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第1章
第11話 壁を登る
しおりを挟む自力で登るには壁が反り返っている大穴に落とされて夜を明かした妃伽。冷え込む穴の中は焚き火が必需品であり、手放せなかった。火を持続させるための薪を集めておいて良かったと、起き抜けのぼんやりとした頭で思う。
焚き火の前に座って熱を貰い、座り込んでその日を終えた。初心返りの森にやって来て、昔に黒い死神が書いた植物のことが載った本を片手に説明を受けて、此処まで来た。しかし大穴のところに辿り着いて中を覗き込んだら、試練のためという理由で突き落とされた。
起きてうんと背伸びをし、首の関節をごきりと慣らしながら立ち上がった妃伽は、準備体操を始めた。まだ寝惚けている頭を起こすのも合わせて、これから起きることに対応出来るように備えているのだ。
「1、2っ、3、4っ、5、6っ、7、8っ……と。うし、こんなモンだろ。さてと、黒い死神は何をやらせるんだか」
もう完全に理解した。黒い死神は他の奴等がやるような修行はしない。彼は彼なりの教え方をするのだろう。その証拠として、まだ何も知らない自身が穴に落とされた。しかももう良いと判断されるまでか、自力で登るまでは此処での滞在は続く。
まだ知り合えて日が浅いので、考え得る傾向は掴めていない。もしかしたら基礎を全て叩き込むまで此処から出す気が無く、数ヶ月も生活させられることになるやも知れない。それは流石にごめんだ。妃伽とて女。風呂も無い場所に何ヶ月も居るのは嫌だ。それよりもっと他のことを学んでいきたい。
黒い死神がどんな奴なのか、他の狩人などが話している事ぐらいしか知らない。なのでこれからのことが予想つかない。しかしそれを警戒してずっと何かアクションがあるまで待ち続けるのは性に合わない。なので妃伽は、自分に出来ることを始めた。それがこの大穴からの脱出だった。
「おっしゃッ!気合い入れていくぜッ!こんな大穴さっさと登りきって、黒い死神の顔ぶん殴ってやるッ!」
肩を回して準備を終えた妃伽は、壁に近づいて掴めそうな突起の部分に手を掛けた。体を持ち上げると、案外腕と手に普段が掛かる。別の溝部分に足を掛けて腕への負担を軽減する。結構ゴツゴツしている壁は、自身の体を支えようとしている手にめり込んで痛い。足は靴を履いているので大丈夫だが、手が問題だ。
しかし登り始めたので、折角だからこのまま行けるところまで行ってやろうと思ってロッククライミングを開始した。やることは、手の掛かりそうな場所に手を掛けて、足を掛けていくだけ。少しずつでも良いから、上へと上がっていく。
運動神経はかなり良いので、要領良く登っていった。しかし、途中で手を掛ける場所が無くなってしまう。掴める程出っ張ったところが無いのだ。高さは3メートルくらいだろうか。命綱も無しに登ったにしては中々高く思える高さだ。チラリと下を見て、上から見ると高く見えるんだなと思っていると、両手で持っている突起が崩れた。
あれっと思った時には既に、体は後ろへ倒れていて、靴を履いた足で体を支えるのは不可能だった。当然のように3メートル程の高さから落ちていき、体を捻って両脚から着地した。ドスンと音を立てながら着地し、着地した時の衝撃がじんわりと足に伝ってくる。
「~~~~~~~ッ!!おー痛ってェ……下にクッション置いた方が良いなこりゃ。あと、登れるルート見つけねーと途中で詰まるわ」
初めてだったので何も考えず登っていたが、着地した時のことを考えていなかった。あと、登りやすいだろうルートの探りすらもしていない。反り返っている壁が、他と比べて緩い場所など、登るにしても考えなくてはならないことは多い。特に落ちそうになった時の命綱くらいは欲しい。
