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31.あいのことば

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「サフィール」
 言葉にならない喚きを上げ始めたローゼリカのことなど歯牙にもかけず、リリアンヌがそう呼びかけて来た。


 名前を呼ばれるだけで、心の底からホッとできる。
 もう大丈夫だと、憂う必要はないのだと、そう思える。


「リリアンヌ」
「全く、お前も無茶をする」
 苦笑しながら、こちらに近付いて来る彼女。
「でも少しは役に立ったでしょ」
「まぁな」
 傍まで来たら、伸びてきた腕に頬をさらりと撫でられた。
「それより」
 その心地良さにうっとりしながらも、サフィールは自分の下にいる男を見下ろした。
こっち・・・にも、何か仕込んでたみたいだね?」
 男は、ただサフィールの力で抑え込まれているだけではない。蔦のようなものが巻き付いて、拘束されていた。
「どうせなら両方に仕込んでおこうと。お前も存外人気があるみたいだから、何かの役には立つと思って」
 もちろんサフィールはただの人間なので、どんな術も使うことはできない。これは左の薬指に嵌めていた指輪から放たれたものだった。
「これくらい、自分でどうにかできたよ」
「満身創痍でよく言う」
 どうやらリリアンヌは護身のために、サフィールの指輪にも同様に自分の力を溜めてくれていたらしい。
「こんなの、いつの間に」
「お前が寝込んでいる間にね。暇だったから」
 よく言う。リリアンヌは神殿側がこのまま黙っていないだろうことを理解し、そのために色々と準備をしていたはずである。何より、サフィールの看病にかなりの時間を割いてくれていた。


「疲れた。しばらくもう誰にも会いたくない気分」
 言いながら、リリアンヌは取り出した触媒を一つ投げる。
「会わなくていいよ、必要ない」
 するとそれはローゼリカの足元で、途端に蔦に姿を変え、増殖し女の身体に巻き付いて拘束していった。今、サフィールの下で拘束されている男と同じ。
「さて、ちょっと下がっておいで」
 言われて男の上から退くと、
「え、ちょ!」
「大丈夫」
 リリアンヌは何故か男の拘束をあっさりと解いてしまった。せっかく拘束したのに! と思ったが、男はリリアンヌやサフィールに飛びかかるようなことはしなかった。
「ローゼリカ様!」
 主の元へ一目散に駆け寄り、絞め殺す勢いで絡まる蔦を引き剥がそうと手を掛ける。
「あれは放っておいて良いよ。あの程度の男に私は殺せないし、かけた呪いは生涯解けない」
 そうしてぽんと頭を撫でられる。


「帰るか」
「――――うん」


 勝敗はついた。この場で最も強いのはリリアンヌだ。彼女に勝る者はいない。


 けれど、そうは問屋が卸さなかった。


「待って!」
 響き渡ったのは甲高い女の声だった。
「嫌よ、やめて、連れてかないで!」
 二人して、声のした方を振り仰ぐ。
「やめて、駄目、その子は私の子よ」
 女と言えば、ここには彼の魔女と敗北した元魔女と、そして――――――――聖女しかいない。


 私の子、という発言に怖気が走った。


「行かないで、●●●●●、ねぇ、せっかくあなたに再びまみえることできたのに」
 呼び止められる筋合いはない。こんなところに残る理由はない。全て関係のないことだ。
 ここで産み落とされ、粗雑に扱われた子どもは、あの時惑いの森で死んだ。
 サフィールは、リリアンヌがくれた“サフィール”という名前しか持っていない。それ以前に自分がどう呼ばれていたのかなんて、もう知らない。
「やっと、やり直せるのに」
 その発言に、引き攣った笑みが思わず浮かぶ。
「ねぇ、やり直せるはずなの。神殿の仕組みを立ち直らせることができたら、今度こそあなただって好きに生きられる」
 その仕組みを立ち直らせるのに、サフィールは自身を犠牲にしないといけない訳だが、それを理解した上での発言なのだろうか。
 子どもの犠牲を肯定する親を、親と呼ぶべきではない気がする。いや、そもそも親だなんて思っていないけれど。


「どうしようも、なかったの」


 それともサフィールが強要されることを、犠牲とは捉えていないのだろうか。
 例えば、“務め”と認識しているとか。


「私はあまりに無力で、祈る以外を知らなくて、あなたに何もできなかった」


 聖女もまた、見い出されてしまったからには俗世を捨て、要求されることをひたすらにこなしていかなければならない。
 祈り、力を満たし、保つことが全て。それ以外は要求されない。それ以外を、してはいけない。
 繰り返される単調な日々の中で、思考するということを段々と忘れて、こういう存在が出来上がったのかもしれないと、ふとサフィールは思った。


