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獏とした Ⅳ

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 涙を拭ってリュディガーから離れ、居住まいを正し、入室を許せば、ひとりの女中が入ってきた。

「え__」

 その姿に、キルシェは言葉を失う。

「な、何故……え……?」

「__ご無沙汰しております、キルシェ様」

 穏やかな上品な笑みは、かつてビルネンベルクの帝都の邸宅でよく見かけていたそれで、その中にもどこか悪戯っぽく笑んでいるからなおのこと困惑してしまう。

「彼女が取り急ぎ侍女として雇った者だ」

 言葉を逸したキルシェの側近くに寄り添って、リュディガーがくつり、と笑いながら言った。

「リ、リリーさん……を? だってご実家の都合で__ぁ……」

 まさか、とリュディガーを見れば、彼は人の悪い笑みを浮かべ肩を竦める。そのリュディガーの目配せを受けて、女中__リリーは窓際のテーブルへと茶器を配し始める。

「私の実家、こちらにほど近いところにありまして……」

 つい今しがた、どこかで聞いた内容だ。

「ほ、本当……に?」

「事実だ。__で、当家でも侍女を募集していたからな。ビルネンベルク家の侍女も任されていたのであれば申し分ないだろう。とは申せ、相性もある。だから取り急ぎ、挙式の準備のために試用期間も兼ねて……という形だ」

 まぁ、とキルシェはあんぐり、と口を開けてしまった。

「いつ……」

 問われながらも、リリーは茶器にお茶を注ぎ入れる。

「実家に一度戻らねばならないことになったのは、事実なのです。ドゥーヌミオン様にそのお話をいたしましたら、実家がこちらなら、ナハトリンデン卿に口添えをしてみようか、と仰られて」

「一から探すよりも手間がかからないし、彼女の為人は承知で、君もよく知っている間柄だ。願ったりかなったりだから、是非に、と」

 お茶を淹れ終わり、リリーがどうぞ、と示すので、キルシェは瞠目しながらも素直に着席し、リュディガーもまた倣う。

「お話したかったのですが、それが条件だ、とドゥーヌミオン様とお約束してしまいましたので、心苦しくはあったのですが……」

「えぇっと……では、リュディガー、先生、ホルトハウス、リーツさんとリースマンは承知だった……?」

「そうなるな」

 リリーは申し訳無さそうな顔になり、リュディガーは悪戯っぽい表情でカップを手にとって口に運びながら、肩を竦める。

 __なんだか……さっきまでの思い悩みが馬鹿らしい……。

 そのぐらい、呆気にとられている。些末なことに見えてきた。

 キルシェはお茶を手に取り、口に含んだ。

 __懐かしい……。

 彼女が去って数ヶ月間、別の者が淹れてくれていたお茶だった。だがやはり、彼女が淹れたのとは風味が違っていて、決して不味いわけではないのだが、茶葉を変えたのか、とそれとなく聞いたことがあるほどだった。

