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第4話 みんななんにも分かってない

みんな分かってない【入籍編】 その8

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 ただいま、という習慣がなくなった。
 どうせ扉を開けても、その向こうには誰もいない。


 ドアを開ける時は気を付けろ、周りに誰か潜んでいないか、そもそも駅からの道誰にも尾けられていないか、周りに常に注意を払うようにとは口酸っぱく言われていた。それを思い出しながら、一応周囲に気を付けながら扉を素早く開けては閉める。
「……空気、籠ってる」
 一日開けていた部屋は空気が停滞している気がした。
 入れ替えたくてちょっとだけ窓を開けるけど、ここでも窓からの侵入にも気を付けろという声を思い出す。確かに最近は二階や三階でも油断はならないと、ニュースやネットを見ててもそう思う。


 気を付けなければならないことだらけだ。
 毎日毎日、暮らしの中のあちこちで彼の心配そうな声が蘇る。


「……今、何してるかな」
 頬を撫でる微かな風は涼しいと言うよりは、既に肌寒いと感じる域になってきていた。
 寂しい、なんて思う資格はない。だって私が無理矢理に選んだことなのだから。
 征哉ゆきやさんは最後まで反対してた。一人暮らしなんて物騒だ、今お前を一人にしたくないと。
 引き留めるその声には、心が揺らいだ。一緒にいたいと、傍にいてほしいとそう思った。
 でも、自分の甘さと、私は向き合わなければならない。そう思ったから。


 独りよがりなことをしているのかもしれない。
 でも、言われた言葉、言われなかったけど察することの出来た言葉。それらを思い返した時、今のままではいけないと強く感じた。
 四年も、大切な人達のことを謀ってきた。大切な人に、謀らせてきた。
 もういい加減にしてと言われて、そうか、私はこの人征哉さんのことを独占し過ぎて来たのだ。なのにまだこれ以上独占しようとしているのだと気付いた。
 彼らは、解放してほしいと思っているのだ。もう十分でしょ、とそう言われているのだと思った。


 十分だと思うべきだったのかもしれない。
 私は沢山を欲張って生きてきたのかもしれない。


 征哉さん、と口にした瞬間に示された拒絶を思い出す。
 相手の受け入れ難さがまざまざと感じられて、打ちのめされた。でも、相手の方が私なんかよりずっと衝撃を受けていただろう。
 四年と言われて、結婚すると言われて、想像しない訳がないのだ。
 目の前の二人が一線を超えていること。娘と父親としてやってきた二人の、もうなかったことにはし難い関係を。


 反対と言い切られた声が頭の中で反響する。
 憎まれているかもしれないと思うと、胸が詰まる。


 もらった愛情が嘘だなんて思ってない。本当に本当に良くしてもらった。孫だと思ってるって言葉も、本当だろう。
 でも、それでも何かの拍子に、ふと過ることがあったと思う。
 あの子さえいなければって。もっと他の形の幸せが息子にはあったんじゃないかって。
 そういう気持ちがあったとしても、それを否定することはできない。その通りだと思う。あって当然の気持ちだし、今回のことでより一層強く心が心が固まってしまっても仕方がないのだ。



「ごはん……」
 あまり食欲はなかったけれど、食べない訳にはいかない。体調を崩せばきっと連れ戻されてしまうし、それに毎日送るメッセージにごはんの写真は必須だ。勝手に始めたことだけど、多分少しくらいは安心要素になっているんじゃないかって思っている。


 作る気力はないから、冷凍ストックと電子レンジに頼ることにする。
「どれから食べよう」
 一人で暮らすようになってから戸惑うことが沢山あったけれど、そのうちの一つに食糧の買い出しがある。一人分の食材というのは難しい。なかなか上手に使い切ることはできない。
 生のまま置いておくと使い切る前に傷んでしまうなと思えば、一気に調理して余剰分は冷凍庫に送るのだが、そうしているとどんどんストックが溜まる。全然減らない。
「何でもいいか」
 最初に指が触れたものを取り出すことにする。野菜の炒め物らしいので、あとは何かタンパク質を取れるものを解凍すればいいだろう。
「…………あれ」
 電子レンジのカウントダウンを眺めていると、スマホが着信音を鳴らす。
「二階堂ちゃんだ」
 明日香と三人でグループを組んでいるメッセージ画面には、


