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想い人が他にいると初夜に言い放った夫ですが、それって私のことですよね? ~元野生児令嬢の新婚奮闘記~

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「最初に伝えておかなければならない。
 私には幼い頃からずっと想い続けている人がいる。彼女を忘れる事ができない」

「……はい?」

 ベッドの上で、お互いに準備万端の恰好で。
 夫となる人から、面と向かって言われた台詞がそれだ。それも真剣そのものの、とても冗談を言っているようには見えない表情で。

「あの、いちおう、確認のために聞くのですけども」

 私はかくんと首を傾げ、呆然と問いかけていた。

「私達、新婚初夜の真っ最中ですよね……?」





 ノース男爵の娘、私ことリリマリアはこの度、レオン・エル・ペザーベ伯爵と結婚した。

 お互いの父親が親友同士。立場が決して高いとは言えない両家は、これからを生き抜く為に必要なのは結束だと、子世代に婚姻関係を結ばせた。

 家を守るのは大切な事だし、結婚は一人娘の当然のつとめ。
 政略的な結婚だからといって幸せになれないとは限らない。事実両親がそうして出会ったのだ。幸福のお手本はすぐ近くにあった。

 それに、お相手は全く知らない方ではなかった。
 レオン様とは夜会や茶会で顔を合わせ、ダンスのパートナーにも幾度かなった。その時の態度は誠実そのもので、結婚相手探しにぎらぎらしている男性よりも好ましく感じられた。欠点らしい欠点もなく、あえて言うならばお喋りが不得手であるくらいだろうか。
 結婚相手としては申し分ない。前向きな気持ちで、私は結婚の日を迎えた。

 だけれど、いざ初夜を迎えたその日の夜。
 彼が想定以上に紳士で真摯で、真面目過ぎる人物だと思い知った。
 それが、

『他に想い人がいる』。

 この――衝撃の問題発言である。
 私は驚くとか怒る前に、ただただぽかんとしてしまった。

「つまり、私との結婚を無かった事にしたい、と?」

 首を傾げたまま、素直に湧き出た疑問を口にする。レオン様は何か言おうと大きく口を開け、だけれどぐっと顎を引いて、首を振った。

「そうじゃない。そうじゃないが…… 黙っているのは余りにも不誠実だ。君に触れる前に明らかにしておくべきだと思い、この場を借りた次第だ」
「確かに、後から聞いたら激怒していたと思いますが…… でも、それならどうして結婚など? 想い人と結ばれようとは思わなかったのですか?」
「出来ない。相手は十年前に一度会ったきりだ」

 と、レオン様は重たい口調で話してくれた。
 聞けば彼は、初恋を過去に出来ないまま二十歳を迎えたのだという。
 今までに誰にも打ち明けた事はない。それはそうだ、伯爵家の長男が初恋を患い続けているなんて、笑い話にもならないだろう。

「忘れようと手を尽くしたが出来なかった。未練がましい男だ、君には申し訳ないと思っている。重ね重ね、すまない」

 と、彼は沈痛な面持ちで言った。ベッドの上で、深く頭を下げて。

「そもそも他に想い人が居る状態で結婚するなど言語道断。だが――厚顔無恥な願いではあるが、どうか、婚姻関係を続けて欲しい」
「それは、ペザーベ家の為に?」
「ああ。そして、我が家に連なる全ての人々の為に」

 静かな私の問いに、レオン様は短く頷いた。私もまた納得する。

「そうですよね、分かります。私達は家の為に結婚するのですから。……でも、随分はっきりと本音を打ち明けるのですね」
「秘匿は悪だ。愚直だと謗られても構わない。だが君には誠実でありたい。これから共に生きてくれる相手であるなら、猶更。
 どうだろう、検討してみてはもらえないだろうか」

 私は、衝撃を受けこそしたけれど――
 それよりも、彼の確かな信念の強さに驚いていた。

 青い瞳を真っすぐに向けて、爵位の低い男爵の家柄である私に頭を下げる。
 深い懊悩は目の下に隈となって現れて、それは一種の哀れみを感じさせるものですらあった。この日まで深く悩み苦しんだと、十分にうかがえる表情だった。

(大切なのね。家も、想いも。どちらを捨てられないほどに)

 どちらかを切り捨てるのではなく、どちらも選ぶ覚悟。そして、頭を下げてまで理解を求める対話の態度。
 私にとってその誠実さは、とてもとても、好ましいものに感じられた。

「構いません。どうぞそのままでいらしてください」

 だから、了承する事に抵抗はなかった。

 レオン様は目を見開いた。驚愕の表情。眉間に深いしわを寄せて、信じられないものを見る目で私を見ている。

「そんな顔をなさらないで。私だって、貴方をまだ愛していません。その上で結婚するのですからお互い様です。レオン様の誠実さを好ましいと感じます」

 これは本当だ。彼の事は素敵だと思うが、恋には至っていない。これから徐々にと思っていたけれど、そういうことならば、相愛を目指す必要もないだろう。
 しかし、と口を開くレオン様を、私は手でやんわり制する。

「常々思っていたんです。愛し合って居なくても仲の良い夫婦にはなれるはずと。友人のように、同志のように、お互い家を愛するものとして。
 それってとても素晴らしい事だと思いません?」
「……君は、なんというか、柔軟だ。そして強かだ」
「愛してくれない男性と夫婦になるなんて、と、泣き伏せるような娘とお思いでした? いいえ、逆です。強かでなくては、政略結婚に前向きになどなりません」
「成程、そうか。改めて感服した。リリマリア嬢」
「マリアとお呼び下さい。家族になるのですから」
「では、私の事もレオンと。気張らずに呼んでくれ」

 笑って見せた私につられて、彼はやっと表情を崩してくれた。
 ほどけるように笑う人だと思った。
 あんまりその顔が、泣き出しそうに安堵していたから、私は――そう、ほだされたのだ。
 真面目で実直で一途な男性を、楽にしてあげたくなってしまった。
 だから、自然と問いかけていた。

