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大晦日 Ⅱ
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いつもであれば、十矢を3回こなすのが朝の弓射であるが、この日は2回目の三矢で矢を矢筒から出すのにも難儀するほど手が強張ってしまい、切り上げることにした。
寒さから逃げるように、悴む手を労りつつ、倉へと足早に向かう。
「いい勝負だったな」
「そうでしたね」
勝負をしているつもりはなかったが、やはり同時にすると比べてしまうもので、数年していなかったキルシェと、昨今弓射に携わることが続いたリュディガーとでは、技量がほぼ同じになっている。
「君はだいぶ感覚が戻ってきたようだ。3年も触っていなかったというのが信じられん。才能があったのだな」
「リュディガーは、前より安定していますね」
「師匠の教えが、よかったからな」
「教えたことなんて基本だけですよ」
リュディガーは肩をすくめて、キルシェから弓を受け取り、自身のものとともにもとへ戻す。
「君がもし、続けられていたら、今みたいに敵ってはいなかったはずだ。勝負なんてお話にもならない」
「大げさです」
「いやいや、実際お話にならない腕前だっただろう?」
忘れたか、と自嘲するリュディガーに、次いで矢筒も託し、キルシェは改めて両手を温めようと、こすり合わせて温かい息を吐く。
「君、手袋は? してきていない私が言うのもなんだが、この時間に弓射をやるなら、まだ手袋はして来ていた方がいい」
「それが……失くしてしまったみたいで……」
「どこで」
「ここで……」
「ここ?」
「前回、弓射をしようと扉を明けたあと、そのまま置いてしまっていたらしく……弓射をして用具を片付けて……気づいたのは夕方で__」
あ、とキルシェの言葉を遮るように、リュディガーは思い出したような声を挙げる。
「あれは、君のだったのか。3日前、その壁の近くで見かけて拾った」
「本当に?!」
キルシェは思わず声が跳ねてしまう。
まさか見つかるとは__それも、リュディガーによって。
「__が……直してどうこうって代物じゃなかった」
「あぁ……やっぱり……」
「一応それでも、あのあたりに置いて……」
リュディガーは扉近くに向かうと、その脇に置かれている棚の周囲を念入りに探す。
「__見当たらんな……」
汚れるのも気にせず、膝をついて頬を床につけるように棚の下まで見始めるものだから、キルシェは思わず止めるが、それでもしばらく彼は粘って探していた。
「リュディガー、いいですよ。ありがとう」
伸び上がるようにして立ち上がるリュディガーは、埃を払う。キルシェも感謝をこめて手伝い、払った。
「あれは確か、ネズミにかじられていたと思う」
「ネズミって、冬眠するものじゃないのかしら?」
「それは野ネズミだ。家とかに棲み着くネズミは冬眠しない」
「そうなの?」
「家に棲み着くネズミは、外に比べれば温かいだろう? だから、冬眠しないんだ。__あれか、もしかしたら、あの手袋天井裏とかの棲家に運び込まれたかもしれない」
「なら、ネズミの寝床になっているのかしら」
「可能性はある」
どんな風に寝るのだろう。
やはり中に入ってねるのだろうか__その姿を悴む手を揉みながら想像して、キルシェはふふ、と笑みがこぼれてしまう。
「愛らしいとか思うなよ。できれば、同居は御免被るべき相手だからな」
「それはそうでしょうけれど……」
「厩ぐらいにだったら棲んでもいいがな。それなら大目に見てやる。__それはそうと、キルシェは今夜はビルネンベルク家に行くんだろう?」
ええ、とキルシェは頷く。
ビルネンベルクには数日前に打診されていたことだ。
龍室が蓬莱に源流をもつ一門であるから、帝国では蓬莱での様々な行事がほぼそのままの内容で行われている。新年を迎えることを慶事としていることもそのひとつ。
慶事であるが、キルシェはこれまで新年の祝い事とはほぼ無縁ですごしていた。遠巻きに眺める程度のこと。それを悲しいとも寂しいとも思ったことはないのは、そうした生活が当たり前だったから。
ビルネンベルク家のドゥーヌミオンは、成人しているとはいえキルシェの後見人である。その家で、新年を迎えるのをともに、と誘われれは、断ることもない。
「リュディガーも?」
「キルシェが動くのに、警護が動かないわけにはいかないだろう、と言われた」
「それは……そうね、確かに」
キルシェは苦笑を浮かべる。
「身支度とかは、ビルネンベルクの邸宅でするそうだが」
「ええ」
「それまで、帝都を見て回るか?」
それはすごく魅力的な話だったが、キルシェは頷きたい気持ちを堪えて首を振る。
「……ちょっと、その……それまでやりたい事が」
「やりたい事?」
リュディガーは首を軽く傾げる。
キルシェは、リュディガーから視線をそらして、悴む手元を見つめた。
「その……雪も降って寒いですから……籠もってやるには、ちょうどいいと考えていて……やりたい事をしたくて……」
