愛の輪廻と呪いの成就

今井杏美

文字の大きさ
上 下
43 / 62
第二章

梅の実

しおりを挟む

 ロータスと別れた後のランス伯爵の馬車の中は静かでピンと張りつめている。
 クリーヴはその静けさがちょうどいいらしくすやすや眠っている。
 クリビアの前に座っているランス伯爵は、アスター王子やあんな素晴らしい男でさえ振るのだから自分など到底相手にされないだろうとため息にならないため息を吐いていた。

 その時馬車がガタンと大きく揺れ、伯爵のずだ袋の中身が落ちて足元にコロコロ散らばった。

 クリビアが足元まで転がってきたそれを拾い上げようと体を下に向け手を伸ばした時、一滴の涙が足元にポタッと落ちた。
 それを機に立て続けにポタポタと落ちる。

(ああ馬鹿! 今更どうして涙が出るのよ。彼との別れはずっと前から決めていたじゃない! 彼が余りにもクリーヴを愛おしそうに見たから心が弱くなっているんだわ)

 そんな場面を見られたくない彼女は上体を上げることができずにいる。

 ランス伯爵とメイドは涙に気付いたがそのまま動かない彼女をそっと見守ることにした。

 クリビアは何度も瞬きを繰り返して暫くその姿勢でいたが、体を上げた時は瞳から涙は消えていた。

「……はい、どうぞ」
「ああ、拾ってくれてありがとう」

 クリビアの声は少し鼻にかかっているが、どこか吹っ切れたようなその顔を見てランス伯爵は自分の気持ちも落ち着くのを感じた。
 そしてクリビアは、ランス伯爵の包み込むような静かな微笑みが不思議と心の奥深くに入り込み、妙に心が温かくなるのを感じた。


「これ……」
「これはシルエラって言ってね、大陸の東の国に生っている果実だよ」

 ずだ袋から落ちたのは薄緑色の丸い果実のようなものだ。

(これは梅だわ。前世の日本で私の祖母が梅干を作っていたもの。この世界ではシルエラって言うのね)

 メイドは全く知らないようで、興味深げにしげしげと眺めている。

「どんな味がするんですか?」
「このままでは食べられないんだ。追熟させて、黄色くなったら食べられるんだよ」
「青いのはまだ毒素があるんですよね」
「……」
「クリビア様は食べたことがあるんですか?」
「ええ、昔」
「……あの……クリビアさん、後でお話があるのですがよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「ここではちょっと。都合のいい時で構わないので時間を作っていただけたら」
「でしたら明日でも構わないですよ」

 彼はこの前ガルシアに行った時、知り合いになった東の国の薬売りから東の国で栽培されていて様々な薬効があるというシルエラを見せてもらった。
 その者によると、これは国王が今まで輸出禁止にしていてその存在も知られないようにしていたのだが、ここ数年の各国の盛んな交流と貿易などの拡大を鑑みて数か月前にようやく自分含めた特定の薬売りにだけその販売許可を出したと言う。

 前世の記憶がある彼はシルエラを見てこれは青梅ではないか? と思った。
 食べ方を聞くと、やはり梅干なのだ。
 そのほか、梅ジャムや黒焼きの作り方も教えてもらった。

 そして、市場に出たら医師である自分に先だって売ってくれると言うので、彼がタンスクに来るという連絡を受けて今日はそこに行って買って来た帰りなのだ。

 それを彼女が昔食べたというのが勘違いでないのなら彼女はこの世界の記憶以外にももう一つ記憶があるとしか思えない。
 自分がそうであるように。
 そうであってほしい。
 そして自分と同じ世界の前世の記憶を語り合えたらどれだけ素晴らしいだろうか。
 そう思ったランス伯爵は期待で胸がいっぱいになった。


 翌日、彼は公爵邸にやってきた。

 いつものシャツだけというラフな格好とは違い、髭を剃って伯爵然とした立派な黒いフロックコートを着ているのでなかなかの見た目だ。

 クリビアの出産後、彼は診察に来るたびにメイドたちに陰でキャーキャー言われていたが、本人は自分の事をイケメンとは全く思っていないためそんな風に思われていることなど全く気付いていない。

 クリビアも心なしか身なりに気合が入る。
 メイドに頼んで髪をハーフアップにセットしてもらい、何度も鏡を見てやっと客間に下りて行った。

 が、階段を下りている時ふと笑いが込み上げてきた。

(私の無様な姿を沢山見ている彼に今更何の気を遣う必要があるのかしら。私ったらバカみたいね)



 彼女の中でランス伯爵に対する気持ちに変化が起こっていた。





しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

犠牲の恋

詩織
恋愛
私を大事にすると言ってくれた人は…、ずっと信じて待ってたのに… しかも私は悪女と噂されるように…

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

溺愛されていると信じておりました──が。もう、どうでもいいです。

ふまさ
恋愛
 いつものように屋敷まで迎えにきてくれた、幼馴染みであり、婚約者でもある伯爵令息──ミックに、フィオナが微笑む。 「おはよう、ミック。毎朝迎えに来なくても、学園ですぐに会えるのに」 「駄目だよ。もし学園に向かう途中できみに何かあったら、ぼくは悔やんでも悔やみきれない。傍にいれば、いつでも守ってあげられるからね」  ミックがフィオナを抱き締める。それはそれは、愛おしそうに。その様子に、フィオナの両親が見守るように穏やかに笑う。  ──対して。  傍に控える使用人たちに、笑顔はなかった。

処理中です...