“この間婚活パーティーで知り合った人に今日告白されて、晴れてお付き合いにすることになりました” 


 と吉報があった。


“年も近いし、趣味も合うので上手くいくように頑張りたいと思う”


 というメッセージに不意に心が乱れる。


 でも私の問題と彼女の吉報は全くの別物で、切り分けて考えるべきだ。人の幸せを憎んではいけないし、私は自分のことを彼女に話していないのだから私が勝手に心を揺らすのは、本当に私の勝手でしかないのだ。


“おめでとう、今度根掘り葉掘り聞かせてもらうね”


 自分にそう言い聞かせて、お祝いの言葉を返す。


 大丈夫、めでたいことだって思えてる。大丈夫。


 年も近いし、と目が勝手にメッセージをさらい直してそこばかり見てしまうので、スマホを手放してしまうことにする。丁度タイミング良く電子レンジも終了のアラーム音を慣らしてくれた。
 年の問題だけではないのだ。そうだ、そういうことじゃない。
 父と娘としてやってきたというところが問題なのだ。


 今日、祖母の家を訪ねに行った。顔を合わせたのはお盆以来だった。
 やっぱり、少しだけぎくしゃくした空気があった。
 一人暮らしの状況をあれこれ聞かれ、心配された。おばあちゃんがどう思っているのか、あの時呆然としているばかりで意見を聞く機会がなかったのでそれが気にかかっていたけれど、自分からはなかなか切り出せなかった。
“あのねぇ、香凛”
 そのうちに、向こうから訊かれた。
“本当に大丈夫?”
 大丈夫、と。
“あの時、香凛は謝ってばっかりだったけど、自分が先に望んだことだって言ってたけど、本当にそう?”
“な、に”
 何を言われているのだろう、と思った。
“感謝してるんだよ。頭が上がらない。香凛の全てを任せてしまった。もちろん信用もしてるの。でも、本当に香凛が望んで始まったことだった? それだけがちょっと心配で”
 例えば児童虐待とか。向こうが先に手を出して、私が洗脳されてるとか、他の選択肢を潰されているのではないかとか、そういう心配だろうか。親だと言うなら、やはりどれだけせがまれても応えるべきでなかったのではないか、それが倫理的に正しい対応だったのではということだろうか。


 悪気なんてないのは分かっていた。
 本当に本当に心配しているだけ。だってそうい可能性がないとは言い切れない。傍から見ている側からすればそういう心配が湧くのも当然のことだろう。
 でも、やっぱりこの関係を思った時に、征哉さんが何かしたのではと、正しくなかったのではと、そう疑われてしまう事実に少なからず動揺した。


 私が被害者で征哉さんが加害者。そんな風に見えやすいのだ。
 何かどうにもならない、本人も自覚できていない力関係があったのではと。


“そんなこと、ない。そんなこと絶対にない。私があの時ちゃんと自分の気持ちを飲み込んでたら、絶対にこんなことになってなかった。私が何かを無理矢理にされたことなんて、今まで一度だってなかったよ。本当だよ”


 私が、無理矢理自分を選ばせたということはあっても、何かを強要されたことなど一度も。


 おばあちゃんは、それ以上には何も否定的なことは言わなかった。
“思うところは少しあるよ。でも、香凛が決めたことなら、反対はしないことにする。どうせ、私は老い先短いのよ、未来のある人の人生にあれこれ口出しできるような立場じゃない。香凛が本当に幸せになれるなら、私なんかがあれこれ言わない方がいい”
 最終的には、そういう風に言ってくれた。本心は違うのかもしれないけれど、それでも表立って反対はしないと。
“ただ向こうの方は、色々思うところもあるだろうからね。一筋縄じゃいかないだろうけど、それは覚悟しなきゃいけないし、受け止めないとならない”