「後悔、してるわ。とてもしてる」


 だからきっとこんなに思考が噛み合わないのだ。ちぐはぐなことばかり喋るのだ。


「贖いたいの。取り戻せるものがあるなら、少しでも取り戻したいの。家族として、やり直したいの」


 まるで夢物語だ。
 自分の心しか、その物語には反映されていない。
 サフィールが、聖女の傍に立つ男が、今更何をやり直せるはずもないのに。
 聖女以外、そんなことは全く望んでいないのに。


 先ほどの話を、もう忘れたのだろうか。
 サフィールは痛めつけられ、死を望まれ、森に捨てられたのだ。今回だって追い回され、矢を射られ、結果谷底へ飛び込む羽目になった。折れた右腕はまだまともに動かないから、さっきだって慣れない左手を使わなければならなかった。そして血の流れるその手で剣を振るい、神官を迎え撃つしかなかったのだ。おかげで満身創痍だ。


 いつだってそう、神殿は身も心もズタボロにするだけの場所。


 サフィールが、恨んでいるとは、憎んでいるとは思い至らないのだろうか。
 それとも自分なりに真剣に懺悔すれば、その心が伝わるとでも思っているとか?


「…………あぁそうか、こっちが残っていたな」
 隣で、リリアンヌが面倒そうに息を吐いた。
「サフィール、向こうで何やら喚いているけれど、あの女はお前に必要?」
 訊く必要もないことを、彼女が問うてくる。
「要らないよ」
 必要なのは、ただ一人だけなのだから。
「アンヌだけが要る。アンヌの隣がオレの居場所だよ。わざわざ口にして、確認する必要がある?」
「私が確認する必要はないけれど、私以外には必要だろう?」
 そうして、祭壇にいる女へ真っ直ぐ視線を投げかける。


「何か勘違いをしているようだが」


 彼女はきっぱりと言い切った。



「これは、私のものだ」



 それを、聞いて。


「アンヌ……」
 サフィールは心の底から満たされる。この上なく幸せな心地になれる。


「そんな……!」
 けれど、そんな幸せな気分を、甲高い声が台無しにする。


「そんな、ものだなんて、そんな酷い扱い!」


 何にも分かっていない。
 本当に何も分かっていない。これっぽっちも理解していない。


 もの扱い?
 これだから魔女をちっとも理解していない人間は。


“私のもの”
 ことあるごとにリリアンヌはそう言う。
 これは自分のものなのだと。自分の所有物なのだと。だから自分にだけ権利があるのだと。そして、時にはだからこそ責任があるとも言う。


 サフィールはリリアンヌがくれる数多の言葉の中で、この“私のもの”という言葉が一等好きだ。とてもとても好きだ。こんなに嬉しい言葉はないと思っている。


 そう、サフィールはリリアンヌのものだ。他の誰でもなくリリアンヌだけのものだ。その一生、全てを彼女に明け渡して構わないし、彼女のために使いたいと思っている。


 だって、考えてもみてほしい。リリアンヌのその言葉にどんな意味があるのかを。


 リリアンヌ。誇り高い、孤高の魔女。
 その純潔をずっとずっと守り抜き、数多の敵を薙ぎ払って来た、その名を馳せる強き魔女。
 容赦がなく、時にどこまでも冷徹で、そして苛烈さも秘めた魔女。
 でも本当は優しくて、情に脆くて、内側に入れてしまったら何だかんだ言っても決して粗雑に扱ったりしない。言葉とは裏腹に、どこまでも大切にしてくれる。


 そう、言葉とは裏腹に。


 魔女は矜持が高くて、意地っ張りで、天邪鬼。
 素直になれなくて、心とは違う言葉を口にしてしまうことも珍しくない。
 そんな彼の魔女が、繰り返す言葉。


“私のもの”


 サフィールは分かっている。伝わっている。その言葉が何を意味するか。



 それは、“愛している”と同義だ。



 私のもの、私のもの、と彼女が繰り返す度、だからサフィールは嬉しくて嬉しくて堪らない。
 自惚れなどではないはずだ。彼女のことは、一番近くで見てきた。
 愛してる、なんてリリアンヌは絶対に言わない。言えない。それこそ決死の覚悟が必要だろう。それは、リリアンヌのこれまでの人生にはあまりにも不必要な感情だったのだ。うっかり持ってしまったら、決定的な弱みになってしまうような感情だったのだ。


 けれど、彼女はそれをサフィールに与えてくれた。
 だってサフィールは日々の暮らしで痛いほどに感じている。自分が彼女に愛されていることを。
 それは単なる庇護対象だった時でもそうだったし、関係が変わった今も、男女の情としての愛を確かに感じている。


“私のもの”


 それは、彼女の精一杯にして最上級の愛情表現なのだ。
 それを、単なるもの扱いだなんて、水を差すのもいい加減にしてほしい。



「その子は私の子よ、私が生んだの、私の●●●●●なの!」
 聖女は噛み付くように、リリアンヌに向けて叫んだ。
「そんな子どものことは知らん」
 けれど彼女がそれをあっさりと一蹴する。本当にどうでもいいことのように、サフィールの過去を片付けてしまう。
「確かに私はその昔、子どもを拾った。あの森に打ち捨てられ、今にも死にそうだった瘦せっぽっちの子どもをね」
 それが、サフィールにとっては有難い。そういう扱いで、いいのだ。
「でもその子どもは、なんにも持っていなかった」
 カツン、とリリアンヌが歩を進め出す。
「なんにも持ってなかったんだよ。名前も何も」
 カツン、カツン、祭壇を登る足音が、彼女の語る事実を一つ一つ刻んでいくかのように響く。
「消えかけの命だけを、私は拾ったんだ」
 リリアンヌが最上段に辿り着く。庇うように動きかけた神官長を、目線だけで威圧する。
 そうして、上から覗き込むようにして、言い聞かすみたいに一音一音はっきりと聖女に告げた。



「あれは、私のもの」



「ちが、ちがうわ、いやよ、返して」
「返して?」
 微かな嘲笑。
「聖女殿、私は今更お前が何をして、何をしなかったのかなんて興味がないよ。でも確認するまでもなく、お前はただただあの子を無責任に産み落とした、それだけだろう?」
 鼻先が触れそうなほどにまで覗き込んで、彼女は続ける。その稀有な赤い瞳に己を映された聖女は、きっと自分が囚われたような錯覚を起こしているに違いない。
「あの子のためになることを、一つでもしたか? あの子を真っ当に慈しんでやったことがあったか?」
 それをしてくれたのは、他の誰でもなくリリアンヌだ。
「そっ、それは」
「仕方がなかったのかもしれないなぁ?」
 嫌味たっぷりに言ってから、パッとリリアンヌは聖女から距離を取った。


「だが残念ながら世の中には、取り戻せるものと、そうでないものがある」


 そうして更にその奥を目指す。
「嫌になるな。どれだけ純粋培養したら、こんなおめでたい人間ができあがるんだ?」
 辟易した声。
「まぁ自分中心でしか物を見れない人間、想像力が絶無な人間、だから他人の心が理解できない人間ーーーーそんな人間は世の中にいくらでもいるか」
 やがて彼女は、祭壇そのものの前で止まった。そして手を伸ばす。
「待て、何をする気だ! 魔女のような穢れた存在が触れていい場所ではない!」
 神官長の鋭い制止を聞き流して、リリアンヌは言う。
「使い道を考えていた」
「ーーーーは?」
「そこの元魔女に呪いをかけたと言っただろう?」
 全員の視線が、自然と未だ蔦に絡め取られているローゼリカに向けられた。
「生まれた端から力を吸っていると。では、その吸った力は?」


 どこへ行き、どう消費されるのか。


「どうしたものかと考えていたけれど、丁度良い」
 指先が、祭壇をなぞる。
「確か、そこの聖女様はもうほとんど役立たずだとか?」
 チラリ、聖女の方を振り返る。
「その埋め合わせを、不当にも私の子にさせようとしていたらしいが」
「何が不当だ。聖女の力は万民の安寧の為にある。神殿で守り継いでいく力だ。そこの男一人のために収めていていいものではない。我々は、その力をあるべき系譜に戻さなくてはならない」
 神官長が冷徹に吐き捨てた。家族なんて甘っちょろい単語を先ほど聖女は口にしたが、その儚さが体現されたような態度と言葉だった。この男にとってサフィールは息子などではなく、ただただ面倒な存在でしかなく、人間というよりはどこまでもモノ扱いなのだ。
 この男はどう考えてもどこかが破綻しているし、そんな男の血を自分が継いでいるのかと思うと絶望感が半端ない。
「不当だよ。これはあの子の失態ではなく、お前とそこの聖女の失態であり、罪だもの。履き違えるのも大概にしろ。第一、能力の移譲は偶発的なものだ。無理矢理に子を成しても、何が保証されている訳でもない。血迷ったことを」
 リリアンヌが突き刺すような声で言った。