 慣れ親しんだ味を覚えている自分に、くすり、と笑う。

「リリーさんもいてくれるなら、これほど心強いことはないですね」

 ビルネンベルク家に居候の身だったというのに、彼女はとてもよく気が付いて、驚くほど尽くしてくれた。それがどれほどありがたかったことか。

「……ご実家は、大丈夫なのですか?」

「はい。母も快復いたしまして、もうすっかり。近くなった分、顔も頻繁に出せるようになりましたし。本当に何もかもお陰様です」

 言ってリリーは居住まいを正して恭しく礼をとった。

「また、しばらくお世話をさせていただきます」

「試用期間は、問題なく通過できるだろう。君なら」

「どうでしょう。ビルネンベルクから来た、ということでかなり期待されておりますから、それを裏切りませんようにいたしませんと」

「それを言ったら、私もそうですよ。ビルネンベルクが後見人なのですから」

 くすくす、とリリーと二人してしばし笑い合う。

 なんとも懐かしい、心地の良い時間だ。

 やがてリリーは扉へと向かって歩みだすのだが、リュディガーが呼び止める。

「__リリー、待ってくれ」

「はい」

「二人がいるうちに少し話しておきたい。明日のことだ」

 キルシェはリリーと一度顔を合わせてから、お互い居住まいを正してリュディガーを見る。

「キルシェは準備が整ったら、ビルネンベルク家の車で先生といっしょに教会へ行ってくれ。__リリーもだ」

「私も、でございますか?」

 きょとん、とリリーはして自身を示しながら問う。

「帝都での挙式、見られていないだろう?」

 はっ、と目を見開くリリー。

「よ、よろしいのですか?」

「ああ。嫌でないのなら、是非」

 だろう、とリュディガーに同意を求められ、キルシェは頷く。

「そんなこと! ありがとうございます、旦那様」

 ぱぁっ、とリリーの顔がいくらか朱に染まって、キルシェはいくらか驚いた。それほど興味を抱かれていたとは思っても見なかったからだ。

 直接の雇い主でもない、ただの居候の身の、その挙式だ。彼女の人生にさほど影響もないだろう存在だったはず。

「おそらく、ご家族もいらっしゃるんだろう?」

「は、はい。そのようです。ご迷惑でしたら__」

「いや、いいんだ。そういうお披露目を兼ねているから。もし会場にいたら、ご挨拶に伺うから」

「ご挨拶に行けるの?」

「挙式の後は、教会近くの広場で地元の方に、軽い食事と飲み物を用意して振る舞うことにしてあるんだ。なんというか、夏至祭前の小さいお祭りみたいになっているらしい」

「ビルネンベルク家の方もいらっしゃいますから、それはもう皆総出で」

「そ、そう……」

 想像以上に大事になっている__キルシェは妙な乾きを覚え、もう一口お茶を飲んだ。

「このあたりでは、昔から何かしら理由をつけてみんな集まって、騒ぎたいとう癖があるんです」

「そういうことらしい」

「季節も良くなって参りましたし、浮かれている時期なんですよ。__自分たちがのびのび騒げる口実にされている、と言えばそうなのですが……」

 申し訳ございません、と恐縮するリリーにキルシェは首をふる。

「いえ、そんなことは」

「厳冬を越えて迎えた春に、宴席だ。こんな長閑なところで、浮かれないほうがおかしいさ」

「ええ、賑やかなことはいいことです」

 ありがとうございます、と今一度恐縮した彼女は、改めて居住まいを正す。

「__他に、ご指示はございますか?」

「ああ、そのぐらい……だな。後は先生に今一度確認をしてからだ」

「承知いたしました。では、また後ほど」

「ああ。先生がもうよろしければ、屋敷の案内をするから、そうなったらこちらへ伝えてくれ。私はまだここで休んでいる」

 はい、とリリーは柔らかく笑んで礼を取り、扉の向こうへと消えていった。

「あれほど、喜んでもらえるなんて……」

「ん?」

 その姿を見送って、キルシェがふと呟く。

「その……挙式のことです」

「ああ。帝都での挙式、気になっていたようだったからな。どんな衣装だったか、だとか……飾りつけは、だとか……まあ色々聞かれた」

 リュディガーはお茶請けの干した葡萄を一つ手にとりながら、視線で近くの花瓶を示した。

「屋敷の装花は、ほぼ彼女の指示だ。家政婦のリーツさんの意向もうまく汲んで……こういうことが好きで得意なんだろうな、と思ったよ。__適任だった」

「きっとそうでしょうね」

「だから、まぁ……美味しいところを奪わせてしまったようで、私も引け目があったんだ。__よかったよ」

 それはそうと、とリュディガーは頬張った葡萄を飲み込むと居住まいを正して座り直した。

「__色々伏せていて、すまなかった」

 キルシェは困ったように笑う。

「本当に、人が悪いです」

 だよな、と苦笑するリュディガーは後頭をかいた。その彼の膝に置かれたもう一方の手にキルシェは自身の手を添える。

「__でも、嬉しいです」

 ありがとう、とキルシェは零すと、リュディガーが穏やかな笑みを向けてきて、後頭を掻いていた手をその上に重ねてきた。

 なんだか胸の中が温かい。こそばゆい心地もあって、キルシェはやや俯く。

「__あ、で……だ。キルシェ」

「はい」

 穏やかな雰囲気が満ち始めたところに、リュディガーが思い出したような声を上げて、その雰囲気を吹き飛ばした。

 彼を改めて見れば、いくらか言葉を選んでいるようでキルシェは小首を傾げる。

「……今夜は、寝所は分けようと思う」

 唐突な話題に、キルシェは面食らった。意味するところがわからず、目をパチクリさせることしばし__意味がわかって、ぁ、と小さく声が漏れて思わず手を引いた。

 顔が急激に火照って、彼に包まれていた手を胸元で握りしめていれば、横の彼が咳払いをする。

「__帝都の聖堂で挙式は上げて、一応夫婦にはなったが……一連の婚儀は明日もある」

 帝国の慣例に従えば、もはや間違いなく夫婦ではあるのだ。

 初夜は白かったが、それでも夫婦になっている。

「君は長旅で疲れているだろうし……明日、二人して寝坊なんてことになったら__」

「い、言わなくていいです……!」

 やや歯切れ悪く言葉を選ぶリュディガーに恥ずかしさを覚え、ぼっ、と顔がさらに熱くなってキルシェは顔を覆った。

 顔を覆う手に、妙な汗が吹き出すのがわかる。喉も妙に乾いて、キルシェは淹れられた残りのお茶を一気に煽り、降ろした手を膝に置いて、こっそりと汗を拭い握りしめる。

 しばらくすると、リュディガーが腰掛けていた椅子ごと身を寄せるのが、やや俯いた視界で捉えられた。そちらにキルシェが視線を向ける隙あらばこそ、背中に腕が回されて、腰を抱かれるようにしてリュディガーの身体へと密着させられる。

「__しばらく、こうしていさせてくれ」

 今にも羞恥心から心臓が弾けそうだったキルシェは、抗議の声を上げようとしたのだが、それよりも早くリュディガーが口を開いた。

 いくらか熱っぽい声だった。どことなく、男としての魅力がある響きに聞こえ、キルシェは反射的に、きゅっ、と口を引き結ぶ。

 顔を見る余裕はもはやなく、コクリ、と頷いて、ただただ心臓に悪い瞬間を長く感じながら、やり過ごすしかできなかった。
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