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帝都の大学
白驟雨の温もり Ⅰ
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遺構は、立っているのが不思議なほど、形がなかった。
加えて、大きな太い木が、容赦なく根を張って石畳__これはおそらくもともとは床材だったのだろう__を押し上げていて、ほぼ森と同化しているといってもいい。
「しばらく、ここでやり過ごそう」
「え……」
巨木のお陰で、かろうじて濡れていない、遺構のアーチの真下あたりへキルシェを引っ張って行く。
「許可も出ている」
「許可……?」
リュディガーは言って、視線で示す。そこには、先程の白い狐が佇んでいて、キルシェと視線が合うと目を細めた。
「__あれは……」
「このあたりの主だ。ここを使え、と」
なるほど、とキルシェは内心納得してから、白い狐に深く頭を垂れる。
すると、狐は雨の森へと軽やかな足取りで掛けていった。その姿は、まるで周囲に溶け込むように、滲んで消えていくから、キルシェは目を見張った。
「白驟雨__30分も休んでいけば、霧雨にはなるらしい」
「そ、そう……」
リュディガーは、アーチの基部に腰を据え、キルシェにもまたそこを勧める。
二人で並んで座るには余裕があるが、雨に濡れてしまっているところもあるから、身を寄せて座るしかない。
「30分、ここがもつかはわからないが」
無造作に顔にかかった前髪を払ってリュディガーが揶揄するように言うのは、徐々に乾いている場所が減って狭くなってきているからだ。
雨足が強くなれば、弾かれて飛んでくる雫が多くなってじりじりと濡らす範囲を広げてくるだろう。
とりあえずは、濡れた顔や髪を拭おうと、先程鍛錬後の入浴で使ったタオルを鞄から取り出して、拭いにかかる。
リュディガーも同様に拭い始めるが、限られた空間だから肘が当たるのはご愛嬌といった状態だ。その状況を改善しようと思ってだろう、リュディガーは立ち上がって拭う。
「日傘を差せば、そこまで濡れなかったんじゃないか?」
リュディガーが顎をしゃくって示すのは、キルシェが脇に立て掛けた日傘。
「これは……大事な、日傘なので……雨に濡らすと生地が早く痛みますから……」
折角、彼が贖ってくれた物だ。長持ちさせたい。
日傘を見つめながら、キルシェは髪の毛にタオルを当てる。
キルシェが長い髪の毛の水気を吸わせるのに手間取っていれば、リュディガーは手早く拭い終わったらしい。暫し佇んだまま終わるまで見守って居るようだったが、待たせるのが忍びなくて、座るように促す意味で少しばかり腰をずらした。
意図を汲んだ彼は、その位置に腰を下ろす。
まさしく膝を突き合わせるほど近い。
冷たい雨に濡れ、肌寒さを覚えていたのに、彼が座った途端、仄かに温かく感じられるほど。
__近い……。
普段行動しているが、混み合った乗合馬車でもなければこれほど近くに座ることはない。
__私は最近おかしい……。
そう、可笑しい事が多い。
こんなことで気恥ずかしくなるのが可笑しい。
可笑しいのを勘の良いリュディガーに悟られるのが怖くて、髪の毛の水気をタオルに吸わせながら、キルシェは徐々に項垂れていった。
水気をひとしきり吸わせ終えてタオルを仕舞い、膝の上で両手を握り込む。石畳に打ち付け、弾ける水をぼんやりと眺めながら。
「なあ、キルシェ」
何、と内心どきり、としながら、視線は膝の上で組んだ手に落としたまま尋ねる。
「__私は、何か気に障ることをしただろうか?」
「え……?」
予想外な問いかけで、キルシェは面食らって顔を上げて彼を見る。
リュディガーは後ろ頭を掻きながら、キルシェが視線を向けたのを感じて、顔を向けてきた。その顔はとても真剣な面持ちで、まっすぐ見つめられるとキルシェは思わず視線を反らした。
「いえ、そんなことはないですが……」
