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3.通告。
しおりを挟むそうして死にかけの瘦せっぽちの子どもを拾ってから、あっという間に十二年の歳月が過ぎていた。
あの時、リリアンヌは随分子どもに自身の血を分け与えてやった。
魔女の血を取り込むのだ。上手くいけば良いが、拒絶反応が出ればそれまで。のたうち回るように苦しみ、そのまま死んでいくことになる。
けれど幸いなことに子どもはリリアンヌの血を受け入れ、生き延びた。その過程でリリアンヌの血に影響され、榛色の髪はすっかり真っ黒になってしまったが、副作用としては軽い部類だ。
やがて子どもは順調に回復し、世間的に見ても健康体と呼べるまでになった。
子どもから完全に死の気配が遠のいた時点で、ようやくリリアンヌは子どもに名前を付けた。
サフィール、と。
元から持っていた名前は聞かなかった。
だって子どもはリリアンヌが拾ったのだ。だからもう、リリアンヌのものだ。
他の誰かがつけた名前など、どうして必要になる?
子どももそれを素直に受け入れた。リリアンヌと出会う前に持っていたはずの名前については、何も言及しなかった。
だから、それから子どもはずっとサフィールと呼ばれている。
その、サフィールが。
「…………狭い」
寝台で、リリアンヌは寝起きからそう唸った。
いや、当たり前だ。リリアンヌは当時から全く変わらない二十歳をいくつか過ぎた程度の見目だが、人間の子どもは時間と共に当然育つ。十二年あれば、それも男なら、縦にも横にもそれなりになるに決まっている。十八になったその身体は、拾った頃の面影が一切ない。
リリアンヌはサフィールと寝台を共にしていた。この十二年間、ずっと。
理由は実に単純だ。サフィールを連れ帰った当初、この家には一つしか寝台がなかったのだ。ただサイズ的にはキングベッドと言って差し支えない大きなものだったので、リリアンヌは事足りるかとサフィールを端っこに置いておくことにしたのである。
ただし、誤算が一つ。
拾った当初に、サフィールに妙なクセがついてしまったのだ。
ぐずったり手のかかるようなことは一切なかったのだが、やはりどこかに寂しい気持ちでもあったのか、毎夜寝ている間に彼女の腰にしがみついて来る。何度もやめさせようとしたのだが、それこそ我慢ならなくてサフィールをソファに追いやったりもしたのだが、いつのまにか寝台に潜り込んで来て目覚めた時にはしがみつかれている。
半年攻防を繰り広げて、根負けしたのはリリアンヌの方だった。面倒になって、もう放っておくことにしたのだ。別に特別害がある訳ではないし。
けれど、最近は割に害がある。サイズ感が、今と昔ではもう随分違うのだ。昔は腰に引っ付き虫が付いている程度のものだったが、今ではサフィールがすっぽりとリリアンヌを包み込むような体勢になってしまっている。
もちろん、それ以上のことはない。まるで生まれた時から一緒のお気に入りのぬいぐるみを抱くように、ただ腕の中に彼女を収めているだけのことである。
けれど。
「暑苦しい……」
狭いだけではない。こんなに全身がっちり抱えられていたら暑くて鬱陶しくて堪らない。身動ぎもままならない。だから最近、特に目覚めの瞬間の気分が最悪だ。まるで狭い部屋に閉じ込められているようなのだ。
やめろと言っても、長年の習慣として叩き込まれたこれをサフィールが今更簡単にはやめられないだろうことも予想できる。第一、最初に根負けしたからこんなことになっているのだ。
――――――――クセが抜けないなら、代わりがいる。
リリアンヌの、代わりが。
重苦しい腕の中から抜け出しながら、潮時だな、と彼女は思った。
だからリリアンヌはその日サフィールが用意した朝食を平らげた後、あれとこれとその薬草を集めて来いと言うのと同じ調子で言ったのだ。
「サフィール」
「なに、アンヌ」
今までいつ言っても良かったのに、これといって切迫した状況にならなかったので、つい先延ばしにしてしまっていたのだ。
「お前、そろそろお決め。尽崖の魔物の贄になるか――――」
だけれど、いつかは言うことだった。