「ところで、想い人というのは一体どんな方なんです?」

 ――と。

「いや、受け入れてくれただけで十分だ。語るなどと申し訳なさすぎる」
「あら、今更です。ここまで打ち明けておいて秘密になさるの?」
「そんなつもりは…… しかし、そうか。詳細を述べてこそ真に誠実と言えるか。君が望むのであれば」
「遠慮なさらないで。お聞きしたいわ」
 
 私は、レオン様改め、レオンが語り出してくれるのを辛抱強く待った。
 やがて――

「……彼女と出会ったのはもう十年も前になる」

 レオンはぽつぽつと語り出した。懐かしそうに、遠い目をして。

「ビラギアの避暑地で、ひと夏だけ共に過ごした。共にと言っても、言葉を交わしてはいないんだ。私は口下手で。今もそうだが、当時はもっとひどかった。ただ離れ難くて、別荘を抜け出しては彼女を探していた。
 私の視線に気が付いて、長い髪をひるがえし振り向いた彼女は、まるで水から生まれ出た妖精のように見えた。
 一目見て恋に落ちたよ。幼い私を射抜いた無垢な瞳は、まるで人でないかのように美しかった」

 と、一度はじまったレオンの語りは止めどなかった。
 私は一種、感心する気持ちで彼の聞き役に徹していた。なるほど、秘め続けた想いを解放して良いと許された人はこうなるのか。

(すごい饒舌。というかすごい一途。何というのこれは、情念? ここまでくると恐ろしくすらあるわ……)

 しかし嬉しそうな顔をする。
 本当に誰にも聞かせていないのだと分かる、恥ずかしさと喜びが入り混じった語り口だった。最初こそ遠慮がちだったけれど、今はもう歓喜が勝って、ちょっとした暴走状態になっているのが分かる。

(レーナなら、あり得ない! 初夜に他の女の話をするなんて最低! ってぶちぶちに怒り散らすんだろうけど)

 お茶会友達の吊り上がった瞳を思う。うん、絶対にそう言う。
 私も正直、ちょっとだけ失敗したかなとは思っていた。こんなに長い話になるとは思っていなかったし、どうせ喋るならばお互いの家の話をしたって良かった。
 良かったけれど――

(そこまで嫌って訳じゃないわ。この人がなんだか可愛らしいから)

 二歳年上のレオンは、そうと思えない位に頬を染めて昔語りをする。
 今だって、大切な思い出を両手で包み込むように喋っている。
 彼女がいかに愛らしかったか。どれほど心を奪われたかを。

「ある時、彼女が帽子を落としたんだ。風に吹かれて遠くへ飛んで行って」

 彼が言う出会いの避暑地、ビラギア地方なら、私も行った事があった。地形の都合で常に風が強い場所だ。リボンをしっかり結んでおかないと、あっという間に見失ってしまう。

「分かります。つばが広い帽子だとどうしてもなりがちで」
「確かにそんな形の帽子だったな。白くて黄色いリボンがついていた。飛んできたのを私が受け止めたんだ。差し出した時、ありがとうと言った声はまるで、鈴が転がるみたいだった」
(ん……? 白いつば広の帽子? 黄色いリボン?)

 私は首を傾げた。覚えがある。
 風に飛ばされる事数えきれず。一度、男の子に拾ってもらった事があるような。

「その後彼女は、踊るような足取りで森へと歩いて行った。その時に思ったんだ、きっと妖精だと。清浄な水に棲むという聖なるものに違いないと。それほどまでに儚く可憐だった」

(あ、違うわ。儚さなんて無縁の単語だったもの。その時の私、ポーチに松ぼっくりを大量に持ち帰って自慢している野生児だったし)

 そう、今でこそ淑女の私だけれど、幼い頃は相当やんちゃだった。
 家庭教師の先生に、貴族の娘としてはしたないと幾度もたしなめられても、好奇心は常に邸の外に向いていた。勉強を放り出して、庭師や使用人の息子たちと遊んでいた。
 その頃の私は可愛らしいドレスよりも、大きなどんぐりをつらねた首飾りの方が大切だったし、松ぼっくりをより多く持っている者こそが覇者だった。

(うん、やっぱり違うな。ああびっくりした)

 子ども用の帽子の色が被るなんてのはよくある話だ。帽子だけに。
 なんて思って、まさかの想像を頭から放り投げる。レオンのお喋りはまだ続いていた。

「別れの日に、小さな石をくれたんだ。その石は翡翠だった」

「――翡翠?」

 私は――
 ぴし、と、動きを止めて、彼を見た。

「翡翠を、もらった、のですか?」
「そうだ。見てくれるだろうか」

 彼はそう言って、小指に嵌めた指輪をかざしてみせた。
 左手の薬指ではない事が誠実なレオンらしい。そこにはきちんと私との誓いの証の指輪がはまっている。
 だが、私が目を奪われたのはそんな理由じゃなかった。
 翡翠をもらった。女の子にもらった。ビラギア避暑地で。それは――

「水底を写し取ったかのような美しい色合いだろう?
 だから、これをくれた少女は水の妖精だったのではと思ったんだ」

(わ、わ、わ)


 私だ。
 それ、私だ。


(いやもう今の話で間違いない思い出した! 川でびっしゃびしゃになって遊んでた時に拾った石! 一緒に遊んでたっていうか後ろついてきた男の子があんまり喋らないから、何かあげたら反応するかなって思って適当に拾ったのを渡したわ! そしたら嬉しそうに笑うからへえ石が好きなんだ思って! 後から川に落ちてる緑の石は翡翠だって教えてもらって、滅茶苦茶腹を立てたのよ! もったいないって! 子どもにはまだ宝石は早かったものね! それで返してもらうって何回かビラギアに連れて行ってもらったけど再会出来なくてあの時はそりゃあ悔しかったのよね! あれが貴方でしたかっていうか儚げ? 妖精!? 私が!? いやいやご冗談をその頃の私って松ぼっくり集めが趣味の正真正銘の暴れん坊でしたけど!?)

 と、濁流の如く叫ぶ事もできずに、私は内なる私が頭の中でぐるぐる回りながら大暴れする声を聴いた。
 目前では、懐かしむ表情のレオンが遠くを見ている。あの視線の先にはどうやら幼い頃の私がいる、らしい。十年前、つまり八歳の私。大人の手を焼きに焼かせやんちゃの限りを尽くしていた野生のお嬢様だった頃の、小さなリリマリアが。

(う、うそでしょ、だって、え!? じゃあ彼はずっと私の事!? え、言った方がいいのかしら、でもあんまりにも……え? え?)

