上 下
189 / 247
煌めきの都

虚妄ノ影 Ⅴ

しおりを挟む
 この地上には、常に魔穴が口を開く特異な場所がある。魔穴の口を塞ぎ切ることは困難であり、完璧に塞ぎ切ることによる弊害が存在する。__黒狐はそう口を開いた。

 この世の遍くに存在する不可知、もの__魔素。

 それらが魔穴からのみ補充されることによって、この世は潤っているのだそう。

「__潤う?」

「……天綱と呼ばれるこの世の理。その下で、生命が輝く__そう表現すればよいか。魔素は、肥料のようなもの。とは申せ、過ぎたるは及ばざるが如し、という言葉通り、加減が肝要なのは、あの痴れ者の故郷ブロークリントを見ればわかろう」

「そういう側面があるのですか」

 魔穴は、有害なものでしかない。実害ばかりをもたらすからだ。

 ひたひた、と歩みながらマイャリスの脳裏には、かつて寄宿学校で見た光景や、魔穴から戻ったリュディガーの憔悴しきった様が浮かんでいた。

「おそらく、貴女が通っていた大学では、教えてはいないだろう」

 くつり、と目元が笑うが、それは嫌味が込められたものではなく、温かみのあるものだった。

「元来、世に言われる魔穴とは、神出鬼没。そしてあまりにも度が過ぎる。それに頼ってはいられない」

「ここに魔穴があったのは……」

「あえてのこと。特定された場所にあれば、万が一の対処も容易。それを適度に制御していたものが、その影身かげみだった」

 __影身を。

 身体の内から、響く声。浮かぶ言葉。

「その鏡__影身は、かつて天帝と獬豸族によって作られ、龍帝に下賜されたもの。その影身を見守る一族がいた。それが、貴女の父祖」

 マイャリスは、ふと、自分の額の一角に軽く触れる。

「そもそもの主命は、あまりにも強大になった帝国の__龍帝の監視だという」

「監視……ですか」

「帝国は、あまりにも強大な国家となった。戦神の加護を得、龍を使役するような国。そのような帝国といえど、影身を破壊されれば相当な痛手に違いない」

 自らの系譜がよもや龍帝陛下の弱みだったとは、マイャリスは思いもしなかった。

 __そんな大層なお役目を担っていたとは知らなかった。

 今日まで、自分は人間族だと思っていたのだ。

「ですがそれは、胸三寸で暴挙に出るのではないのですか? 龍帝が気に食わない。帝国が気に食わない、となれば」

 __そうよ。あのロンフォールのように。
 
 いまがまさしくそれ。

「そんなに簡単に壊せはしない。かなりの決意がなければ、成し遂げられない仕組みということもあるが故」

「仕組み?」

「あの痴れ者は、壊し方も心得ていたが。壊すには、見守る獬豸の血胤の成体一人分の血が必要なのです」

「必要……?」

「浴びせる、とでもいえばよいか。__剄り、滴り落ちる血を桶に溜め、そこに沈めるでもよし。すべての血をよく吸った布で包んでしまうとういう手法でも、あながち可能なのかもしれない」

 涼しい目元で黒狐がさらり、と言い放つ言葉に、思わず足を止めた。

「確実に血の一滴残さずすべて__とは難しいもの。それほど多量の血が必要ということです」

 __かなりの決意、とはそういうこと……。

 自死するにしても、死ぬだけでは成し遂げられない。

 身内の誰かを捧げるにしても、かなりの面倒な事が予想される。多量の血に漬ける方法__様々想像してしまって、ぶるり、と寒気がはしって身震いした。

 鏡を抱えたままの自分を、剄ろうとしたスコル。

 殺そうと思えばいつでも殺せただろう。なにせ、自分の意思とは裏腹に、身体が動かなかったのだから。

 成体の血なのは、多量の血がいるということ。

 生意気にも楯突く養女だ。殺したい、と思ったことはあっただろう。だがそうはせず、これまで後生大事に育ててきたのは、この時のため。

 __軟禁生活もそのためだった。

 大学へ送り出したのは、年々知恵を突けてうるささが増したということもあっただろうが、様々な準備も兼ねていたのだろう。

 てっきり、富や地位が好きなのだろうと思っていたが、違った。

 とんでもない執念だ。

 何年かけたというのだ。

 __とにかく……影身を……。

 止まっている場合ではない。

 自分を軽く諌めて、歩みを再開した。

「かつてあの痴れ者が魔穴へ影身を落とした。魔穴の瘴気に当ててしまえば、壊れるとでも思った__が、壊せなかった」

「壊せていないとわかったとは……どうしてわかるのですか?」

「壊せていれば、魔が溢れる」

 なるほど、とマイャリスは納得した。

「そこで、どういう経緯でか壊す手立てを知り、加えて血胤の者が生きていることを知った。こんなところかと」

「それが……私の両親」

「……御尊父が血胤者。普段、その特異な身分は伏せて、一般的な文官として過ごしていたと聞いた。リュディガーの父は、文官として御尊父とは面識があり、素性も知っていただろう」

