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30.彼女は巡りの魔女・リリアンヌ
しおりを挟むそう、叫んだってどうにもならない。
行動しなければ、どうしようもない。
「っ!」
サフィールは知っている。
自分が少しだけ特別なこと。他よりも、運がいいことを。
だから。
「なっ」
幸い、動かそうと思えば身体は動いた。だから、持ち上げた手で、胸の上に翳されている剣を掴む。
「きゃっ……!」
皮膚を破られ、刃が肉に食い込む感触。顔でも映りそうなほどの銀の輝きに、赤が伝う。
いつ、柄を握る神官がその手に力を込めてくるか分からない。そうなれば、上から力を加える相手の方が、ずっと容易く事を為せる。
賭けだった。
でもその実、勝率の高い賭けだった。
落下物は、自分の擦れ擦れを通り過ぎる。
高いところから落ちても、命に係わるような怪我はしない。
飛来物は不自然に軌道を変えるか、自分に届く前に別に割り込んで来た何かにぶつかる。
そういう風になっている。
そう簡単には、楽には死なないようになっているのだ。
だから。
「ぐっ」
「いやぁ!」
不意に上からグッと圧が加わる。切っ先が胸目がけて降って来る。自重をかけられる相手と刃が食い込んでいる自分では、圧倒的に力に差がある。
けれど。サフィールはむしろ更に強く握り込む。切っ先が服を切り裂く。
「っぁ!」
実際に自分が込めている力にふと何かが加わるような感覚。軌道がズレて、心の臓を貫くはずだった刃は、胸の脇の肉いくらか裂くだけに留まる。
ほら、大丈夫だった。
ほら、これで一番最悪の状況は抜け出した。
気兼ねなく、動ける。
「アン、ヌ……!」
彼女が動けないなら、自分が動けばいい。
彼女に奮う力がないのなら、自分が持てるもの全てを使えばいい。
身を起こせば右足がおかしな痛みを訴えたが、取るに足らないとても些細なことだった。
動く。それで十分だ。存分に動かせばいい。
後のことなんて知らない。今は、自分の自由にできる全てを使い尽くすべきで。
「むっ」
立ち上がりざまに、偉そうに突っ立っているだけの男が手にしていた鞘から、剣を引き抜く。
「やだ、見た目に寄らずやんちゃね」
サフィールは、もう違うのだ。
この奥に閉じ込められて、ロクに主張もできなくて、ただただ飼い殺しにされていたあの頃の子どもとは違う。諦め、疑問に思うことも面倒だと投げ、人生を浪費していたあの頃の子どもとは違う。
抗う術を知っている。主張すること知っている。
闘い、生き抜く術を知っている。
自分の命より大切な人を知っている。
彼女と共に生きる喜びを、知っている。
右に左に、交互に足を出してしまえば、痛みはすぐに彼方へ飛んだ。
ローゼリカに操られ斬りかかって来る神官達をいなしていく。
「大丈夫、間に合う」
彼女に、間に合う。
大きな身体に圧し掛かられた彼女の顔は見えない。ただ抵抗するように持ち上げられた腿が震えている。
一方下劣な魔女は、珍しいものを見るようにサフィールの動きの方に目を遣っていた。
きっと無駄な足掻きに見えているのだろう。
慢心こそ、全ての敵と言うのに。
ただ目指す。真っ直ぐに、彼女の元へ。
そして気付く。
男の身体の向こうで、彼女の腕が上がっていた。拳を握ったままの状態。そこにきらりと光るのは、彼が彼女に贈った青い石。ずっと一緒にいたいと願った、約束の証。
振り上げられた拳は、けれど抵抗のために男へ向けられたのではなかった。
そのまま床に向けられる。ただし、相当な勢いをつけて。
ダン――――
石造りの床を叩く音が響いたその瞬間、
「え」
「まさか――――」
青みを帯びた光が、辺り一帯をカッと照らした。
突然の光に眩みかけるが、懸命に目を凝らせば、それはどう考えても彼女の指輪から発されているように思えた。彼は特にどんな仕掛けもあの指輪に施したりしなかったが、仮に彼女が何か術を施していたとしても、力を封じられている今は発動させられないはずなのに。
驚いている間に、彼女を組み敷いていた男が衝撃で飛ばされる。
けれど、それでは不十分だ。
「アンヌ!」
