微熱でさよなら

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招待客の全員に挨拶を終える頃には、日も傾き始めていた。
賛辞の言葉を嫌になるほどかけられた服を、リーヌスはさっさと脱ぎ捨ててしまいたかった。締めの式辞を終えて書架に戻るなり、使用人にコートを脱がせてもらう。テオフィルも同様に、マントを肩から下ろして疲れた様子で長いため息をついた。
あとは客たちが各々帰るだけである。彼らが満足するまで中庭は談笑の場として開かれるが、日の入りには帰るのが結婚式の儀礼だ。

作り笑いで疲弊した頬を、力を入れた指先で捏ねてみる。テオフィルは誰に対してもにこりともしなかったので、リーヌスはそのぶん愛想を振り撒くことに尽くしていた。そのせいで微笑の表情で彫られた石像にでもなった気分だった。

「お疲れでしょう。紅茶はいかがですか」
「お願いするよ」

すぐさまポットに用意された紅茶がカップに注がれ、差し出された。あまりの用意周到さを少し可笑しく思う。ここの使用人たちはよく気が回り、主人や客によく尽くした。もちろんベティーナもリーヌスに良くしてくれたが、ベルヒェットの使用人たちは連携を図ることを得意とし、分業と密な情報のやりとりを大切に仕事をしていた。紅茶を淹れたのが前と違う人物であっても、一口飲めば茶葉の種類も砂糖の量もすべてリーヌスの好みに調整されていることがわかるのが、その証左だ。
自然にこぼれた笑みが頬の強張りを和らげた。


少しの時間ではあったが、ふたりは日が暮れるまでのあいだ、休むことができた。
招待客が全員引き上げたことを報告にやってきたのはロスヴィータだった。

「晩餐のご用意も整っております。レーヴェンタール公爵夫妻とベルヒェット夫人に先立ってお入りいただきますが、よろしいですか」
「構わない」

テオフィルが鷹揚に頷くと、ロスヴィータは腰を折って書架を去った。邸内で待機している夫妻と夫人に伝令を遣るのだろう。
立ち上がったふたりを使用人たちが取り巻き、身嗜みを整える。


公爵夫妻と夫人はすでに食堂に揃っていた。入り口から見て、長い卓の右側にレーヴェンタール公爵夫妻が、左側にベルヒェット夫人が座っていた。両側とも奥の一席がそれぞれ空けられている。
連れ添って部屋に入ったふたりに、三人の視線が注がれた。空いた奥の席に__公爵夫妻側にリーヌスが、夫人側にテオフィルが腰掛ける。

「で、爵位の相続をする気はあるのか?」

リーヌスはぎょっとして目の前の男を見た。席に着くなり不遜な口を開いたテオフィルは、腕を組んでレーヴェンタール公爵を見据えた。

「まだその話をするには早いのでは……」
「譲渡はお前の死後でいい」
「しかし……」

オメガの息子、あるいはベータかオメガの娘しか子供がいない場合、その配偶者を婿養子として爵位と家名を継がせるのが一般的である。アルブレヒトもそのようにする予定であったし、テオフィルもそうなるのだろうと、リーヌスは特に問題の意識もなくそう考えていた。

「平民を養子にすることは受け入れられないか?」

嘲笑するような声音の問いに、公爵は黙り込む。公爵夫人も何も言わなかった。図星ということだろう。いくらアルファが持て囃されても、結局は青い血が流れている事実のほうが大切なのだ。
リーヌスはラウラが何か口を挟む、もしくは窘めるのではないかと思ったが、どうにもその様子はなく、彼女は微笑を崩さぬまま黙っている。

「……孫に」

公爵がゆっくりと口を開いた。

「孫に継がせる。きみでも、息子でもなく、孫に。それでどうかな?」

公爵夫人が夫の案に賛同するように頷く。リーヌスは嘆息を押し殺した。

「対外的にもそれがいいと思うわ。これなら両家の親交を__」

早口の台詞を遮ったのは、低く、人を馬鹿にするような笑い声だった。
目の前の男への畏怖で体が硬直する。鋭い眼差しが公爵を見つめた。視線に射抜かれているのはリーヌスではないのに、息が詰まる感覚に蝕まれる。

「孫?はは、孫か。お前が死ぬまでに生まれるといいがな」

リーヌスは俯いた。当然、その孫を産む役割は自分が果たさねばならない。もちろんリーヌスだけが励めばいいわけではなく、テオフィルにその気が無ければ孕むことはないけれど。
公爵は席を立ちたそうに肩を浮かせたが、堪えるように深く椅子に座り直し、目を閉じた。怒りを表に出さない分別はあるようで、リーヌスはほっと胸を撫で下ろした。
どう考えても、レーヴェンタールはベルヒェットの資金に助けられる立場である。それに対してテオフィルは、貴族社会に参入するための足がかりに必ずしもレーヴェンタールの名前を利用せねばならないというわけではない。そうである以上、上下関係は明白だった。

「考える時間が欲しい」
「どうぞ。その気がないのはよく分かったが、他の答えが果たして見つかるかな」

「お話は終わったかしら?お腹が空いたわ」

ラウラの一言で張り詰めていた場の空気が緩まった。
テオフィルは若い義母を一瞥すると、使用人に向かって軽く手を挙げた。厨房に通じているらしい扉が開かれ、料理が運び込まれる。

料理を静かに咀嚼しながら、リーヌスは対面に座るテオフィルを見つめた。ゆったりとした手つきは上品で、食事の作法は完璧だった。いつものかき込むような食事とはまるで違う。隣のラウラも優雅に料理を口に運んでいる。
両家のあいだにもう話を交わす必要はなく、それ以上誰も何も言わなかった。贅を凝らした料理ではあったが、リーヌスはまともに楽しむことができなかった。噛んで飲み下す動作を無感動にこなすまま、食事を終える。
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