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第二章
梅の実
しおりを挟むロータスと別れた後のランス伯爵の馬車の中は静かでピンと張りつめている。
クリーヴはその静けさがちょうどいいらしくすやすや眠っている。
クリビアの前に座っているランス伯爵は、アスター王子やあんな素晴らしい男でさえ振るのだから自分など到底相手にされないだろうとため息にならないため息を吐いていた。
その時馬車がガタンと大きく揺れ、伯爵のずだ袋の中身が落ちて足元にコロコロ散らばった。
クリビアが足元まで転がってきたそれを拾い上げようと体を下に向け手を伸ばした時、一滴の涙が足元にポタッと落ちた。
それを機に立て続けにポタポタと落ちる。
(ああ馬鹿! 今更どうして涙が出るのよ。彼との別れはずっと前から決めていたじゃない! 彼が余りにもクリーヴを愛おしそうに見たから心が弱くなっているんだわ)
そんな場面を見られたくない彼女は上体を上げることができずにいる。
ランス伯爵とメイドは涙に気付いたがそのまま動かない彼女をそっと見守ることにした。
クリビアは何度も瞬きを繰り返して暫くその姿勢でいたが、体を上げた時は瞳から涙は消えていた。
「……はい、どうぞ」
「ああ、拾ってくれてありがとう」
クリビアの声は少し鼻にかかっているが、どこか吹っ切れたようなその顔を見てランス伯爵は自分の気持ちも落ち着くのを感じた。
そしてクリビアは、ランス伯爵の包み込むような静かな微笑みが不思議と心の奥深くに入り込み、妙に心が温かくなるのを感じた。
「これ……」
「これはシルエラって言ってね、大陸の東の国に生っている果実だよ」
ずだ袋から落ちたのは薄緑色の丸い果実のようなものだ。
(これは梅だわ。前世の日本で私の祖母が梅干を作っていたもの。この世界ではシルエラって言うのね)
メイドは全く知らないようで、興味深げにしげしげと眺めている。
「どんな味がするんですか?」
「このままでは食べられないんだ。追熟させて、黄色くなったら食べられるんだよ」
「青いのはまだ毒素があるんですよね」
「……」
「クリビア様は食べたことがあるんですか?」
「ええ、昔」
「……あの……クリビアさん、後でお話があるのですがよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「ここではちょっと。都合のいい時で構わないので時間を作っていただけたら」
「でしたら明日でも構わないですよ」
彼はこの前ガルシアに行った時、知り合いになった東の国の薬売りから東の国で栽培されていて様々な薬効があるというシルエラを見せてもらった。
その者によると、これは国王が今まで輸出禁止にしていてその存在も知られないようにしていたのだが、ここ数年の各国の盛んな交流と貿易などの拡大を鑑みて数か月前にようやく自分含めた特定の薬売りにだけその販売許可を出したと言う。
前世の記憶がある彼はシルエラを見てこれは青梅ではないか? と思った。
食べ方を聞くと、やはり梅干なのだ。
そのほか、梅ジャムや黒焼きの作り方も教えてもらった。
そして、市場に出たら医師である自分に先だって売ってくれると言うので、彼がタンスクに来るという連絡を受けて今日はそこに行って買って来た帰りなのだ。
それを彼女が昔食べたというのが勘違いでないのなら彼女はこの世界の記憶以外にももう一つ記憶があるとしか思えない。
自分がそうであるように。
そうであってほしい。
そして自分と同じ世界の前世の記憶を語り合えたらどれだけ素晴らしいだろうか。
そう思ったランス伯爵は期待で胸がいっぱいになった。
翌日、彼は公爵邸にやってきた。
いつものシャツだけというラフな格好とは違い、髭を剃って伯爵然とした立派な黒いフロックコートを着ているのでなかなかの見た目だ。
クリビアの出産後、彼は診察に来るたびにメイドたちに陰でキャーキャー言われていたが、本人は自分の事をイケメンとは全く思っていないためそんな風に思われていることなど全く気付いていない。
クリビアも心なしか身なりに気合が入る。
メイドに頼んで髪をハーフアップにセットしてもらい、何度も鏡を見てやっと客間に下りて行った。
が、階段を下りている時ふと笑いが込み上げてきた。
(私の無様な姿を沢山見ている彼に今更何の気を遣う必要があるのかしら。私ったらバカみたいね)
彼女の中でランス伯爵に対する気持ちに変化が起こっていた。
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