 そう、あまりにも違い過ぎる。
 水の妖精と野生児では月と蛙ほどに違う。一体彼の目に私はどう映っていたのか。絶対にそんな風に、綺麗な表現をされるような行動をしていなかったはずなのに。見た目だって絶対に整っていなかった、そばかすだらけで日焼けした、お猿の子みたいな有様だったはずなのに。

「あ、あの、レオン?」
「うん? ああ、長く話過ぎたか。すまない、こんなに楽しいのは初めてで」

 どうにか真実を切り出そうとした私は、彼のはにかんだ笑顔に敗北した。
 レオンは涙ぐんですらいる。今まで誰にも明かす事が出来なかったから、嬉しいんだ――そう言って、大きな手で目を押さえる。

(言えるわけない絶対無理むりむりむり)

 私は飛び出そうとする様々な言葉を、無理やり胸の奥に押し込んだ。
 だってこんなにも幸せそうに、嬉しそうに、ほっとした顔をするんだもの。思い出を汚すなんて出来ない。少なくとも、打ち明けるのは今じゃない。傷つけると分かっていて出来る訳がない。

「そ、そうですね。もう夜も遅いですし」

 作り笑いを浮かべた私の本音に、しかし彼は気が付かなかった。
 満足感が目をくらませていたのだろう。でなければ異変に気が付く位、私の顔は引きつっていたに違いないから。
 レオンは私に改めて向き直ると、心からといった風に、深々と頭を下げた。

「有難う、マリア。君の言う通り、夫婦としてお互いを尊重して行けたらと思う。
 不甲斐ない夫だが、今後ともよろしく頼む。
 それから…… 迷惑でなければ、またこうして話を聞いてくれると嬉しい」

「え、ええ。もちろんです」

 と、返す以外に答えがあっただろうか。いや、ない。
 私はそれきり何も言えないまま、がちがちに固くなってベッドに沈んだ。やがて彼が隣で安らかな寝息をたてても、目を閉じる事すらできなかった。

(ああもう、どうやって打ち明けたらいいの!?)





 他に想い人を持つ夫と、それを受け入れた妻たる私。
 折を見て、思い出の彼女が自分であると明かしたい。問題はいつそれを行うかだったが――ひとまず夫婦としての仲は良好だ。
 彼は決して私をないがしろにはしなかったし、まさしく完璧な旦那様と言えた。

(この分ならきっとうまくやっていける。いつかするっとタイミングが合って、打ち明ける事もできるはず!)

 なんて、最初はそう思っていた。
 崩れ始めたのはひと月後。
 レオンと共に生活して、しばらく過ぎた頃だった。


「その瞳の煌めきといったら、何に例えようもなかった」

 『また話に付き合ってくれたら嬉しい』。
 初夜に言った通り、レオンは毎晩と言っていい位、想い人の妖精ちゃん(笑う所である)の話をした。鬱積を晴らすかのように語りに語りまくった。内容は重複している事も多い。一緒に過ごした時間が少ないせいだろう。
 私はというと、うんうん頷きながら、内心指を折っていた。

(おっと、瞳の輝き話が九回め。これは中々の好記録。この分でいくと「小さな掌」話十三回を上回るやも? 月末の総合優勝はどれになるかしら)

 なんてお遊びをしていたのは、別に悪趣味からではない。
 そうでもしないと、何というか――どうしようもなく、誤魔化せなくなってしまったからだ。

「もう一度会えたら何と話そうか。未だによく考える。成長した姿を思ったり…… 哀れな男の一人遊びだが、それでも、楽しいと思う自分が確かに居るんだ」
「へ、へえ~……」
(いけない、がんばれ私。にやけるな私)

 ぐっと頬を噛んで耐える。嬉しいと思ってもにやけてはいけない。彼は私に言っている訳じゃない。ああ、だけど!

(やっぱり無理!)

 内なる私は悲鳴を上げていた。両手で顔を覆って、左右にごろんごろんと転がりまくっていた。

(だってこれ、実際には私への愛の言葉じゃない! そりゃ彼はそう思ってないけど、でも実際にはそういう事でしょ!?)

 そう、私は嬉しいのだ。
 嬉しくなってしまったのだ。
 彼の話を聞き続けてひと月。その間に、すっかり恋に落ちてしまったから。

(仕方ないじゃない! たった一度の出会いを大切に抱きしめて、あんなに愛しそうに語るのよ!? それでいて誠実で真面目で家族を大切にするとか、好ましいに決まってる!)

 私ではないけど確かに私である妖精ちゃんの昔語りを聞くようになってから、妙に彼の事を意識するようになって――
 隣に座る、並んで歩く、その近い距離に次第に私はときめきを覚えるようになってしまった。
 愛し合って居なくても夫婦にはなれる。今もそう思っているが、少なくとも私側としては既に実行不可能だ。

 毎回思う。この人私の事好きなんだ。いいや違う昔の私の事であって彼の中では違うのよ。そんな思い直しを繰り返ししている内に、悔しい気持ちを覚えたのが最初の自覚。膨れ上がった悔しさが、恋愛感情を私に自覚させた。

 私、レオンを好きになってしまったんだ。と。

(で、ライバルは自分、なんて…… どうしたらいいのよ、この状況!)

