胸キュンは難しい

夏目りほ

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胸キュンは難しい

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「ねぇねぇ! 昨日の『ラブ恋』! 超やばかったよねー!」

「ホントホント! もう私キュン死にするかと思ったわ!」

「なになに? 『ラブ恋』の話? 私的には榊さかき様カッコ良すぎてヤバい!」

 少し離れた席では、三人の女生徒達が随分と楽しそうに話をしている。どうやら昨晩の月9ドラマについてらしく、「ヤバい」を嬌声と共に連呼しまくっていた。
 僕はそのドラマは観ていないからよく分からないが、今人気のイケメン俳優が起用されたおかげか、近年稀に見る高視聴率を記録しているらしい。
 内容はOLや女子高生をターゲットにした恋愛物で、とにかく「胸キュン」の雨嵐なのだ。観てないのにどうしてそれがわかるかって? 彼女たちの会話をこっそり聞いていれば大体は想像出来る。
 盗み聞きなんて褒められたものではないのは知っているが、それでも僕は彼女たちの会話を聞かずにはいられなかった。

「もうさもうさ! 榊くんの壁ドンのシーンとかさ! さいっこうだったよね!」

「わかるー! 私もされてみたいなー」

「なら私がしてあげよっかぁ?」

「あんたじゃトキメキが足りん!」

 壁ドンか。一時期かなり話題になってたっけ。男が女子を壁に追い詰めて、手で逃げ場を塞ぐってやつだ。

「後ろから抱き締められるとこもヤバかったなー。私が榊くんにあんなのされたら心臓持っていかれるわ」

「わかるわかる! それで耳元で囁かれたりなんかしちゃってさ! 考えただけでも震えそう!」

「ていうかあんたら、ちゃんと榊様って呼んでよ!」

 すると三人は何を合図にしたのか、突然カバンを持って教室から出て行ってしまった。もう放課後だから家に帰るのはわかるのだが、女子の行動のきっかけってのは未だに掴めないな。
 三人の笑い声はまだ届いてきていて、廊下を歩いているせいか少しばかり壁に反響している。遠くなっていくはずなのに、不思議と耳に残る声だった。
 右手の時計に目をやる。そろそろ綾あやの部活も終わる時間かな。校門で待っていよう。
 誰もいなくなった教室だからか、思わず呟いてしまった。

「……胸キュンって、なんだろう」







 空が柿色に染まる。東の方はまだ水色が残っていて、境はにじむように曖昧だ。僕は校門の石壁にもたれかかりながら、一人スマフォをいじっていた。
 綾が姿を見せるまで、退屈しのぎにソシャゲでもしようと思っていたが、ふと「胸キュン」というワードをググってみようかと思いついた。きっと「胸キュン」なんて言葉は広辞苑には載っていないだろうし、困った時はグーグル先生に聞けば大概なんとかなる。「胸キュン」と打つのにちょっと苦労して、検索をかける、前にスマフォを閉じた。なんとなく負けた気になったからだ。どうせ調べるのなら、人に聞いた方が覚えられるし、それに、絶好の聞き取り対象がこれからここに来る。
 そして間の良いことに、綾が手を振りながら歩いて来るのが見えた。時刻は午後六時。今からならスーパーの惣菜も安くなっているだろう。

「ごめん! 待った?」

 僕を見つけて途中から駆け寄ってきた綾は、少し息が上がっている。

「大丈夫。帰ろ」

「うん」

 綾と並んで歩き出した。僕よりも歩幅の狭い彼女を置いていかないように、いつもより少しだけ脚の回転を緩くする。

「部活、どうだった?」

「めっちゃ大変だったよー。顧問がまたガミガミ怒りだしてさー。やれ部室が汚いだの、備品の手入れが不十分だの、私らちゃんとやってるのに!」

「大変だな。でもそんなに嫌なら辞めたら良んじゃない? 僕なら無理だ」

「それとこれとは別。吹奏楽好きだし、それに、私副部長だもん。責任ある立場なのだよ」

「へー」

 綾は僕の幼馴染だ。家が隣同士で、家族ぐるみの付き合いがある。幼稚園から高校までずっと一緒で、家族の次に同じ時間を過ごしてきた間柄だ。
 中学の時はお互い思春期真っ盛りで会話もほとんどしなくなったのだが、同じ高校になって、気がついたらまた普通に話をしてた。