足場が崩れても手で耐えられるから良いが、手を掛けている部分が崩れた場合普通に落ちる。なので、手が離れた場合の事も考えないといけない。妃伽はあまり学が無いので考えるのは苦手だ。最低限必要だろうことしか思いつかない。どのくらい此処に居るのか解らないが、少しずつ着実に必要なことを考えていこうと思った。
そこまで考えて、じゃあ今登った壁よりももっと登りやすそうなルートを探すかと思っていると、腹の虫が鳴った。昨日の夜は食べていないし、今は朝だ。腹が減ってもおかしくない。この大穴の何処にも食べられるものは無いので、完全に上に居るだろう黒い死神に任せるしかない。
叫んで腹が減ったことを伝えようかと思って上を見上げていると、何かを投げ入れられた。ナイスタイミングだったと思いつつ落下地点に急いで行って手で受け止めた。投げ入れられたのは果物だった。市販に売っている林檎である。続いて投げ入れられたのも、林檎。最後はバナナだった。
「朝飯は果物か。ヘルシーだなオイ。まあ、これ以外食えるモンねーから文句は言わねーけどよ……」
林檎に齧り付きながら何とも言えない顔をする妃伽。森なのでてっきり肉でも来るのかと思っていたようだ。彼女は普通に野菜も食べるが、1番の好物は肉なのだ。市販で売っているような牛や豚じゃなくて、違うモンスターの肉とかを食べてみたかった。
モンスターの肉にも硬い臭いなどといったものは存在するが、それと同様に美味くて食べられるものもある。そういった肉はモンスターを買った狩人に優先的に与えられるので、狩人の特権と言ってもいい。当然、何度も言うがモンスターを狩るのは命懸けなので逆に狩られる可能性があることを忘れてはならない。
林檎を食べ終えてバナナの皮を剥く。傷んでいる箇所が無いし、虫に食われた様子も無い。しかもこんなところにバナナが生っているとは思えないので最初から持ってきていたのだろう。気づかれないように懐に忍ばせていたか、妃伽が寝ている間にバイクのところまで戻って取りに行ったのかは知らないが、エルメストから持ってきたことは確実だ。
要するに、本当に一番最初からこの大穴に叩き落とすつもりだったということだ。何せ初心返りの森と言って、真っ直ぐ此処を目指したのだ。大穴があったことは知っているだろう。そう改めて考えるとちょっとイラッとした。別に修行の為なら行くのに、態々何も言わずに落とすことねーだろ!と。
「あ゙ーもうやめやめッ!さっさと食ってロッククライミングだチキショーがッ!はーッ!林檎うめーなご馳走さまッ!」
「水だ。受け取れ。それが1日分だから考えて飲め」
「おービックリしたァッ!?」
ひょっこり顔を出した黒い死神が、何か筒のようなものを投げ入れた。受け止めるにも衝撃が大きくて無理だと思ったら、それは黒い死神も解っていたようで、妃伽が落とされた枝や葉が積み重なったクッションに落とされた。
勢い良く落ちてきて重い音を出して着地したものを見ると、大きめの水筒だった。内容量は2リットルだろうか。狩人が狩りに出掛けるときに持っていくものだ。道具屋に行けば色々な種類が売っている。1日に必要な水分量くらいは用意されたが、恐らく渡されるのはこれ1本のみ。1日分と言ったが、あくまで今日の分としての水だろう。
明日以降のものは、自分で調達しないといけない。何となくそれは察したが、こんな大穴の場所でどうやって水分を確保しろと言うのか。水場なんてものは無く、あるとすれば壁に触れれば湿っていると分かるくらいの水分程度。まさか壁の水分を舐めて補給しろと言っているのだろうか。
頭を捻っても分からない妃伽は、取り敢えず大事に飲もうと思って水筒を焚き火の近くに置いた。そして、大穴の壁を眺めて、目視で登れそうな凹凸があるところを探していく。大穴は大きく、壁の範囲も広いし上までの距離もある。それに加えて反り返る壁の反り具合も見ていかないといけない。
