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第3話 2人はやっぱり分かってない

2人は分かってない【香凛社会人編】 その29

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「あの、何でこんなとこに……?」


 よそ行きの格好をするように、と家を出る前から言われていた。
 ふーん、なるほど、ちょっと小洒落たレストランにでも連れて行ってもらえるのだろうか、とそういう風に思ったのだ。


「こ、高級ホテルなんですけど」
 でも、お昼休みに送られて来たURLの場所は、誰もが名前を聞いたことのある有名ホテルだったのだ。
 こんなところ、大学時代の先輩のお式に呼ばれた時以来、足を踏み入れたことがない。
「え、待って、どういうこと?」
 ロビーで先に待っていた、スーツをビシッと着こなしたその人に、戸惑いの声を向ける。


 あ、駄目。おかしいな。
 毎日見慣れてる姿のはずなのに、背景が力を持っているのかいつも以上にスーツの破壊力が上がっている。


「誕生日のお祝いを、まともにしてなかっただろ」
 エレベーターに乗り込んで押された階のボタンを見ると、何やら横文字の難しい店名が書かれている。カタカナも振られてるけど、意味はさっぱりだ。
「いや、したよ? ご飯もケーキもプレゼントも貰ったよね?」
「リクエストも聞かず、閉店間際のデパ地下で目についたものを選んだだけだったし、ケーキはカットケーキだったし」
「そ、そもそも二人でホールはキツイし」
 プレゼントは香水を貰った。そう言えば珍しく今年はリクエスト制ではなかった。


 完全に自分の趣味で選んでしまったと言われたそれは、つまり要するに征哉さん好みの匂いってことで、それを身に纏えば漏れなくいい匂いだと思ってもらえるんだ、と私が一人にまにましたのは内緒の話だ。因みに今日も付けている。


「いきなり、どうしたの」
「……やっぱりちゃんと聞いてなかったな?」
 小さな苦笑。拭い上げるように指で頬に触れられる。
「まぁ、それどころじゃなかったんだろうが。前々から話してたぞ」
 そう言われたけど、さっぱり記憶にない。
 確かに一時期四六時中上の空で、まともに話を聞いてなかった時期があったようにも思う。


「いらっしゃいませ」
「十九時から予約していた五条ですが」
 到着したのは、フランス料理のお店のようだった。
 絶対にメニューを見ても解読できないのだ、と瞬時に悟る。あとテーブルマナーが恐ろし過ぎる。
「そんな緊張しなくても、誰もいちいちチェックしてない」
 そう言われたけど、そう簡単に緊張は解れなかった。


 窓際の席に通される。
 全面ガラス張りで、見事なグラデーションを湛えた空に、あちこちで灯り出したネオンが幻想的に浮き上がる。特別夜景にこだわりがある訳ではないけれど、思わず見惚れてしまう景色だった。


「ちょっと贅沢が過ぎない?」
「たまにはいいだろ」
 順に運ばれてくるコース料理のお味に感動しながらも恐る恐る言えば、さらりとそう返されてしまう。


 雰囲気に緊張はしていたし、ちょっと状況を呑み込みきれずにはいたけれど、奥底のところで心は平らかだった。
 この間まで自分を支配していた不安や恐怖は、ほとんどその姿を消している。


 例の問題に対して方針が決まった後、けれど状況が整うまでは駄目だと言われ、結局私は週が明けても二日ほど有休を使って会社を休んだ。週末の顔色の悪さを知っている人もいた訳だから、私の体調不良はすんなりと受け止められたようだった。
 水曜日、出社すれば顔を合わせることになると思うと気は重くて重くて仕方がなかったけど、覚悟を決めて家を出た。退社時間まで緊張は続いたけれど相手からの干渉はなく、それどころかその週のうちに、相手は会社に来なくなった。


 先輩に聞いた話によると、実家の事業の一端を継ぐことになったから、退職するらしい、今はもう有休消化に入っているとのことだった。
 それはどう考えても、私の巻き込まれた一件に端を発していた。


