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19.魔女の仰せ
しおりを挟む随分ひどい抱き方をして体力を消耗させていたので、解放したと言ってもリリアンヌの身体にはまだ自由がなかった。
サフィールは久方ぶりにまともな衣服を彼女に着せ、寝台に横たえ、檻の内にいた頃とあまり変わりがなかったが食事、風呂、継続してあらゆる生活の面倒を見た。
戒めを解いたその日はさすがにまともに動けなかったリリアンヌだが、一日二日と経つうちに徐々に自分の足で歩き回るようになった。
そんな彼女に蹴り起こされて目覚めたのは、何日目のことだったか。
「うぇ、ア、アンヌ?」
床に落ちた衝撃に驚きながらも、未だ眠気の去らない眼を擦って見上げた彼女の顔は不機嫌に染まっていた。
「え、なに、あ、ごはん?」
窓の外へ向けると、どうやらもう空は白んでいるようだった。澄んだ光がガラスを擦り抜けてくる。
まだ随分早い時間のようにも思ったが、朝は朝だ。
食事の準備がいる、と思ったが、サフィールの動きは途中で止まった。
鼻腔をくすぐるのは、茶葉の香り。そし温め直しただろうパンの香ばしさ。キッチンに目をやれば昨日のスープの残りが火にかけられた痕跡がある。
「あれ……?」
まさか、リリアンヌが?
自分が率先してやることが多いが、確かに彼女も生活の雑事をすることを厭いはしない。
けれど、まだそれほど元気でもないだろうに。
「そこ、邪魔」
不機嫌そうな声だった。見上げる彼女の顔もその声に見合ったもの。
「食事、向こうのテーブルで摂るんじゃ?」
いつもはそうだ。サフィールは自分が落ちたばかりのソファーとその前に置かれたローテーブルを見遣る。
確かに、ここでも当然食事は摂れるが。
「何か不都合がある? 私は今日ここで食事をするし、その後はそのまま読んでしまいたい本がある」
だから、邪魔ということか。
彼女は続けて言った。
「サフィール、いい加減ここを寝床にするのはやめろ」
「でも」
そう、サフィールはリリアンヌを解放してから、彼女と寝床を共にはしていない。寝台はリリアンヌだけのものだ。サフィールはソファーを代わりにしている。
彼女にはゆっくり休んで欲しかったし、自分のしたことを考えると、とてもじゃないが一緒の寝台でなんか眠れない。もちろん例え寝床を共にしたとしても当分そういう意味で彼女に触れることなんてするつもりはないが、それだけが問題じゃない。
触れずとも、寝床を共にするだけでそれは過ぎた贅沢だ。自分には許されないことだと思う。彼女だって安心できないだろう。
何より、前からリリアンヌは事あるごとに寝台が狭い狭いと言っていたのである。それこそ、サフィールをここから追い出す口実にするくらいに。
それに一緒の寝台にいれば、きっとクセでいつのまにか彼女を腕の中に抱き込んでしまう。寝ている無意識の間の自分を制御する自信は、さすがにない。
ソファーで寝起きするというのは、サフィールにとって必要な措置だった。
こんなもの罰の一つにもならないが、最低限のけじめだとは思う。
「お前が寝床にするせいで、好きに使えない」
「そ、そんなことはないでしょ。リリアンヌが寝てる時間とオレの時間はそう変わらないし。今日はちょっとアンヌの方が早かったってだけで」
「日中もブランケットやら置いてあって、邪魔」
「ちゃんと畳んで端に寄せてるよ。……分かった、でも邪魔だっていうなら、毎度ちゃんと片付けるから」
そうすれば問題ないだろう。一時期リリアンヌは昼夜逆転生活を送っていたが、何か諦めと言うか心の整理がついたのか、今はもうサフィールと同じように昼に活動し、夜に寝ている。
だが。
「お前の身体とこのソファーじゃ大きさが合ってない」
これはけじめだというのに。
「そんなことは気にしなくていいよ」
「思いきり足がはみ出てる」
「そんなには」
邪魔だとか何とか言って、彼女は結局はただただこちらの心配をしているだけだ。
「いつまでこんなことを続けるつもり? 意味はある? 終わりは? 何がどうなれば気が済む」
そういうことは考えていなかった。
正直自分のやらかしたことに対してまだ気持ちの整理がついていないし、反省も足りていないと思う。リリアンヌだって、まだ気持ち的にも身体的にも本調子じゃないだろう。
言っておくが、と前置きをしながらリリアンヌは更に眉間にシワを寄せてみせる。
「私だって別にお前と一緒に寝たい訳じゃないよ。それは本当だ。狭いし暑いし鬱陶しい」
多分、それは本当。
別に一緒に寝たい訳じゃない。ただ窮屈に身を押し込めるサフィールに、情けをかけてくれているだけ。狭いのも暑いのも鬱陶しいのも本当。
ただ、この家に今のところ寝台と呼べるものは一つしかなくて。
だから戻って来ても良いと、仕方がないからとこの魔女は言っているのだ。
「だけどこれじゃ、私がお前を虐げてるみたいだ」
別に誰が見咎める訳でもないのに。
嬉しくて愛しくて申し訳なくて、笑いともつかない何だか変な声が口から漏れそうになった。
絶対に怒られるから、何とかそれを堪える。
「…………アンヌは優しいね。オレを気遣ってくれるの」
「気遣いとか、そういうのじゃない」
言ったら、大層嫌そうな声が返って来た。
何故彼女はこうも自分がよく言われるのを嫌がるのだろう。時に“私はそんなに冷血じゃない”とか“心というものを持っているつもりだ”とか言うクセに、実際に優しいとか思いやりがあるとか慈悲深いとか言われると、全力で否定する。
魔女がこうなのか、彼女がこうなのか。
素直でない。天邪鬼だ。
けれどそういうところが魅力的だと思う。言葉とは裏腹な態度が、いつも自分の心を鷲掴む。
「でもアンヌ、まだしばらくは……」
確かにソファーは狭いし、身体はバキバキ言うが、でもそれだけだ。
どこにも繋がれていないし、閉じ込められていない。何も制約されていない。
まだ、自分には、彼女を近くに感じる資格はない。
けれど。
全く理解も納得もいかないのだろう。リリアンヌはわっと叫んだ。
「うるさい! 私の言うことを聞け!」
その一言で、決着はついた。
だって彼女の言うことを、聞かない訳にはいかない。
そうして何となく、サフィールとリリアンヌは元の生活を取り戻しつつあった。随所にぎこちなさは残るものの、比較的穏やかな日々が続いている。
リリアンヌもすっかり調子を取り戻し、今では日々惑いの森のあちこちへ出歩いている。
時に調子に乗って縄張りを荒らすならずものや気性の荒い魔物を伸して、筋違いな呪いを願う人間を叩き返して、実に健やかに過ごしている。
「そう言えば、友達の魔女はどうなったの」
ある朝、食事を摂りながら、サフィールはふと思い出してそう訊いた。
「ともだち」
訊かれた彼女は一瞬ぽかんとする。
「ほら、この間捕まった魔女を助けに行ったんでしょう」
「――――あぁ、クラリッサのことか」
そう言うと、ようやく合点が行ったらしい。
“友達”というのは、どうやら彼女の辞書に自分事として収録されていない単語らしかった。リリアンヌには割と沢山そういう単語がある。
魔女とはやはり、人とは添わない部分が沢山あるものらしい。
「助けられた、んだよね?」
帰って来るなり滅茶苦茶なことを仕出かしてしまったので、実は先日の外出の顛末を一切知らないままだった。
「あぁ、まぁな。多少痛い目には遭わされたらしいが、五体満足で助け出せたよ」
サフィールは彼女と繋がる他の魔女について、ほとんど知らない。
二三人、チラと見かけたことがある程度。そのクラリッサという魔女のことに関しては、一切知らない。
「魔女を捕えるなんて、すごいね? 普通そんなことする?」
魔女狩りだ、異端審問だといった動きではないと言っていたはずだ。今はそういう時代ではない。