 恋敵はあろう事か幼い頃の自分自身。
 しかも大分変貌を遂げている。レオンの中で大切にされ続けて来た記憶は、長く長く、思い返す度に、印象だけが強まっていったようだ。

(だって全然違うもの。私はか弱くて愛らしい子ではなかったし、ビラギア滞在時なんて最たるものよ? ほんの一瞬見えた奇跡的に可愛い顔があったとして、それをもとに広げていったようにしか思えないのよ)

 あの避暑地に行ったのだって、いつもと違う木の実や珍しい石を拾って、邸の庭の子ども勢力戦争に勝利したかったからだ。ちなみに完全な形の蛇の抜け殻という珍しいお土産を持って帰った私は、一躍英雄となった。その日の内に先生に取り上げられて、本気で号泣した。

(だけどレオンの記憶には、そんな野性的な私は存在していない……)

 主観で彩られた記憶の中では、薄い所はどんどん剥がれて行ってしまう。
 そうして出来上がった存在が「妖精ちゃん」。

(どうにか合致させられないかしら。私と妖精ちゃんが同一人物なのだと分かって貰う方法は)

 彼の昔語りを片耳で聞きながら――正直重複しちゃっているので、悲しいかな、聞き流しても問題ないのだった――私は頭をフル回転させた。

(おしとやかにしてみる? 妖精ちゃんがそのまま育った姿を模倣してみるとか。いいや駄目よ、それだと私が妖精ちゃんにならなきゃいけない。あくまで私は私だもの。分かって欲しい。でも)

「それで、別れの日に挨拶すらできなかった事をいつまでも悔やんでいる。名前を聞いておけばよかったと……」

 そう話す横顔を見ると、ぐっと胸が詰まる。
 レオンの中にある、綺麗で儚い、大切な記憶。妖精と見紛うほどに、愛らしかった少女の姿――

(――あ、思いついた)

「……でも、実際に妖精ではないのでしょう?」

 ぽそりと、私は呟くように問いかけていた。

 レオンの瞳が私を向く。こちらをちゃんと見てくれている。そんな些細な事を嬉しいと感じる位には、私は彼を好きになっていた。
 彼は苦笑する。もちろん、と。

「彼女は人間だ。帽子に触ったし、石を手渡してくれた時の体温も覚えている。昔は本気で妖精と思っていたが、今では美しい少女だったのだと理解している」
「ですよね、人間ですよね! だったらほら、きっと、普通の事もしていたんじゃないかって思いません?」
「普通、とは」
「年頃の子供が避暑地でする事といったら、遊びしかないですよ」

 じわりじわり、私は話題を誘導していく。
 そう、まずはその幻想を良い感じに崩すのだ。
 妖精ちゃんは妖精じゃない、遊んだり走ったりするただの子どもだったと認識してくれたら、徐々に私に繋げていく事も出来る。瞳も目の色も同じなのだから、意外とあっさり気が付いてくれるかも。

 乱暴に真実を口にしてしまっても良かったのかもしれない。
 でも、どうしてもできなかった。レオンの中の綺麗な思い出。それを汚して壊すのは、過去の自分に負けるよりも嫌だった。十年間抱きしめ続けて来た想いなのだ。無碍にできるほど、私は身勝手にはなれない。

それでも、矛盾しているかもしれないけど、私だって分かって欲しい。

(お願いレオン、気が付いて。私だって。貴方がずっと思い続けてた相手が、目の前にいるって!)

 祈るような気持ちで、私は言葉を重ねた。

「覚えがありません? 自然がある場所で遊ぶなら、色々あるでしょう。貴方もそうやって過ごしたのでは?」
「確かにそうだな。大人たちは釣りや乗馬を楽しんでいたが、私にはまだ早かった。それで森で遊んでいたんだ」
「そうそう! 森で何してました? どんな遊びです?」

(ここで遊びを聞き出して、きっと妖精ちゃんもそうして遊んでいたんでしょうねその年ごろなら皆そうですものね、私もそうでしたよビラギアには行った事がありますし、案外どこかで会っていたかも、なんて、うまくこう、やる、やれ、私!)

 表情はあくまでもにこやかに。
 内心の私が、妖精ちゃんの頭を押さえつけて出てこないようにギリギリと戦っている。そんな映像が浮かぶ。
 レオンはふむ、と、顎に手を置いて思案した。腹が立つほど格好いい横顔だった。

「ああ、思い出した。森で――」
「はい、森で!?」
「絵を描いていたな」

 は。
 絵。

 うんうん、と、レオンは頷いた。懐かしそうに、少し笑って。

「後は読書だな。清らかな場所だったせいか、時間も忘れて過ごしたものだ。鳥の鳴き声や水の音、葉擦れの音が心地よかった。森とはこんなに穏やかな場所だったのかと感動した事も覚えている」

(元気盛りの子どもにとっての森が、静か……?)

 耳を疑った。それは――私の知見が狭かったからに他ならないのだけれど、驚愕したと言っていい。森とは子どもにとって無限の遊び道具が揃った、最高の能動的遊技場だったからだ。

「遊びってあれじゃないんですか? バッタを捕まえてその数を競い合ったりとかしませんでした?」
「いや、した事がないな。当時は虫にも触れなかった」
「水切りの石投げで脅威の十五跳びを披露して拍手喝采を浴びたりは? ブランコからの跳躍でどれだけ遠くに飛べるかを競う蛮勇レースで頭から着地して、泣かずに立ち上がって高く拳を振り上げたりは?」
「そもそもブランコを使わせてもらった事がない。危険だからと」
「菓子箱をもらってきて、中身を金ぼっくりで満たして喜びに浸ったりは?」
「すまない、金ぼっくりとは?」
「金ぼっくりは欠けのない握りこぶし以上の大きさの松ぼっくりの事です! 銀ぼっくり十個分の価値があって、銅ぼっくりはリスに齧られた芯だけになったやつで、価値がとても低いんです! じゃなくて! え、しない……?」

 しないのか。
 そりゃ、私は女の子としてはかなりわんぱくな方だったけど、男の子はみんなそうだと思っていた。というか、そういう子しか周りにいなかった。貴族友達の同年代の男の子でさえ、走り回って遊んでいたから――

(しないのか、しないんだ、ふつう……)

 最早普通がなんだか分からなかった。
 同時に私は、自らの蛮族ぶりを恥じた。多分、いや、絶対。レオンの言う森の過ごし方こそが貴族の子どもとしては正しい。そんな彼が夢想する幻想の少女妖精ちゃんが美しい記憶に改ざんされてしまうのも、さもありなんという話だった。

