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10.きっといつになっても
しおりを挟む「ん……」
意識がゆっくりと浮上していく。薄く瞼を持ち上げると、夫の顔がすぐそこにある。
首元をさらりと撫でる布の感覚。夜着のリボンが彼の手によって結ばれている。
身体は怠く重かったが、肌はさっぱりとしていた。情事の後、清めてくれたのだろう。夜着を着せ直すそのちょっとした振動で、リズベルの意識は覚醒したようだった。
「そのまま眠っていていいですよ」
そう言われるが、一度上がった意識はそう簡単に沈みそうにない。
エヴァンはリズベルの衣服を整えると、当然のように隣に潜り込んで来た。彼女のための私室から、今宵は出て行く気がないらしい。
後ろから抱き寄せられて煩わしいなと思ったが、身体が重くて振り払うのも億劫だった。
しばらくの間お互い無言を通していたが、居心地が悪くリズベルが何度もエヴァンの腕の中でもぞもぞしていると、やがて彼の方から口を開いた。
「色々考えたのですが」
「……?」
「嫌なら社交界に出なくていいと言いましたが、それでは貴女の名誉は回復されませんよね」
名誉。
聞き間違いかと思った。
リズベルの名誉。笑ってしまう、そんなものはどこにもない。
「回復する余地はありません。冤罪ではなく事実なんだから」
「けれど王太子とその妻は同罪、共犯者ではないですか。彼らはのうのうとしている。この状態、貴女は加害者だが、同時に被害者でもある」
「腹が立たないとは言わないわ。けれど今更、国の権力者相手にどうしろと? 相当上手く立ち回らなければ、王家の怒りを買って痛い目を見るだけ。私もさすがに命は惜しい」
結局、リズベルは貴族ではあっても一人の人間として見た時にはただの小娘なのだ。できることなど知れていて、本気で何かをしようと思ったら自分の命を担保に分の悪い賭けに出ることになる。そこまでの気概はとてもない。
なのに。
「殺しますか、滅ぼしますか、貴女のための玉座を用意しましょうか」
耳許でとんでもない提案が列挙された。
「――――どうかしているわ」
貴族界できっての人気を誇る騎士様には到底似つかわしくない言葉だと思った。
「そうですね。貴女より、オレの方がよっぽどどうかしている。貴女はいつだって真面目で、まともで、濁りを知っているからこそ美しい」
もし、これが演技でないのだとして。
リズベルは背後に寄り添う男のことを考える。
真実エヴァンがリズベルに心酔していたとしたら。それ故目が曇りとんでもなく物騒なことを言い出しているのだとしたら。
王家の信頼厚い有望な男をこうも誑かし堕落させて、自分はとんだ悪女だなと思わなくもない。まぁエヴァンを駄目にしたところで、リズベルは愉しくも何ともないのだけれど。
「だからね、貴女がご自身を律していらっしゃる分はオレもそれに沿って生きようとしているのですよ。その心に染まぬことはしたくないのです」
優しく、男は問いかけてくる。
「復讐が必要ですか。安穏が必要ですか」
「……復讐は、私だけのもの。他の誰にも取り扱えない」
少しの沈黙の後、リズベルはそう答えた。
もし、復讐が必要だと思うような時が来たら。
きっと誰にも手出しはされたくないだろう。
「そうですか、では」
オレが差し出せるのは安らかな日々の方ですね、とエヴァンは言った。
大きな手が、リズベルの手の甲を包み込む。その手は意外にゴツゴツとしていて、指には硬い剣ダコなどがあったりする。鍛錬を知っている手だった。そしてその手でリズベルの指をなぞりながら、あやすように淀みなく、まるで子守歌のようにエヴァンは謳った。
「リズベル、明日には仕立て屋に作らせていた春のドレスが届きます」
「湖水地方では雪根の花が咲き始めているようです」
「あちらに建てた屋敷に参りましょう」
「湖のほとりで食事にするのも良いですね」
「貴女の好きなラズベリーパイを料理長に頼んでおきます」
「作家のエリーナ・アレットの最新作も取り寄せていますからね、ゆっくりと読書をするのも良いでしょう」
「そうそう、実はあの屋敷に新しくリーディングヌックを作らせたのです」
「貴女は存外狭い空間がお好きだ。猫のように丸くなって窓辺から外の景色を眺めている貴女を見るのがオレは好きです」
「夜は一緒に寝ましょうね。あちらも日が落ちてからは冷えますから、二人一緒に温め合わなくては」
「添い寝でも、そうでなくもっと激しく熱を分け合う方法でも」
「貴女のしたいことを全てして差し上げます」
「ね、週末には発てるように手筈を整えますから」
あぁ、気持ち悪い。
リズベルはぎゅうっとその瞳を閉じる。
来週にはきっとその通り、リズベルは湖水地方の屋敷にいる。そこで今並べ立てられたぬるま湯に浸けられたような優しく穏やかな生活を与えられている。
「貴方は私に理想を見すぎよ、神聖化しすぎなのだわ、本当はドロドロに汚れているのに。曇った瞳は現実を映せない」
自分が何を欲しているのか、リズベルには分からなかった。
辛い思いや惨めな思いをしたい訳ではない。他者に対して今特別加害の気持ちが強い訳でもない。けれど数年前の呑気で穏やかな日々にも、心は惹かれない。
何を手に取っても、しっくり来ないのだ。だから差し出される全てに対し手を払ってしまう。
ふふっと小さく笑う気配がした。
「いいではないですか、貴女がドロドロでもオレは一向に構いません。むしろ、少し安心するかもしれない」
先ほど、どうかしていると言った。男もそれを認めた。
そうだ、本当にどうかしているのだろうとリズベルは思う。でなければおかしい。
「ご存じないのですか、貴女のそのドロドロしたものを、オレは気にせず素手で触れるし、啜り上げることだってできるのです。ね、オレの“愛している”とはそういう意味です、美しくて、清らかで、懸命で、卑屈で、惨めでいじらしくて張り裂けそうなところまで全部」
数多の女性の甘い視線を受ける“理想の騎士”様はリズベルに心を狂わされて、その価値基準を滅茶苦茶にしてしまったのだ。
「全部をひっくるめて、今ここに存在しているリズベル・レインズワースその人を愛しているのです」
嘘であっても、本当であっても。
まるで無条件であるかのように自分という存在を受け止められてしまうのは、本当に本当に恐ろしいことだ。
「いつになったら信じられます?」
返事の代わりに、リズベルは硬く瞼を閉じる。
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