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月影の閨 Ⅰ
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レディレン教会は、地方にある教会にしては、やや中規模な佇まいだった。
地方も地方であれば管理する神官はおらず、時折来訪があって手入れと祈りがなされる程度。だが、レディレンには常駐する神官が一人いて、この地域の冠婚葬祭を一手に担っているらしい。
典型的な石造りの教会の扉をくぐると、左手には窓があり、窓の下には、石の一枚板が壁に嵌められている。そのテーブルにも長椅子にもなるだろう作りの上に、刺繍が施された布が置かれている。
帝国の布支度という慣習で、新婦がこれまでに作り上げた刺繍が施されている日用品の数々を嫁入りに際し披露するのだ。そして、その出来栄え__質、量によって新婦の評価、ひいては嫁ぎ先の評価となる。
ここ数ヶ月で出来る量などたかが知れている布支度は、果たしてどのような心象になったかは__あまり考えたくないものだ。
通常であれば、もっと用意できていておかしくはない。
キルシェもかつてはそれなりの量があったのだが、一度目の婚姻が無効になった際、すべて処分してしまった。
それは急に解雇されてしまう使用人らへの贖罪を兼ねた行為だったから、今後のことなど考えてなどいなかったのは言うまでもない。
__これからの行動や言動にかかってくるわよね……。
参列者には身内__使用人だけでなく、地域の者がかなり来ていた。そんな事情など、彼らには関係のないことだ。
帝国においては名士といわれるビルネンベルク侯爵家の者も来ているのだし、その者が後見人であったらしいということで、かなりの興味を持たれている中での挙式。そしてその挙式の後は、軽い宴席を提供することもあって、キルシェが思っていた以上のかなりの人手だった。
その誰しもが布支度を見たかは定かではないが、多くの者の目に触れたのは事実。リュディガーに恥をかかせるわけにはいかない。決意を新たにする出来事だった。
__評価がいたずらに高いよりはマシよね……。
恩師がよく言う言葉でもある。それを内心思って、苦笑を浮かべるキルシェは、ふぅ、とため息を零して見上げていた窓の外の月を見た。
新月へ向けて細くなっている月は、やっと昇ってきたところである。
冴え冴えとした夜空はまさに星月夜。帝都ほどの明るさがないここでは、標高が高いこともあって星々の数がかなり多い。
キルシェは星月夜を見ていた窓に映り込む部屋の蝋燭の明かりに焦点を移し、徐ろに背後を振り返る。
昨夜寝たのは、私室。なんだかんだ挙式のことを考えてしまって、疲れているはずなのに中々寝た心地がしなかった。別室で休んでいるはずのリュディガーの事が、ちらちら、と脳裏をよぎったのもある。
だが、今夜いるのは、私室の寝台よりも大きい寝台がある主寝室。
重厚な天幕を垂らす寝台を見て、キルシェは緊張を抱く。
とくとく、と早くなる心臓に戸惑い、寝台へ背中を向け、落ち着け、と自身へ言い聞かせていれば、がちゃり、と扉が開閉する音に身体が弾んだ。
振り返ると、寛いだ寝間着に着替えたリュディガーがそこにいて、キルシェは息を飲む。
昼の彼は龍騎士の第一礼装で、頸飾もつけた装い。得物も佩いたその佇まいは、一切の隙がない武官のそれで、地元の人が多い宴席のあいさつ回りから屋敷での夕食までその装いだった。
それが、額を出すように撫でつけて整えられていた髪型は、湯浴みを経たせいでくたり、と目元下まで__顎近くまで垂れ下がり、寛いだ服装も相まって艶っぽさがキルシェの動きを止めたのだ。
平均よりもかなり大柄なリュディガーが近づく様子に我に返り、キルシェはどぎまぎしながら、逃げるように窓の外を見る。
「あまり見えないだろう」
言いながら、リュディガーが横に並ぶ。それにさえ、心臓が暴れるキルシェは窓の外へさらに意識を向けようと勤めた。
「ほ、星は見えますし……月も……」
「だが、暗いだろう」
「え、ええ……。先生たちは、もう今日の宿には着きましたかね?」
ビルネンベルクと御者、その警護のアッシスは、昼の挙式と宴席に顔を出した後、そこで去っていってしまった。