 つまり私には、彼とも、妖精ちゃんとも、共通点が何もない。

 そんな私なのだ。成長後の姿として繋げて連想してもらう事は不可能。
 がん、と衝撃を受けた私を、レオンはじっと見ていた。不思議そうな表情で。

「君は、そういう遊びをしていたのか?」
「え、あ」

 しまった――
 暴露しすぎた。

 さっと自分の背中が冷たくなるのが分かった。
 入れ替わりに熱が込み上げてくる。顔から火が出るほど恥ずかしかった。自らのはしたなさを並び立てて自慢したようなものだった。
 彼は淑女教育を受けた後の私しか知らない。十歳になってやんちゃな遊びの一切を断たれ、しばらく悲しんだ後にやっと吹っ切れて今の私になった、そんな経緯はまるで知らないのだ。

「ご、ごめんなさい、幻滅しましたよね。でも今はもうちゃんとしていますから。蛮勇などふるわないと約束します! ね、ほら! 私もうちゃんと十八歳の貴族の娘ですから! これからも貴方の妻として粛々と…… 何笑ってるんです?」

 恥ずかしすぎてまともに喋る事もできない。
 なのに、なのにだ。俯いて人生最大の後悔をしている私に聞こえて来たのは、忍び笑いの音。顔を上げると、彼は笑っていた。大笑いでも嘲りでもなく呆れでもなく、妙に楽しそうに、おかしそうに、くつくつと喉を鳴らして。

「悪い、笑ってはいけない、のだが。そうか、君はそうして元気な子供時代を過ごしたのだと思ったら、微笑ましくてな」
「笑う事はないでしょう!? まじめに謝罪しているのですよ!?」
「謝罪の必要はないんだ。とても、ああ、うん。そうだな。私は嬉しいんだ。ようやく君が、自分の事を喋ってくれたからな。ずっと聞きたかったんだ」

 と、レオンは、笑い顔を更に緩ませて、私を見つめた。

「聞き役に徹してばかりの君に申し訳なく思っていた。心地よさに浸るばかりで、私は君の事を知れていなかった。今夜こそと思っていた所に、自然と喋ってくれた事を嬉しく思っている」
「そんっ、そんな…… 別に私、話すようなものは、何も」
「あるじゃないか。聞かせて欲しい。小さな頃のマリアがどんな風に過ごしたのか。遊び方や過ごし方や、姿かたちだってそうだ。家族の事を知りたいのは、おかしな事ではないだろう?」

 家族。
 レオンは、彼は、私を家族と言ってくれた。
 それは私が最初に言った言葉で、最初の夜に、家族になるのだからと――それを彼は憶えていて、あえて言ってくれたのだろう。
 私のやんちゃに眉を顰めず、笑って、元気だと言ってくれた。
 知りたいと言ってくれた。今の私を。妖精ちゃんではない、私自身を。

(……嬉しい)

 どくどくと、胸が高鳴る音が聞こえた。

(だから好きなの。こういう所が、優しいところが、大好き)

 目の奥がちかちかする。レオンの顔の周りが輝いて見える。薄暗い部屋の中で、まるでそこだけ星が輝くみたいに明るい。

 好きな人の周りはきらきらするもの。恋多きレーナはそう言っていた。
 私は恋をしている。自覚していたけれど、でも、こんな風に見えるのか。好きに好きが重なったら、こんなに世界が眩しくなるのか。思い知る気分だった。

「っ、今日は無理です、またの機会に!」

 恥ずかしさとときめきで何も言えなくなった私は、避難の気持ちで枕に頭を突っ込んだ。

(これ以上好きにさせないで。どうしたらいいのか分からなくなるわ!)





 もう寝ますと叫ぶように言うが早いか、リリマリアは羽布団の中に潜り込んだ。
 快活な昔話は今夜の内に聞けないらしい。残念に思いながら、レオンもまた、右隣へと滑り込む。

 ベッドは共にするが、それ以上の事はしない。
 いずれは必要になるだろうが、現時点では理由がなかった。彼女も同様だろうとレオンは察している。
 友人。理解者。愛していなくても夫婦になれると笑ってくれた彼女だからこそ、その気持ちを大切にしたいとも思っていた。

(今夜は楽しかった。普段よりも、ずっと)

 掌一つ分の距離を空けて寝そべり、レオンは目を閉じて思う。

(一方的に話を聞いてもらうより、彼女と会話する方が楽しい。……聞いて欲しいと願った癖に、我侭な事だ)

 胸に秘め続けた幼い恋心は、時間をかけてすり減るどころか、膨張するばかりで。
 はち切れんばかりに膨れ上がったそれを、怒りを覚悟して、妻となる女性に打ち明けた。柔軟で懐の広い彼女は、未練がましい愚かな男を、そのままで構わないと受け入れた。それどころか昔話まで聞いてくれる。つまらない、何の進展性もない、糸を巻いてまた解くような繰り返しの話を。誰かに聞いて欲しいという女々しい想いの絡んだ思い出話を、辛抱強く聞いてくれる。

(私は何を以て、君に報いればいい。友だというのなら、夫婦であるなら、同じだけの感謝を返したい)

 そんな優しいリリマリアは、父の親友の愛娘だ。
 出会った頃から、一流の淑女だった。ダンスも会話もそつがなく、男性を立てて控えめに振る舞う。その一方で、しゃんと伸びた背中とはきはき喋る物言いが好ましかった。
 結婚相手が彼女になると決まった時、後ろめたさを感じたのは、愛する事が出来ない自らの不甲斐なさ故だ。
 自分は彼女を不幸にする。まっとうな夫婦にはなれない。
 だが、リリマリアは。

(それでいいと言ってくれた。出来過ぎた女性だ。まるで人ではないような、慈愛に満ちて――そう、思っていたが)

 レオンはリリマリアの優しさに神性じみたものを感じ、それから今日、彼女は神がかって優しいが、同時に確かに人間だという事実を強く感じ取った。

(どうやらかなりのおてんばだったらしい)

 慌てた風に沢山喋った、昔よくした遊びの全ては、幼い頃のレオンでは想像もつかない元気な様相をしていた。虫を捕まえたり、ブランコから飛んだり。きっと他にもあれこれとやらかして、大人たちを困らせていたに違いない。
 泥だらけになって遊ぶ小さなリリマリアを想像して、自然とレオンは笑みを浮かべた。

(あの様子だ。森という森を我がものにして、駆け回っていたのだろうな。少年たちの先頭に立って。亜麻色の髪を風に遊ばせて)

