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少し近づきかけた心の距離また離れたように感じられて、リーヌスは俯いた。煮え沸るようだった腹の熱が、徐々に萎れていく。居た堪れないほど情けなかった。羞恥心で頬だけが熱かった。
「ごめんなさい。そんなことは考えてなくて、あんまり気持ちがよかったから、僕……」
正直な弁明をする途中で、リーヌスは自らの言葉に気づいてぱっと口を手で覆った。暗闇が顔を隠してくれなければ、きっと逃げ出していただろう。顔が真っ赤になっているのがわかる。
テオフィルが静かに問いかける。
「中に出されて、もっと気持ちよくなりたかったか?」
「っ……や、やめて、言わないで……」
「煽るようなことを言うな」
顔を寄せて囁かれ、ぞくりと背筋が震えた。後ろに下がったリーヌスを、テオフィルが低い声で追い詰める。
「そうやって恥じらってみせるのも策略のうちか?」
「違う……」
すぐ近く、ほのかに瞳の艶が窺えた。見られていることを意識して、体が硬くなる。式のときに触れ合った唇の感触を、リーヌスはどうしてか今、思い出した。
どれほどのあいだ無言で見つめあっていたのかはわからないが、テオフィルがくつくつと笑って顔を離したことで沈黙は破られた。リーヌスは拍子抜けして、呆然と目を瞬かせた。
「もう寝ろ。夜も更けた」
揶揄われたのだとリーヌスが気づいたときには、テオフィルはもう寝台に体を横たえていた。暖炉の火のはぜる音はもうほとんど聞こえない。脈打つ自分の心臓の音だけがうるさく感じられた。
リーヌスはテオフィルの隣に寝転がる。そして掛け布を引っ張り上げ、ふたりの体を覆うと、いまだ微かに熱の残る頬を押さえて瞼を閉じた。
目覚めたときには、もう寝台にテオフィルの姿はなかった。温もりさえ残っていないから、きっと隣が不在になったのはかなり前のことなのだろう。
指の先でうなじを撫でると肌に微かなへこみがあった。溺れるような初夜の置き土産は、確かにリーヌスの首に刻み付けられていた。
紗幕をかき分けて寝台から這い出す。
床に取り落としていた首輪が目に入った。リーヌスは鍵の刺さったままのそれを拾い上げ、自室の鏡台の引き出しにそっとしまい込んだ。
小さな鐘を鳴らして使用人を呼び、朝の支度をする間、リーヌスはテオフィルの言葉について考えていた。
子供を産ませるつもりはないとテオフィルは言った。まだ生まれているわけでもない以上、我が子に爵位を渡してやりたいという思いはない。慣わしの通りテオフィルが婿養子として後継を継ぐべきだろう。彼の出自が貴族ではないとしても。
そして、子供を産ませるつもりがないというのは、おそらくこれ以上の性交渉は不要という意味でもある。喜ぶべきか悲しむべきか、やはりわからなかったが、一抹の寂しさは残る。ついでのように自分の晒した痴態まで思い出し、顔が火照った。浅ましく精を欲して縋った昨日の己の姿は、いま思い返すだけでも胃が捻じれるほど恥ずかしかった。リーヌスはぐっと歯を食いしばり、俯く。
「御髪を結ってよろしいですか」
使用人に問いかけられてはっと我に返る。首肯すると、肩にかかった髪をそっと持ち上げられ、リボンが通された。
うなじか露わになったとき、リーヌスの身支度を手伝っていた使用人たちが息を呑む気配があった。
「心よりお祝いを申し上げます。……奥さま」
「ありがとう」
うなじの咬傷痕は、アルファとオメガによるつがい契約の何よりの証である。それは書面だけの婚姻よりもはるかに重い意味を持ち、つがいの二人を縛る。ベータの間にもその認識は共有されているが、アルファとオメガの僅少さを思えば、実際に目にできることはなかなかないだろう。
もう日は高く昇っていた。
遅めの昼餐を促されたリーヌスが食堂へ赴くと、テオフィルがちょうど扉から出てきたところだった。どんな顔を向ければいいのかわからず、体が硬直する。
彼は手元の書類から目を離すと、動揺して立ち止まったリーヌスを、平然と片眉を上げて一瞥した。
「今後は好きに過ごすといい。何も俺に許可を取る必要はない。発情期の時期だけは別だが」
「……」
リーヌスが何も言えずにいるうちに、テオフィルは忙しない足取りで立ち去っていく。
不思議と見放されたような気分だった。
「好きに過ごすって……」
「奥さまの為されたいことを、なんでもなさってください」
付き従っていた使用人が微笑んだ。補足されてもやはり意味がよくわからなかったので、曖昧に微笑みを返す。
昼食を摂って部屋に戻ったリーヌスは、居室の露台に足を踏み入れた。
いまの居室は、リーヌスが結婚の前まで過ごしていた部屋とは反対側の棟にある。もとの部屋の露台が距離以上に遠く見えた。
前の部屋の露台を眺めていると、リーヌスはそこがテオフィルの居室のちょうど向かいに位置していることに気がついた。知っていれば多少は気にしただろうと、どこか勿体なく思う。
中庭では装飾の撤去作業が行われていた。演壇が解体され、二階の露台のあいだに渡された白い布飾りも取り外され、運び出されていく。今日のうちには片付け終わりそうな勢いだ。動き回る使用人や変わりゆく庭の様子を眺めるのがここ数日の日課となっていたが、きっとそれも見納めになるに違いなかった。
