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24.てのひらから、こぼれる。
しおりを挟む「!」
亀裂の入った宝石に、愕然と目を落とす。
これはただの装飾品ではない。特別な術をかけてある。家に、サフィールに何かあれば、それを知らせるためのものだった。保険として、用意したものだ。
まさか、けれど、本当に必要とする事態になるなんて。
緑のきらめきが台座から外れ、床に落ちてはカツンと音を立てる。
家の、結界が破られた。このタイミングで。
――――見張られていたのか。自分があの子の傍を離れるのを、狙って?
「リ、リアンヌ?」
クラリッサが恐る恐るといった様子で声をかけてくる。リリアンヌの指輪に何かしら術がかけてあることは、周りの彼女達も気付いているはずだ。だって普通、宝石はそう唐突に割れたりしない。
「――――――――なるほどな」
床に落ちて更にいくつか破片を散らしたその残骸を見つめて、リリアンヌは冴え冴えとした声を発した。台座だけになった用無しの指輪を親指から抜いて、同じように床に捨てる。
「ローゼリカか」
ローゼリカ。軛の魔女。
なるほど、心当たりがある。それは彼女とは折り合いが悪いことで有名な、魔女の名。
「あの死に損ないが。まだ諦めていなかったか」
声音だけで人を呪い殺せそうなほどに、冷たい声だった。絶対零度の怒りの気配に、サブリナ達だけではない、離れた場所にいる魔女達までもが身を強張らせ息を詰める。
「戻る」
リリアンヌはそう言って、次の瞬間細く華奢な脚を上げ、ピンヒールで床に落ちた緑の残骸を更に砕き割った。
その瞬間――――――――
「っ!」
リリアンヌの足元に、宝石と同じ色の光を発する円陣が描かれる。カッと一際大きくその円陣が輝いた瞬間、リリアンヌはもう家に戻って来ていた。
戻ったその場所は薬の調合などに使う仕事部屋。目を開けた瞬間飛び込んできたその光景は、普段使っているままで乱れた様子はどこにもなかった。
けれど、場が狂っている。
彼女は瞬時にそれを悟る。家の中に配置していた術式が滅茶苦茶になっている。
「サフィール!」
扉を開けて、予想していたとは言え絶句した。
「っ!!」
リビングダイニングは嵐が吹き荒れたような惨状になっていて、玄関側に目を向けると半分壁が吹き飛んでいる。
「サフィール!」
拾い子の名前を呼びながら急いで寝室に飛び込むが、けれど返ってくる声はなかった。
“おかえり、アンヌ”
いつもなら聞こえるはずの声は、そこに存在しようがなかった。
「――――~っ」
寝室は空っぽだった。リビングダイニングに比べれば、乱れはマシだ。何かが大きく破壊された様子はない。ただ寝具だけが大きく乱れていて、そこにだけ抵抗の気配が感じられた。
連れて、行かれた。
「間に合わなかったか……!」
頭の中が沸騰しそうだった。冷静になれ、いや、この激情とは別に私は常に冷静だ、と内側で自分の声が響く。
冷静だ。そう、自分は冷静だ。
空の寝台を眺めていてもどうしようもない。けれどリリアンヌは傍まで近寄り、そっとシーツに触れた。何も感傷的な行為ではない。
「まだ温かい……」
異変を察知してすぐ来たのだから、当然と言えば当然かもしれない。けれど時間がそれほど経っていないという事実は、少しだけ彼女を安心させる。
恐らく、神殿側はサフィールを何かに利用したいのだ。そして多分、それは命を奪う必要はない事柄のはず。
サフィールの命そのものが目的なら、ここは今頃血染めになっていてもおかしくない。けれど、血の気配はどこからもしなかった。少なくとも、切られたり刺されたりはしていない。それにそう、害することが目的なら、先日追い回した時だってもっと物騒な手段はいくらでもあったはずだ。
奴らは、サフィールを殺したい訳ではない。生け捕りにして何かに利用したいはずだ。
その何かに利用するにしても、連れ去って準備を整えるのに最低限時間はかかるはず。
「今ならまだ、十二分に間に合う」
踵を返して、荒れた部屋に戻る。荒れてはいるが、単に吹き飛ばされているだけだ。いくつか中途半端に術が発動しているが、まぁ大した影響はない。貴重なものもそこここにあったりするのだが、手を出されている様子はなかった。