「それか、ここを出て人間社会に戻って、どこぞの娘と家庭でも築いてみるか」
この生活は、そう長く続くものではない。どこかで必ずリリアンヌはサフィールを放り出す必要がある。魔女とは、本来独りで生きていくものだ。
「…………急に何言ってるの?」
食器を片していた手を止め、サフィールは剣呑な声を出した。
「急か?」
訊けば、
「急だよ!」
噛み付くように即答される。けれどリリアンヌは飄々とした態度を崩さず、淀みなく言葉を返す。
「そうか? いつ来てもおかしくないことだったろう。それが今来たと言うだけ。お前が油断していただけなんじゃない?」
「それでも……!」
本当は彼自身、言われなくてもいつかはこういう日が来ると分かっていたはずだ。リリアンヌは、贄にするか、あるいは他に何か手頃に使えそうだったから拾ったのだと、きちんとサフィールに公言していた。
「理由は、何かあるの」
「理由? そんなものは特にない。ただの魔女の気まぐれだ。それでも何か挙げろと言うなら―――」
リリアンヌは今朝の目覚めを思い出しながら言った。
「そうだな、お前がいると寝台が狭い」
「…………まさかそれが、それだけが理由なの?」
胡乱げな表情をして訊かれたので、リリアンヌは間髪入れずに頷いておいた。
「お前、自分の図体が分かっている?」
所謂ガチムチ系ではないが、サフィールは背があるのでそれなりに体格もしっかりしている。少なくとも、寝台の上で邪魔だと感じる程度には。
「正気? それだけの理由で?」
「正気かどうかは大した問題じゃない」
しかしサフィールもしつこく食い下がり、ずらっとこれ見よがしにあれこれ並べ立ててきた。
「オレがいなくなったら食事の用意は、部屋の掃除は、髪や服の手入れは、薬や術に必要な材料の調達はどうするのさ」
「どうもしない」
しかし彼は分かっていない。
「お前を拾うまでは全て自分でこなしていたことだもの。特段困ることなどないよ」
自分が共に過ごしてきた魔女が、どれほど頑固か。一度これと決めたら、そうそう翻さないか。
口にした時点で、それは絶対事項なのだ。
「私は魔女だけど、これでもまだ一応心というものを持っているつもりだ。だから選択肢をやるよ、サフィ。尽崖の贄か、人間社会に戻るか。――――そうだな、一週間以内にどちらか決めて、この家を出てお行き」
「ねぇ、リリアンヌ。昨日の件だけど」
翌日、朝食を終え着替えを済ませたところで、リリアンヌの髪をまとめながらサフィールが口を開いた。断っておくと、髪の手入れはサフィールが好きで勝手にやっていることなのである。彼女が命じたことではない。
髪くらい、本来リリアンヌとて自分で適当に結える。なのにサフィールがやりたがって仕方がないから、渋々任せているのだ。
どこで覚えてくるのかやけに複雑な結い方をするので、サフィールが結うと自分では解けなくなることもしばしばだ。却って面倒な気もしているくらいである。
「おや、もう決めたの」
「うん、決めた」
サフィールはあっさりと頷いた。
もう少し悩むと思っていたから、彼女は少しだけ意外に思った。
だけど、すんなり結論が出たのは良いことだ。ごねられると大変だと思っていたから。
この十二年間をチラリと振り返ってみる。詳しいエピソードを一つ一つ取り出さなくても、概ねなかなかに悪くなかったと思える。サフィールは割に器用で物覚えも良かったので、手がかからず、むしろよくリリアンヌの助けとなった。
やはり最初に見込んだ通り、良い拾い物だった。
そう結論付けて、餞別にこの間採れたあの青の鉱石でもやるか、少しくらい生活の足しになるだろうと思っていたら、しかしサフィールはリリアンヌの予想外のことをのたまい出した。
「アンヌ、オレ、まだ出て行かないよ」
「――――――――は?」
鏡台の鏡越しに、彼女は背後の男を見上げた。
「お前、私の言ったことを理解している? 私は出て行けと言った。それ以外の選択肢を与えた覚えはないよ」
ここでは、主たる魔女の言うことが絶対だ。なのに。
「分かってるよ。でもアンヌ、アンヌはまだオレを拾った当初の目的を果たしてない」
当初の目的?
