微熱でさよなら

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美しい加工の施されたグラスを見ていた。
規則正しく波打つ白い模様が幾重にも折り重なったグラスは、夜会の主催者の財力を暗に示している。誰の目に見ても明らかに美しいが、このように些細なものでさえ凝っていると少し息が詰まる。
しかし、他の人々はグラスの装飾などに目もくれず、虚飾に満ちた言葉の交わし合いに勤しんでいる。いちいちグラスを気にする理由が自分自身にあることは明らかだった。
「気に入ったのかい?」
唐突に右隣から男の声がして、リーヌスはびくりと身を引いた。グラスの中身が危うく溢れかけ、心臓が早鐘を打ったように脈打つ。
恐る恐る、声の主を見上げる。

「アルブレヒト……」
「すまない」

申し訳なさそうに眉尻を下げた男は、癖のない茶髪を後ろに撫で付けて、優し気に垂れた目は森のような落ち着いた緑をしている。アルファらしい高身長で、体格はすらりとしていた。
アルブレヒト・ヴァルター・ゲートハイル。まだ婚約式を行なっていないために正式ではないものの、リーヌスの暫定的な婚約者だった。
アルブレヒトは胸元からきっちりと折り目の付いた手巾を取り出したが、リーヌスは首を振って固辞した。

「こぼれていないから、大丈夫」
「いきなり声をかけるべきではなかったね」

気遣わしげな声音に居心地が悪くなって、また首を横に振る。彼は優しすぎるほどに優しい人で、リーヌスはその親切心に触れるたび自ら認めるほどの強い引け目を感じていた。

「美味しいと思って」

呟くように無難な嘘をついてから、リーヌスはすぐに後悔した。グラスに一度も口をつけていないことはワインの嵩を見れば明らかだった。

「俺も頂いてこようかな」

アルブレヒトが背を向けた瞬間、リーヌスはふた口分を一気に口に含み、飲み下した。あまり上品な動作ではなかったが、どうせ誰も見ていない。かっと喉が温まり、熱が滞留する。
口の中に残る渋みが不快でたまらなかったが、隣人が戻ってくる頃には微笑を作る程度の余裕は生まれていた。


「__お集まりの皆様」

ざわめいていた人々が動きを止める。二人も揃って壇上を見た。大広間の中、入り口から見て一番奥に、数段せり上がった半円状の小さな舞台があった。
横手で楽団の奏でる音楽が止まり、会場の視線は壇上に立った女性の一点に集中する。

「本日は招待に応じていただき、誠にありがとうございます」

女性の纏う紺色のドレスは、星を意識したと思われる細かな宝石が散りばめられ、月のない夜空のようだった。今までになかった美しい装飾だ。これを見せるための宴会だろう、とリーヌスは思った。
主催者が無難な挨拶を終えると、楽団が音楽をゆるやかに再開する。円舞曲につられて、踊る客は広間の中心へ、踊らない客は広間の外縁へ自然と移動する。
隣のアルブレヒトがそわそわとする気配があった。

「行ってきていいよ」

リーヌスが声をかけると、アルブレヒトは微笑みながらも困ったように眉尻を下げた。

「きみは行かないのかい」
「遠慮しておく」

婚約式まであと一週間と少しを残すのみ。アルブレヒトがある程度自由に遊べるのは、今日が最後になるかもしれない。婚約後も結婚後も、リーヌスに彼を縛るつもりはないけれど、今夜くらいは自由に楽しんでほしかった。
アルブレヒトが舞踏の輪の中に入っていくと、すぐに女性やオメガらしい風貌の男性が彼に近づいていく。リーヌスはグラスを邸の使用人に預けて、所在なくアルブレヒトの姿を眺めた。
繊細なグラスも主催者のドレスも、婚約者のアルブレヒトも、リーヌスの目には眩しい。眩しくて息苦しかった。
親がどうにか婚約に漕ぎつけたアルブレヒトの家__ゲートハイル伯爵家は、貴族の家門の中でも指折りの裕福な家だった。反対にリーヌスの家__レーヴェンタール公爵家は先代が服飾の事業に失敗し、その損失を取り戻せぬまま家としての影響力を大きく落としていた。具体的には、貧乏に。
ゲートハイルとの結婚が家を救うと分かっていても、アルブレヒトをこちらの都合に縛り付けることは申し訳ないし、情けなくもあった。
アルブレヒトは次々に相手を変えた。誰もが名残惜しそうに手を離したが、彼のきっぱりとした一礼を前に粘れる者はいなかった。そして、アルブレヒトは時折リーヌスを窺うような様子を見せた。
暫定とはいえ、婚約者が見ていては楽しめないのかもしれない。
リーヌスは一番近くのガラス戸を開けて、広間から露台に出た。秋の夜は冷え込む。肌寒いが、戻るわけにもいかない。
戸を閉めてしまうと、楽器の音も、人々の話し声も薄れる。
広間からは規則的にいくつか小さな露台がせり出ていたが、今外にいるのはリーヌスだけらしい。静かにため息をついて、夜空を見上げた。

「……」

雲がかかってあまり星が見えない。月は細く、摘んでみたら折れてしまいそうですらある。見応えのない夜空をしばらく見つめてみたが、すぐに飽きた。
暇潰しを求めて彷徨った視線は、結局広間に落ち着く。こちらの方が暗いから、外から見られていることに中の人は気づきにくいだろう。
こうやってガラスを一枚隔てたところから広間を見るのは、先ほどよりも気が楽だった。こうやっていつでも、世界とはガラス越しに関われたらいいのに。
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