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第3.5話 間章

誰がなにを、分かっていなくとも【倉科店主・見上の邂逅】 その2

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 夕方十七時半。
 開店の時間である。


 看板と暖簾を出して、カウンターの内に戻る。
 まだ誰もいない店内にはゆったりとした空気が流れる。弱火にかけた鍋がコトコトと小さな音を立てていて、それを耳に入れていると気持ちが自然と寛いでいく。


 優しくて平和な音だ、と思う。


 けれど、不意に響いた引き戸がレールを滑る音に意識を引き戻された。


 早いな、このタイミングだと吉岡さんか……?


「いらっしゃいませ」


 そう当たりをつけながら、入り口に顔を向ける。


「見上さん、こんにちは」


 けれど、そこにいたのは予想とは全く違う人物だった。
 昼間、気まずい鉢合わせをした相手。
 ネイビーのブラウスに白のフレアスカート。いつの間にかすっかり社会人といった雰囲気を纏うようになった彼女が、仄かな笑みを浮かべて立っていた。


「お好きな席にどうぞ」


 何ならもう来店はないのではと思った矢先のことだったので一瞬虚を突かれたが、何とか顔には出さずに済んだと思う。
 言うと、彼女はカウンターの中央の席を迷わず選んだ。
 いつもの奥の衝立で隠れるテーブル席ではない。俺の、目の前。


 彼女が来た時、奥の席が空いていれば何となくそこへ案内することが多かった。
 幸いウチは楽しく食事を楽しんでくれるお客様がほとんどだが、それでもアルコールの提供がある店で、来店比率も圧倒的に男性が多く、女性のお客様を含みのある目で眺める人間がゼロという訳ではない。


 その昔、一度だけだが、とある男性客がやたらと香凛ちゃんを舐め回すように眺めていたことがあった。
 もちろん五条さんが目を光らせ、存分に牽制していたので何もなかったのだが、そういうこともあり、可能な限り他の席からは死角になっている奥の席に案内することが習慣となっていたのだ。


 今まで空いてる時でも”お好きな席へ”と言えば、彼女は奥の席を選んでいたのに。
 それは多分、慣れがさせる半ば無意識の選択で。


 でも、今日は。


 自分の真ん前に座った彼女を失礼にならない程度に眺める。
 昼間のあの強張った顔は引っ込んでいる。けれど、頑張ってはいるが、彼女がそれなりに緊張していることはこちらにも伝わってきていた。


「梅酒を、ソーダ割りでお願いします」



 何のために、ここに来たのか。
 食事を楽しむためではない。それくらいは分かっている。
 彼女は、大切なものを守りにきたのだ。



「梅酒、ソーダ割りだね。承りました」



 おしぼりとお冷やをお出しして、梅酒の瓶を棚から抜く。
 グラス、氷、炭酸水。


「お待たせしました」


 手早く用意して、突き出しと一緒にカウンターに並べると、彼女はメニュー表から顔を上げた。



「ーーーー見上さん」
「うん?」


 お冷やには口が付いていない。梅酒にも、手を伸ばさない。
 冷たい液体を流し込めば、一緒に言葉も飲み込んでしまうと言わんばかりに。
 きっと、喉は渇いているだろうに。



「私の名前、知ってます?」



 彼女は、唐突にそう訊いてきた。


「え?」
「フルネームで」


「……香凛ちゃんだよね? 五条香凛」


 それ以外の可能性があっても、自分には予想のつけようもない。なので、そう答える他ない。


「……昼間、会いましたよね。駅の、西側のロータリー出たところで」


 しかし答えたら、また話がいきなり飛んだ。


「…………そうだね」
「見ましたよね」
「五条さんと一緒だったね」


 いや、飛んではいないのかもしれない。
 きっと、繋がるのだ。


「私達、手を繋いでたでしょう? しかも恋人繋ぎ」


 触れずにいたところに、彼女は自らどんどん切り込んでいく。
 こちらには流してなかったことにする準備はあったのだが、それでは不安なのだろう。


 彼女にこちらの意図は見えないだろうから。
 そして、手放しで信用できるほどの関係が俺と彼女の間にはないから。


 俺が黙っている保証や確信など、彼女は持ちようがない。


「びっくりしましたよね。ご近所付き合いがほぼないからって、生活圏内なのにちょっと油断し過ぎだったなって反省してるんですけど」



 何かを守りたいという気持ちはよく分かる。



 自分の大切なものを、守りたい。
 それが他から見て正しかろうとそうでなかろうが。


 そのためなら、自分にできる全てをするのだ。
 彼女は今、それを実行している。


「見上さん、あのね、私そもそも五条香凛じゃないんですよ」
「…………」


 香凛ちゃんが背筋をすっと伸ばして、


「私の苗字、宮木、宮木香凛って言うんです」


 単語の一つ一つを区切るように、はっきりと。


「生まれた時からずっとです」

 そう告白した。


「じゃあ、五条さんは」
「……親代わりの人でした。血縁はないけど、本当に私にとっては親で、でもーーーー」


 でも、今の彼らの関係性は親子では括れない。
 それは目撃してしまったので、もう分かってる。


「気持ち悪いって、どうかしてるって思われても仕方ないと思います。それが、他人から見たら普通なんだろうなって思います。見上さんが私のことを、私達のことをどう思ったとしても、それをどうこうすることは私にはできない。気持ちはどうしようもないって、分かってます」



 けれど、今日、店が開いて一番に彼女はやって来た。
 他のお客さんがいない時間を狙って。
 誰よりも早く、自分に接触してきた。



「一人一人に説明して回って、理由を説いて、分かってもらおうなんて馬鹿馬鹿しいとも思ってます。馬鹿馬鹿しいし、多分傲慢なことだなって。誠意を尽くせば理解を得られると思っている訳ではないんです」


 理解できない、受け入れられないことが、人にはそれぞれある。あっても別に良いだろう。大切なのは、互いを圧迫しないで済むだけの距離感だ。必ずしも相互理解がほしいんじゃない。そう思う。


 どうかしてるって思われてもいいんです、と彼女はもう一度繰り返した。


「でも、一つだけお願いです」

 下げられた頭の前で、待ちぼうけを食らわされているグラスから水滴が滑り落ちる。


「今日見たこと、言わないでください。誰にも、言わないでいてください。人の口には戸は立てられないって分かってます。私達のこと、不快だって感じられるようだったら、お店には二度とお邪魔しません。だから」


 眉をひそめる人も多いだろう。話だけを聞けばきっと多くの人がそうなる。邪推はいくらでも重ねられる。
 実際自分にも仔細は分かっていなくて、彼らの馴れ初めについてしようと思えばいくらでも品のない想像ができる。
 一体何がどうなればあの”親子”が”恋人同士”にシフトチェンジするのだろう、どうしてわざわざイバラの道に踏み入るのだろうと、そう思わなくはない。
 他の選択肢などいくらでもありそうなものを、と。



 けれど彼女は選ぶのだ。そして、彼も選ぶのだ。
 沢山のことを足し引きして、それでもなお、二人手を取るその形が、二人にとって一番の幸福だから。




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