 ふ、と笑いの息を小さく吐いて、それから。
 レオンは目を見開いた。

「――」

 薄闇が辺りに満ちている。月は遠く、光を部屋にまで運ばない。隣にいる妻からは、小さな寝息が聞こえてくる。
 そっと、起こさないように身を乗り出した。
 枕に小さな頭を埋めている彼女を見おろす。緩い三つ編みにした、腰まである長い髪。薄紅の唇、少し開いて、浅い寝息を繰り返している。

 視線が――釘付けになった。

「マリア――」

 思わずそう、囁き声で呼んでいた。
 リリマリアは目を覚まさない。むにゃ、と口を動かして、うっすら笑う。
 何か良い夢を見ているのだろうか。

(……なんだ? 心臓が苦しい)

 痛みの正体が分からないまま、レオンはリリマリアの寝顔を見つめ続けた。
 眠る前の癇癪じみた興奮など欠片も見当たらない、あどけない寝顔はまるで、妖精のように可憐だった。





「真面目な話をしても良いだろうか」

 食事も入浴も済んだ後。あとは眠るだけの、いつものお喋りの時間。
 深刻な表情を浮かべて、レオンは私に向かい合った。夜着の上に羽織るガウンを脱ぎもせずベッドの端に腰かけたのは、横になる気がないからだとすぐに分かった。

「君に謝らなければならない。話を聞いてもらった上で、今後どうするかを話し合いたい」
「――分かりました」

 私は、ぐっ、と息を飲んで。意識して吐き出してから、隣に腰かけた。

(……この日が来てしまったのね)

 ここ数日、ずっと彼は、どこかよそよそしくぎこちなかった。
 私が恥ずかしい暴露をしてからしばらくして、レオンは妖精ちゃんの話を急にしなくなった。どうしたのと問うたら、もう全部話したからと言う。おかしかった。そんな理由だったら「小さな掌話」が通算二十回を超える事も無かったはずだ。
 気晴らしにと出かけたボート遊びも、乗馬も、妙にふさぎ込みがちで。じっと私を見ては視線を逸らす。楽しい時間を過ごしているはずなのに、苦しそうに顔をしかめる。そんな時間を経て今夜に至った。

 どんなに鈍い女性でも気が付く。彼の心が変わったという、事実に。

(耐えきれなくなったんでしょう。想いを。妖精ちゃんへの、強い愛情を)

 レオンは今まで想いを押し殺していたけれど、私に打ち明けた事で変わってしまったのだ。
 『彼女が好きだ』と、話す度に強く自覚して、昔以上に膨れ上がってしまった。
 私だって分かる。レオンへの想いを、誰にも言っていないから我慢できているだけ。レーナに相談していたら早々に爆発していた。痛い程分かるから、彼を責められない。

 結婚して三か月。
 沢山話を聞いて。私は彼を好きになって、悔しい思いもして。
 短い夫婦生活の記憶が、風にめくられるページのようにぱらぱらと流れていく。

(いやだ、聞きたくない。苦しい。何も言わないで)

 そう叫びたかった。レオンの胸を叩いて、泣いて縋りたかった。
 昔の私だったら出来た事が、今は出来ない。好きだから困らせたくない。うそ、一緒に苦しめばいい。ばか。ずるい。そんな顔しないで。笑って。大好き。感情がぐるぐる矛盾の中で回るばかりで処理できない。
 それでも私は、暴れる本音を押し殺して黙っていた。唇を噛んで耐えた。

(結局、私が妖精ちゃんだって打ち明けられなかった。気づいてもらう事も――)

 できなかった。
 悔しいけど、負けてしまった。
 だったら笑って終わりたい。せめていい女としての記憶を、彼に覚えていて欲しいから。

「どうぞ話して。遠慮なく」

 促すと、レオンはぐっと喉に詰まる音を立てた。
 膝の上の拳が震えている。どこまで誠実なんだろうか。本当の事を言うだけなのに。そんな所が好ましくて、余計に胸が痛い。
 しばらく彼は無言だった。そして、一度息を吐いてから、言った。

「私は、あの日出会った、記憶の中の彼女を愛している」

 はっきり聞くと、やっぱり胸は痛かった。
 だけれど顔には出さない。負けたとしても貫きたい態度くらいある。

「こんな私を受け入れてくれた君に感謝している。いつまでも引きずるなと、切り捨てても良かったのに…… だが」

(分かってる。それでも無理だったって、そう言うんでしょう?)

 だったらもういい。言い放ってとどめをさして欲しい。
 「彼女じゃなきゃ駄目だ」と。
 「結婚したいのは彼女だけなのだ」と――


「君の事も、同じ位、素晴らしい女性だと思っている」


「へ?」

 想定外の言葉が、出て来た。
 レオンの表情は固く険しい。あっけに取られている私とは全くの真逆。

「不実だ。不実の極みだ。二人の女性を同時に愛し悩むなど、何と言う……!」

 どん、と、自分の膝を拳で叩いて、レオンは苦悩の呻きを漏らした。
 一方の私は、何も言えない。
 彼は今、なんて? わたしを? あいし? 妖精ちゃんと同じ?

「す、すき……?」
「ああ、好きだ。愛している」

 告白としては似つかわしくない、絞り出すような苦しみの声で、レオンは長く語った。

「初めは、なんて懐の広い女性なのかと感心した。私の愚かな語りを聞いてくれる心優しい女性だとも。
 だがある時から、目を離せなくなった。――些細な事だったんだ。眠る君を見て、それからずっと。共に過ごす時に見せるのびやかな手足や、背を伸ばして前を向いた時の、馬上の横顔の美しさ。快活な声。視線に気が付いて笑いかける、口元の愛らしさに見惚れた。だが、胸を打たれる程に私は、自らの不誠実を自覚した」

「記憶の中の儚い笑顔と、君の快活な笑顔。全く違う雰囲気であるのに、私は同じ感情を抱いた。愛らしいと確かに思った。
 そうして気づいた。私は、マリア。君を彼女の代わりにしようとしているんだ。そんな事が許されるものか!」