「日暮れ前には着いただろう。アッシスもいるし。__大ビルネンベルク公も、途中まではご一緒だということだから」
「そうですね」
「まさかお越しになっていたとは思わなかったが……」
「ええ。本当にあれには、驚かされました」
教会での神官を前にした婚儀の際、夫婦の契を結んで振り返ったところで、列席者の中にビルネンベルク家の宗主・大ビルネンベルク公が何食わぬ顔で居たのだ。
大ビルネンベルク公は、帝国において建国に携わった者として、もはや伝説に近い逸話の持ち主である。国家の重鎮といえばこの方で、これにはキルシェのみならず、彼に師事したリュディガーでさえ言葉を失うほどの驚き。
大ビルネンベルク公は身分を伏せ、市井に紛れて生活をしている。身内であるビルネンベルクもまた宗主の所在は預かり知らぬもので、当然彼の来訪を知らなかったそう。いつものこと、と驚きながらも苦笑を浮かべていた。
リュディガーらの帝都での挙式に顔を出すのは騒ぎになるから、とここでの挙式にわざわざ来訪したのだそう。
そして、宴席で地元の者と会話を交わし、その合間合間で、もともとビルネンベルク家の使用人だったヘルムートとリリーに挨拶し、ナハトリンデン家の執事や家政婦といった主要な面々にも目通りし、ビルネンベルクとともに去っていった。
偉人も偉人に遭遇した__と自覚のある者は限られているが__者の影響でか、そのあとの屋敷がどこかそわそわと落ち着きなくなったのは言うまでもない。
「__本当に強行軍を強いてしまって、申し訳ないな……」
「ええ、そうね……」
ほぼとんぼ返りの日程だ。
ビルネンベルクの権威を惜しみなく示して、ビルネンベルクとは縁故の存在が、ここの新しい領主一家だと知らしめるためだけに来たと言ってもいい。
キルシェの評価は低いかも知れないが、ビルネンベルクとの縁があるという点では価値がある。
__ビルネンベルクの家名も背負っているようなもの……。
いやしかし、ビルネンベルクの家名があろうがなかろうが、自慢の領主にならねばならないことには違いはないか__と、内心思い、はぁ、とため息を零しながら窓の外を見る。
細まった月の光が綺麗でとても冴えて見えたから、思わず手をかざすようにして指先に当たる月影を見入った。刹那、大きな手が伸ばした手首を取る。
油断していたところにおきた出来事で、気がつけばもう一方の逞しい腕が腰へと回されて抱き込まれるような形になっていた。
すっかり意識しなくなっていた心臓の音は、明らかに早く細かく、強く打っている。それは彼にも聞こえているはずだ。
「あ、の……」
「あのときも……思わずこうした」
やっと絞り出した声に、リュディガーはくつり、と笑いをかすかに含んだ声で言った。
「あの、とき……?」
「蛍を観に行った時だ。君が、蛍が飛んでいった先の天空の月にそのまま吸い込まれそうで、思わずその手を掴んだ。__今もまさにそう見えた」
「えぇ?」
観蛍の件は、三年前の出来事だ。
蛍というものを見たことがなくて、彼が折を見て連れて行ってくれたのだ。そこで確かに、言われてみれば蛍を追って手を伸ばした時、その手を急に彼が取ったことがあったように思う。
「でも、まさかそんな。大げ__」
「大げさだと言うか? しょうがないだろう、実際に見えたんだから。当時も__今も」
キルシェが振り仰ぐようにして頑強な身体から身を離そうと身動ぎすれば、いくらか自由を得られたが、それは本当に僅かだった。
怪訝にしながら見上げるリュディガーは、目元が苦しそうに歪められていて、キルシェは思わず目を見張る。
「やっと……やっと、所帯を君と築けたその戸口に立てたばかりなのに……また離れてしまうのか、と今、本当に肝が冷えるどころか潰れた……」
それはいくらか絞り出すような言い方であった。
「やっとなんだ……私には……」
肩口に顔を埋めるようにして、さらに絞り出す声。そして再び太い腕が全身を包み込む。
__やっと……。それは、私だって……。
キルシェは拒絶した一回目の求婚の出来事から、今日に至るまで__別離していた最中も、彼のことを想ったことがある。
二度と交わるはずもないのに、拒絶したくせに、何を今更、と自分を詰って__。
__それがこんな形に収まるなんて、思いもしなかった。
急に胸が苦しくなる。
気恥ずかしさではなく、ただただ目の前の彼が愛しくて。
「私は、ここにいます」
「キルシェ……」
細い腰に回された腕が引き寄せられるようにして、口付けられた。
地方も地方であれば管理する神官はおらず、時折来訪があって手入れと祈りがなされる程度。だが、レディレンには常駐する神官が一人いて、この地域の冠婚葬祭を一手に担っているらしい。
典型的な石造りの教会の扉をくぐると、左手には窓があり、窓の下には、石の一枚板が壁に嵌められている。そのテーブルにも長椅子にもなるだろう作りの上に、刺繍が施された布が置かれている。
帝国の布支度という慣習で、新婦がこれまでに作り上げた刺繍が施されている日用品の数々を嫁入りに際し披露するのだ。そして、その出来栄え__質、量によって新婦の評価、ひいては嫁ぎ先の評価となる。
ここ数ヶ月で出来る量などたかが知れている布支度は、果たしてどのような心象になったかは__あまり考えたくないものだ。
通常であれば、もっと用意できていておかしくはない。
キルシェもかつてはそれなりの量があったのだが、一度目の婚姻が無効になった際、すべて処分してしまった。
それは急に解雇されてしまう使用人らへの贖罪を兼ねた行為だったから、今後のことなど考えてなどいなかったのは言うまでもない。
__これからの行動や言動にかかってくるわよね……。
参列者には身内__使用人だけでなく、地域の者がかなり来ていた。そんな事情など、彼らには関係のないことだ。
帝国においては名士といわれるビルネンベルク侯爵家の者も来ているのだし、その者が後見人であったらしいということで、かなりの興味を持たれている中での挙式。そしてその挙式の後は、軽い宴席を提供することもあって、キルシェが思っていた以上のかなりの人手だった。
その誰しもが布支度を見たかは定かではないが、多くの者の目に触れたのは事実。リュディガーに恥をかかせるわけにはいかない。決意を新たにする出来事だった。
__評価がいたずらに高いよりはマシよね……。
恩師がよく言う言葉でもある。それを内心思って、苦笑を浮かべるキルシェは、ふぅ、とため息を零して見上げていた窓の外の月を見た。
新月へ向けて細くなっている月は、やっと昇ってきたところである。
冴え冴えとした夜空はまさに星月夜。帝都ほどの明るさがないここでは、標高が高いこともあって星々の数がかなり多い。
キルシェは星月夜を見ていた窓に映り込む部屋の蝋燭の明かりに焦点を移し、徐ろに背後を振り返る。
昨夜寝たのは、私室。なんだかんだ挙式のことを考えてしまって、疲れているはずなのに中々寝た心地がしなかった。別室で休んでいるはずのリュディガーの事が、ちらちら、と脳裏をよぎったのもある。
だが、今夜いるのは、私室の寝台よりも大きい寝台がある主寝室。
重厚な天幕を垂らす寝台を見て、キルシェは緊張を抱く。
とくとく、と早くなる心臓に戸惑い、寝台へ背中を向け、落ち着け、と自身へ言い聞かせていれば、がちゃり、と扉が開閉する音に身体が弾んだ。
振り返ると、寛いだ寝間着に着替えたリュディガーがそこにいて、キルシェは息を飲む。
昼の彼は龍騎士の第一礼装で、頸飾もつけた装い。得物も佩いたその佇まいは、一切の隙がない武官のそれで、地元の人が多い宴席のあいさつ回りから屋敷での夕食までその装いだった。
それが、額を出すように撫でつけて整えられていた髪型は、湯浴みを経たせいでくたり、と目元下まで__顎近くまで垂れ下がり、寛いだ服装も相まって艶っぽさがキルシェの動きを止めたのだ。
平均よりもかなり大柄なリュディガーが近づく様子に我に返り、キルシェはどぎまぎしながら、逃げるように窓の外を見る。
「あまり見えないだろう」
言いながら、リュディガーが横に並ぶ。それにさえ、心臓が暴れるキルシェは窓の外へさらに意識を向けようと勤めた。
「ほ、星は見えますし……月も……」
「だが、暗いだろう」
「え、ええ……。先生たちは、もう今日の宿には着きましたかね?」
ビルネンベルクと御者、その警護のアッシスは、昼の挙式と宴席に顔を出した後、そこで去っていってしまった。
「日暮れ前には着いただろう。アッシスもいるし。__大ビルネンベルク公も、途中まではご一緒だということだから」
「そうですね」
「まさかお越しになっていたとは思わなかったが……」
「ええ。本当にあれには、驚かされました」