「今日の夕飯何が良い?」

「何でも良いよ」

「また航平はそうやって。何でも良いが一番困るんだよ」

「だってホントに何でも良いんだからしょうがないじゃん」

「じゃあ航平が嫌いなトマト尽くしにするから!」

「ちょ! それはダメだろ! あ! 待てって!」

 校門から伸びる下り坂を、綾がいきなり駆け出して行った。文化部のくせに足が速い彼女は、僕ではなかなか追いつけない。

「あ、綾! ちょ、ま、待って……」

「うわー。体力ないなー。なんかスポーツしたら?」

 結局ぐんぐん引き離された僕を見かねて、綾が戻ってきた。膝に手をつく僕とは対称的に、彼女は軽く息が乱れているだけだ。

「ほらほら。何が食べたいかちゃんと言って。じゃないとホントにトマト尽くしにするよ?」

「じゃ、じゃあ、コロッケでっ」

「りょーかい。クリームコロッケ?」

「いや、普通のが良い」

 やっと息が整ってきた僕は、また綾の隣に並ぶ。
 僕達の両親はお互い共働きで、たまに夜遅くまで帰ってこない時がある。そういう時はどちらかの家で一緒に夕飯を食べることになっていた。別に誰かが決めたことではなかったが、長い間お隣さんをしていると、自然とこういう関係になってしまったのだ。
 そんな夜に料理を担当するのはいつも綾だ。昔から料理が好きだった彼女は、今では作れない料理はほとんどないと言って良い。

「コロッケかー。多分パン粉ないや。あとじゃがいもと、挽肉、サラダも作んなきゃダメだよね」

 材料を揃えるために、これから二人で買い物に向かう。必要な物を指折り数える綾。僕達がいつも寄るスーパーは学校のすぐ近くだから、ここから歩いて十分もかからない。スーパー後藤。個人が経営してるお店だが、農家さんの知り合いが多いため新鮮な野菜が多く、主婦達から人気だ。

「航介くんの分もいる?」

「いや、あいつ今日塾だから。多分勝手に食べるよ」

「偉いなー。お兄ちゃんはぶらぶらしてんのにね」

「別にぶらぶらはしてない」

「してるじゃん。部活にも入ってないし、テストだって普通だし」

「それでも綾よりは成績良いから。あ、そうだ。化学のノートさっさと返せよ。明日授業あるから」

「え! ごめんまだ写してないんだ!」

「じゃあ明日の二時間目までに返してな」

 他愛ない会話をしていれば、十分なんてすぐだ。いつものスーパー後藤に到着した。綾が買い物かごを持つから、僕が綾のカバンを受け取る。
 野菜コーナーでレタスときゅうり、ブロッコリーをかごに入れて、今度は肉を取りに行く。すると、

「お! おしどり夫婦。今日も一緒にご飯食べんの?」

「あ、篠崎。なんでここに?」

 赤いエプロンをつけた若い男が、僕達に声をかけてきた。クラスメイトの篠崎だ。

「バイト。ここ近いし」

「へぇ。まぁ頑張れよ」

「ちょっと篠崎くん! 私ら別に、ふ、夫婦じゃないから!」

 何故か一瞬固まっていた綾が、遅れたタイミングでそんなことを言う。

「え、でもお前らいっつも一緒じゃん。付き合ってんじゃないの?」

「つ、付き合ってないし!」

「マジで?」

「私、先行ってるから!」

 慌てた様子で綾は行ってしまった。肉を買う予定だったのに、向かったのは反対方向だ。

「なぁ航平。お前ら本気で付き合ってないん?」

「うん。付き合ってないぞ。ただの幼馴染」

「うっそだろ。神崎さん可愛いんだから付き合えば良いじゃん」

「別に可愛いから付き合うとかそんなんじゃないだろ。それに僕そう言うのわかんないし」

「はー。お前ホントに今時の男子高生かよ。でも気をつけろよな。神崎さん狙ってる奴多いぞ」

「へぇ。そうなのか」

「そうなのかって……。まぁ良いや。今日醤油安くなってっから、買っとくとお得だぞ」

「わかった。綾に聞いてみる」

「ん。じゃ、また明日な」

 バイトにしては意外と真面目に働いているらしい篠崎と別れて、綾を探しに店内を回る。それにしても、綾ってモテるのか。そんなの今まで考えもしなかったな。僕がもともとそう言う話に疎いのもあるのだろうが、綾は家族みたいな存在だから、そんな風な目で見たことがなかった。

