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8.怪物
しおりを挟む「では社交界に戻る必要はありません」
「は?」
聞き違いかと思い、リズベルは一応は夫である男を見上げる。
「貴女がお付き合いされたい方とのみ、細々と交流を続ければ宜しい。無理強いは致しません。見たくないものは見なければ良いのです。煩わしい物は全て放っておくのが良い」
「本気で仰ってる? パートナーも連れずに、貴方一人で公の場に出ると?」
「貴女が悪女だと言うのなら、オレのことなど気にする必要はない」
「それは……」
言われてみれば。
「確かに」
そうは思う。
しかしそれではあまりに自分に都合が良すぎるとも思った。
けれども彼自身もリズベルなどを連れて歩き回りたくない、他に愛人やら狙っているご婦人がいて、リズベルがいない方が好都合という事情があるのかもしれない。それならば納得できる。いや、納得できるだろうか。
押し付けられた結婚ではない。彼が望んだ結婚だった。意中の相手がいるなら、リズベルは端から必要ない。それとも既婚の身になることで、油断を誘えたりカモフラージュができたりしているのか。
考えを巡らせても、何も分からない。何故ならリズベルはこの夫のことを通り一辺倒のことしか知らないのだから。
交友関係も好みも、幼少の頃のことも何も知らない。知ろうとも、知りたいとも思わなかった。
「でもやはり違うな。リズベル、貴女は良心の呵責ではないと言う。そういう言葉はしっくりこないのでしょう。でも、そう、違う言葉を当てはめるなら」
貴女は恐れて、怯えているのです、とエヴァンは言った。
「人は心に誰しも怪物を飼っています。どんなに善良に見える人間の心にも、必ず」
ドキリとする。それは今日、リズベルも抱いた考えだったから。
「それは時に目を覚まし、普段からは想像もつかない振る舞いを表に出し、人間と言う生き物の醜さを容赦なく教えます。怪物をさほど目覚めさせずに済む人生、自覚せずに済む人生、存分に使いこなす人生。人の数だけ色々とあるでしょう。貴女は、貴女の中に潜む怪物の扱いがあまりお上手ではないようだ」
「何を、訳の分からない、勝手な解釈を」
怖いと思う。自分の中にいるだろう怪物よりも前に、目の前のこの夫が。
彼はいつでもリズベルを正当化しようとする。言葉を魔法のように操って。
「無理に悪女らしく振舞うのはおやめなさい。あなたのソレはどこかちぐはぐで、ボロだらけです」
「なんですって、んっ!」
不意に唇が温かいもので塞がれた。口付けをされていると一拍遅れて気付く。
「ん、んっ、っぁ!」
優しく食むように、包み込むように、柔らかな口付けを繰り返される。ペロリと割れ目を舐め上げられれば思わず反射で口を開きそうになったが、すんでのところでリズベルはそれを耐えた。
「犯した過ちが恐ろしいのなら、目を背ければいい。貴女は既に罰を言い渡されている身で、これ以上何を払う必要もない。けれど愛し愛され、幸せになることに違和感があるのならば、そうですね、ではそれをひとつの罰と、試練と捉えては? 思うのですが、修道院の門を潜って神に仕える選択はある意味逃げで、怠惰です」
「逃げ……」
言われて、バツの悪さがあった。確かに分かりやすい手段であるが故に、安易だと捉えることもできる。
「オレは貴女をお慕いしています。愛しているのですよ、もうずっとね。存分に愛され、甘やかされてください。幸せになりたくないのに、愛など信じたくないのに、誰かに心など預けたくないのに。なのに貴女はきっとそうなってしまう」
身体を抱き上げられる。寝台まで運ばれ、そっと横たえられる。
美しい笑みを湛えて、彼は言った。
「幸せにして差し上げます。存分に溺れてください。そして時折貴女は自分が幸せだということに気付いて、けれど自分が過去に仕出かしたことを思い出して、その乖離に恐怖する。どうです? 俗世にいる方が誘惑は多いのです。そういう場で耐えることの方にこそ、凪いだ平穏で祈りを重ねるより苦難が多く悪女たる貴女のツケとしては見合うのでは?」
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