驚愕はしているだろうが、ローゼリカもそこら辺に転がっているレベルの魔女ではない。傀儡と化した神官が、すかさずリリアンヌの背後から飛びかかる。
その内の一人をリリアンヌは自分で吹き飛ばし、残りの二人は駆け付けたサフィールが伸した。
再会を喜ぶ暇はなく、リリアンヌは乱れた衣服のまま、構わずに因縁の相手へ突っ込んでいく。その首筋には、何故かもう付けられたはず紋様はなかった。
魔女封じを、破っている。
彼女の動きは素早かった。衣服の下に仕込んでいた触媒を使って、息も吐かせぬ勢いで攻撃を仕掛ける。
相手の魔女ももちろん鮮やかにそれを回避するが、まさか魔女封じをこんなに簡単に破られるとは思っていなかったのだろう。動揺もあるのか、防戦一方になりつつある。
「しっつこいわねぇ!」
「どっちが」
リリアンヌがそう鼻で笑った瞬間、ローゼリカの方がバランスを崩し僅かによろめく。
それを見逃すほど、彼女は甘い魔女ではなかった。
「きゃっ」
更に大きく相手に踏み込み、肩を掴み押し倒す。そして馬乗りになったかと思えば、反対の手を相手の胸に押し付けた。流れるような動作だった。
「ローゼリカ様!」
「っ、待て!」
身を起こし、駆け付けようとしたローゼリカの配下の男を、サフィールは何とか組み敷いて止め、落としにかかる。
「きゃうっ!?」
短い悲鳴が上がったのはその直後だった。少し離れているため詳しくは分からないが、リリアンヌが何事か唱えると、手を押し当てていた胸元が僅かに発光した。焼けるような感覚でもあったのか、ローゼリカの身が小さく跳ねる。
「――――――――」
場を支配しているのは、今や完璧にリリアンヌだった。
誰もが固唾を呑んで、二人の魔女の顛末を見守るしかない状況。
「貴女、なんで、セベトゥの呪詛はそんな生半可な魔女封じじゃないわ!」
やがて女の尖がった声が響いた。
決着がついたと思ったが、どうやらローゼリカはまだ生きているらしい。
「私がそう何度も、同じ手に引っかかるとでも?」
「は……?」
リリアンヌの発言を理解できるのは、ここではサフィールだけだった。“同じ手”というのは、先日サフィールがリリアンヌに強要したウラエウスの制石による魔女封じのことだ。どうやら彼女は同じ轍を踏まないように、既に対策を練っていたらしい。
「セベトゥの呪詛は力を堰き止める呪詛。入口を全て遮断されては、力を奮うことはできない。それだけでなく、身体の内で力を練ると、術式を勝手に解かれて違うものに書き換えられてしまうというおまけ付きだ。力任せに堰き止められた入口を破ろうとしても、それに相応しい術を放てないから、破るのがとても困難」
けれど、と彼女は続ける。
「外から高濃度の力をぶつけることができれば、破れないものではない」
そうして、左の薬指を見せつけた。
「まさか、その石に」
「備えあれば、憂いなしとはこのことだな?」
サフィールが送った指輪。その青い石に、彼女は術式ではなく、自分の魔力を相当量込めていたらしい。
いつの間に、そんな。そして、そんな切り札にあえてその指輪を選ぶなんて。
いや、たまたま、常に身に付けていてよく目に入るから丁度良かっただけかもしれない。
咄嗟にサフィールはそう思ったが、即座に自分のその考えを否定した。
違う。たまたまとか、そうじゃない。
意図して、選んでくれたのだ。
切り札にするに相応しいと思ってくれたから。
そして、一生外すつもりがないからこその、選択。
「っ、でもそれくらいで勝った気にならないでちょうだい!」
「もちろん」
「!?」
ローゼリカが腕を奮おうとして、途中で顔色を変える。
「な」
「さっき、付けてやっただろ?」
リリアンヌは彼女の惜しげもなく晒された胸に、指先を突き付けた。
「これ、は」
「なぁ、ローゼリカ、軛の魔女。お見事だった」
にこり、今度はリリアンヌがその口許に微笑みを浮かべる。
「心理的にも物理的にも、人の後ろ暗くて弱い気持ちを糧にして、足止めするのがお得意だものね? 場の人間を傀儡にして操って、サフィールを上手いこと人質に取り、こちらの動きを封じる。魔女封じの種類も、容赦がなくていいセンスだった」
既に失敗した狙いを褒めてみせるなんて、半ば嫌がらせだ。
