【完結】訳あり追放令嬢と暇騎士の不本意な結婚

丸山 あい

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帝都の大学

侍女という名の

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 そこに、こんこん、と開け放たれているはずの扉を律儀にノックする音。キルシェは弾かれるように我に返って、手を放した。

 見れば、片付け終えてもどってきたラエティティエルだ。

「キルシェ様、すみません。お茶を__重ねて、お手を煩わせてしまいまして」

 穏やかな笑みのなかに、申し訳無さが見て取れて、キルシェは笑顔で首を振る。

「あら、様子を拝見してからお典医いしゃ様をお呼びしようとしてましたのに、もうお休みですか。思ったよりも早くていらっしゃる」

 新たな盆を手にしていた彼女は、歩み寄りながら僅かに驚きに目を見開く。

「会話などは如何でした?」

「いくらか。最初はぼんやりとしていましたけど、すぐにはっきりと言葉をやり取りできました」

「そうでしたか。なら、次に目覚めたときは、もっと快復してますね」

 よかったです、と言いながら、ラエティティエルは、盆を隣の寝台へ置き、そこでなにやら盆の上の物をいじり始める。

「キルシェ様は__すみません、先程ありがたくお名前だけでよいと仰せでしたが、ここではお許しを」

「いえ。良いようになさってください」

 自分は、彼女に傅かれるような立場にないから、という心遣いからの申し出なだけだ。彼女が都合の良いようにしてくれれば、呼び方などどうでもよい。

「ありがとう存じます。__キルシェ様は、お加減は大丈夫ですか?」

「え? 加減……ですか?」

 はい、と返事を彼女の手元から煙が立ち昇る。よくよくみれば、彼女の手元には香炉だろうと思われるものがあった。

 それを両手で大事そうに持って、窓の淵に置く。香炉は細身で、口へ向かって反り返るような形。色は一見して乳白色だが、少しばかり見る角度を変えると様々な色の光を弾いて輝き、遊色が賑わって見える。__蛋白石と呼ばれるものに近い色だった。

 緩やかな風に広がる煙。それは、甘すぎず、苦すぎず、涼やかで古風な落ち着きがある薫り。__どうやら、鼻は利くようになってきたらしい。

「あれは、瘴気の毒素の残滓みたいなものです。残穢ざんえ、と呼んでいます」

「残穢……」

「瘴気に侵された者の証です。それも深く、濃く」

 滅多にそこまでは侵されないのですが、とラエティティエルは苦笑を浮かべる。

「__今回、彼は、深みに踏み込みました。かなりの濃い瘴気に当てられると……毒気と申しますか、瘴気そのものと申しますか……そうしたものに蝕まれると、我々エルフの言い方で言えば、夢現に揺蕩うのです」

 夢現__確かに、目覚めたばかりの彼は、茫洋とした様子だった。何かに揺蕩ってふやけているような。

「私をキルシェ様と見間違えたのも、そして、最初はぼんやりとしていた、と仰っておりましたが、それもそれ故」

「そうなのですか」

「そして、夢現に彷徨ったまま、下手をすれば__戻らないことも」

「え……」

 ひゅっ、と心臓が縮こまる心地に震えてしまう。

「ですがご安心を。__もう此処へ移された段階で、その状況は脱しておりましたから」

 ラエティティエルは、リュディガーの顔を見た。静かに穏やかな寝息を繰り返す彼は、しばらく起きるようには見えない。

 キルシェはその寝姿を、過去に重ねて見た。

 __ならば、あの昔見た人たちは……。

 魔穴は頻繁に生じる事象ではない。だが、魔穴だけでなく、瘴気は平時でもこの世に吹き出すことがある。イェソド州は波があるが、他の州に比べ瘴気が吹き出しやすいとされている。

 どす黒い吐瀉物を吐いていたあの人たちは、そうした吹き出した瘴気に侵されてしまった人たち。

 吐いた人もいれば吐かなかった人もいて、後者はそのまま衰弱して命を落としていったと記憶している。吐いた人は病床を移されてしまって、その後のことは知らないが、今思えば彼らは亡くなってはいないように思う。

