微熱でさよなら

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あまりの動揺に、リーヌスは長椅子から立ち上がったままの姿勢で動きを止めた。
アルブレヒトが足早に歩み寄る。ベティーナと同じように、心配そうな、憔悴したような表情をしていた。目元の隈を見て心が痛む。優しい人だから、責任を感じていたのかもしれない。

「静かに。すぐに出ないと」
「え?」

腕を引かれ、リーヌスは目を見開いた。
頭が急速にすべてを理解する。アルブレヒトはこの邸宅に侵入して、リーヌスを連れ出そうとしている。

「ま、待って」
「きみの側仕えが外で待ってる」
「違う、待って……もうすぐテオフィルが来るかもしれない」

いつ扉が開いてもおかしくはない。見つかったらテオフィルがどのような処断を下すかは不明だが、アルブレヒトもリーヌスも軽いお咎めで済むわけがなかった。

「急いで帰って。僕は逃げる気はないから」
「首輪の鍵ならなんとかする。鍵師を呼ぶから、心配しないで」
「そもそも、あなたと婚約をしていたわけじゃない……」
「していたも同然なのに?」

アルブレヒトの傷ついたような表情に、リーヌスは動揺した。

「きみを助けたい。ずっとそう思ってた。今も思ってる。きみが好きだから」

募るような告白だった。しかし、嬉しいとは思わなかった。
助ける?助けるとは、一体何から?テオフィル・ベルヒェットから?レーヴェンタールでの苦しい資金繰りから?

「帰って」

助けられることは負債だった。善意とは総じて重いものだ。アルブレヒトの隣で感じていた息苦しさを、リーヌスはようやく理解できた。

「頼むから帰って」
「……きみを連れて行く」

腕を掴まれ、引っ張られる。よろめいたリーヌスをアルブレヒトが抱き止め、持ち上げようとする。リーヌスはアルブレヒトの肩を押してそれを拒んだ。
そのとき、腕を伸ばした拍子に、夜着の袖から鍵が覗いた。

「……!」

見られてはならないものを見られたような気がして、リーヌスは後ずさり、自らの袖を引っ張って鍵を隠した。アルブレヒトが目を見開く。

「その鍵は、首輪の……?なぜきみが……」

リーヌスは肯定も否定もしなかった。そのまま、じりじりと後退する。

「早く帰って。お願いだ。あなたを巻き込みたくない」
「……」

心からの懇願だった。アルブレヒトが俯く。
今にも廊下に続く扉が開き、テオフィルが入ってくるのではと思うと、はらはらして恐ろしかった。
沈黙が続く。

次に顔を上げたときのアルブレヒトの表情を、リーヌスは今まで見たことがなかった。

「っ……」

ぞっとするような、決意の瞳。本能的な怖気に体が固まる。
動くこともできないで立ち尽くすリーヌスの腕を、アルブレヒトがふたたび掴む。優しく手首を持ち上げられ、リーヌスは戸惑った。
袖をそっとまくられ、鍵が露わになる。

意図に気づき、腕を引っ込めようとしたが遅かった。
アルブレヒトは片手で器用に紐の結び目を解くと、鍵を手に収めた。

「っや、やめて」

体を引くが、アルブレヒトは手首を離さない。

「きみには悪いけど、一緒に逃げられないならこれしか手はない」
「僕はもう婚約してる」
「でも、番にはなってない」

喉の錠に鍵が迫る。リーヌスは首を捻ってアルブレヒトの手を避けた。
揉み合いになり、長椅子に倒れ込む。仰向けになったリーヌスの上にアルブレヒトが覆い被さり、リーヌスは恐怖に駆られて体を丸めた。手で錠を覆い隠す。

「いやだ……っ」
「すまない」

決して乱暴ではない手つきだったが、強引だった。錠を守る両手をアルブレヒトの片手でひとまとめに掴まれ、頭の上に持ち上げられる。
喉の上で残酷な手応えがあった。
首輪がひらき、長椅子の上に落ちる。
どちらだっていいはずだった。
テオフィルでも、アルブレヒトでも、番となる相手などどちらでも良いはずだった。少なくとも、テオフィルにこの首輪を贈られたときは、そう思っていた。
それなのに、どうしてこんなに、泣きたいほど悲しいのだろう。




「__誰の許可を得てここにいる?」

冷ややかな声が響いた。
安堵と畏怖の相反する感情が湧き上がるように身を襲い、リーヌスは細く長い息を吐いた。
アルブレヒトがゆっくりと身を起こし、声の方を見つめる。その肩の向こうに、テオフィルが立っていた。扉を開け放ったまま。

「お前、ゲートハイルの次男か。伯爵とお前の兄はこれを承知しているのか?」

テオフィルが歩み寄る。絨毯を踏み締める一歩一歩が重く見えた。すぐそばにいるアルブレヒトの警戒の気が痛いほど突き刺さり、息が浅くなる。

「……彼を返してもらう」
「そんなに惜しかったか?もっと早く婚約すべきだったな」

アルブレヒトが立ち上がり、近くの低い机に置かれていた空の酒杯を手に取る。テオフィルは挑発するように嘲笑いながら、手招きをした。
金属製の酒杯に胸がざわめき、制止しようと口を開く。
しかし、まるで声が出なかった。ふたりのアルファの覇気のぶつかり合いを目の当たりにして、本能がリーヌスの体を竦ませていた。

「……っ、」

アルブレヒトが近づき、テオフィルの顎を狙って酒杯で殴りかかる。テオフィルはそれをいなし、小さな机を腹の前に据えてアルブレヒトに突進した。予想外の動きにアルブレヒトは怯み、後ろに下がる。

「ここ最近動き足りなかったからな」

好戦的な表情を見せ、テオフィルが机を投げる。それを目眩しとした足払いを、アルブレヒトがかろうじてかわす。大きな音を立てて床に机が落ちた。側面の繊細な彫りが欠けて、木片が飛び散る。
ふたりが攻撃を仕掛け合いながらリーヌスから離れていくと、リーヌスはようやく声が出せるようになった。

「や、……やめて、やめて……!」

やっとのことで絞り出した声は掠れていた。
アルブレヒトに向かって、必死に訴える。

「僕のことが好きだと言うなら、僕の話を聞いて……」
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