同じ色を見続けて、目がしょぼしょぼしてくるのを我慢しながら見渡していく。左右に上下。隈無く。下にクッションは作るが、落ちて打ち所が悪いと人間なんてすぐに死ぬ。なので見つけるのは時間を掛けてじっくりとやれば良い。そうして探すこと2時間近く。ある壁面が1番良いんじゃないか?と思って近寄った。
「凹凸が結構あんな。ンで反り返ってんのもまあまあ甘いし、微妙だけど壁の高さも他と比べて低い。んー、良いンじゃね?ここにすっか……あ?なんだこの穴?」
近づいて凹凸具合と上部の反り具合を確認して、壁の高さも微妙程度だが他の差と比べて低いところを見つけた。うん、良い場所だ。此処を登ることにしようと即決した妃伽は、壁をペタペタと触れていった。と、そこであることに気がつく。穴が開いていたのだ。
大きい穴ではない。指3本が少し奥に入るくらいのもの。奥に行くほど狭くなっていく。それがいくつも開いていた。自然にできたものではないと思ったが、よく思い返せば黒い死神がヒントになるようなことを言っていた。
『──────昔に起きた地震で緩い地盤が陥没し、穴のような形状になった。気をつけろ、1度落ちると壁が反り返っている所為で自力で登るのはほぼ無理だ。ロッククライミングが得意ならば別だが』
「昔に出来た大穴で、1度落ちると反り返った壁で自力で登るのはほぼ無理……ロッククライミングが得意なら別……っつーことは、落ちてロッククライミングしようとして無理だった奴と、登りきった奴が居るってことだよな?じゃあ、この穴は何か使って登った跡ってことか!誰も出て来れねーならほぼ無理とか言わねーもんな」
思い返す黒い死神の言葉。昔に出来たと言っていたし、もしかしたら気づかないで落ちてしまった場合もあるだろう。そうしたらどうするか。近くに居る仲間に助けを求めて引き上げてもらうか。もしくは1人で来たから仲間は居らず、ジッとして誰かが来るのを待つか自力で登ろうとするかのどれかだろう。
要するに他にも落ちた者は居るはずなのだ。妃伽のように態と落とされたりした者も少なからず居るだろう。ならば、もう自力で登ろうと考えついて、試行錯誤を繰り返して脱出を目指したに違いない。勿論、登り切れずに死んでしまったという者や、打ち所が悪く死んでしまった者も居ることを考慮しないといけない。
ロッククライミングとて危険があるものだ。妃伽はそういった知識が0の状態でやらないといけないので、慎重になっても赦される。しかし時間を掛けすぎてもダメだ。何が起きるか分からないし、黒い死神が何をさせようとするかも分からない。分からないというのは、それだけで人を追い詰める。
頬をパチンと叩いて気合いを入れ直す。やれることはやる。ジッとしているのは性に合わないからこそ、やってみて失敗して覚えていく。それが1番自分に合っているのだ。やってやるぜと声に出して、落ちている枝と木の葉を集め出した。登ると決めた壁の下に敷き詰めて、万が一の時の落下に備える。
気合いを入れて張り切っている妃伽の姿を、静かに見守る黒い死神が居た。中々に心が強いな……と呟きにすらならない言葉を口にし、妃伽に課す修行の1つを捕りに向かった。
「──────うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?いてッ!?……マジで落ちてる時のヒュウって感じに慣れてきたわ」
5度目の落下。1時間くらい掛けて枝と木の葉のクッションを用意した妃伽は、まずロッククライミングに慣れるところからということで登ってみた。時間を掛けて選んだ甲斐があったのか、凹凸が程良くあって登りやすい。反り返ってくると途端に落ちやすくなっているが、それでも5メートルは確実に登れるようになった。