「あ、いた」

 店内をしばらく探すと、綾はすでにレジに並んでいた。今からだと醤油を買うのは手間だな。篠崎には悪いが、別に急ぎではないし、まあ良いだろう。

「綾」

「……」

 声をかけても何故か反応しない。僕の方を見ようともしない。何か怒らせるようなことをしたかな。
 会計を済ませた綾が買い物かごからマイバックに品物を移しているのを黙って見ていた。マイバッグが一杯になったのを確認して、それを手に取る。

「……」

 綾のカバンを返す時も、目を合わせてくれなかった。














 スーパー後藤から僕らの自宅までは歩いて二十分だ。自転車で通学しても良い距離なのだが、綾が歩くのが好きなので、深い考えもなく合わせていたら僕も徒歩通学になった。
 街の中央を流れる大きな川の土手を、二人で歩く。丁度正面に夕陽が落ちていくのが見えて、少しばかり眩しい。半球状の太陽は、消えゆく最後に一際輝きを増して空に踏ん反り返る。
 綾はさっきから全然喋らない。ずっと僕の隣で俯いている。彼女は僕より身長が低いから、俯かれるとどんな表情をしてるのか全然見えなくて少し困る。
 なんだかよくわからないが、話をしないとまずい気がした。そしたら、さっき教室で聞いたことに思い至った。

「なぁ綾。胸キュンってなに?」

「はぁ?」

「だから。胸キュンだよ胸キュン」

「ど、どしたのいきなり。なんかあった?」

「いや。ちょっと気になってさ。なんか、壁ドンされると女子はキュン死にするんだろ?」

「え、えー。なに、壁ドン、したいの……?」

「いや全然。そうじゃなくてさ、ただわからなくて。壁ドンって、ようは袋小路に追い込まれてるわけじゃん? あんなの怖いだけで、胸がドキドキするなんておかしいだろ。あ、吊り橋効果ってやつか?」

「……そっか。航平そう言う話苦手だもんね」

 疲れた表情で頷く綾だが、それから右手を口元に当てて、難しそうにうーんとうなる。

「何て言うかさ……こう、顔が近くなるのにドキドキするんだよ。航平だって女子に近づかれたらドキドキするでしょ」

「え、考えたこともなかったな。するの、かな?」

「はぁ……」

 僕なりにそのシチュエーションを想像してみる。綾だと絶対にドキドキしたりしないので、なんとなく隣の席の赤城さんを勝手に登場させる。
 長い髪と眼鏡の彼女は、実はまつ毛が長い。隣の席になって気がついたことだった。あの眼鏡の奥にある瞳が、僕のすぐそばにあって。鼻先が触れ合いそうで。あれ、でも。

「いや、やっぱりドキドキしたりしないな。むしろなんか息が詰まりそうだ。赤城さんだって絶対そんなことしないだろうし」

「え、ちょっとなんで咲ちゃんが出てくるの?」

「ん? いや、試しに赤城さんで想像してみた」

「はぁ!? な、なに、なにそれ!? 航平の変態!」

「いてっ! なんでそうなるんだよ!」

 カバンで背中を殴られて、思わず変な声が出た。その後もこっちが抵抗しないのを良いことに、何度も綾にカバンをぶつけられる。

「わ、わかったから! 壁ドンはもう良いよ! でさ、キュン死にってなんなの?」

「え、また訳わかんないことを……。なに? 航平は乙女がマイブームなの?」

「そんなつもりじゃないけどさ。単純にわかんないから聞いてるんだよ」

「キュン死にって単語がわからないの?」

「いや、状況、かな。なんか死にそうになるってのはわかるんだけど、キュンの部分がピンとこなくて……」

「うーん」

 また綾は口元に手を当てる。これは考えごとをする時の彼女の癖だった。幼い頃からそうだ。今でこそ特に違和感のない仕草だが、小学生がやるにはちょっとマセてたよな。
 整った眉を寄せて、まだうなる綾。綺麗に描かれた眉を横から見つめる。彼女が薄く化粧をし出したのは、高校に入ってからだ。中学の時とは少し印象が変わっていて、最初は戸惑ったのをよく覚えている。
 すると、背後から自転車のベルが鳴った。この土手は車は通れないが、自転車は通って良いことになっている。危ないので、綾の背中に手をかざすようにして脇に寄せた。自転車は僕の側を遅めの速度で追い抜いていった。