 マイャリスは、自分の実父がどういった立場だったのかを詳しくは知らない。

 記憶の彼方。霞の向こうに見える、色褪せた思い出には、それなりの家で暮らしていたことしかないのだ。

 民族楽器カーチェを爪弾く母は、今思えば妓女__神官と文官の間の位置づけである官妓だったのだろう。父の仕事に伴われることが多々あったのを、薄っすら覚えている。

「当初は魔物に襲われたと判断されていた。事実、それを目撃していた情報が多数あった。帝国としては、血胤は絶えた、と」

「でも、私は生きていました。何故、絶えた、と」

 帝国にとって、自分の血胤は大切なものだろうに、どうして見落としていたのか。

 マイャリスが疑問をこぼすと、すい、と黄昏色の相貌が滑ってマイャリスを見る。

「__御両親の葬儀の際、魔物の襲来があったそう。そこで参列していた幼い貴女は身罷った、と思われていた」

 __お前の父上に、恩義がある者だ。今際の際に、お前を託された。

 かつてそう言って、現れたのがロンフォールだった。

 その当時の景色、状況。不思議と思い出せない。

「……やはり、覚えてはおらなんだか」

「えぇ……小さかったですから」

「お小さくあったのは、たしかに。詳しくは存じ上げないが、聞いた話では、葬儀はそれはそれはひどい有様だったと。参列者はことごとく殺され、目撃者はおらなかった。__貴女の護衛も」

 護衛__そう。確か、その日は常に誰かがいた。

 少しずつ、記憶の彼方の情景にある靄が部分的に晴れ、描写が加わっていくようだった。

 葬儀のことは、とりわけあまりにも曖昧だ。

 自分は葬儀の後、墓参りをさせてもらえただけ。

 __葬儀……。

 葬儀のことを思い出そうとすると、ふたつ思い出せる情景がある。

 ひとつは、柩がふたつ。

 そして、もっと思い出そうとすると、今度は遠くから行列が進む景色を眺めている。

 __なぜ、遠くから……?

 疑問を、このとき初めて覚えた。

 幼いが、喪主は喪主だ。葬儀の列の先頭にいて然るべきのはず。なのに、そこから眺めていたような景色__思い出がない。

 では、あの葬儀は__。

 __自分の、葬儀だった……?

 ざわざわ、とした、それでいて静かな焦り。それが恐怖だと気づいたとき、無意識に手が前へ伸びた。

 虚空を掴む手__その手に、ずしり、とそこそこの重さが加わって、我に返る。

 手には、先程手放した鏡があった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

妹に全部取られたけど、幸せ確定の私は「ざまぁ」なんてしない!

石のやっさん
恋愛
マリアはドレーク伯爵家の長女で、ドリアーク伯爵家のフリードと婚約していた。 だが、パーティ会場で一方的に婚約を解消させられる。 しかも新たな婚約者は妹のロゼ。 誰が見てもそれは陥れられた物である事は明らかだった。 だが、敢えて反論もせずにそのまま受け入れた。 それはマリアにとって実にどうでも良い事だったからだ。 主人公は何も「ざまぁ」はしません(正当性の主張はしますが)ですが...二人は。 婚約破棄をすれば、本来なら、こうなるのでは、そんな感じで書いてみました。 この作品は昔の方が良いという感想があったのでそのまま残し。 これに追加して書いていきます。 新しい作品では ①主人公の感情が薄い ②視点変更で読みずらい というご指摘がありましたので、以上2点の修正はこちらでしながら書いてみます。 見比べて見るのも面白いかも知れません。 ご迷惑をお掛けいたしました

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~

胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。 時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。 王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。 処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。 これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

愛など初めからありませんが。

ましろ
恋愛
お金で売られるように嫁がされた。 お相手はバツイチ子持ちの伯爵32歳。 「君は子供の面倒だけ見てくれればいい」 「要するに貴方様は幸せ家族の演技をしろと仰るのですよね?ですが、子供達にその様な演技力はありますでしょうか?」 「……何を言っている?」 仕事一筋の鈍感不器用夫に嫁いだミッシェルの未来はいかに? ✻基本ゆるふわ設定。箸休め程度に楽しんでいただけると幸いです。

夫が「愛していると言ってくれ」とうるさいのですが、残念ながら結婚した記憶がございません

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
【完結しました】 王立騎士団団長を務めるランスロットと事務官であるシャーリーの結婚式。 しかしその結婚式で、ランスロットに恨みを持つ賊が襲い掛かり、彼を庇ったシャーリーは階段から落ちて気を失ってしまった。 「君は俺と結婚したんだ」 「『愛している』と、言ってくれないだろうか……」 目を覚ましたシャーリーには、目の前の男と結婚した記憶が無かった。 どうやら、今から二年前までの記憶を失ってしまったらしい――。

【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから

真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」  期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。    ※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。  ※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。  ※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。 ※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。

処理中です...