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22.いずれ二人を分かつもの

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「――――――――」
 未だ力なく横たわるその姿を、リリアンヌは言葉もなく見つめる。


 サフィールは、当然一命を取り留めた。
 腹の傷も肩の傷も、命に関わるほどではなかった。腕の方も折れてはいたが、綺麗に折れてくれていたので、くっつく分にも問題はないだろう。
 数日高熱を出していたが、それも少しマシになった。まだ平熱とは言い難いが、ピークは越えているはずだ。


 問題だったのは、肩の傷口から入り込んだ、聖具による術式だ。もちろんサフィールは魔の者などではなく、内側に流れるのも普通の人間としての血と力だから、聖具によって滅されることはない。
 けれど埋め込まれた術式は、そもそも魔物を滅する類のものではなかったらしい。どちらかと言うと、相手を捕縛する意図が大きかったようだ。種類によっては人間の身にももちろん効く。


 体力が奪われ、痺れが回る。
 そういう症状が見て取れた。未だ残るその影響が、サフィールの体力を継続的に削っている。


「サフィール……」
 手当てはした。薬も飲ませている。食事も困難を極めてはいるが、機会を狙って消化に良いものを少しでもと口に運んでいる。
 聖具による症状だって浄化の術を毎日施して、少しずつ取り払っている。随分と、その身から薄くはなっているのだ。


 けれど、一連の出来事で拾い子はひどく弱り、今も一日のほとんどを微熱に苛まれながら寝て過ごす。それに処置はしたと言っても、怪我自体が治った訳ではない。
 リリアンヌの血と特製の薬があるから、きっと随分早くに治るだろう。でもそれは、当然一朝一夕の話ではないのだ。


 浅く呼吸を繰り返す、その様子を見つめる。
 見ていると、怒りと同じくらい心許なさに襲われる。


 これは、人間だ。ただの、人間だ。


 その人間の、なんと脆いことか。
 簡単に傷付き、倒れ、無防備に命を危険に晒す。恐ろしい生き物だ。すぐに死んでしまう。
 怖い、とリリアンヌは思った。情けないくらい、彼女の内には恐怖があった。


 きっと。


 きっとものすごく簡単に、彼女はこの拾い子を失ってしまうのだ。生きる長さが違うだけではない。サフィールが年老いて命を使い切るまでが、リミットではない。
 こんな風に、あっけなく傷付けられ、失うかもしれないのだ。リリアンヌの知らぬ間に、知らぬところで死んでしまうかもしれないのだ。
 病気、事故、誰かの害意。そういうもので、いとも簡単に。


 サフィールに教えられることは教えて来たつもりだった。身を守る術を、彼が何も持たない訳ではない。それに、加護だってある。
 でもそれは、全く安心要素ではなかったのだ。
 現にサフィールは今、こんなにボロボロではないか。


 今回は、大丈夫。サフィールは回復する。死んだりしない。
 でも、それは“今回”の話なのだ。これから先のことは分からない。もしかすると彼女はとてもあっけなく、そしてくだらない理由でこの拾い子を失うのかもしれない。


 そう思ったら、ゾッとした。そうなったら、自分がどうなるのか見当もつかなかった。
 そんな現実を、自分は受け入れられるのだろうか。
 生きる長さが違うというだけでももう十分に胸を痛めているのに、途中で何か別のものに無理矢理断ち切られることがあったら、そんな現実を受け止められるだろうか。


 魔女は、誇り高い生き物だ。
 自分を律せられる生き物だ。
 気まぐれで、冷酷で、自分のルールから逸脱することには時に感情的になるが、けれど常に心のどこかは冷静なのだ。そうでなくてはいけない。というか、そうでない魔女はその内に淘汰される。
 だから、どんなに怒りを覚えていても、その怒りを最大限効率的に利用しようとする自分が常に存在している。今まで、リリアンヌはいつだってそうだった。


 でも。


「お前を理不尽に失って、私が自分の内側に冷静さなんてものを、残しておけるだろうか」


 あまり自信がないな、と思う。


「…………」
 寝台の横に置いた椅子に腰掛ける。そしてそのまま寝台の端に上半身を倒した。上下する小さな胸の動きを見て、安心よりも不安が勝るなんてどうかしている。
 けれど表には出さないだけで、リリアンヌはそれなりに疲弊していた。心許ない気持ちになるのは、おかしなことではなかった。


 サフィールとこんな関係になってから、リリアンヌはひどく感情の揺れ幅が大きくなった。今まで一切惑わされはしなかったことに、心が沢山振り回されてしまう。



 死にたい、とふと彼女は思った。



 サフィールより先に逝きたい。置いて逝かれたく、ない。



「どうか、してるな……」
 レイナルドの一件で、サフィールが様子をおかしくした時のことを思い出す。
 アレは、単にレイナルドとリリアンヌの仲を疑っての行動ではなかった。多分サフィールが何より心を掻き乱されたのは、レイナルドならばリリアンヌと同じようなスパンで生きていけるという、どうしようもないその絶対的な事実に対してなのだ。



 どこにもいかないで。ここにいて。ここなら、安心だから。



 檻の内に閉じ込めるというとんでもない選択を、けれど今のリリアンヌは馬鹿なことをと一蹴することができない。


「確かに、ある種安心だろうな」
 サフィールから目を離さず、常に自分の手元に置いておけば、他の何かに害される心配はない。そんなことになっても、自分の手で守ることができる。
「馬鹿馬鹿しいと思うし、全く趣味でもないけれど……」
 そういう考えもあるのだと、頭の片隅で検討してしまうくらいには、リリアンヌも疲弊していた。


 だって、みすみす失いたくないではないか。
 そうでなくとも、いつか置いて逝かれることは確実なのに。


 死にたい、なんて馬鹿馬鹿しい願いだ。
 でも、例えばサフィールが自分を置いて逝っても、リリアンヌは後を追うという選択肢は持っていない。恐らく、どれほど心を千々に引き裂かれても、選ばない。


 死後、魂の行き先は決まっていると言う。その魂の色により振り分けられる先は色々だが、そもそも死に方によって大きく、決定的に分かたれるようになっている。


 自死を選んだ者は、輪廻の輪から外れると言う。


 生まれ変わりなんてどうでもいいし、今生きているリリアンヌという存在はこの生にしか存在しない。彼女はそう思っている。
 けれど、この子は言ったのだ。


 “ちゃんと待てができる子だよ”と。


 待っている、と言うのなら、同じ場所へ遠いいつの日か辿り付きたいなんて、そんな感傷的なことを思う。
 ちゃんと待っていられたのなら、思い切り褒めてやらなくては。


 だから、リリアンヌはどれだけ辛くとも、自ら命を擲つことはしないだろう。


「お前は本当に怖い子だよ。私を、ただの女にしてしまう」
 シーツに顔を埋めて、静かな呼吸に耳を澄ます。
 この拾い子が起きていないと、途端にこの家はこんなにも静まり返る。少し前までは、これが自分の日常だったはずなのに。



 どのくらいそうしていただろうか。


「アンヌ、泣いてるの……?」
 不意に掠れた声がして、リリアンヌはゆっくりと顔を上げた。
 意識が浮上してきたらしい。顔だけこちらに向けて、サフィールがおかしなことを問う。



 泣いている?



 そんなはずはなかった。
「…………まさか、泣いてなんかいないよ。持ち堪えると分かっていて、何を嘆く必要がある」
 実際頬は乾いている。水分の気配なんて、どこにもない。リリアンヌは、泣いていない。
「本当に?」
「目は何ともなかったはずだと認識していたけれど、ちゃんと現実が見えてる?」
「見えてるよ」
 微かな苦笑。けれど、ゆっくりとサフィールは言葉を紡ぐ。
「でもほら、アンヌのことなら、オレ、きっと誰より分かるよ」
 だから泣いてなどいないと言うに。
「どうもまだ夢現にいると見た。しっかりしろ。――――水でも飲むか?」
 嘆息しながら立ち上がり、水差しを手に取る。水分が足りなくて、脱水症状を起こして幻覚でも見てるんじゃないか。そんな風にすら思う。
「アンヌ」
「なに」
 背中に掛けられた声に振り向かず、返事だけをする。
「オレは大丈夫だよ。そんなに、泣かないで」
「だから――――」
「でも、心配かけて、ごめんね」
 済まなさそうな声。
「別に構わな――――」
 グラスを清らな水で満たしてから振り向くと、けれどサフィールはまた眠りの世界へ落ちていた。
「…………なに、やっぱり夢現だったんじゃない」
 役目を果たせなかったグラスを、仕方なしにまた盆の上に戻す。戻してから、ふと頬に触れてみた。
 当然ながら、やはりそこに水分の気配など一つもない。


「…………まだ気力も体力も回復しないか。聞きたいことがあったけど、当分本人からは無理かもしれない」


 さて、感傷的になるのもほどほどにしておかなければならない。そう思う。
 リリアンヌは、意識的に思考を切り替えていく。


 サフィールが回復しても、それは事態の解決ではないのだ。
 サフィールは追われていた。それも、神殿の手の者に。
 これはもう確定情報なのだ。
 ゼノンからの報告もあった。あの日、森には十人を超える隊を組んで、人間が入り込んでいた。その者達の服装は一様に同じで、特徴を聞けば神殿の人間と判断するしかない出で立ちだったのだ。
 聖具を持っていたとは言え、惑いの森奥深くまで立ち入るなんて正気の沙汰じゃない。そもそもこの奥地まで来るには、それなりのコツがいるのだ。どうやってそれを成し遂げたのか、正直かなり気がかりである。


「惑いの森に詳しい人間が、神殿側にいるのか? それとも他に協力者が……?」


 理由は分からない。けれど実際サフィールは追われたのだ。そして、逃げた。
 人間だろうと魔物だろうと、逃げるものをそう深追いする必要はない。それが目的の人物でもない限り。
 つまり、そう、恐らくサフィールは神殿側の標的だったのだ。


“神殿が何か探しているらしい”
“魔女と所縁がある人間らしい”


 まさか、サフィールがそうだったなんて。
 魔女というのが、自分のことだったなんて。


 全くの他人事だと思っていた。
 けれど、こうなってしまった以上、何かの間違いだとは思えない。万が一間違いだとしても、こんなことをされて黙っている訳にはいかない。


「興味がなかったから、お前の過去なんて何一つ知らない」
 あったはずの名前さえ、リリアンヌは知らないのだ。


 惑いの森に捨てられるのは、都合の悪いものなのだ。もう要らなくなったものなのだ。


 その昔、サフィールだってそうだったはずで。
 今まで、サフィールを訪ねてくる者などいなかった。いるはずがなかった。だってもう捨てた人間は、死んだと思っているはすだから。
 サフィールがサフィールになる前の何某かの過去は、もうなくなったも同然のものだった。
 サフィール自身、リリアンヌが拾うより前のことは、一切口にしたことがなかった。何も匂わせるような発言はしなかった。


「きっとお前自身にとっても、もう過去は要らないものだった」


 何も知らない。
 知らないことが、こんなにも枷になるとは思わなかった。


「でも、神殿と所縁がある人間、のはず……」
 神殿と所縁と言ったって、それがどんなものなのかは想像もつかないけれど。
「加護が付いていたことも、それで説明できるんだろうか」
 この拾い子には、どんな過去があったのだろう。リリアンヌが拾わなかった部分に、どんな秘密があると言うのだろう。
「まさか十二年も経ってから、過去が追いかけてくるなんてね」
 きっとロクでもない理由に違いない。
 だって、一度捨てたものなのだ。それも、思い出してみろ。あの時、サフィールはボロボロだった。ひどく痩せ細り、怪我を負い、大切にされていた痕跡が欠片もなかったのだ。そんな風な扱われ方を、していたのだ。
 そんな手酷い扱いをしていたかもしれないヤツらが、また性懲りもなくやってきたのだ。
 その理由がまともなものであるはずがない。きっとまた、ボロボロになるまで使い潰してやろうと、そういう腐った性根で動いているに違いない。


「回復しても、お前の口からあれこれ聞くのは得策じゃあないかもしれないね」
 リリアンヌは眠りに就いている拾い子に、そっと語りかける。

 きっとそれは、思い出したくもない過去だろう。口にすることは、痛みを伴う行為かもしれない。
 病み上がりの相手に、そんな作業をさせるのは気が引ける。
 サフィールはどうでも良い有象無象ではないのだ。リリアンヌの内側の存在なのだ。不当な痛みを強要したくはない。


「さて、ではどうしようか」
 情報は必要だ。向こうが動いた以上、このまま手をこまねいている訳にはいかない。相手が巡りの魔女・リリアンヌと分かった上で、こんな愚行に出ているのだから。
「私以外の人間が、そう簡単にこの子に手を出せると思うなよ」
 これで終わりではない。必要があるのなら、神殿側はきっとまた行動に出る。
 力で退けるのは一つだ。けれど、手に入るのならば情報は持っておくに越したことはない。


 リリアンヌがあの日拾ったボロボロの子どもは、何にも持っていなかった。
 消えかけの命しか持っていなかった。
 だから彼女はその命ただ一つを、気まぐれに拾ったのだ。
 けれど。


「お前は私が拾ったんだから、私のものだよ」


 何もかもが彼女の手の内だ。重いものも汚いものも、冷たく痛みが伴うものであったとしても。あの時拾った子どもの全てが、彼女のものだ。
 だから付き纏う過去も、必要だと言うのならば彼女は抱えてみせる。


 知らない、要らないと、見て見ぬフリはしない。


「情報が必要ならば、得られる場所に出るまでだ」




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