 私が原因で征哉さんが親と決裂なんて、あってはならないことだ。そう思う。
 でも、そうすると私は、もしかすると諦めなくてはならないのではないだろうか。


“あのねぇ、香凛。おばあちゃんは香凛に幸せになってほしいって、それだけを心から思ってる。それだけは間違いのないことなのよ”


 私の幸せって何なのだろう。
 征哉さんの隣で得られるものがそうだと思っていた。間違いないって思ってた。
 でも、それは絶対ではないのかもしれない。彼のことが好きで、この上なく愛していて、一緒に生きていきたいけれど。
 選択肢は無限にあって、他に誰かと幸せになれるのかもしれない。征哉さんもそうなのかもしれない。
 そうだったら、そうする方が良いと確信できてしまったら、どうしよう。


 不安になる。どんどん不安になる。好きなのに、好きだから怖くなる。
 征哉さんは今何をしているだろう。何を考えているだろう。


 今までだって沢山心配をかけてきた両親にこれ以上心労はかけたくないとか、そういう風に思うこともあるだろう。他にも目を向けてみるべきとかで無理矢理にお見合いとか組まれちゃったりとか、そこで会った人が素敵な人だったとか、そんなことが起きていないだろうか。こんな風に妄想が止まらない夜もある。


 不意にまた、着信音が響く。二階堂ちゃんか明日香かなと思ったけど、明滅するランプの色が違って、メッセージアプリの着信ではないと気付く。
「あ……」
 それはメールだった。友久叔父さんからだった。
 向こうは今何時なのだろうか。時差をちょっと思い出せない。


 メールの内容は、こちらを心配するものだった。
 海外在住であまり直接顔を合わす機会はないけれど、昔から時折こうして連絡をくれる。
 あの時、友久叔父さんだけが反対しないとはっきり口にしてくれた。そして沢山擁護してくれた。
 でも、あの時叔父さんがあれだけ落ち着いて発言できたのには訳がある。


 実を言うと、友久叔父さんは事前に知っていたのだ。私達の関係を。結婚報告をすることを。
 私が、事前に連絡を入れていた。
 皆に報告すると二人で決めてから、色々と考えた。楽観的な想像はできなくて、悪いことばかりが頭に過った。いきなりの報告に、人はまず拒絶反応を示すものだろうと。


 色々考えて、まず友久叔父さんに連絡を取ってみようと思った。話して、反応を知りたいと思った。
 味方が欲しいという気持ちもあった。こちらに引き込めないだろうかという打算があったのも事実。 


 でも、もう一つ。


 反対されても、それでも良いと思った。予行演習になると思った。
 反対されるということがどういうことか、その時の痛みがどういうものか。理解して、覚悟しておくべきだとも思っていた。
 結局幾度かメールをやり取りした後、友久叔父さんは分かったと言ってくれた。事情は分かったと。否定的な言葉はなかったのでホッとはしていたけれど、実際あの場であそこまで言ってもらえるとは思ってなかったので、あの時は本当に叔父さんの言葉に慰められた。


「…………」
 元気です、と打とうとして指先の動きが鈍る。そして全く別の文字を打ち出してしまう。


“私、やっぱりどこかおかしい?”


 父親と思っていた相手に、本気で恋をするなんて。


 今更訊いても仕方のないことだ。おかしいと、異常だとして、過去をどうこうすることなどできないのに。


“香凛”


 返事はすぐさま返って来た。


“どこまでが正常で、どこからが異常かなんて人によって違う。正常か異常かを目印にしない方がいい。言いたいヤツは異常だと声高に叫ぶぞ。それをまともに受ければ、自分を追い詰めるだけだろ”


 私は、どういう答えを求めているのだろう。他者に意見を求めて許され安心したいのか、いっそ否定され断罪されたいのか。


 他者の声を聞き入れる柔軟性は必要だろう。
 けれど、そこに解を求め始めると危ういと思う。



「――――大丈夫」
 大丈夫、不安だし怖いことは沢山ある。嫌な想像も時にはしちゃう。でも、大丈夫。


 私の心は定まっている。
 あの人のことが好きなのだ。
 望まれている限りは、手を離したりなんかしない。できない。大丈夫。




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