彼女は思い切り眉間に皺を寄せた。何を言っているのか分からない。
「はぁ?」
いい加減にしてくれという気持ちを込めて、今度は鏡越しではなく直接振り返って見上げた。
そうしたら。
「!?」
“はぁ?”と開けたままの口が。
「んんん!」
何故か次の瞬間には塞がれていた。サフィール自身の唇によって。
何をされているのか、数瞬本気で分からなかった。
何故息ができないのか、何故口を塞がれているのか、何故サフィールの顔がこんな間近にあるのか。
――――――――そうか、これ、口付けられているのか。
だが、理解が及んでも、事象は解決しない。
空いた状態のところに割入って来た訳だから、いきなりのディープキスだった。
リリアンヌは一も二もなく舌を絡め取られ、絞り上げられ、貪られた。抵抗しようにも彼女の慎ましい舌は、サフィールの肉厚で大きな舌の前には大した抵抗もできない。
「んん! んんっ!」
喉から潰れた抗議の声を漏らしながら、胸板に向けて拳を振りかざす。けれどそれもまた、あっさり手首を捕えられて押さえ付けられてしまった。
口付けは激しさを増す。舌は絡んだり解けたり。解けても口腔は解放されず、頬の内側を強い力で嬲られ、歯列を執拗になぞられる。溜まっていく唾液は、あろうことかサフィールが啜り上げ飲んで見せた。
「!」
羞恥と怒りで頭が真っ赤になる。
でも上手く呼吸のタイミングが取れなくて、段々と酸欠で思考が霞んでくる。怒りをきちんと形にできない。
何故、いきなりこんなことをする。こんなことをする必要がある。
サフィールが彼女に行っているそれは、明らかに欲情を含んだキスだった。獰猛な激情を形にした行為だった。あまりに激しいそれは、これまでの永い人生でも彼女が一度も経験したことのないものだった。
唇と唇が触れ合うという行為自体は初めてではない。だがそこには常に欲も情もなかった。応急処置や術の過程でやむを得ず。あるいは演技の上で形式的に。
気持ちのないものを、彼女は数度こなしただけ。
「っぁ……」
呼吸が、苦しい。意識が霞む。すると生き物とは妙なもので、苦しさを快感にすり替えようとする力が働く。力が抜けかけ傾いだ身体は、いつの間にかしっかりとした手が背中に回り支えられていた。
ぞわりと這い上がってくる感覚に、必死に蓋をする。
見ないフリをする。
でも、ふと流れた視線が鏡に映る自身を捉えて身が竦んだ。
まるでサフィールの青と相対するかのような深く血の色に沈んだ赤の瞳が、とろりと蕩けて潤んでいる。与えられた刺激に、服従するかのように。
くちゅくちゅと唾液が捏ね合わされる。知らぬ間に、淫靡な空気が部屋中に充満してどんどんとその濃度を高くしていっている。
「っはぁ、アンヌの口の中、すっごく気持ちイイ……」
やがてぷはっとリリアンヌの口腔から舌を引き抜いたサフィールが、恍惚とした表情でうっとりとそう零した。
お前の発言は気持ち悪い!
リリアンヌの怒声は、けれど乱れた呼吸の前に音にならない。
「サ、フィ、お前…………」
いい加減に。
けれど口惜しいことに、場の主導権は既にサフィールの側に握られていた。
至近距離で目が合う。そこに見て取れた獣のような気配にギクリとする。
「アンヌ、見ないフリはしないで」
「な、にを」
頬を包み込まれる。
いつの間に、この手はこんなに大きく。
くいっと顔を上向きにされる。口の端に滲んでいた唾液を拭い上げられて、また羞恥と怒りが湧く。けれど彼女のそんな激情を、サフィールは物ともせず受け流す。
「ねぇ、全部ちゃんと見て。全部ちゃんと見せて。それから全部決めて」
青が深くなって、とろりと笑みの形を取った。
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