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帝都の大学

解れなら

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 こんこん、とノックの音でキルシェは手元から顔を上げて応じれば、ノックした相手はリュディガーだった。

 ラエティティエルやイーリスを見送って戻ってきた彼を招き入れれば、彼は手に茶器の載ったトレイを手に現れた。

「それは……」

「お茶だが?」

「ラエティティエルさんに言われたのね。まだこちらにありますのに……」

 キルシェは手近のテーブルに置かれた飲みかけのお茶のカップを覗き込む。

「いや、残念ながら、彼女に言われたわけではない。冷めただろう、と思ってな」

「それは、お気遣いを……」

 驚きをかくせないでいれば、くつり、と笑うリュディガー。彼は、キルシェが座る窓辺のテーブルではなく、手前のソファーのテーブルへ運んできた茶器を置いた。

「侍女殿の従者教育の賜物というやつだな」

 キルシェがいるテーブルには茶器だけでなく、キルシェが移動させた衣服も置かれていて、新しいお茶を奥にはゆとりがなかったのだ。

「具合はどうだ?」

 キルシェは思わず笑う。処置が終わり、部屋へ招き入れた直後も、彼は同じことを聞いていたからだ。

「部分部分で痛みはありますが、ほぼ普段どおりですよ。ありがたいです」

 顔の鈍い痛みの残る頬を擦りながら答えれば、リュディガーは難しい顔をした。

「ならいいんだが……__ん? 何をしているんだ?」

 茶器を置き終えて立ち上がったとき、キルシェの手元にあるものが目に留まったらしい。目を細めて吟味している彼に苦笑を浮かべて、手元の物を軽く掲げて示す。

ほつれていたので」

「そうか……って、それは私の羽織じゃないか」

 気づかれないうちに、と思って部屋の備品で置かれていた針と、自分が昼に贖っていた生糸を使って繕っていたのである。

 偶然とは言え、買っておいてよかったと思えた。

 __耳飾りは失くしたけれど、これがあってよかった。こんなかたちで役立つなんて、思わなかったもの。

 リュディガーが歩み寄るのを尻目に、キルシェは手元の動きを再開した。

「投げ飛ばしたときですかね。脇のところが解れていましたから」

「……確かに、あのとき嫌な音がしたような気がしなくもないが……だからって君はそんなことしなくていい」

「これでも、家を出る時、刺繍以外のことも叩き込まされていますから、このぐらいの繕いならできます」

 家というよりは、正しくは寄宿学校で、であるが__。

 制するように彼の手が伸びてくるものの、キルシェはそのまま手を動かし続ける。

「これは、捨ててしまうものですか?」

「いや、そういうわけではないが」

「なら、させてください。心ばかりのお礼です。こんなことしかできませんが……」

 それを聞き、彼の手は目的を逸したかのように宙を掴んで結局戻っていった。

「……こうして縫えば、元通りになるのですから、お裁縫というのは便利ですよね」

 構わず動かし続けながら、そうひとりごちて呟けば、微かに彼が息を詰めた気配がした。

「勿論、お針子の腕次第ですけれど」

 冗談めかして言って顔を上げると、彼は眉間に深い皺を寄せている。

「これをあの時、羽織らせてくれて、すごく安心できました。もう大丈夫なんだ、と思えて……」

 落ち着いている、とイーリスは言っていたが、あれだって直前にリュディガーに色々と吐露できていたからだ。

 __リュディガーがいなかったら、私は……沈み続けていたに違いないわ……。

「__ありがとう、リュディガー」

 いや、と固く答えるリュディガーにキルシェは今一度笑いかける。

 そして手元に視線を落として、手元の動きを止める。

「……この糸」

「ん?」

「工房を見て回って……沢山の綺麗な色に染められた糸を扱っている工房に出くわして、そこでこれを贖ったんです。……そうしたら……その後……」

 それ以上は言うに耐えなくて、キルシェは口ごもる。

 __今回はすごく運が良かったのだわ……。

 騒ぎのすぐ側にリュディガーらが居て、未遂のところで見つけて救い出してもらえた。

「……浮かれていたのですよ、きっと」

 これまでしてこなかったこと__帝都の散策など、これまですすんでしてこなかったことである。

「色々見られて……リュディガーやブリュール夫人に、見てきた物をお話しするの、すごく楽しくて……これまでなんともなかったから、図に乗っていたの。世間知らずすぎたのです、私が……」

「私も、危険な区画がすぐそばにあることを、もう少し強調して伝えておくべきだった……すまなかった」

 両手を握りしめて俯くリュディガーに、キルシェは手元を止めて首を振る。

「土地勘のない者__女が独り、あきらかに不釣り合いな格好で歩いていたのが、そもそも過ちだったの。少し考えればわかったことなのに……。好奇心は猫をも殺すとは、まさしくこれですね」

「……キルシェ」

 神妙な面持ちで顔を上げて彼が呼ぶので、キルシェは小首をかしげた。

「もし、どこか興味がある場所があるのであれば、気兼ねなく言ってくれれば連れて行く」

 彼の淀みない言葉に、キルシェは言葉を逸して目を見開く。

「幸い、長期休暇中だ。時間の融通は利く」

「リュディガー……」

「私は、君が君の目を通して見えた世界の話を聞くのが好きなんだ」

 予想外な言葉を貰ったキルシェは、うまく言葉がでてこない。

「面白い見方をするな、と……新しい発見を私もさせてもらっていたから」

 キルシェは手元の彼の羽織に視線を落とす。

「……私も、見聞きしたことを土産話にするのは、とても楽しかったです……物知りで、帝都を網羅している貴方に近づけたような感じがして……__でも、無理だと思います」

「キルシェ……」

 至極残念そうな声音に、キルシェは一度目をつむる。

 油断すると、その瞼裏の闇に、自分を絡め取った悪漢の手が伸びてくるような錯覚を覚えるので、幻だ、と自分を落ち着けるためにひとつ呼吸を整えてから顔を上げる。

「__今すぐには。……まだとても勇気がいることなので……」

「それは、そうだろう。当然だ」

 見つめる先のリュディガーの顔にあった不安が、徐々に晴れて行くのが見て取れてキルシェは笑む。

「でも、そうなったときは、お願いします」

 ああ、と迷うことなく力強く頷くリュディガーに、キルシェは胸が詰まって今一度手元のそれに視線をおとした。

 目の前の彼は、どうしてこれほど親身になってくれるのだろう。

 たまたま出くわしただけと言えばそうだ。

 __リュディガーは、誠実だから……。

 関わった被害者には、これまでも心をこうして砕いてきたのだろう。

 __それこそ、遺族にまで。

 龍帝従騎士団の皆が皆、こうなのだろうか。

 それともそういう質だからこそ、龍帝の従僕になることができたのか。

 __その筆頭である元帥閣下まで……今回はすごく動いてくださった。

 リュディガー以上に忙しい身の上のはずだというのにである。

「__そういえば、元帥閣下はお忙しいお方のはずなのに、どうしてこれほど……」

「それは……」

 そこで言葉を途絶えさせたリュディガーに、キルシェは顔を上げて彼を見た。
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