 弁護士に依頼した件は裁判にまでは発展しなかった。要するに、和解と調停というやつだ。それをきっかけに長男の側が圧力をかけたらしい。
 会社に関する利権を全て取り上げられたくなければ、大人しくしろ、これ以上問題を起こすなと。
 これには高山も血相を変えたという。
 聞けば住んでいたマンションも親の持ち物だったらしく、利権を全て取り上げられるというのは、モロに生活に打撃が出るレベルのことだったようなのだ。


 事業の一端を継ぐというのは丸きり嘘ではないけれど、要するにそれは長男の監視下に置かれるということらしい。それなりのポストは与えて、体面は保てるようにしているらしいけれど、もう今までのように好き勝手はできない。


「あ、この味すごく好き」
「それは良かった」
 最後に運ばれて来たスイーツにはチョコレートのプレートが乗っていて、"HAPPY BIRTHDAY"と私を祝ってくれていた。


 ご飯がおいしい。
 小さな一つ一つに、嬉しいと微笑むことができる。
 私の向かいに要る人も、同じように微笑んでいる。


 運が良かった。本当に、そういうことだと思う。
 今ここにある私の大切なものが守られたのは、周りの皆の努力・協力があったのはもちろんだけれど、でも、運に支えられた部分も大きいと思う。


 スピーディにスマートに、相手側の人間とコンタクトを取れたこと。
 同じように高山を疎ましく思う部分があったこと。
 相手が強硬手段を取らなかったこと。


 どれか一つでも欠けていたら、こんなにすんなりと事は進まなかったはずだ。
 今だってまだ完全に安心できた訳じゃない。逆恨みされている可能性は十二分にあるだろうし、想像した最悪の事態がもう絶対起きないとは言い切れない。
 でも、幸運なこと事態は丸く収まる方向へ向かっている。事後処理は、まだまだ細々と残っているけれど。


「既にもう酔ってるな?」
 存分にお酒と料理を堪能して、お店を出る頃には少しいい気分になっていた。
「すごく美味しいワインだった」
「うん、香凛にしてはするする飲んでたな」
「飲みやすい味だったよ」
「上の階のバーでもと思ったが、やめておいた方が良さそうだな」
「そんな酔って見える?」
「今はそうでもないが、次に一杯飲んだら怪しい」
 私よりも私を把握している。
 でもその把握されてる感、嫌いじゃない。
 ふわふわした心地でそんなことを思っていたら、長い指が押したボタンに違和感を覚える。
「え、なんで?」
 思ってたボタンじゃない。
「ロビー階じゃないの」
 そうは見えないけど、実は征哉さんの方が酔ってるんじゃ。
「言っておくが、こっちは全然酔ってないからな」
 見透かされているらしく、そう言われてしまい、つまりじゃあと次の可能性に思い当たる。
「まさか、部屋――――」
「取ってるな」
「えぇ、待って? どういうこと?」


 誕生日のお祝いにしても過ぎている気がする。
 今日って他に何か記念日だったっけ? と考えてみるけど、これと言って思い当たらない。
 あれだろうか。最近ごたごたして、私が相当ダメージを受けたと思ってくれてるから、その分の甘やかし? 甘やかし過ぎじゃない?


 あれよあれよという間に通された部屋にはでんとダブルベッドがおわしまし、近寄った窓からは大都会の景色がどこまでも広がっていた。日もすっかり暮れ、その分ネオンのきらめきが一層際立つ。


「今日ってホントに何の日なの」
「理由を欲しがるなぁ」


 だって理由もなくするようなことじゃない気がする。
 でもあんまり贅沢だ贅沢だと言い立てても、所帯じみていて小うるさくて、相手の気持ちに水を差してしまうような気もして、それ以上は何とも言い難くなってしまう。
 せっかくのもてなしだ。私も可愛げのないことをあれこれ言いたい訳じゃないし。
 よく分からないけど、素直に喜んでしまえばいいのかもしれない。


