12 / 24
10
しおりを挟む
あまりの動揺に、リーヌスは長椅子から立ち上がったままの姿勢で動きを止めた。
アルブレヒトが足早に歩み寄る。ベティーナと同じように、心配そうな、憔悴したような表情をしていた。目元の隈を見て心が痛む。優しい人だから、責任を感じていたのかもしれない。
「静かに。すぐに出ないと」
「え?」
腕を引かれ、リーヌスは目を見開いた。
頭が急速にすべてを理解する。アルブレヒトはこの邸宅に侵入して、リーヌスを連れ出そうとしている。
「ま、待って」
「きみの側仕えが外で待ってる」
「違う、待って……もうすぐテオフィルが来るかもしれない」
いつ扉が開いてもおかしくはない。見つかったらテオフィルがどのような処断を下すかは不明だが、アルブレヒトもリーヌスも軽いお咎めで済むわけがなかった。
「急いで帰って。僕は逃げる気はないから」
「首輪の鍵ならなんとかする。鍵師を呼ぶから、心配しないで」
「そもそも、あなたと婚約をしていたわけじゃない……」
「していたも同然なのに?」
アルブレヒトの傷ついたような表情に、リーヌスは動揺した。
「きみを助けたい。ずっとそう思ってた。今も思ってる。きみが好きだから」
募るような告白だった。しかし、嬉しいとは思わなかった。
助ける?助けるとは、一体何から?テオフィル・ベルヒェットから?レーヴェンタールでの苦しい資金繰りから?
「帰って」
助けられることは負債だった。善意とは総じて重いものだ。アルブレヒトの隣で感じていた息苦しさを、リーヌスはようやく理解できた。
「頼むから帰って」
「……きみを連れて行く」
腕を掴まれ、引っ張られる。よろめいたリーヌスをアルブレヒトが抱き止め、持ち上げようとする。リーヌスはアルブレヒトの肩を押してそれを拒んだ。
そのとき、腕を伸ばした拍子に、夜着の袖から鍵が覗いた。
「……!」
見られてはならないものを見られたような気がして、リーヌスは後ずさり、自らの袖を引っ張って鍵を隠した。アルブレヒトが目を見開く。
「その鍵は、首輪の……?なぜきみが……」
リーヌスは肯定も否定もしなかった。そのまま、じりじりと後退する。
「早く帰って。お願いだ。あなたを巻き込みたくない」
「……」
心からの懇願だった。アルブレヒトが俯く。
今にも廊下に続く扉が開き、テオフィルが入ってくるのではと思うと、はらはらして恐ろしかった。
沈黙が続く。
次に顔を上げたときのアルブレヒトの表情を、リーヌスは今まで見たことがなかった。
「っ……」
ぞっとするような、決意の瞳。本能的な怖気に体が固まる。
動くこともできないで立ち尽くすリーヌスの腕を、アルブレヒトがふたたび掴む。優しく手首を持ち上げられ、リーヌスは戸惑った。
袖をそっとまくられ、鍵が露わになる。
意図に気づき、腕を引っ込めようとしたが遅かった。
アルブレヒトは片手で器用に紐の結び目を解くと、鍵を手に収めた。
「っや、やめて」
体を引くが、アルブレヒトは手首を離さない。
「きみには悪いけど、一緒に逃げられないならこれしか手はない」
「僕はもう婚約してる」
「でも、番にはなってない」
喉の錠に鍵が迫る。リーヌスは首を捻ってアルブレヒトの手を避けた。
揉み合いになり、長椅子に倒れ込む。仰向けになったリーヌスの上にアルブレヒトが覆い被さり、リーヌスは恐怖に駆られて体を丸めた。手で錠を覆い隠す。
「いやだ……っ」
「すまない」
決して乱暴ではない手つきだったが、強引だった。錠を守る両手をアルブレヒトの片手でひとまとめに掴まれ、頭の上に持ち上げられる。
