【完結】訳あり追放令嬢と暇騎士の不本意な結婚

丸山 あい

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帝都の大学

ちょっとした変化

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 湯浴みを終えて部屋へ戻ったキルシェは、洗面用の盥が置いてある棚の前へ椅子を移動させ、そこに腰掛けた。

 途端に、ふぅ、とため息がこぼれてしまうのは、なんとなくやっと人心地つけたようだったからだ。

 __久しぶりに、だいぶ外を出歩いたもの……。

 相変わらず賑やかな往来の中を歩き、半日は外で過ごしていたのだから無理もない。

 リュディガーがいたと言っても、やはり見知らぬ大柄な男を間近にしてしまう度に緊張はしてしまうし、当初の目的を果たすまでは嘘を突き通さねばならなかったのだから、気苦労は耐えなかった。

 ふぅ、と改めて、ため息を零して、盥の側に置かれている小瓶のひとつを手にとる。

 他のものに比べ少しばかり小洒落た印象の硝子の小瓶には、とろん、とした赤みのある透明な液体が閉じ込められて、それを数滴手のひらに垂らした。

 途端に広がる芳醇な薔薇の香り。

 これは先日の事件の宿から引き上げるとき、ラエティティエルがくれた香油である。

 薔薇の香りが心地良いそれを手のひらで広げて、水気をある程度とった髪の毛の毛先に先ずはなじませるように、揉み込んでいく。

 ぼんやり、と目の前の鏡に視線を移した時、自分の顔がいくらか綻んでいるのに気づいた。

 この香りは、気分を落ち着かせるし、高揚させてくれるのだ。だから、いつも髪の毛に塗り込む時、無意識に顔が綻んでしまっている。

 再び小瓶から、数滴手にとって手の平だけでなく指先にも伸ばすようにしてから、手櫛の要領で髪を梳いていく。

 __もったいない、と思わずにたっぷり使うのがコツですからね。3日に一度でも十分ですし……もし、毎日使っても、一ヶ月はもちますから。

 そう言って、ラエティティエルが塗り込んでくれた手付きを思い出しながら、キルシェは手を動かす。

 とても疲れた日や、気分転換がしたい時、あるいは矢馳せ馬の鍛錬があった日、自主的にリュディガーと帝都の外で馬術の鍛錬をしている日には使うようにしていた。

 昨日もリュディガーと帝都の外での鍛錬があったから使っていたのだが、今日は日向を歩いたからだろう。洗髪して水気を絞っている際、ぱさついているように感じられたから、昨日に引き続き連日使うことにしたのだ。

 揉み込むほど、手櫛で梳くほど、指通りはなめらかになり、髪の毛の表面も艶を増してきた。

 それなりに自前の髪油は使って手入れしていたのだが、彼女がくれたこの香油は本当に効きがよい。

 間違いなく高価な香油に違いない。そんなものを激励するためとはいえ無償でくれたラエティティエル。

「あ__……お礼……今日、見ておけばよかった」

 ふと、手元を止めてキルシェは考えの至らなさに気づいた。

「ラエティティエルさんのは……消え物にしろ何にしろ、リュディガーもいたのだから、好みは知っていたから聞けたのだし……」

 __ハンカチのことで気を取られ過ぎていたのだわ……。

 先生のものを贖いたい、という体裁を意識しすぎていた。

 意図せず婦人用の雑貨店にも寄れたのだ。まったく、自分は何をしていたのだろう。

 やれやれ、と自分にげんなり、としながら、もう一度数滴香油を垂らして伸ばし、髪の毛に塗り込む。
 手の平に広げた油が無くなったところで、キルシェは櫛に持ち替えて一通り梳きにかかる。

 司祭のイーリスはその職業上、清貧を重んじるから物によっては受け取ってはもらえないかも知れないが、修道院の寄宿学校時代の記憶から、日々の生活に使えるものであれば、受け取ってくれたはずである。__寄付、という名目であれば。

 __例えば、紙だとかの消耗品でもいいし、修道院で作るお菓子の材料だとか……。それに、イーリス様個人で使える物を添えれば……。

 次の機会を早く設けないと、と思いながらキルシェは櫛を置き、改めて鏡を見る。

「……またリュディガーにお願いすることになるのよね……」

 またか、とは言わず、二つ返事で了解してくれそうではあるが、彼にはなんの利点もないように思う。

 __寧ろ、散財させている……わよね。

 キルシェは扉の脇に立て掛けた、新しい日傘をしばし見、そちらへと歩み寄って手に取る。

 これだって、安いものではないはずだ。

 これまで、一緒に出歩くことがあって、自分の気に入りの物があった時、リュディガーが払ってしまっているように思う。

 __いつからだったかしら……。

 始まりは、干した杏だっただろうか。荷車を借りる代わりに贖ったと言っていた。

 夏至祭で出会った記念品__硝子ペンも、自分で使うと言って買っていた重石の硝子と一緒に。

 これほど親しい間柄になるとは、弓射の指南役を頼まれたときには想像できなかった。

 これまでの人生で、彼ほど見返りを求めず動いてくれた人がいただろうか。

 使用人たちは、心を許せる者はもちろんいるものの、立場上対等とは言えない。対等でないからこそ、彼らに過分な負担になってしまうようなことは、キルシェはすべきでないと思う。

 リュディガーは対等とは言え彼に対しても、ふとしたとき、同じことを思うのだ。

 __時間ばかり、浪費させているのではない……?

 大したことはない、とからり、と笑って言い放ちそうな彼。

 困っていれば、多くを言わずともそれを察して動いてくれてしまう彼は、いつの頃からかとても頼りがいがある。

 __甘えてしまっている、とも言える……。

 気をつけねば、と思うのだが、彼と過ごすことは楽しいし、寧ろ昨今ではそれが当たり前になってきてしまっているから、別々に行動していると違和感にも似た感覚を覚えてしまうのだ。

 __あの事件があってからは、特に……。

 キルシェは下唇を噛み締め、日傘を見つめる。

 必ず何かあってもいいように、常に周囲を見張って立ち居振る舞い、盾になることも厭わない。

 __最近は、とくに近い……。

 はっ、とするほど近い時がある。それはやむを得ないと言えばそうだ。

 彼の気遣いであり、思いやりの現れだと理解している。拒否する理由はもちろんないが、少しばかり困るのは、どぎまぎしてしまう瞬間が増えたこと。

 いくら朋友だと認識していても、彼は男で、自分はやはり女だ。それをより痛感させられることが多くなってきた。

 男性の中でも彼は上背はあるし、それに比例して体格も立派だ。

 __彼の手は、本当に大きいし……。

 手を取ってくれる彼の手。肉厚で、筋張っていて無骨な印象の手。本気を出せば自分の腕など折ることなど容易いだろう。その手が、本当に優しく手を取る。

 その彼は、常は武官らしく凛々しい顔だ。ともすれば無表情と言えるのだが、話してみれば驚くほど表情は豊かだとわかる。

 すくむほど苛烈に眼光鋭くもなる蒼の奥に紫の深みがある瞳は、常であれば誠実さを表したような瞳で、それと視線があうと、なんとなく気恥ずかしくて誤魔化すように自分は視線を反らすしかない。

 __何をしているんだろう……、私は。彼は、特別気を使ってくれているだけ。誰に対しても、誠実でいるのだから。

 遅れる者を待つ__龍帝従騎士団に発せられた、龍勅たつのみことのりに従いそれが当たり前な彼ら。何も特別なことではないのだ。

「あんな事件があってから、ちょっとやっぱり……可笑しいのよね」

 はぁ、とキルシェはため息を零した。
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