教会での神官を前にした婚儀の際、夫婦の契を結んで振り返ったところで、列席者の中にビルネンベルク家の宗主・大ビルネンベルク公が何食わぬ顔で居たのだ。
大ビルネンベルク公は、帝国において建国に携わった者として、もはや伝説に近い逸話の持ち主である。国家の重鎮といえばこの方で、これにはキルシェのみならず、彼に師事したリュディガーでさえ言葉を失うほどの驚き。
大ビルネンベルク公は身分を伏せ、市井に紛れて生活をしている。身内であるビルネンベルクもまた宗主の所在は預かり知らぬもので、当然彼の来訪を知らなかったそう。いつものこと、と驚きながらも苦笑を浮かべていた。
リュディガーらの帝都での挙式に顔を出すのは騒ぎになるから、とここでの挙式にわざわざ来訪したのだそう。
そして、宴席で地元の者と会話を交わし、その合間合間で、もともとビルネンベルク家の使用人だったヘルムートとリリーに挨拶し、ナハトリンデン家の執事や家政婦といった主要な面々にも目通りし、ビルネンベルクとともに去っていった。
偉人も偉人に遭遇した__と自覚のある者は限られているが__者の影響でか、そのあとの屋敷がどこかそわそわと落ち着きなくなったのは言うまでもない。
「__本当に強行軍を強いてしまって、申し訳ないな……」
「ええ、そうね……」
ほぼとんぼ返りの日程だ。
ビルネンベルクの権威を惜しみなく示して、ビルネンベルクとは縁故の存在が、ここの新しい領主一家だと知らしめるためだけに来たと言ってもいい。
キルシェの評価は低いかも知れないが、ビルネンベルクとの縁があるという点では価値がある。
__ビルネンベルクの家名も背負っているようなもの……。
いやしかし、ビルネンベルクの家名があろうがなかろうが、自慢の領主にならねばならないことには違いはないか__と、内心思い、はぁ、とため息を零しながら窓の外を見る。
細まった月の光が綺麗でとても冴えて見えたから、思わず手をかざすようにして指先に当たる月影を見入った。刹那、大きな手が伸ばした手首を取る。
油断していたところにおきた出来事で、気がつけばもう一方の逞しい腕が腰へと回されて抱き込まれるような形になっていた。
すっかり意識しなくなっていた心臓の音は、明らかに早く細かく、強く打っている。それは彼にも聞こえているはずだ。
「あ、の……」
「あのときも……思わずこうした」
やっと絞り出した声に、リュディガーはくつり、と笑いをかすかに含んだ声で言った。
「あの、とき……?」
「蛍を観に行った時だ。君が、蛍が飛んでいった先の天空の月にそのまま吸い込まれそうで、思わずその手を掴んだ。__今もまさにそう見えた」
「えぇ?」
観蛍の件は、三年前の出来事だ。
蛍というものを見たことがなくて、彼が折を見て連れて行ってくれたのだ。そこで確かに、言われてみれば蛍を追って手を伸ばした時、その手を急に彼が取ったことがあったように思う。
「でも、まさかそんな。大げ__」
「大げさだと言うか? しょうがないだろう、実際に見えたんだから。当時も__今も」
キルシェが振り仰ぐようにして頑強な身体から身を離そうと身動ぎすれば、いくらか自由を得られたが、それは本当に僅かだった。
怪訝にしながら見上げるリュディガーは、目元が苦しそうに歪められていて、キルシェは思わず目を見張る。
「やっと……やっと、所帯を君と築けたその戸口に立てたばかりなのに……また離れてしまうのか、と今、本当に肝が冷えるどころか潰れた……」
それはいくらか絞り出すような言い方であった。
「やっとなんだ……私には……」
肩口に顔を埋めるようにして、さらに絞り出す声。そして再び太い腕が全身を包み込む。
__やっと……。それは、私だって……。
キルシェは拒絶した一回目の求婚の出来事から、今日に至るまで__別離していた最中も、彼のことを想ったことがある。
二度と交わるはずもないのに、拒絶したくせに、何を今更、と自分を詰って__。
__それがこんな形に収まるなんて、思いもしなかった。
急に胸が苦しくなる。
気恥ずかしさではなく、ただただ目の前の彼が愛しくて。
「私は、ここにいます」
「キルシェ……」
細い腰に回された腕が引き寄せられるようにして、口付けられた。
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