枝と木の葉のクッションに落ちて、クッション性が損なわれてきたらまた枝や木の葉を持ってきて追加する。そうして繰り返すこと5度、妃伽は落ちてきた。それでも登れている実感はあるので、これなら数日の内には登り切れるだろうと期待が持てる。
素手で岩壁を掴んでいるので擦り切れてしまっているところがあるが、そんなことでへこたれる程心は弱くない。まだまだやれると、小さい傷がついた手を握り締めて立ち上がる。そこで腹が鳴った。時計が無いので分からなかったが、ちょうど昼頃の時間だ。ということは、上から昼飯が落ちてくる頃だろう。
「……ッ!?──────ハッ!?」
今回も何かが投げ入れられた。また果物か?と思ったら違った。今回は生き物だった。それも生きている。落とされたクッションのところから出て来たのは、ウサギだった。本当に生きているウサギで、目の前に居る妃伽を警戒して距離を取っている。だが、後ろの片脚が切られていて負傷している。走ることは出来ないだろう。
まさか果物じゃなくて、生きている動物を落としてくるとは思わなかった妃伽はハッとした。そういえば、此処へ来る前に動物を殺して解体したことはあるかと聞かれた気がする。それに対して、やったことが無いと答え、後で教えてやるとも言われた。まさかそれがコレか?早過ぎやしないか。というか、心の準備がまだだ。
白いウサギの赤い瞳が妃伽を見上げる。つぶらな瞳に、うっ……と声が漏れた。動物を殺して解体なんてしたこと無い。というか殺したことすらも無い。なんだったら動物とか割と好きだ。妃伽も女なので可愛い動物は触ってみたいし、眺めていたら癒される。それくらいには好きだ。
ウサギなんて触れ合ったりして和む動物じゃないか。確かに狩猟して食べるということも聞くが、やろうとは思わないし食べたいとも思わない。なのに今回の昼飯はウサギだった。誰かが狩って、捌いて、食べられる状態の肉にされていない、足を負傷して逃げられない可哀想なウサギだ。
「つーか……解体の仕方なんて知らねーよ」
「…………?」
小さく呟く。足の負傷で動けないウサギが首を傾げているように思えて、妃伽は苦笑いした。1人で穴に落ちたから話し相手なんて居ないが、何となく落とされた者同士で仲間にも思えてくる。きっと黒い死神に捕まって、逃げられないように脚を斬られたんだろうなと察した。
食いぶりからしていくらでも動物は殺して、食べてきたんだろうなと、上に居るだろう黒い死神の事を考えて溜め息を吐いた。ウサギを怖がらせないようにゆっくり近づいて抱き上げる。怯えていて全身を震わせているウサギを可哀想だと思いつつ、頭を撫でた。
昼飯がコレだが、夜飯まで待ってれば良いだろう。そう思ってウサギを食べるのは今はやめておく事にした妃伽。そんな彼女を、黒い死神が静かに眺めていた。
──────────────────
巌斎妃伽
大穴に落とされて2日目。持っている物は黒い死神お手製植物図鑑とナイフ1本。2リットル入る大きい水筒1つ。昼飯として落とされたウサギ1匹。
それなりに可愛いものが好きなので、動物とか撫でたりする。なので言外にウサギを食べろと送られても捌ける自信ないし食べられる自身も無い。夜飯まで我慢すればいっか……と思っている。
黒い死神
気配を消して上から妃伽の行動を眺めて観察している。まあ、活発そうな性格をしているので、ジッとしているよりも壁を登ろうとするだろうなとは思っていた。何度も挑戦するのは評価が高い。
しかし、昼飯として投げ入れたウサギを食べるどころか捌こうととせず、殺す気も無いところは評価が低い。解体したことが無いならばまあ仕方ないのかも知れないが、そんな甘い認識でいられては困る。
まあ、それならそれ相応の試練をくれてやるだけだ。
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