時間さえ許されるのであれば、したいことだ。
しなければならない、とも思っていること。
__時間がないのだもの……。
個々最近、籠りがちで、朝の弓射に来るのも惜しくしなかったのはそのため。
「……具合が悪いわけではないのだな?」
「違います、それはないですよ」
キルシェは首を振って笑む。
そうしたことではない。
「具合が悪いのなら、今ここにはいませんでしょう?」
「……そうか。わかった」
濁して言うばかりだから、細かく聞き出されるものと思って、のらりくらり、と彼の誘いを躱せるだろうか、と身構えていたキルシェ。それが、予想外にもあまりにもあっさり引き下がるので、きょとん、としてリュディガーを見る。
リュディガーは、あまり見ない不思議な表情をしていて、キルシェは困惑する。
一見して穏やかな顔。それでいて物悲しい、影が差したような顔。
__え……。
何かしら思うところがあるはずだ。そんな表情をする理由があるはず。
思うところ、疑問等はその場で片付けることが多いリュディガーが、それをしないというのはどういうことだろう。
違和感をキルシェは覚えながら、踵を返し倉の扉に向かうリュディガーに倣ってあとした。
倉の外に出た途端、倉が外気よりも暖かかったことを痛感させられるほど、そよぐ程度の風にキルシェは身震いした。
朝日が差し込み、目を焼くばかりに眩しい雪景色に、目を伏せて守る。
「……確かに、この照り返しが眼下ずっと広がっていれば、目をやられますね」
「……あぁ? ああ……そうだな」
一瞬反応が遅れたリュディガーは、空を見上げる。
雲ひとつない空は、まだ星の瞬きがうっすら見えるものの、まず間違いなく目がさめるほどに鮮やかな蒼になりつつあることを期待させるほど澄み渡っている。
「快晴の夜明け前は特に寒さが厳しいから、今日はとくに……」
ぽつぽつ、こっこっ、と小さくもしっとりとした規則的な音は、朝日で溶け始めた雪の雫が滴る音だろう。
「この弓射の鍛錬場へ来た時は、音が籠もるというか、まるで響かなかった気がしますが……だいぶ賑やかですね、もう」
「ああ。陽が出れば、一気に暖かくなるからな。今日降らないなら、日向はかなり溶けるだろう」
「そうね」
きん、と冷えた空気に鼻をすすっていれば、リュディガーが促して、一路、温かい本棟へと足を向けた。
回廊から見える景色はとにかく眩しく、回廊の中は、いつもよりも雪の照り返しで明るいかった。
並んで歩くリュディガーは、いくらか物静かに、窓の外を見ているので、キルシェは様子を伺うために静かに進むのだった。
しかしながら、食堂についてからはいたっていつも通り。
朝食をいただく最中もいつも通りで、キルシェの違和感はその頃には消えていた。
寒さから逃げるように、悴む手を労りつつ、倉へと足早に向かう。
「いい勝負だったな」
「そうでしたね」
勝負をしているつもりはなかったが、やはり同時にすると比べてしまうもので、数年していなかったキルシェと、昨今弓射に携わることが続いたリュディガーとでは、技量がほぼ同じになっている。
「君はだいぶ感覚が戻ってきたようだ。3年も触っていなかったというのが信じられん。才能があったのだな」
「リュディガーは、前より安定していますね」
「師匠の教えが、よかったからな」
「教えたことなんて基本だけですよ」
リュディガーは肩をすくめて、キルシェから弓を受け取り、自身のものとともにもとへ戻す。
「君がもし、続けられていたら、今みたいに敵ってはいなかったはずだ。勝負なんてお話にもならない」
「大げさです」
「いやいや、実際お話にならない腕前だっただろう?」
忘れたか、と自嘲するリュディガーに、次いで矢筒も託し、キルシェは改めて両手を温めようと、こすり合わせて温かい息を吐く。
「君、手袋は? してきていない私が言うのもなんだが、この時間に弓射をやるなら、まだ手袋はして来ていた方がいい」
「それが……失くしてしまったみたいで……」
「どこで」
「ここで……」
「ここ?」
「前回、弓射をしようと扉を明けたあと、そのまま置いてしまっていたらしく……弓射をして用具を片付けて……気づいたのは夕方で__」
あ、とキルシェの言葉を遮るように、リュディガーは思い出したような声を挙げる。
「あれは、君のだったのか。3日前、その壁の近くで見かけて拾った」
「本当に?!」
キルシェは思わず声が跳ねてしまう。
まさか見つかるとは__それも、リュディガーによって。
「__が……直してどうこうって代物じゃなかった」
「あぁ……やっぱり……」
「一応それでも、あのあたりに置いて……」
リュディガーは扉近くに向かうと、その脇に置かれている棚の周囲を念入りに探す。
「__見当たらんな……」
汚れるのも気にせず、膝をついて頬を床につけるように棚の下まで見始めるものだから、キルシェは思わず止めるが、それでもしばらく彼は粘って探していた。
「リュディガー、いいですよ。ありがとう」
伸び上がるようにして立ち上がるリュディガーは、埃を払う。キルシェも感謝をこめて手伝い、払った。