 そうだ、彼女がこれだけ言ってくれれば、もうそれでいい。
 自ら恨み言を述べずとも、もう十分だ。
 だから早く家に帰りたい。こんなところに残る理由はないのに。


 サフィールはそう思ったが、彼女はまだ壇上から帰ってくることはせず、もう一度祭壇へ向き直った。


「……だがまぁ、確かに世の安寧は大切だ。私は人間なんてどうでもいいし、人間がいなくても十分生きていけるし、知ったこっちゃないと言えば知っちゃこっちゃないが、それでもまぁ隣近所の世界が平和な方が、自分も平和に暮らせることは経験として知っている」
 何を、するつもりなのだろうか。する必要があるのだろうか。
「これは慈悲かもしれないし、同時に最大限の皮肉でもある」
「なに…………?」
 なぞった指先がぼんやりと発光する。まるで指先からインクが染み出すかのように、じんわりと文字が綴られていく。
「やめろ、何をする!」


「吸い出した力の吐き出し先は、ここだ」


 淡々と、リリアンヌはそう告げた。


 神官達が息を呑む。


「お前達神殿の人間は死んでも認めたくないみたいだが、聖女の使う御業と、私達魔女が使う力の源は、辿れば同一。力の発露のさせ方が違うだけ」


 何が為されているのか理解しようと、愕然としながらも彼女の言葉を必死に拾い上げる。


「次代の聖女が見つからずに困っていたのだろう? お前達が忌避する魔女の力で救われるなんて、皮肉なことだなぁ? でもこのまま聖女の力がそのまま衰えて、神殿に支障が出るよりはマシだと思わないか」


 聖女の力と、魔女の力の源は同じ。
 それはサフィールも教えられたことがあった。人間が使うその人知を超えた力は、清らなものでなければならない。だから、人間達は決してその事実を認めようとはしないのだと。


「はは、王にはとても報告できないだろうがな? 頑張ってこのとんでもない秘密を死守するといい。しばらくは繋げるだろう」
 確かに、この上なく皮肉だ。
 魔女の力で、聖女の力を誤魔化さなくてはならないなんて。
 穢れていると罵るその力の恩恵に縋り、世の安寧を図らなくてはならないなんて。
「ただし、あの女は段々と魔女としての資質を失っていく。力を内に馴染ませられないのだから、それはある種の自然現象だ。つまり、供給も時と共に細っていく。いつまでもアテにできるとは思うな」
 しかも、時限付き。
「次代の聖女が見つかるまで、あぁいつまで魔女の力に助けてもらえるのだろうと、ビクビクしながら過ごすといい」
 リリアンヌにしては甘い処置のようにも思えたが、神殿の問題が解決しない限り、敵うか敵わないかは置いておいて、ここの人間達はサフィールを狙い続けるだろう。向後の憂いを断つには、こちらの問題にひとまずの解決を与えてやらなければならないのかもしれない。


 他の人間の暮らしなんて関係ない。
 そう思わなくもないが、その“他の人間”は無関係な人々なのだ。彼らの平穏を壊さずに済むのなら、それがいい。
 まあそれも供給が途絶えるまでという条件付きで、絶対の保証ではないけれど、本来全ての責任は神殿が背負うべきなのだから、後はもうそちらでどうにかするべきことだ。
 それこそ、リリアンヌには本当にこれっぽちも関係のないことなのだし。


「それから」
 用は済んだとばかりに、足早にリリアンヌが檀上から降りてくる。


「今回のことでよおく学習できたとは思うが、二度とみだりに魔女と関わるな。魔女は人間の手に負える存在じゃない。お前達が再び私の暮らしを乱すことがあったら――――――――次はあそこの女より、もっと酷い目に遭うことを覚悟しろ」


「――――――――」
 誰一人何も言わない。いや、言えない。
 だってその場に張り詰める空気が雄弁に物語っている。これは、ただの人間が敵う相手ではないのだと。


「さて、今度こそ帰るよ」
 もう他はどうでもいいのだと、リリアンヌが真っ直ぐサフィールだけを見遣る。膝を着いた状態だから、彼女とそう変わらない高さで視線が合う。
「アンヌ」
「なに」
 そう長い時間でもなかったはずなのに、もうずっと離ればなれだったような気すらする。
「ごめんね」
「お前が悪い訳じゃない」
 ポツリと言えば、本当に気にしていないことが伝わる様子でそう言われた。


「それから」


 サフィールはもう一つ続ける。
 ここで、はっきり言っておかねば。


「愛してる」


 言ったら、呆れた顔をされた。何を今更、と。


 リリアンヌは苦笑しながら答えた。


「そんなことは、もう嫌というほど知っている」




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