純粋に、サフィールだけが目的だったのだろう。
「そこそこの結界を張っておいたつもりだったが」
ものすごい力で吹き飛ばされている。
「まぁ逆恨みの気配もすごいからな。あの女なら、陰湿に何年も何年も準備をしていそうなことだ」
シアが口にしたローゼリカという魔女もまた、強大な力の持ち主だ。
長い人生の中で、数度諍いを起こす羽目になった相手。こういうことをされる心当たりはあった。サフィールが噛んでいるとなると、尚更だ。
「神官がこの森をうろつけたのも、この家を特定できたのも納得だ」
人外の世界に詳しい誰かが、協力しているとは思っていた。その誰かがローゼリカなら、疑問は全て解消される。
気分の悪いことに、それくらいのことはこなす力を持っているのだ。この家を吹き飛ばしたのだって、ローゼリカだろう。嬉々として破壊する姿が簡単に目に浮かぶ。
「今頃大層図に乗っているんだろうが」
パキッ――――
木材の破片を踏み折りながら、リリアンヌは冷たい笑みを浮かべる。
「あの時、徹底的に潰しておけば良かったな?」
真っ直ぐに目指すは、ダイニングの奥に配された一枚の姿見。
「人のものに手を出したらどうなるか、今度こそきっちりその命を以って学んでもらおうか」
その前に立てば、一人の女が冷たい顔をしているのが目に入る。
「私は巡りの魔女。因果を操る魔女。愚かな行いは、巡りに巡って還るもの」
赤い赤い瞳は魔女の証。まるで血が巡るように生き生きとして、そしてどこか怪しい彩り。
「――――――――」
リリアンヌはそんな自分の姿を見つめながら、無言の内にスッと拳を振り上げる。そうして次の瞬間、何の躊躇いもなく勢いよくダンッ! と鏡面に叩き付けた。
小さな拳が為すとは思えない勢いで、表面に亀裂が走る。
ガシャン――――ッ!!
大小の破片に分かれて、床に落ちる鏡。けれど、その向こうから、またしても現れたのは鏡であった。
内側に仕込まれていた、もう一枚の鏡。こちらは一枚隔てていたからか、それとも何か特別な造りなのか綺麗なままの姿を見せる。
「レイナルド」
リリアンヌが鋭く呼びかけると、その鏡面が不意に撓んだ。
「リリアンヌ?」
目の前の景色を映すはずの鏡は、けれどその役割を変え歪み、渦を巻き、それから全く別の光景を映す。
顔を覗かせたのは、呼びかけた通りレイナルドだ。
これは不測の事態に備えて用意しておいた連絡路。レイナルドと簡単に繋がるこの存在を知れば、またサフィールが大層心を揺らしそうだが、この鏡を設置して百と少し。今日まで一度も使われたことのない代物だった。
「道を繋げろ」
リリアンヌは端的に用件だけを告げる。
「お前がこれを使うとは、火急の件だな。行き先は」
鏡が使われたことに驚いた様子は見せても、一方的で高圧的な彼女の様子にレイナルドは気分を害したりはしなかった。内容は分からずとも、これを使うことの切迫度は理解している。
「神殿だ」
行き先を告げると、即座に“分かった”とレイナルドは頷いた。
この半悪魔は実に潤沢な力を持っている。空間を捩じり繋ぎ合わせるなんて所業も、リリアンヌが一からやるよりはずっと簡単に実現してみせる。
神殿側も、まさかえっちらおっちらサフィールを担いで歩いて帰っている訳ではないだろう。リリアンヌという魔女を相手にしているのだから、異変があれば瞬時に察知されるだろうことは予測しているはず。だから、何らかの手段を講じて向こうも道を作っているはずだ。
向こうが予測しているよりもずっと早く、リリアンヌは彼女のものを取り戻しに行く。
「繋げるだけでいいのか。手助けは?」
「要るものか」
有難い申し出であるのかもしれないが、彼女はそれを即答で断り凄絶に笑った。
「私一人いれば、十分過ぎる」
感情を抑えるように握られる拳。ふと左の拳に小さな違和感を覚えて、リリアンヌはそっと視線を落とした。
左の、薬指。
そこには特別な輝きが収められている。
深く澄んだ美しい青。拾い子のあの瞳と同じ青。
初めて出会った時も、美しいと思ったあの瞳。
離れていてもふと見た時に自分のことを思い出して欲しいと願った、あの子の色を映し取った青。
「魔女の逆鱗に触れるとどうなるか、思い知らせてくれるわ」
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