「そのさ」

「ん?」

「航平が言うキュン死にだけど、やっぱ胸がキュンキュンして堪らん! って時に使うんだよ」

「キュンキュンってなんだよ。どんなオノマトペだ」

「えーそこから? ほら、恋愛小説とか読んだら胸が、こう……あれ、あったかくなるのとは違うな……痛くなる、のともちょっと違うし」

「なんだ、綾もわかってないんじゃん」

「いや! わかってるよ! ただ言葉にするのが難しいだけで……」

「わからん」

「もうっ! おまえはロボか!」

 今度は尻を殴られた。綾は時々暴力的だから困る。そう言う時に限ってなんで怒ってるのすらわからないから、こっちもどう言う態度をしたら良いか戸惑うんだよな。結局はいつもされるがままになってる。

「恋愛小説か……少女漫画とかでもそう言うのあるのか?」

「そりゃあるよ。てか少女漫画は基本それだけだよ」

「僕が読んでも古文みたいに感じそうだな」

「航平はもうちょっと心の機微を勉強した方が良いかもね。なんなら私の貸したげよっか?」

「へぇ。綾もそう言うの持ってるんだ。なんか意外だ」

「ちょ! 私だって女子だからね!?」

「言われてみたらそうなんだよな。ごめん。なんか全然そんな気しないからさ」

「っ~~~~!!」

 僕としては何でもないことを言ったつもりだったが、どうやらまた綾を怒らせてしまったみたいだった。ぷぅっと網上のお餅のように頬を膨らませると、ふん、とそっぽを向いてしまった。そして、

「もう航平なんか知らないっ! 今日のご飯は一人で食べて!」

「えっ、なんだよ急に! 困るよ!」

「うっさい! あんたカップラーメンとかコンビニ弁当とか好きなんだから、そういうの勝手に食べりゃ良いじゃん!」

「やだよ! 何急に怒ってんだよ。僕なんかしたか?」

「そう言うのがムカつくの!」

「はぁ?」

 やっぱり今日もわからない。ただいつも以上に怒っていることだけは伝わってきた。つかつかと不機嫌を足音に出しながら先を行く綾を追いかける。

「そんなに怒んなって。せっかく材料も買ったんだから、一緒に食べようよ」

「やだ」

「なぁ」

「やだ!」

「なんだよ。今日は綾が作ってくれるから楽しみにしてたんだよ。そんなこと言うなって」

「嘘。最初は何でも良いって言ってたじゃん」

「それは、綾が作る料理なら何でも美味いってことだよ。楽しみにしてたのは本当なんだって」

 前へ後ろへ回りながら、必死に綾に声をかけ続ける。こんなところを同級生に見られたら、また夫婦喧嘩してるって囃し立てられるんだろうな。中学の時はそれが嫌で離れていたけど、今はもうそんなことも思わなくなってきていた。それは綾も同じようで、普通に怒ったり、笑ったりする。それは当たり前で、日常的で、絶対に手の届く範囲にあって。
 でもやっぱり怒っているのは嫌だから、今もこうして弁解する。すると、それが功を成したのか、綾の表情が少しずつ和らいできた。

「嘘、でしょ。私の料理食べても、いっつも美味しいなんて言わないじゃん」

「いや、言わなくてもわかるかなって……言う必要もないくらい美味いから……」

 カレーも、ハンバーグも、オムライスも。サラダだって、唐揚げだって、ただ炊いただけの白米だって、綾の料理は美味しい。僕の両親も、弟の航介も、いつも口々に褒めていたから、別に敢えて僕が言う必要はないと思っていた。でも、今の綾を見ていてやっと気付けた。ちゃんと、美味しいって言ってあげるべきだったんだ。

「本当に美味しいから、綾の料理大好きなんだよ。だからさ、今日もコロッケ作ってよ。僕も手伝うから」

 俯く綾の目を見ようと、下から覗き込んだ。すると、顔を向こうに逸らされる。それを追いかけて顔を近づける。そしたらカバンで壁を作られた。

「ぶ」

 カバンの留め具が鼻に当たった。痛い。

「じゃ、じゃあ、仕方ないから、作ってあげよっかな」

「機嫌直してくれた?」

「まーだ。ちゃんと手伝ってよ? それで、上手く出来たら、美味しいって言ってよ? そうしたら許してあげる」

「うん。わかった」

 僕が子供のように頷くと、カバンの壁がゆっくりと下がって、綾の顔が見えるようになった。割と近い距離で目が合う。その時、

「にひひ」

 綾が頬を染めて笑った。照れたように下がった目尻がいやに特徴的で、そして。

 僕の胸がなにかおかしな音を立てた。

 それはほんの一瞬のことで、どんな理由や意味を持っていたのかは掴み切れなかったが、初めて感じた感情だった。
 僕が自分に戸惑っていると、綾はくるりと回る。カバンを後ろ手に持って、もう一度、回る。

