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帝都の大学

派遣されたラウペン家の侍女

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「__何で、君が居るんだ」

「あら、私、ラウペン家の有能な侍女ですよ。お忘れですか? 従者のリュディガー」

 しれっ、と言い放つ声は女性のもの。ただ、今しがたの女中の声とは違った。しかも、お客に対する態度ではない物言いである。

 __誰? 何かしら……。

 怪訝にキルシェがしていれば、リュディガーに道を譲らせるようにして入室する女性__耳長族。
その女性は“碧潭へきたんの森”のラエティティエルだった。

 侍女の身拵えの彼女は、入室してキルシェを認めるや否や恭しく礼を取るのだが、上げた顔は目が合うと切なげに歪む。

 何故彼女がいるのだろう。

 元帥が言っていた人を寄越す、というのは彼女のことだったのか。

 全身の鈍い痛み、怠さで思考もぼやけてしまうが、見知った彼女の存在がとても安心させてくれる。

「お嬢様、申し訳ございません。お荷物をまとめるのに時間が掛かってしまいまして」

 遅くなりました、と言う彼女は、リュディガーをそのままに、大きな鞄を携えてキルシェへと歩み寄る。

 その彼女は、片目を軽く閉じてみせた。

 話を合わせて__そう言われたように感じ、キルシェは小さく頷く。

「あ……あの、追加のお湯を、お持ち致しましたが……」

 呆然と立ち尽くすリュディガーの横の扉は開け放たれたままで、そこから恐る恐る女中が顔を出した。

「あら、ご苦労さまです。助かります。__お嬢様、すぐに湯殿へ参りましょう。夏とは申せ、今日の雨は冷えますね。雨に濡れて、さぞお寒かったことでしょう」

 彼女に、お嬢様、と呼ばれるのはどこかこそばゆい。

 キルシェはくすり、と笑って頷くと、ソファーに縋るようにして立ち上がる。

「リュディガー。いつまで突っ立っているのですか。手をお貸しなさい」

「あ、あぁ__はい」

 キルシェに手を貸しながら、顔を向けずに、ぴしゃり、とリュディガーに言えば、彼ははっ、と我に返ったように慌てて駆け寄ってくる。

 ラエティティエルに先導されながらリュディガーに支えられ、女中たちがお湯を注ぐ湯殿へと向かう。

 浴室から出てくる女中たちへ礼を述べる、ラエティティエル。

 彼女らと入れ替わるようにして入った湯殿は、濃い瑠璃色のタイルで壁も床も覆われていた。差し色に金色のタイル__真鍮の粉を振ったものだろうか__が要所要所を縁取っている。

 浴室の窓には床と並行に柵がされていて、それは斜めに打ち付けられているものだから、雨雲が広がる空を見ることしか出来ない。その柵が目隠しの役目を担っているのだ。

 キルシェをリュディガーに預け、ラエティティエルは携えていた鞄を置いてから、部屋の端に置かれていた椅子を湯気が昇る湯船の傍に移動させる。

 そこへキルシェは腰を据えた。リュディガーの手助けがあって、彼にほぼ凭れる形での移動だったから、椅子に座ると途端に自身の重みにため息が溢れてしまう。

「リュディガーは、もうよろしいです」

 下がってください、とややつっけんどんに言い放つラエティティエルは鞄を開け、そこからひとつ包みを取り出して、リュディガーへと示す。

「着替えです」

「着替え?」

「貴方が入院中、私が洗っておいた服です。引き取りにも来ないので、私が預かったままでした」

「あ……」

 言葉に詰まり、顔を強張らせるリュディガーに、ラエティティエルは大きなため息を零して、押し付けるように持たせる。

「貴方は、身なりを整えに下がってください。髪は乱れていますし、衣服だって汚れが目立ちます。そんな状態でお嬢様の御前にいることも、ましてやお嬢様の従者などと触れ回られては困ります」