「ごめんなさい。そんなことは考えてなくて、あんまり気持ちがよかったから、僕……」
正直な弁明をする途中で、リーヌスは自らの言葉に気づいてぱっと口を手で覆った。暗闇が顔を隠してくれなければ、きっと逃げ出していただろう。顔が真っ赤になっているのがわかる。
テオフィルが静かに問いかける。
「中に出されて、もっと気持ちよくなりたかったか?」
「っ……や、やめて、言わないで……」
「煽るようなことを言うな」
顔を寄せて囁かれ、ぞくりと背筋が震えた。後ろに下がったリーヌスを、テオフィルが低い声で追い詰める。
「そうやって恥じらってみせるのも策略のうちか?」
「違う……」
すぐ近く、ほのかに瞳の艶が窺えた。見られていることを意識して、体が硬くなる。式のときに触れ合った唇の感触を、リーヌスはどうしてか今、思い出した。
どれほどのあいだ無言で見つめあっていたのかはわからないが、テオフィルがくつくつと笑って顔を離したことで沈黙は破られた。リーヌスは拍子抜けして、呆然と目を瞬かせた。
「もう寝ろ。夜も更けた」
揶揄われたのだとリーヌスが気づいたときには、テオフィルはもう寝台に体を横たえていた。暖炉の火のはぜる音はもうほとんど聞こえない。脈打つ自分の心臓の音だけがうるさく感じられた。
リーヌスはテオフィルの隣に寝転がる。そして掛け布を引っ張り上げ、ふたりの体を覆うと、いまだ微かに熱の残る頬を押さえて瞼を閉じた。
目覚めたときには、もう寝台にテオフィルの姿はなかった。温もりさえ残っていないから、きっと隣が不在になったのはかなり前のことなのだろう。
指の先でうなじを撫でると肌に微かなへこみがあった。溺れるような初夜の置き土産は、確かにリーヌスの首に刻み付けられていた。
紗幕をかき分けて寝台から這い出す。
床に取り落としていた首輪が目に入った。リーヌスは鍵の刺さったままのそれを拾い上げ、自室の鏡台の引き出しにそっとしまい込んだ。
小さな鐘を鳴らして使用人を呼び、朝の支度をする間、リーヌスはテオフィルの言葉について考えていた。
子供を産ませるつもりはないとテオフィルは言った。まだ生まれているわけでもない以上、我が子に爵位を渡してやりたいという思いはない。慣わしの通りテオフィルが婿養子として後継を継ぐべきだろう。彼の出自が貴族ではないとしても。
そして、子供を産ませるつもりがないというのは、おそらくこれ以上の性交渉は不要という意味でもある。喜ぶべきか悲しむべきか、やはりわからなかったが、一抹の寂しさは残る。ついでのように自分の晒した痴態まで思い出し、顔が火照った。浅ましく精を欲して縋った昨日の己の姿は、いま思い返すだけでも胃が捻じれるほど恥ずかしかった。リーヌスはぐっと歯を食いしばり、俯く。
「御髪を結ってよろしいですか」
使用人に問いかけられてはっと我に返る。首肯すると、肩にかかった髪をそっと持ち上げられ、リボンが通された。
うなじか露わになったとき、リーヌスの身支度を手伝っていた使用人たちが息を呑む気配があった。
「心よりお祝いを申し上げます。……奥さま」
「ありがとう」
うなじの咬傷痕は、アルファとオメガによるつがい契約の何よりの証である。それは書面だけの婚姻よりもはるかに重い意味を持ち、つがいの二人を縛る。ベータの間にもその認識は共有されているが、アルファとオメガの僅少さを思えば、実際に目にできることはなかなかないだろう。
もう日は高く昇っていた。
遅めの昼餐を促されたリーヌスが食堂へ赴くと、テオフィルがちょうど扉から出てきたところだった。どんな顔を向ければいいのかわからず、体が硬直する。
彼は手元の書類から目を離すと、動揺して立ち止まったリーヌスを、平然と片眉を上げて一瞥した。
「今後は好きに過ごすといい。何も俺に許可を取る必要はない。発情期の時期だけは別だが」
「……」
リーヌスが何も言えずにいるうちに、テオフィルは忙しない足取りで立ち去っていく。
不思議と見放されたような気分だった。
「好きに過ごすって……」
「奥さまの為されたいことを、なんでもなさってください」
付き従っていた使用人が微笑んだ。補足されてもやはり意味がよくわからなかったので、曖昧に微笑みを返す。
昼食を摂って部屋に戻ったリーヌスは、居室の露台に足を踏み入れた。
いまの居室は、リーヌスが結婚の前まで過ごしていた部屋とは反対側の棟にある。もとの部屋の露台が距離以上に遠く見えた。
前の部屋の露台を眺めていると、リーヌスはそこがテオフィルの居室のちょうど向かいに位置していることに気がついた。知っていれば多少は気にしただろうと、どこか勿体なく思う。
中庭では装飾の撤去作業が行われていた。演壇が解体され、二階の露台のあいだに渡された白い布飾りも取り外され、運び出されていく。今日のうちには片付け終わりそうな勢いだ。動き回る使用人や変わりゆく庭の様子を眺めるのがここ数日の日課となっていたが、きっとそれも見納めになるに違いなかった。
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