 眼下に広がる景色を眺めていたら、背広を脱いだ征哉さんが後ろから同じようにして窓の外を眺めに来た。
「…………」
 少しの間同じように景色を眺めてみた後、思い切ってえいと背中を預けてみる。
 予期していたのか、少しも不自然さを感じさせない様子でそのまま後ろから抱き締められた。
 そっと相手を見上げれば、少し躊躇いがちに頭が降りて来て、唇が重ねられる。
「ん」
 唇をそっと吸われる感覚。
 催促されているように感じて、薄く開けば、割入って来た舌が優しく口腔を撫で上げていく。
 しばらくそうやって唇を重ねていたけれど、何故かやたらと優しいキスが降るばかりで、それ以上には何もない。
「……?」
 不思議に思って思わず目を開けると、それに気付いた相手が、
「嫌じゃないか」
 と訊いてきた。
「どうして」
 反射的にそう返して、でもすぐに気付く。


 触れられることに、男に触れられることに忌避感はないか。
 それが恋人である自分であっても、拒絶を覚えることはないか。


 私の身に起きたことを、征哉さんは知っている。それでなくとも、一度手を振り払ってしまっている。
 随分心配させてしまって、あれ以来スケジュールをやりくりして極力傍にいてくれた。
 でもそう言えば、どれだけ傍にいてくれても、そういう意味で触れられることはなかった。
 それは私を慮ってのこと。


「嫌な訳ない。むしろあんまりスキンシップがなくて、寂しいなって思ってたくらいだもん」
「そうか、それは悪かった」
 苦笑と共にまたキスが落ちて来て、それは先ほどよりぐっと熱を帯びたものだった。
 脇腹を撫で擦られると、少しのくすぐったさの合間から徐々に官能が引き出されていく。


 それは、本当に夢みたいな扱いだった。いつもと全然違った。
 心地良く、それでいて酩酊感のある愛撫にくらりとくれば、抱き上げられて優しくベッドに押し倒される。
 重なり合った片手は互いの指をがっちり握り合っていて、繋ぎ止められている感じがしてすごくすごく胸がぎゅっとなる。


「ゆきや、さ」
 首筋に顔を埋められたと思ったら、すんと鼻を鳴らす気配がした。次の瞬間上げられた顔には、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「んんっ」
 首筋を撫で上げられる。
 そこに忍ばせた香りを、指摘するように。


 そう、それはあなたの香り。あなたにだけ伝わる、特別な徴。


 触れる手は、与えられる熱は全て私に快感をもたらすためだけにあり、性急なことは何もしない。欲しい刺激を、的確にもらえる。けれど、そこには私に快感の余韻を味わう余裕が残されている。
 激しく責め立てられて、前後不覚に溺れるようなものとは全然違った。
「あ、ん、そこ……」
「香凛は、ここが好きだろ?」
「あ、好きぃ」
 内側へ押し入ってくる時でさえゆったりとこちらの負担を気遣うような様子で、そして私のイイところを的確に、堪らないストロークで突いてくる。
 物足りないということは決してない。
 息継ぎの間が与えられていると言えば、分かりやすいだろうか。
 気持ち良くて気持ち良くて堪らない。感じている自分を、存分に体感できている。



 お姫様扱いだ、と思った。
 騎士に傅かれている、お姫様。



「っ、ぁは」
「どうして欲しい」
 私が一番。
 自分の快楽を二の次にして、私が一番気持ち良くなれるように触れてくれている。
「こっちも、触って……」
 あられもないお願いをしたら、すぐに叶えられた。
「っぁ……!」
 ぬるいついた花芽をきゅっと摘ままれてころころと指先で転がされれば、気持ちイイ以外は何も考えられなくなってくる。


 嬉しい、もっと、大好き、幸せ。
 大切にされている感覚が、多幸感を更に煽っていく。
 いつもの、全身で欲しいと訴えるような激しい抱き方をされるのも好きだ。体力は要るけれど、求められることは嫌いじゃない。愛されてるんだって、そう思う。
 でも、こうしてゆっくりと愛されることも、私に確かな幸福を教える。
「香凛、香凛」
「ゆ、きやさん」
 こんな状況でも、うっかり“パパ”と呼ぶこともなくなった。
 それだけの時間が、確実に私達の中で過ぎたのだ。


 このまま、ずっとずっと一緒にいたい。
 当たり前に、隣で年を取っていきたい。


「ん、あ、イ、――――っ!」
 高みに放り投げられながらも、心の底からそう願った。




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