涙が幸せの泉にかわるまで

寿佳穏 kotobuki kanon

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追憶

男女の機微6

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佐知はチェストに入った柳木沢がくれたメモを引っ張り出してメモに書かれた番号を押した


「皆井です」


「君か久しぶりだな、元気か」


「私はいつも元気ですよ 柳木沢さんはお忙しいと思いますがお時間は取れますか」


「君のための時間なら無理してでも取るぞ」


紙の刷れるような音がして少し間があいた。柳木沢さんがいつも手にしているスケジュール帳をめくる音だった。


「君はいつも土曜日指定だったな 次の土曜、それでいいならホテルの部屋にきなさい」


「ありがとうございます それでは土曜日に伺います」


土曜の午後、佐知は仕事先からまっすぐホテルに向った。大事そうに手にしているのは柳木沢のために買ったシフォンケーキだった。

眩しいガラス張りの高層のホテルを佐知は見上げていた。そこは雅和とクリスマスを過ごしたホテルでもあった。いま柳木沢の常宿となっているホテルを前に佐知は胸騒ぎを感じていた。

フロントが佐知に告げた部屋番号はあまりに奇妙な縁えにしで鳥肌がたった。

1102号室、雅和と過ごした同じ部屋の前であの時とは違う心拍の高鳴りに襲われていた。ドアの向こうには魔物が住んでいるような気がした。控えめにノックしたドアが開いた。

顔を見せた柳木沢は痩せこけていた頬が少し膨らみ体調も良さげだった。


「お顔の色がとてもいいですね 安心しました」


「君だけだな、僕のこと心配してくれるのは」


「又そんなことを 一番心配しているのはご家族ですよ」


「いや、僕に家族はいない」


「えっ、それはどういうことですか」


「共に生活し気持ちを共有して形にしてゆくそれを家族というのならば僕にその家族は存在しない」


「おっしゃってる意味が?」


「僕は家族を捨てた、いや僕が棄てられたんだよ家族にね いまは君だけが僕をわかってくれる唯一の存在だ だから君と会うのがたまらなく嬉しいんだろうな」


「柳木沢さんはそれでいいのですか」


「僕は一人でしか生きらない男だ 向き合ってくれるのは仕事上の人間だ。しかしそれも上辺だけの寂しい付き合いにすぎない 自分の事は僕自身がよくわかっているが僕は自分を家族が言うような暴君だとは思ってはいない」


「許してもらうお気持ちは・・何か方法はないのですか」


「これまで生きてきた自分を否定する事は築いてきたもの全部が偽りだった事になる そう思うとその喪失感に僕の身体は震える だから僕から謝るとか・・考えられないよ」


「なぜご自分を否定なさろうとするのですか 自分でなく柳木沢さんの内にある醜悪を否定なさればいいじゃないですか 柳木沢さんはこれからはもっと楽に生きられていいと思います」


「偉そうに、君は僕に心身脱落の教えを説いているつもりなのか」


「いいえそんな・・」


「この話は終わりにしよう しばらく見ない間に君はやけに艶っぽくなった」


「それって誉め言葉と受け取っていいのでしょうか」


「君を極上な女にしたのは一体どんな男なんだ 一度お目にかかりたいな」


「女は愛されて磨かれるっていうでしょう 彼に十分愛され充たされていますから ご心配なく」


柳木沢は静かに佐知を抱き寄せた。それは突然だった。幼子を包むような抱擁に佐知はしばし拒むことを忘れてなされるまま体を預けていた。


「柳木沢さんもう離して下さい 嫌がることはしないって言ってくれましたよね」


すまないと柳木沢は寂しげな表情で頭を下げ体を離した。以前佐知に女を求めてきた好かない柳木沢とはまったくの別人だった。


「今日の柳木沢さんはとても寂しそうに見えます」


「僕に限らず人はみな寂しいものだ 久しぶりに君と会って遠い昔に出会った女性のことを思い出したよ 君と話していた僕の瞼にその人が鮮明に現れた その人と君は雰囲気がどこか似ていて君と彼女が重なって見えた 君と会っている時の僕はいつも安らぎと幸福感に包まれていた いま思えばかつて愛した彼女といるような気がしていたのかも知れないな この年になって思いは消えるどころか今だ燻り続けている・・僕は彼女を生涯忘れはしないだろう」


「忘れられないほどその人を・・柳木沢さんは今もその人を愛しているのですね」


「そういうことなんだろうな」


時折垣間見せる柳木沢の哀愁はその人を懐かしんでいたからなのだと佐知は思った。


雅和との胸躍る逢瀬の日々を思い返していた。


雅和と別れるなんてありえない
でもそう言い切れるのだろうか
もしそんなことになったら目の前の柳木沢のように私も・・・


部屋中に切ない吐息だけが流れていた。



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