ。でも、体が動かない。
頭の中は、あの人のことでいっぱいだ。このところずっとそう。何をしていても、あの人のことが頭に浮かぶ。胸を締め付ける。
ついさっきも、坂道で私を待つ彼を見つけた時の、嬉しさ、幸せな気持ち。
あの人に伝わっただろうか。
一緒に来ないか――
耳に心地よい温かな声。
峰子は顔を上げる。泣きそうだった。
どうして「はい」と言えないのだろう。
自分の意気地のなさに、彼女は再びくじけて顔を伏せてしまった。
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