「いや、何かあるだろう。ここ数週間どこか余所余所しい」
「余所余所しい……?」
「ああ。まず視線は本当に合わせないだろう?」
「いえ、合わせ……はしていますよ」
指摘されて、キルシェは顔を上げて視線を交える。
ほう、と腕を組むリュディガー。
「なら、言い方が悪かった。すぐに反らす、と言えばいいか。__逃げるように」
最後の言葉に、キルシェはぎくり、としてしまった。
今まさに苦笑を浮かべて視線を外したところだったのだ。
「__何か、やはり私はしたんだろう。だが、色々考えてみたが、皆目見当がつかなくてな……これはもう、君に直接聞くしかない、と」
「そう……ですか……」
「今なら、はぐらかされないで聞けるだろうからな」
確かに逃げも隠れもできない。彼が言うように、やり過ごすこともできないのは間違いない。
ちらり、とリュディガーへ視線を流せば、彼はまっすぐ見つめていて、いくらでも待つ、という意思がひしひしと感じられた。
「__上手く言えないのですが……私の個人的な問題で……」
「問題?」
視界の端で、リュディガーが腕を組んだのが見えた。
「はい、あの……気持ちの問題といいますか……ちょっと、その……」
徐々に言葉が弱くなる。
自分でもうまく説明できないのだ。それを整理して説明するというのは、中々に今は難しい。
「とにかく、リュディガーが何かした、とかではないです。不快な思いをさせたのでしたら、ごめんなさい。そんなつもりはなくて……今後は気をつけます」
「……そうか」
はい、とキルシェは頷く。
「__きっと、また以前のようにはなれると思いますので……。時間はかかるかもしれませんが……」
ようやっと、自分で伝えられる限りを言葉に乗せられた。と同時に、気恥ずかしさが徐々に増して、顔がいくらか火照っている気がする。
納得してくれるだろうか__キルシェは、ひたすらリュディガーの言葉を待つ。
「以前のように、か……」
ぽつり、と呟く彼に対して、キルシェは無言で頷く。
暫し無言になっていたリュディガーに、キルシェは顔を僅かに上げて様子を伺った。
加えて、大きな太い木が、容赦なく根を張って石畳__これはおそらくもともとは床材だったのだろう__を押し上げていて、ほぼ森と同化しているといってもいい。
「しばらく、ここでやり過ごそう」
「え……」
巨木のお陰で、かろうじて濡れていない、遺構のアーチの真下あたりへキルシェを引っ張って行く。
「許可も出ている」
「許可……?」
リュディガーは言って、視線で示す。そこには、先程の白い狐が佇んでいて、キルシェと視線が合うと目を細めた。
「__あれは……」
「このあたりの主だ。ここを使え、と」
なるほど、とキルシェは内心納得してから、白い狐に深く頭を垂れる。
すると、狐は雨の森へと軽やかな足取りで掛けていった。その姿は、まるで周囲に溶け込むように、滲んで消えていくから、キルシェは目を見張った。
「白驟雨__30分も休んでいけば、霧雨にはなるらしい」
「そ、そう……」
リュディガーは、アーチの基部に腰を据え、キルシェにもまたそこを勧める。
二人で並んで座るには余裕があるが、雨に濡れてしまっているところもあるから、身を寄せて座るしかない。
「30分、ここがもつかはわからないが」
無造作に顔にかかった前髪を払ってリュディガーが揶揄するように言うのは、徐々に乾いている場所が減って狭くなってきているからだ。
雨足が強くなれば、弾かれて飛んでくる雫が多くなってじりじりと濡らす範囲を広げてくるだろう。
とりあえずは、濡れた顔や髪を拭おうと、先程鍛錬後の入浴で使ったタオルを鞄から取り出して、拭いにかかる。
リュディガーも同様に拭い始めるが、限られた空間だから肘が当たるのはご愛嬌といった状態だ。その状況を改善しようと思ってだろう、リュディガーは立ち上がって拭う。
「日傘を差せば、そこまで濡れなかったんじゃないか?」
リュディガーが顎をしゃくって示すのは、キルシェが脇に立て掛けた日傘。