「そうだ。さっきの話だけどさ」

「え、なに?」

「航平言ってたじゃん。胸キュンがわからないって」

「あぁ、そうだったっけ」

「そう。それでさ、私思ったんだよ」

「ん、何を?」

 綾はまた、はにかむ。

「胸キュンって、結構そこかしこにあるよ」

「ええ? 嘘?」

「ホント。ほら、合わない歩幅を合わせてくれたり、手がふさがってたらカバン持ってくれたり、重い買い物袋は何も言わずに受け取ってくれたり。後ろから自転車なんかが来た時には、ちゃんと背中に手をやって端に寄せてくれたり。そう言うのが、全部胸キュンなの」

「なんだそれ」

「ふふ。わかんないでしょ。多分航平は一生わかんないよきっと。でも、そんな普通だったり、当たり前だったりすることが、全部胸キュンなんだと思う」

 後ろ向きに歩く綾は、水平線に消えそうな夕陽を背中にかける。僕から見れば少し逆光で、綾の表情は暗くてよく見えない。

「難しく考えなくて良いよ。航平はいつも通り、鈍いままで。鈍いままの優しさをそのままにしてくれれば、良いんだよ」

「僕は鈍くないぞ」

「ほら、鈍い」

 今度は声に出して笑った。その笑い声には幸せがたくさん含まれているように感じて、何故か僕まで笑えてくる。
 止まったまま僕を待つ綾の隣に、また、並ぶ。何が可笑しいのかは全然わからないけど、二人して笑いながら土手の道を歩いた。

「あ、そうそう」

「何だよ」

「航平はさ、なんで急に胸キュンなんて言葉が気になったの?」

 そんな質問をされて、僕も首を傾げてしまった。そうだ。どうして僕は、胸キュンなんて意味不明な言葉に気を取られていたのだろうか。

「えっと……」

 気になり出したのは、つい最近だ。そう。弟に彼女が出来てからのことだったように思う。その話を弟から直に聞いて、何故か最初に綾の顔が想い浮かんだのだ。

「そうだ。確か航介が、好きな女の子を喜ばせるには、胸キュンを狙えって言ってたんだ」

「うわ。航介くん意外とチャラい」

「だよな。それで、綾を胸キュンさせるには、どうしたら良いのかなって考えたのがきっかけだよ」

 がさり、と隣で音がした。
 振り返ると、隣に綾はいなくて、カバンを手から落とした状態で、僕の半歩後ろで立ち止まっていた。なんか呆然とした表情をしている。

「どしたの? 早く帰ろうよ」

 まだ綾は固まっている。

「綾?」

 どうしたんだろう。全然動かない綾の目を近づいて見つめる。そしたら、

「な、な、な、な、なっ……!」

「? どうした?」

 急に真っ赤になった綾がいきなり、

「うわっ!?」

「何を言うんだおのれはー!!」

「ちょ、どうした!?」

 僕に向かってぶんぶんカバンを振り回してきた。すんでのところでかわしたが、右から左から、綾のカバンが僕に襲いかかる。

「やめっ! やめろ! 危ないだろ!」

「危ないのはおのれじゃ! 成敗してくれる!」

「どうしたんだよもー!」

 堪らず逃げ出した。でも綾も追いかけてくる。家までは五分ほどだから、なんとか逃げ切って籠城しよう。

「待てー!」

 だけど、結局すぐに捕まって、カバンで腹を殴られた。その痛みでうずくまっている僕になんか構わずに、綾はどんどん先に行ってしまう。

「もう……なんなんだよ」

 訳がわからない。どうしてこんな仕打ちをされたのか。本当に、綾の怒るポイントはいつまでたってもわからないままだ。
 このまま、きっと、これから先もずっと、わからないままなのかな。それは嫌なようで、でも、幸せなような気もする。
 綾は少し先のところで僕を待っていた。微かに陽の暖かさが残る空は、彼女を優しく包み込んでくれているように見えた。

「ほらー! 早く帰るよー!」

 もう機嫌が直ったのか。元気の良い綾の声を聞いて、少し安心する。そして、やっぱりわからなくなる。

 僕に胸キュンは難しい。
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