「受け入れてくれとは言わない。君はもう十分ほどにその腕を開いてくれた。
 だから、別れを、と。家の為に結婚した。ペザーベ家を守りたい。だが、その為に君を犠牲にしたくもなければ、嘘をつき続ける事もできない。
 君にはもっとふさわしい男性が居る。父上たちとも相談の上、婚姻関係を含めていま一度、互いの在り方を整えたいと思っている。
 ……愚かな私を、どうか、許してほしい」

 そんな彼の、怒涛の告白を聞いて――

(まずい)

 まずい。まずすぎる。
 私は大量の冷や汗をかいていた。感情がとにかくごちゃごちゃに混ざり合って、どうにかなってしまいそうだったけれど、一番上で主張しているのはこのままにしてはいけないという真っ赤な警報だった。

 レオンは見た事も無い位に顔色を失っていた。もともと肌が白かったけれど、今はもう死人みたいに血の気が無い。
 誠実過ぎる彼は、二股という罪で今、押しつぶされそうになっている。

(このままだと全てを片付けた後に自殺しかねない)

 冗談でも誇張でもなく、それほど真面目なのだ。ばかがつくほど生真面目なのだ。
 私は視線を左右に激しく揺らす。どの判断が最善なのか分からない。あまりにも予想外過ぎて何も対策出来ない。

(私を愛して――妖精じゃない私を。別のものとして認識した上で。二股。でも相手は私で、じゃあ良くない? いや、彼は分かっていないんだから。打ち明けてしまえばいい両方私なんだからって! でもそれで醒めてしまったら?
 嘘つきって、騙したって言われたら? 不誠実っていうなら誰より私がそうだ、黙ってたんだから、知っていたのに!)

 彼は苦しんでいる。ああでも、嫌われるかもしれない。私が、私で、ああ、

「……リリマリア嬢。どうか、何か、応えを」

(――いやだ、そんな風に)


 遠い距離で呼ばないで!!


 他人行儀に呼ばれた時、私の中でうねり続けていた全てが、一気に全部はじけ飛んだ。
 その勢いのままに立ち上がって、三つ編みを解いた。

「レオン。妖精みたいなその子は、髪が長かったですか?」

 明かりが一番届く場所で、真っすぐに立つ。突然の質問に、彼はしばらくぽかんとした。
 それから低く小さく、ああ、と、頷く。

「長かった、と思う。何故そんな事を?」
「髪色は? 顔を見たなら、瞳の色も覚えていませんか?」
「すまない、そこまでは。恥ずかしい話だが、光り輝いていて記憶にない」
「そう。なら帽子は? 白いつばの帽子は黄色いリボンで、だけど端の方に橙のラインが入っていたでしょう。三本」
「君は―― ああ、そうか。覚えてしまう位、私は繰り返し語ったのだな」

 レオンは自嘲的に首を振る。ああもう、まだ分かっていない。本当に、なんて鈍くて、なんて真面目で、なんて愛しい人なんだろう。
 私は続ける。寝間着の裾を、翅みたいに翻しながら。

「最後に会った日は、浅瀬にくるぶしまで浸かっていましたね。他に人はいなくて、一人で水を蹴っていた。よく怒られていた、一人で出歩いたら駄目だって。それなのに言う事をきかなくて遊んでばかり」
「? 何を言って……」
「川に落ちているきれいな石を探していたの。その石を、名前も知らない男の子にあげてしまった。あとになって、その石が翡翠の原石だって知って、取り返したかった。せがんでビラギアに連れて行ってもらったけど、結局会えなかった。
 その石を磨き上げて、指輪にしている男の子に再会したのは――十八歳になって、結婚した時の事でした」

 私は、一歩ずつレオンに向かって歩みを進めながら、言葉を連ねた。
 胸の深い所にまで聞こえるように。
 思い出すように。分かって貰えるように。
 見たことがあるはずなのに忘れてしまった、小さな妖精の本当の姿。亜麻色の髪にはしばみ色の瞳をした、本物の私の姿で、まぼろしの妖精を追い払うために。

「まさか、君は……」

 目の前にたどり着いて、私がそっと手に触れた時。
 レオンは口を手で覆って、大きく目を見開いていた。その瞳は間違いなく私を見ていた。
 今の私。妻である私。リリマリアを、見てくれていた。

(やっと、見てくれた)

 自然と笑みがこぼれた。
 だったら言える。打ち明けられなかった真実を、今なら。


「返してほしかったんです。やっと叶いました。ね?」


 彼の左の小指の指輪を、そっと撫でる。
 あの緑の石が、こんなに綺麗に研磨されて、金環に縁どられて輝いている。レオンの愛の証。同時に盲目の証でもあるそれを、私はそっと、抜き取った。

「ッ……!!!」

 レオンは、絶句していた。
 絶句して、そのまま、二、三回、はくはくと口を開けて開いて。
 どう、とベッドに倒れた。仰向けに、まるで銃に撃たれたかのように。

「なぜ……」

 か細い、聞いた事の無い声が漏れている。両手で顔を覆っていて、表情が見えない。覗き込んだ瞬間に彼は叫んだ。びっくりするほど大きな声だった。

「何故言ってくれなかったんだ!!! 最初に!!!」
「なっ……!?」

 そんな事を言われたら、私だって反論するしかない。むっときて隣に乱暴に腰かける。ぼんと揺れたベッドでレオンがちょっと跳ねた。全身が。ぼよんと。

「貴方が美化するんですもの! その妖精ちゃんは私なんですお久しぶりです、なんて言えるわけないじゃないですか!」
「だからといってこんな長い間! それじゃ俺はずっと、ああ、くそ!!」

 あ、私じゃなくて俺って言った。こっちが素なのかしら、ちょっと嬉しい。じゃない。強い気持ちで私は身を乗り出す。レオンの顔を覆っている手を剥がす。
 怒っている顔を初めて見た。それでいて微妙に嬉しいような困ったような、複雑な表情だった。駄目だ可愛いとか思っちゃ。それで前にほだされたんだから。

