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第4話 みんななんにも分かってない
みんな分かってない【入籍編】 その1
しおりを挟むうだるような暑さだった。
蝉の声が四方八方、こちらを取り囲んでわんわんと響き渡る。
息をするのも少し苦しさを覚えるほどの、暑さ。全身がじっとり汗を掻いていたが一通り終えるまではスーツを脱ぐ気分にはなれない。これは、毎年のこと。
熱中症になるよ、別にもっと楽な格好でも誰も何も言わないでしょ、と香凛は言う。確かにそれはその通りかもしれないが。
ちらりと目を向ければ、どこにも装飾のない丸襟の白のブラウスに、これまた何の主張もない濃紺のスカート姿の香凛が黙々と生花を活けている。その傍でロウソクの準備をしているのはオレのお袋、それから御影石をオレと一緒に磨いているのは香凛の叔父。今年はスケジュールが上手く合ったらしく海外から戻って来ていた。顔を合わすのは四年、五年ぶりか。
オレ、香凛、オレの両親、香凛の父方の祖母に叔父。近しい親族が一堂に会する機会。
それは、亡くなった香凛の両親の墓参り。毎年命日あるいはお盆のこの頃に、予定を調整して故人を偲ぶ。
「今年も本当に猛暑ねぇ」
お袋が汗を拭いながら言うと、香凛の叔父も苦笑する。
「墓石に掛けた瞬間に水が蒸発しても驚かないですよ」
そもそも汲んで来た水は、蛇口から滴り落ちたその瞬間から残念なくらいぬるかった。水というか、最早半ばお湯だった。それほどに暑いのだ。
“夏”という概念は年々上書き保存されていく。一昔前は気温が三十五度をこんなに気軽に超えることなどなかったように思ったが。
「おばあちゃん、水分補給こまめにしてね」
この中で最高齢、父方の祖母に香凛が声をかける。確かもう七十代後半、八十の方が近い年齢だったはずである。足を悪くしていた祖父の方は二年前に他界しており、香凛は気にかけ今まで以上にこまめに祖母に会いに行くようになっていた。
「こんなもんですかね」
「そうですね」
「線香は?」
「もう大丈夫よ」
互いに声を掛け合って、作業を終いにする。言葉少なに墓石の前に並び手を合わせて故人を偲ぶ。
今日まで、長かったようなあっという間だったような。
色んなことがあったが、子どもの成長はやはり早かった。毎年毎年ここに立つ度、何とか香凛を育てていること、そしてこれからも育てていくこと、その報告と決意を新たにした。実力不足を承知の上で自ら背負い込んだ責任だったから、亡くなった二人に恥じないように、中途半端なことにだけはならないようにと思い続けていた。
「…………」
香凛との関係を変えてしまってから、オレの中には常に後ろめたさがある。ただ、オレの言う後ろめたさは後悔とは違った。
こんな風になると思って香凛のことを引き取った訳じゃない。
ただ、もし二人が生きていたら、オレと香凛のことに何と言っただろうか。認められることだっただろうか。オレが香凛を受け入れたその判断を、非難したかもしれない。
そして今年は、更に複雑な心境だった。
オレと香凛の関係は、近く、また一つ変わる。
香凛を幸せにしたいという気持ちは、他の誰より香凛を幸せにできるという保障ではない。けれど、腹を決めたのだ。だからプロポーズもした。それはつまり、近しい人間に自分達の関係を打ち明けるタイミングが来たということだ。
さすがに黙って籍を入れる訳にはいかない。オレと香凛が未だに、そしてこれからも一つ屋根の下で暮らしていくその訳を、そろそろきちんと明かさなければならない。今ここにいる面子には、当然報告が必要だ。
「早いものねぇ」
しみじみと呟いたのは香凛の祖母。
「でも香凛がこんなに大きくなったことを思えば、それだけの年月が経ったってことなのよね……」
個人個人の胸の内は複雑なものだろう。
納得のいく最期ではなかった。不注意が引き起こした交通事故によって理不尽に奪われた命。二人の死を思った時、加害者の存在がどうしても頭を過る。そのことについては、皆平静を装う術を身に付けただけで、恐らく未だに乗り越えてはいない。
いつでも、一瞬で、心は二人を失った瞬間に引き摺り戻される。
大切な人を亡くすというのは、そういうことなのだ。
一生をかけて、失ったという事実と付き合っていく。
「でもこうやって香凛ちゃんがすくすくと育って今は立派に社会人をやってるってことは、二人にとっても私達にとっても喜ばしいことよ。悲しいことは沢山あったけど、それで全てが台無しになった訳じゃないって、それがよく分かる」
ちらりと香凛の方を見遣れば、ぎこちない笑みを浮かべていた。緊張と後ろめたさ、そして恐怖。それらを必死に抑え込んでいるのが手に取るように分かる。
今日、この後、オレ達は報告する。
プロポーズからは間もない日取りではあったが、ここを逃すと両家の親族が集まる機会はもうそうない。次のこの時期まで持ち越すには長いし、かと言って改めて集まってもらうのも気が引ける。このタイミングが最善だと判断した。
香凛だって、どこかで報告しなければならないことは分かっている。そして先延ばしにした方が罪悪感は増し、言い難くなっていくことも分かっている。
「……そろそろ行くか」
手早く片付けを済ませ、駐車場目指して移動を始める。この後はオレの実家で昼食を取ることになっている。
いつもは近くのちょっとした料亭に寄るのだが、今年は事前に根回しして実家で仕出しを頼む方向になった。
正直、話したら何がどうなるか分からない。ただ、恐らく外でするには不向きな話だとは分かっている。
本来ただただ喜ばしい報告なはずなのに、そうはならないだろうと心は予感している。
「……大丈夫だ」
強張った香凛の背をぽんと叩いて安心させようとそうは言ったが、自分の背にもべったりと汗が張り付いていた。
何も暑さのせいだけではない。
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