 リュディガーは、自身の汚れが目立つ衣服を検めた。

 彼の身なりは、世間一般的な良家の従者というには怪訝にされかねないほど汚れている。

 衣服はさることながら、揉み合ったときに崩れた髪の毛も、雨よけをしていたとはいえ濡れた部分もあり、手櫛で整えた程度の放置には限界があった。

「……ごもっとも」

「ほら、行ってください」

 急き立てるようにリュディガーを浴室から追いやられるように扉の外へ出た彼は、ラエティティエルに振り返った。

「使用人用に隣室が用意されているから、そこで整えてくる」

「そうなのですね。湯浴みもできるなら、なさってください」

「ありがとう。来てくれて助かった、ラエティティエル。__後を頼む」

 はい、と答えるライエティティエル。

 リュディガーは、独り浴室の椅子に取り残されたままのキルシェへ顔を向け、苦笑を浮かべてみせてから、扉を閉めた。

 踵を返して戻ってくるラエティティエルは、キルシェにふわり、と笑ってみせる。そして、鞄へと歩み寄り、そこから小瓶を3つ取り出して浴槽の縁に並べていく。

「__元帥閣下から派遣されたマグヌ・ア中尉に、つまんでお話しは伺いました」

 さらに、乾燥させた薬草の束を包から取り出しながら、ぽつり、と彼女は言葉を漏らした。

「では、やはり、ラエティティエルさんは元帥閣下の計らいで……」

 はい、と答える彼女は眉尻を下げた。

「よく……本当に、よろしゅう、ございました」

 キルシェは、涙が落ちそうになるのを目元に力を込めてどうにか堪える。

「よいなどと言える状況でなかったのは、重々承知しておりますが……ですが……それでも……」

 声をつまらせる彼女の言わんとすることが痛いほど分かって、キルシェは気にしないで、と首を振る。

「中尉からお話しを聞かされた時、気が気ではいられませんでした。__こんなに、お顔を……なんと、おいたわしい」

 長く白魚のような指を揃えて頬に触れる、ラエティティエルの手。

「リュディガーに、痛み止めをもらいましたから、今はそんなに痛くはないです。視界が狭かったり……顎に違和感があって、喋りにくくはあるのですが……」

 鉄の味ももはやしないから、止血もできたようだ。

「痛み止めは歯で噛みしめるものですか?」

 小さく首肯してみせれば、彼女もまた頷いた。

「__では、一度出しましょう。暫く効果は続きますし、湯浴みの後には別のものを手配してありますので」

 その言葉に従い、キルシェは手にしていた血まみれのハンカチを広げて、そこに含んでいた痛み止めを吐き出した。

「香りの良い薬湯にしますから。ゆっくり浸かってくださいませね。それでは、お召し物を脱ぎましょうか」

 痛みが走らないよう、気をつけながら衣類を脱いでいく。

 体を包んでいたリュディガーの羽織をまずはとり、軽く畳んで背凭れに掛けた。次いで身につけていた服を脱ごうと腕を上げようとすれば、背中と脇腹が軋むように痛んだが、堪えながら上は脱ぎ終えられた。

 何かあればすぐに手を貸せるよう、キルシェの様子を見守るラエティティエルは、湯の温度を確かめると、並べた小瓶の中身の緑みがかった青の液体とほぼ無色透明な青の液体をそれぞれ数滴垂らして手で撹拌させた。

 ほんわり、とした湯気のなかに微かに柔らかで甘く、それでいて爽やかな香りが含まれたのがわかった。

 花の香、というよりも果物__時期がずれているが、青りんごだろうか。それに近い香りのように思える。

 最後に、最後に残った上品な紫の液体を数滴垂らし、薬草の束で撹拌させると、ほんのりと若草の香りの後に花の香りが広がる奥行きが加わった。

「本当に、よく……。このような怪我まで負わされて……」

 全て脱ぎ終えると、痛々しい顔のラエティティエルが草の束を引き上げてから、手を差し伸べて湯船に浸かるよう促した。

 使用人がいた生活に慣れていたし、学生生活で入浴の時は他の学生もいたから、他人の視線はそこまで気にはならない。

 だが、今日は少しばかり__否、見られることが気恥ずかしい。

 手首の握られた痕はもちろんだが、軽く見えたところだけでも擦り傷や痣がいくつもあったのだ。それを人目に曝す__たとえ同性であっても__抵抗がないわけがない。

 彼女の視界から遠ざけたくて、痛んで軋む体を叱咤して、逃げるように湯船に浸かると、温かさが、ちりちり、とした痛みを経て染み込むようだった。

 身を縮こまらせるようにして、その痛みをやり過ごしていると、より香りが近くなって鮮明になる。

 思わず、肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。たったその一回で、頭がだいぶはっきりする。

「この香りは、今の体調にはきついでしょうか?」

「いえ。落ち着きます」

「それはようございました」

 失礼しますね、と言って、海綿をお湯につけたラエティティエル。うなじから背中にかけて、海綿に含ませたお湯を絞って滴らせ、幾度かそれをしてから優しく海綿で撫でていく。

「お辛かったでしょう……怖かったでしょう……」

 __それほど……。

 痛々しい声を上げる彼女。

 体中が痛かった。かなりの広範囲で怪我を負ったに違いない。

 とくに背中は、大男に殴られて飛ばされたとき、強かにぶつかった印象があったから、一番ひどい怪我をおっているのではなかろうか__。

「絶対に、痕には残させませんから」

 彼女の気遣いにキルシェは息をつまらせ、膝を抱えて俯く。すると一層、彼女の手が慈しみに溢れるものになった。

 石鹸を取り出して海綿を泡立て、今度はその泡を丁寧に撫でていた場所へと置いていく。そして、海綿が触れるかどうかという優しさで、泡を広げるようにして清めてくれるのだった。
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