「これは……大事な、日傘なので……雨に濡らすと生地が早く痛みますから……」
折角、彼が贖ってくれた物だ。長持ちさせたい。
日傘を見つめながら、キルシェは髪の毛にタオルを当てる。
キルシェが長い髪の毛の水気を吸わせるのに手間取っていれば、リュディガーは手早く拭い終わったらしい。暫し佇んだまま終わるまで見守って居るようだったが、待たせるのが忍びなくて、座るように促す意味で少しばかり腰をずらした。
意図を汲んだ彼は、その位置に腰を下ろす。
まさしく膝を突き合わせるほど近い。
冷たい雨に濡れ、肌寒さを覚えていたのに、彼が座った途端、仄かに温かく感じられるほど。
__近い……。
普段行動しているが、混み合った乗合馬車でもなければこれほど近くに座ることはない。
__私は最近おかしい……。
そう、可笑しい事が多い。
こんなことで気恥ずかしくなるのが可笑しい。
可笑しいのを勘の良いリュディガーに悟られるのが怖くて、髪の毛の水気をタオルに吸わせながら、キルシェは徐々に項垂れていった。
水気をひとしきり吸わせ終えてタオルを仕舞い、膝の上で両手を握り込む。石畳に打ち付け、弾ける水をぼんやりと眺めながら。
「なあ、キルシェ」
何、と内心どきり、としながら、視線は膝の上で組んだ手に落としたまま尋ねる。
「__私は、何か気に障ることをしただろうか?」
「え……?」
予想外な問いかけで、キルシェは面食らって顔を上げて彼を見る。
リュディガーは後ろ頭を掻きながら、キルシェが視線を向けたのを感じて、顔を向けてきた。その顔はとても真剣な面持ちで、まっすぐ見つめられるとキルシェは思わず視線を反らした。
「いえ、そんなことはないですが……」
「いや、何かあるだろう。ここ数週間どこか余所余所しい」
「余所余所しい……?」
「ああ。まず視線は本当に合わせないだろう?」
「いえ、合わせ……はしていますよ」
指摘されて、キルシェは顔を上げて視線を交える。
ほう、と腕を組むリュディガー。
「なら、言い方が悪かった。すぐに反らす、と言えばいいか。__逃げるように」
最後の言葉に、キルシェはぎくり、としてしまった。
今まさに苦笑を浮かべて視線を外したところだったのだ。
「__何か、やはり私はしたんだろう。だが、色々考えてみたが、皆目見当がつかなくてな……これはもう、君に直接聞くしかない、と」
「そう……ですか……」
「今なら、はぐらかされないで聞けるだろうからな」
確かに逃げも隠れもできない。彼が言うように、やり過ごすこともできないのは間違いない。
ちらり、とリュディガーへ視線を流せば、彼はまっすぐ見つめていて、いくらでも待つ、という意思がひしひしと感じられた。
「__上手く言えないのですが……私の個人的な問題で……」
「問題?」
視界の端で、リュディガーが腕を組んだのが見えた。
「はい、あの……気持ちの問題といいますか……ちょっと、その……」
徐々に言葉が弱くなる。
自分でもうまく説明できないのだ。それを整理して説明するというのは、中々に今は難しい。
「とにかく、リュディガーが何かした、とかではないです。不快な思いをさせたのでしたら、ごめんなさい。そんなつもりはなくて……今後は気をつけます」
「……そうか」
はい、とキルシェは頷く。
「__きっと、また以前のようにはなれると思いますので……。時間はかかるかもしれませんが……」
ようやっと、自分で伝えられる限りを言葉に乗せられた。と同時に、気恥ずかしさが徐々に増して、顔がいくらか火照っている気がする。
納得してくれるだろうか__キルシェは、ひたすらリュディガーの言葉を待つ。
「以前のように、か……」
ぽつり、と呟く彼に対して、キルシェは無言で頷く。
暫し無言になっていたリュディガーに、キルシェは顔を僅かに上げて様子を伺った。
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