「__穢れは取り扱いを間違うと、触穢しょくえになります」

「触穢?」

 はい、と答え、ラエティティエルは、香炉を運んできた盆に取り残されていた小さな巾着を手に取った。

「__今日は、これをお持ち帰りください」

 手渡されたそれは、手に簡単に収まる大きさだが、見た目よりも重い。しっかりとした形があり、形状から察するに石のようだ。

「これは、石……ですか?」

「ただの石ではないですが、石は石です。__残穢とは穢れの残滓とは申せ、それでも穢れ。穢れというものは、伝播します。触穢もまさしく穢れの一種です」

 だからか、とキルシェははっ、とした。

 だから、吐瀉物__残穢を運ぼうとしたとき、彼が止めたのか。

 __そういう事だったの……。

 小さい頃はただ、飛び散ったら報せること、触れたりしたら教えることを厳しく指導されていただけ。全容を知ることはなく、ただこの黒い物はよくないものなのだ、と察して行動していただけだった。

「まさか、残穢があるから、ここに独り?」

「ご推察の通りです__が、残穢を吐き出す……とは判断しかねておりまして、どちらかと言うと、そうなっても良いように、という程度でこちらに」

「残穢があると……容態が急変したりするのですか?」

「はい。なくはないです。__させませんが」

 答えるラエティティエルは、力強く答え頷く。それは確固たる自信に満ちたもの。彼女はきっと幾度もこうした状況を乗り越えてきたのだろう。

「ご家族が面会に来て、あれを目撃したら卒倒ものです。通常であればあれを吐き切るまでは、面会の許可は出ません」

「では、今回は何故?」

「彼は一度目覚めましたとき、残穢を吐き出さなかった。安定もしておりましたので、現地での祈祷等の処置で浄化しきって吐き出さないのだろう、と判断されて許可が下りたのです。一応、限られた方__いま彼の所属先は大学で、その大学から騒がしく出立したので、学長様など限られた方には許可が出されたと」

 確かに、あれを目の当たりにして、家族はただ不安がるに違いない。それに、レナーテル学長やビルネンベルクならば、冷静に対処する様しか浮かばない。恐らく、龍帝従騎士団でも、それも見越しての許可だったのだろう。

「まあでも、大げさに聞こえてしまっているかもしれませんが、先程の残穢からでしたら、影響はほぼありません。最悪、少し体調を崩すか、気分が塞ぐかといった程度でしょう。キルシェ様には触穢はありませんが、念の為のお守りのようなものです。私の息を吹きかけてあります」

「息……?」

「念を込める、とでも申しますか」

 いまいち合点がいかず首をかしげると、ふふ、とラエティティエルは笑う。

 そして、失礼、と言い徐にキルシェが持つ巾着に二指で触れた。

「……《フルベ》」

 小さく吐息のように言葉を発するラエティティエルは、指を離した。

「これでしかと御身を、穢れからお護りするはずです」

「今のは?」

「その《もの》がもつ力を震わせて、発揮させるための言葉です」

 ラエティティエルは柔和に笑む。

「私ども、ここでお勤めをさせていただいている全て__とりわけ、私のような侍女は、便宜上侍女としておりますが、そうした小間使というよりも、祓い清めるためにおります」

「では、神官なのですか?」

「神官とは違いますが、似たようなものです。所属は文官にあたります。宮妓というものがおりますが、それと同じような立場ですね」

 それは知らなかった、とキルシェは目を見開く。

 宮廷には、舞踊や楽器などの芸で来客をもてなす者がいる。これを宮妓と呼ぶ。文字通り、これは全て女性だという。

 儀式にも使われることがある彼女たちは、ラエティティエルの言う通り、文官でありながら神官との中間という位置づけ。

「お休みになられる前、枕元に忍ばせてお休みになってください。脅すつもりなどはなく、先程も申し上げましたが、念の為というだけです」

 言って、ラエティティエルはリュディガーへと視線を投げる。

「大小に関わらず、何かあったとしたら、残穢に晒したナハトリンデン卿も寝覚めが悪いでしょう。__彼のためにも」

 はい、とキルシェは頷いて、その巾着を胸に押し抱くようにし、リュディガーを見た。
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