喉の上で残酷な手応えがあった。
首輪がひらき、長椅子の上に落ちる。
どちらだっていいはずだった。
テオフィルでも、アルブレヒトでも、番となる相手などどちらでも良いはずだった。少なくとも、テオフィルにこの首輪を贈られたときは、そう思っていた。
それなのに、どうしてこんなに、泣きたいほど悲しいのだろう。
「__誰の許可を得てここにいる?」
冷ややかな声が響いた。
安堵と畏怖の相反する感情が湧き上がるように身を襲い、リーヌスは細く長い息を吐いた。
アルブレヒトがゆっくりと身を起こし、声の方を見つめる。その肩の向こうに、テオフィルが立っていた。扉を開け放ったまま。
「お前、ゲートハイルの次男か。伯爵とお前の兄はこれを承知しているのか?」
テオフィルが歩み寄る。絨毯を踏み締める一歩一歩が重く見えた。すぐそばにいるアルブレヒトの警戒の気が痛いほど突き刺さり、息が浅くなる。
「……彼を返してもらう」
「そんなに惜しかったか?もっと早く婚約すべきだったな」
アルブレヒトが立ち上がり、近くの低い机に置かれていた空の酒杯を手に取る。テオフィルは挑発するように嘲笑いながら、手招きをした。
金属製の酒杯に胸がざわめき、制止しようと口を開く。
しかし、まるで声が出なかった。ふたりのアルファの覇気のぶつかり合いを目の当たりにして、本能がリーヌスの体を竦ませていた。
「……っ、」
アルブレヒトが近づき、テオフィルの顎を狙って酒杯で殴りかかる。テオフィルはそれをいなし、小さな机を腹の前に据えてアルブレヒトに突進した。予想外の動きにアルブレヒトは怯み、後ろに下がる。
「ここ最近動き足りなかったからな」
好戦的な表情を見せ、テオフィルが机を投げる。それを目眩しとした足払いを、アルブレヒトがかろうじてかわす。大きな音を立てて床に机が落ちた。側面の繊細な彫りが欠けて、木片が飛び散る。
ふたりが攻撃を仕掛け合いながらリーヌスから離れていくと、リーヌスはようやく声が出せるようになった。
「や、……やめて、やめて……!」
やっとのことで絞り出した声は掠れていた。
アルブレヒトに向かって、必死に訴える。
「僕のことが好きだと言うなら、僕の話を聞いて……」
アルブレヒトが足早に歩み寄る。ベティーナと同じように、心配そうな、憔悴したような表情をしていた。目元の隈を見て心が痛む。優しい人だから、責任を感じていたのかもしれない。
「静かに。すぐに出ないと」
「え?」
腕を引かれ、リーヌスは目を見開いた。
頭が急速にすべてを理解する。アルブレヒトはこの邸宅に侵入して、リーヌスを連れ出そうとしている。
「ま、待って」
「きみの側仕えが外で待ってる」
「違う、待って……もうすぐテオフィルが来るかもしれない」
いつ扉が開いてもおかしくはない。見つかったらテオフィルがどのような処断を下すかは不明だが、アルブレヒトもリーヌスも軽いお咎めで済むわけがなかった。
「急いで帰って。僕は逃げる気はないから」
「首輪の鍵ならなんとかする。鍵師を呼ぶから、心配しないで」
「そもそも、あなたと婚約をしていたわけじゃない……」
「していたも同然なのに?」
アルブレヒトの傷ついたような表情に、リーヌスは動揺した。
「きみを助けたい。ずっとそう思ってた。今も思ってる。きみが好きだから」
募るような告白だった。しかし、嬉しいとは思わなかった。
助ける?助けるとは、一体何から?テオフィル・ベルヒェットから?レーヴェンタールでの苦しい資金繰りから?