魔女は恐るべき相手だが、時に頼らざるを得ない相手。滅多なことはできないはずだ。何か大義名分があれば別かもしれないが、大抵の者は報復を恐れてそんなことは仕出かさない。
「それに魔女ってそう簡単に捕まるもの?」
サフィールが彼女の力を封じ閉じ込めることができたのは、相手が他ならぬ彼女だったからだ。
リリアンヌはあの時、サフィールの心を何よりも優先した。そもそも彼女は、サフィールには力ではなく言葉で諭そうとする。そして何より心を許している。だから、サフィールでもリリアンヌを捕えられた。条件が特殊だったのだ。
「クラリッサもまぁ、決して弱い魔女ではないけれど」
リリアンヌが蜂蜜をたっぷり塗ったパンを口に放り込む。その甘さを口の中で十分に味わってから、彼女は嚥下した。
上下する喉元を見て、サフィールの喉も無意識にごくりと鳴る。今あの口を塞いで口内に舌を捩じ込めば、大層甘い味がするだろう。それがなくなるまで、隅から隅まで舐め尽くしてみたい――――――――禁欲を課しているはずなのに、その反動か不埒な考えが過って、いけないいけないと首を振る。
「まぁでも、それほど何かを退けることを得意とするタイプでもない」
彼のそんな邪まな考えには全く気付くこともなく、彼女は続きの言葉を口にした。
「魔女が皆武闘派な訳ではないよ」
「でもリリアンヌは武闘派なんだ?」
「まぁね。御せる範囲なら、力はあるに越したことはないし」
「じゃあその囚われてた魔女を助けるのも、あっという間だった?」
訊けば機嫌良さそうにふふんと鼻を鳴らす。
「私の手にかかれば、大したことじゃない。向こうもまさか同業が助けに来るなんて思わなかっただろうし。外から開けるのなんて、赤子の手を捻るより造作のないことだったよ」
誇張でもなんでもなく、それは事実なのだろう。
サフィールは今まで力の強い悪魔や自身の何倍もの巨体を持つ獰猛な魔獣をなぎ倒す彼女を、この目で見てきた。
「結局クラリッサも人違いで巻き込まれたみたいだったし……」
「あ、そうか、何か目的があって魔女に手を出したんだっけ」
「そうそう、神殿がな。クラリッサを捕えたのは神殿の人間でなく、神官達と懇意にしているとある貴族の手によるものだったけど」
神殿。
きな臭い匂いがする単語だ。
「神殿は、なにを」
そう探りを入れれば、リリアンヌは他人事だと思っていることが丸分かりのどうでも良さそうな声音で言った。
「人を探しているだとか」
「…………人を?」
サフィールは眉を顰める。
「それが、魔女を捕えることとどう繋がるの」
「さぁ?」
神殿というのは政治から切り離され、そして俗世からも切り離されているものだ。実態は別として、表向きはそうあるべき存在だ。粛々と必要な儀を執り行い、清廉高潔を貴び、世間のつまらぬ噂からは隔離されているべき場所。
そういう場所の人間が、もちろんある程度忍んではいるのだろうけれど、手段を選ばずに動いている。少なくともあの半悪魔や、そういった者を通じてリリアンヌのような力ある魔女が噂を耳に入れる程度には、目につく動きなのだ。
「魔女と所縁のある、何者かを探しているとかなんとか、そんなぼんやりした話は聞いたけれど」
魔女と所縁のある者。
それはまた、なんて不穏な。
「まぁ何にせよ、しばらく王都の方へ出るのは控えたらいいよ。面倒事はごめんだもの。幸い自らの足で出向かなくても客は来るものだし、私はこの森の中だけでもそうそう生活には困らない」
彼女の言う通りだ。リリアンヌはこの森だけで暮らしていける。サフィールだってそうだ。
ここは惑いの森。恐ろしの森。
ありとあらゆる魔物が住んでいて、魔女がいて、ところによっては磁場が狂い、ロクな地図も描けないような場所。人間は、こんなところに不用意に近付かない。
「うん、そうだね」
だからサフィールも、彼女のその言葉に素直に同意を示した。
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