「あれは確か、ネズミにかじられていたと思う」
「ネズミって、冬眠するものじゃないのかしら?」
「それは野ネズミだ。家とかに棲み着くネズミは冬眠しない」
「そうなの?」
「家に棲み着くネズミは、外に比べれば温かいだろう? だから、冬眠しないんだ。__あれか、もしかしたら、あの手袋天井裏とかの棲家に運び込まれたかもしれない」
「なら、ネズミの寝床になっているのかしら」
「可能性はある」
どんな風に寝るのだろう。
やはり中に入ってねるのだろうか__その姿を悴む手を揉みながら想像して、キルシェはふふ、と笑みがこぼれてしまう。
「愛らしいとか思うなよ。できれば、同居は御免被るべき相手だからな」
「それはそうでしょうけれど……」
「厩ぐらいにだったら棲んでもいいがな。それなら大目に見てやる。__それはそうと、キルシェは今夜はビルネンベルク家に行くんだろう?」
ええ、とキルシェは頷く。
ビルネンベルクには数日前に打診されていたことだ。
龍室が蓬莱に源流をもつ一門であるから、帝国では蓬莱での様々な行事がほぼそのままの内容で行われている。新年を迎えることを慶事としていることもそのひとつ。
慶事であるが、キルシェはこれまで新年の祝い事とはほぼ無縁ですごしていた。遠巻きに眺める程度のこと。それを悲しいとも寂しいとも思ったことはないのは、そうした生活が当たり前だったから。
ビルネンベルク家のドゥーヌミオンは、成人しているとはいえキルシェの後見人である。その家で、新年を迎えるのをともに、と誘われれは、断ることもない。
「リュディガーも?」
「キルシェが動くのに、警護が動かないわけにはいかないだろう、と言われた」
「それは……そうね、確かに」
キルシェは苦笑を浮かべる。
「身支度とかは、ビルネンベルクの邸宅でするそうだが」
「ええ」
「それまで、帝都を見て回るか?」
それはすごく魅力的な話だったが、キルシェは頷きたい気持ちを堪えて首を振る。
「……ちょっと、その……それまでやりたい事が」
「やりたい事?」
リュディガーは首を軽く傾げる。
キルシェは、リュディガーから視線をそらして、悴む手元を見つめた。
「その……雪も降って寒いですから……籠もってやるには、ちょうどいいと考えていて……やりたい事をしたくて……」
時間さえ許されるのであれば、したいことだ。
しなければならない、とも思っていること。
__時間がないのだもの……。
個々最近、籠りがちで、朝の弓射に来るのも惜しくしなかったのはそのため。
「……具合が悪いわけではないのだな?」
「違います、それはないですよ」
キルシェは首を振って笑む。
そうしたことではない。
「具合が悪いのなら、今ここにはいませんでしょう?」
「……そうか。わかった」
濁して言うばかりだから、細かく聞き出されるものと思って、のらりくらり、と彼の誘いを躱せるだろうか、と身構えていたキルシェ。それが、予想外にもあまりにもあっさり引き下がるので、きょとん、としてリュディガーを見る。
リュディガーは、あまり見ない不思議な表情をしていて、キルシェは困惑する。
一見して穏やかな顔。それでいて物悲しい、影が差したような顔。
__え……。
何かしら思うところがあるはずだ。そんな表情をする理由があるはず。
思うところ、疑問等はその場で片付けることが多いリュディガーが、それをしないというのはどういうことだろう。
違和感をキルシェは覚えながら、踵を返し倉の扉に向かうリュディガーに倣ってあとした。
倉の外に出た途端、倉が外気よりも暖かかったことを痛感させられるほど、そよぐ程度の風にキルシェは身震いした。
朝日が差し込み、目を焼くばかりに眩しい雪景色に、目を伏せて守る。
「……確かに、この照り返しが眼下ずっと広がっていれば、目をやられますね」
「……あぁ? ああ……そうだな」
一瞬反応が遅れたリュディガーは、空を見上げる。
雲ひとつない空は、まだ星の瞬きがうっすら見えるものの、まず間違いなく目がさめるほどに鮮やかな蒼になりつつあることを期待させるほど澄み渡っている。
「快晴の夜明け前は特に寒さが厳しいから、今日はとくに……」
ぽつぽつ、こっこっ、と小さくもしっとりとした規則的な音は、朝日で溶け始めた雪の雫が滴る音だろう。
「この弓射の鍛錬場へ来た時は、音が籠もるというか、まるで響かなかった気がしますが……だいぶ賑やかですね、もう」
「ああ。陽が出れば、一気に暖かくなるからな。今日降らないなら、日向はかなり溶けるだろう」
「そうね」
きん、と冷えた空気に鼻をすすっていれば、リュディガーが促して、一路、温かい本棟へと足を向けた。
回廊から見える景色はとにかく眩しく、回廊の中は、いつもよりも雪の照り返しで明るいかった。
並んで歩くリュディガーは、いくらか物静かに、窓の外を見ているので、キルシェは様子を伺うために静かに進むのだった。
しかしながら、食堂についてからはいたっていつも通り。
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