「そして封じるだけで満足しないのも、さすがと言うか。私怨に満ちていて、更に下劣ではあったけれど、処女を奪って力を喪失させようというのは徹底していて良かった。封じは、時に破られることもある。ならば完全に失わせてしまわなければ。そこまでしようというのは、私の力を一応認めてのことだったろう」
「うる、さい」
「だけど少し私怨に駆られ過ぎたな? もっと手早くやるべきだったし、最後まで私から目を離すべきじゃなかった」
サフィールが抵抗したから、ほんの一時ローゼリカはリリアンヌから意識を逸らした。隙を狙っていたリリアンヌにとって、それは絶好の機会となった。
自分のしたことに意味があったと知れて、サフィールはほっと安堵の息を吐く。
「さて、ローゼリカ。ところで、これは私にお誂え向きの状況だと思わないか?」
「なにを言って」
リリアンヌが馬乗りになっていたローゼリカから、立ち上がる。乱れた着衣を直せる範囲で直しながら、上半身だけ起こした魔女を冷たい目で見下ろした。
「私は巡りの魔女。因果を回す者。呪いの源には、呪われる対象を使う」
リリアンヌがお得意の呪いを使う時、その原動力に使うのは呪う対象の過去の行い。
簡単に言うと、例えば対象がそれまでの人生で盗み、謀り、殺しなどの悪行を働いていると、とても都合が良い。そういった過去の悪い行いの分だけ、呪いの力は濃くなっていく。呪いの原動力は本人から頂戴するのだ。
「私もね、徹底すべきだと思った。だから、これは死と同義の術」
リリアンヌは因果を遡り、その向きを調整して、本人に還すだけ。
巡りの魔女と呼ばれる由縁はそこにある。
「今回お前が私にしたことは、全てお前に還してあげる。それがどれほどの重さか、身を以って学ぶといい。まぁ、授業料としては高くついたな?」
「……術が、練れない……?」
「あぁ、もうすっからかんだもの」
呆然と己の手のひらを見つめるローゼリカに、リリアンヌが非情な宣告をする。
「ま、魔女封じ」
「近いけど、少し違う。ローゼリカ、その身で生まれる魔女の力は、生まれた端から消えていく。消えていく、というよりは吸われていくと言った方が良いか。お前の身の内に留まることはしない。そういう呪いをかけた。身の内に留まらないから、力任せに破ることもできない。解くのも、難しいだろうな」
蒼白な顔をして、胸元の刻印に触れるローゼリカ。もはや魔女と呼ぶには相応しくない、ただの一人の女。
「その心の臓に刻まれているのは永久呪法。死ぬまで消えない。術を解くには刻印を物理的に破壊する必要があるから、解けばそのまま死ぬと思った方が良い」
さすがに魔女とて、心臓を破壊してもなお生き続けることはできない。
「まさか、そんな簡単に」
その発言には、サフィールも共感できた。
簡単に言ってのけるが、なかなかの内容だ。普通こういう術を施すには、もっと大がかりな準備が必要なはずだ。
「簡単じゃない。かなり骨が折れた。準備も要るし」
リリアンヌはあっさり肯定した。
それは、つまり。
「いつから」
「お前と同じじゃ? 私だっていつかまた理不尽に絡まれるだろうと、予想くらいはしていたよ。それがまさか、神殿やら何やらまで出てくるとは思わなかったけれど」
一方的に振り回されていた訳じゃない。備えはもうずっとずっと前からしてあったのだ。
そう、リリアンヌほどの魔女が、因縁ある相手に対して備えを怠るなんてこと、あるはずがないのだ。
あとは、どちらの実力や知略が勝るかだけの問題で。
「そん、永久呪法? 馬鹿言わないで、私は、魔女よ、こんな、こんなあっさり、そんなはず」
わなわなと震える身体。けれどどうにかしたくても、もうローゼリカに奮える力はない。
「ふざけないでっ!!」
だが次の瞬間、ローゼリカはドレスの下からナイフを取り出し、目にも留まらぬ速さでリリアンヌに飛びかかった。
「アンヌ!」
ように見えたが、その手からナイフはあっさりと吹き飛び、リリアンヌはローゼリカを再び転倒させ、その手首を足で押さえ付けていた。
「ローゼリカ」
勝敗は、はっきりしていた。
「ただの女として生きるのも、案外と楽しいかもしれないな? ぜひ残りの人生を、謳歌してくれ」
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