「帰って」
助けられることは負債だった。善意とは総じて重いものだ。アルブレヒトの隣で感じていた息苦しさを、リーヌスはようやく理解できた。
「頼むから帰って」
「……きみを連れて行く」
腕を掴まれ、引っ張られる。よろめいたリーヌスをアルブレヒトが抱き止め、持ち上げようとする。リーヌスはアルブレヒトの肩を押してそれを拒んだ。
そのとき、腕を伸ばした拍子に、夜着の袖から鍵が覗いた。
「……!」
見られてはならないものを見られたような気がして、リーヌスは後ずさり、自らの袖を引っ張って鍵を隠した。アルブレヒトが目を見開く。
「その鍵は、首輪の……?なぜきみが……」
リーヌスは肯定も否定もしなかった。そのまま、じりじりと後退する。
「早く帰って。お願いだ。あなたを巻き込みたくない」
「……」
心からの懇願だった。アルブレヒトが俯く。
今にも廊下に続く扉が開き、テオフィルが入ってくるのではと思うと、はらはらして恐ろしかった。
沈黙が続く。
次に顔を上げたときのアルブレヒトの表情を、リーヌスは今まで見たことがなかった。
「っ……」
ぞっとするような、決意の瞳。本能的な怖気に体が固まる。
動くこともできないで立ち尽くすリーヌスの腕を、アルブレヒトがふたたび掴む。優しく手首を持ち上げられ、リーヌスは戸惑った。
袖をそっとまくられ、鍵が露わになる。
意図に気づき、腕を引っ込めようとしたが遅かった。
アルブレヒトは片手で器用に紐の結び目を解くと、鍵を手に収めた。
「っや、やめて」
体を引くが、アルブレヒトは手首を離さない。
「きみには悪いけど、一緒に逃げられないならこれしか手はない」
「僕はもう婚約してる」
「でも、番にはなってない」
喉の錠に鍵が迫る。リーヌスは首を捻ってアルブレヒトの手を避けた。
揉み合いになり、長椅子に倒れ込む。仰向けになったリーヌスの上にアルブレヒトが覆い被さり、リーヌスは恐怖に駆られて体を丸めた。手で錠を覆い隠す。
「いやだ……っ」
「すまない」
決して乱暴ではない手つきだったが、強引だった。錠を守る両手をアルブレヒトの片手でひとまとめに掴まれ、頭の上に持ち上げられる。
喉の上で残酷な手応えがあった。
首輪がひらき、長椅子の上に落ちる。
どちらだっていいはずだった。
テオフィルでも、アルブレヒトでも、番となる相手などどちらでも良いはずだった。少なくとも、テオフィルにこの首輪を贈られたときは、そう思っていた。
それなのに、どうしてこんなに、泣きたいほど悲しいのだろう。
「__誰の許可を得てここにいる?」
冷ややかな声が響いた。
安堵と畏怖の相反する感情が湧き上がるように身を襲い、リーヌスは細く長い息を吐いた。
アルブレヒトがゆっくりと身を起こし、声の方を見つめる。その肩の向こうに、テオフィルが立っていた。扉を開け放ったまま。
「お前、ゲートハイルの次男か。伯爵とお前の兄はこれを承知しているのか?」
テオフィルが歩み寄る。絨毯を踏み締める一歩一歩が重く見えた。すぐそばにいるアルブレヒトの警戒の気が痛いほど突き刺さり、息が浅くなる。
「……彼を返してもらう」
「そんなに惜しかったか?もっと早く婚約すべきだったな」
アルブレヒトが立ち上がり、近くの低い机に置かれていた空の酒杯を手に取る。テオフィルは挑発するように嘲笑いながら、手招きをした。
金属製の酒杯に胸がざわめき、制止しようと口を開く。
しかし、まるで声が出なかった。ふたりのアルファの覇気のぶつかり合いを目の当たりにして、本能がリーヌスの体を竦ませていた。
「……っ、」
アルブレヒトが近づき、テオフィルの顎を狙って酒杯で殴りかかる。テオフィルはそれをいなし、小さな机を腹の前に据えてアルブレヒトに突進した。予想外の動きにアルブレヒトは怯み、後ろに下がる。
「ここ最近動き足りなかったからな」
好戦的な表情を見せ、テオフィルが机を投げる。それを目眩しとした足払いを、アルブレヒトがかろうじてかわす。大きな音を立てて床に机が落ちた。側面の繊細な彫りが欠けて、木片が飛び散る。
ふたりが攻撃を仕掛け合いながらリーヌスから離れていくと、リーヌスはようやく声が出せるようになった。
「や、……やめて、やめて……!」
やっとのことで絞り出した声は掠れていた。
アルブレヒトに向かって、必死に訴える。
「僕のことが好きだと言うなら、僕の話を聞いて……」
0
お気に入りに追加
47
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結】隣に引っ越して来たのは最愛の推しでした
金浦桃多
BL
タイトルそのまま。
都倉七海(とくらななみ)は歌い手ユウの大ファン。
ある日、隣りに坂本友也(さかもとともや)が引っ越してきた。
イケメン歌い手×声フェチの平凡
・この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
噛痕に思う
阿沙🌷
BL
αのイオに執着されているβのキバは最近、思うことがある。じゃれ合っているとイオが噛み付いてくるのだ。痛む傷跡にどことなく関係もギクシャクしてくる。そんななか、彼の悪癖の理由を知って――。
✿オメガバースもの掌編二本作。
(『ride』は2021年3月28日に追加します)
ふしだらオメガ王子の嫁入り
金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか?
お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
上手に啼いて
紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。
■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる