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たわいもない不思議な力
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教室に入ると、彼女がいた。彼女の他には誰もいなかった。
もう何か月も、授業に出ていなかったその人は、自分の机の中のものを、相変わらずの几帳面さで紙袋に詰めていた。
彼女の方も僕に気づいたようで、久しぶりだ、と言った。
僕は彼女と何を話せばいいのか分からなかった。彼女が、このクラスで一人でいても、僕は助けることが出来なかった。今更何を言えというのか。
「君は、勉強が好きではないと前に言っていたな?」
彼女は言った。そういえば、前にこうして放課後に二人で会った時にそういう話をした。
「勉強は、学校で一番優先すべきことだとは思うかい?」
僕は首を横に振った。僕にとっては部活が一番だ。現に、下校時刻ギリギリまでこうやって練習をしているのだから。
「君はそう思うの?」
僕がそう尋ねると、彼女は肩をすくめて、否定した。
「私もそうは思ってないよ。確かに私にとってここで一番得たいのは知識だったんだ。でも、友情も、恋愛も要らなかったわけじゃないんだよ」
彼女はしばらく困ったように頭を少し傾けていた。
「数学を、何か別の言葉にするならば、それはきっとたわいもない不思議な力じゃないかと私は思うんだ。」
僕は、彼女が一体何を言おうとしているのか、分からなかった。けれど、何か大事なことを僕に伝えようとしている。
太陽が地平線の向こうに沈もうとしている。彼女の後ろからオレンジ色の光が差していた。
「例えば、積分を求めれば、その関数の面積を求めることが出来るというのは、学生なら誰でも知っていて、誰でも使えるたわいもないものだろう?でも本当の意味でその本質を説明することは出来ない。あの数式は私たちにとても不思議な力を与えてくれるとは思わないかい?」
僕は頷いた。彼女が、数学に感じている魅力の千分の一も僕には理解できていないに違いなかったけれども。
「僕はきっと一生数学を好きになれないと思うよ」
彼女は、僕の言葉に少し笑ったようだった。彼女が笑っているのなんて、随分久しぶりだ。彼女は教室ではいつも悲しそうな顔をしていた。
「私は知りたかったんだ。その不思議な力を。学びたくて、つらくても必死になって教室に来てた」
僕はようやく話の核心に気づいた。後ろから差し込む夕日で彼女の表情は見えなかった。彼女の頬を流れる雫に、光が散乱していた。彼女は泣いているようだった。
遠くの方から、小さな足音が聞こえた。
彼女ははっとしたように、また、机の中に残っていた荷物を手早く紙袋に入れ始めた。僕はまた彼女にかける言葉を見つけられないでいた。
「もう、来ないの?」
僕は、教室から出ようと扉に手を掛けた彼女に、ようやく声をかけた。
彼女はうつむいた。
「苦しいんだ。ここにいるときっと私は窒息してしまう」
彼女は近づいてくる足音から逃げるように、教室を出て行った。
もう何か月も、授業に出ていなかったその人は、自分の机の中のものを、相変わらずの几帳面さで紙袋に詰めていた。
彼女の方も僕に気づいたようで、久しぶりだ、と言った。
僕は彼女と何を話せばいいのか分からなかった。彼女が、このクラスで一人でいても、僕は助けることが出来なかった。今更何を言えというのか。
「君は、勉強が好きではないと前に言っていたな?」
彼女は言った。そういえば、前にこうして放課後に二人で会った時にそういう話をした。
「勉強は、学校で一番優先すべきことだとは思うかい?」
僕は首を横に振った。僕にとっては部活が一番だ。現に、下校時刻ギリギリまでこうやって練習をしているのだから。
「君はそう思うの?」
僕がそう尋ねると、彼女は肩をすくめて、否定した。
「私もそうは思ってないよ。確かに私にとってここで一番得たいのは知識だったんだ。でも、友情も、恋愛も要らなかったわけじゃないんだよ」
彼女はしばらく困ったように頭を少し傾けていた。
「数学を、何か別の言葉にするならば、それはきっとたわいもない不思議な力じゃないかと私は思うんだ。」
僕は、彼女が一体何を言おうとしているのか、分からなかった。けれど、何か大事なことを僕に伝えようとしている。
太陽が地平線の向こうに沈もうとしている。彼女の後ろからオレンジ色の光が差していた。
「例えば、積分を求めれば、その関数の面積を求めることが出来るというのは、学生なら誰でも知っていて、誰でも使えるたわいもないものだろう?でも本当の意味でその本質を説明することは出来ない。あの数式は私たちにとても不思議な力を与えてくれるとは思わないかい?」
僕は頷いた。彼女が、数学に感じている魅力の千分の一も僕には理解できていないに違いなかったけれども。
「僕はきっと一生数学を好きになれないと思うよ」
彼女は、僕の言葉に少し笑ったようだった。彼女が笑っているのなんて、随分久しぶりだ。彼女は教室ではいつも悲しそうな顔をしていた。
「私は知りたかったんだ。その不思議な力を。学びたくて、つらくても必死になって教室に来てた」
僕はようやく話の核心に気づいた。後ろから差し込む夕日で彼女の表情は見えなかった。彼女の頬を流れる雫に、光が散乱していた。彼女は泣いているようだった。
遠くの方から、小さな足音が聞こえた。
彼女ははっとしたように、また、机の中に残っていた荷物を手早く紙袋に入れ始めた。僕はまた彼女にかける言葉を見つけられないでいた。
「もう、来ないの?」
僕は、教室から出ようと扉に手を掛けた彼女に、ようやく声をかけた。
彼女はうつむいた。
「苦しいんだ。ここにいるときっと私は窒息してしまう」
彼女は近づいてくる足音から逃げるように、教室を出て行った。
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