「妖精とかいうから最初は分かりませんでした! でも聞けば聞く程間違いなくそれは私で間違いないし、貴方は自分を責めまくるし、私は私で貴方の事を好きになってしまうし! 恋敵が昔のぼっくり蛮族の自分だなんて、こちらこそどうすればいいか!!」
「待て、それも初耳だぞ!? 愛していないが結婚するとそういう話だっただろう!? そこからなのか!?」
「初夜の時は全然好きじゃなかったです!! 当たり前でしょう、別の女を忘れられない人を進んで好きになるのは被虐趣味の人だけです、私は幸せになりたかったし! でもそれでもいいって思ったのは本当ですから!」
「ああもう何を信じればいいのか全く分からん! 本当なのか!? なら俺はどれだけ君を蔑ろにしていたっていうんだ!」
「ほらまたそうやって自分を責めて! ちゃんと私を見て下さい、蔑ろにされて激昂している女に見えますか!!?」
「少なくとも、怒っているようには見える!!」
「それは状況がこうだからでしょうが!!」

 はあ、はあ、はあ。

 お互いに息が切れるまで叫んだ。
 ベッドの上でお互いに顔を突き合わせて激しく問答して、ふ、と息が切れた時。
 改めて、目が合った。これ以上やりあっていたら、メイドさんたちが飛び込んできていたかもしれない。

「……俺は」

 泣き声みたいな震える声で、レオンは呟く。

「良いのか。君に愛されても。君を愛しても。二股をかけるのではないと、言っていいのか」

 それは祈るみたいな、懇願みたいな声だった。
 途端に胸がきゅうと切なくなって、私は彼の左手を取っていた。

「……私と彼女を同じ存在だと認めてくれるなら、二股なんかじゃありませんよ」

 ああもう、結局またほだされてしまった。好きなのだから仕方がない。

「でも、できますか? 自分で言うのも何ですけど、実際の私はこんなですよ。泣くし怒鳴るし、もとは暴れん坊の小娘です。がっかりしませんか?」
「それが、しないんだ」

 いやにはっきりレオンは言う。緩く手が握り返された。もう片方の手が伸びて来る。私の肩にかかる髪を払う大きな手。あんなに青ざめていたのに、今は暖かい。

「気が付いたんだ。思い出した…… 彼女のドレスは真っ白だったが、手も裾も泥だらけだった」
「川遊びが好きでしたから。帽子だけじゃなくて靴を無くした事もあります」

 ぽつぽつ喋る彼の声を聞いていると、何だか笑えて来る。そう、私はそんな娘だった。どうしようもなくやんちゃでがさつで、だけどそんな日々がたまらなく楽しかった。

「髪も、ありのまま背中に流していた。超然としていた印象だが、あれは」
「編んで結い上げると頭が痛くなるんですよ。葉っぱもくっつきますし、解いている方が楽なんです」
「そうだ、そうなんだ。彼女は儚くなかった。君のように力強く、君のようによく笑い、君のように、愛らしかった」

 レオンは――
 髪を払ったその手で、頬にそっと触れた。
 そうして言った。見ていたはずなのに、ずっと忘れていた、と。

「すまない。美しい思い出の形に合わせて、十年も君を歪めていた」

 言葉が、出てこなかった。

 レオンの囁きが、五月の雨のように温かく降り注いで、私に染みる。
 喜びの温度だった。

(やっと、やっと、分かって貰えた)

 叶った念願は涙の形になって込み上げた。私は顔を伏せて、そのままベッドに突っ伏した。じわりと羽布団に塩辛さが染みる。慌てて起きたレオンが背中をさすった。

「何故伏せる? また傷つけただろうか」
「察してください。嬉しいんです! 人様に見せられない顔になっているから隠してるの!」

 思わず金切り声になってしまった。語尾がしゃくりあげで震えてますますみっともない。こんな顔は絶対に見せたくない。せっかく私を選んでくれたくれたのに。
 それなのにレオンは言うのだ。だったら猶更見たい、と。

「もう捏造などしたくない。全て見たいんだ、泣き顔も笑い顔も。怒った顔は先ほどの分で堪能出来るが、泣き顔は見た事がない。君はずっと胸を張って、しっかりした姿を見せてくれていたから」
「嬉しい事を! あんまり! 言わないで!! 余計に涙が出るから!! 鼻水まで出てるんですから!!」
「構わない。何なら俺の胸を使ってくれ。さあ」

 気配でわかる。両腕を広げて待っている。
 何てずるい人なんだと思った。私が飛び込みたくて堪らなかった胸を今大解放して、どうぞと待ち構えているのだ。そんなの勝てない。勝てるわけない。もう身体が何も言う事を聞かない。

「……言っておきますけど、泣き顔の不細工さには定評があります」

 せめて両手で顔を覆って、のろのろ私は起き上がった。すぐに肩を包まれる。暖かい。嬉しくてまた、泣く。

「お父様にもお母様にもレーナにも、人前では絶対に泣くなと言われました。嫌味じゃなくて親切で、です」
「レーナとやらが誰かも知りたいが、その前に君の顔を見たい」
「頑固。すごい頑固。仕方ないから折れます。笑ったら離婚です」
「分かった、絶対に笑わない」

 我ながら可愛くない態度だった。
 でも顔はもっと可愛くない。自分で分っている。覆った手を外した先にあるのは、目は真っ赤で、鼻も真っ赤で、噛み締めたせいで唇もしわしわの私。夜の為のお化粧だって崩れて見る影もない、きっと今までで一番滅茶苦茶になった私の顔。

 そんな顔を間近に見て、ああ、と、レオンは小さく嘆息した。

 笑ったのではなかった。噴き出したのでもない、感嘆めいたため息。
 人が好ましいものを見たときに、ふっと零れる優しい吐息。そのひと息が前髪を揺らす。

「確かに、君は妖精じゃない」

 甘く瞳を細めたレオンは、こつん、と額をくっつけて、言った。

「だからこそ――とても、とても、愛おしい」

 両腕を背まで回して抱きしめてくれた、その腕は暖かくて、優しくて。
 しがみ付いて、私は身も心も蕩けんばかりに、その温度に浸った。
 私の背中に妖精の羽根は生えていない。だらこそこんな風にしっかり抱きしめて貰えるんだと思うと、なんだか勝ち誇ったような気分になった。

「……こんど、ビラギアに旅行に行きましょう」

 私は小さな声で提案していた。頭の上にはてなを浮かべて、レオンが首を傾げる。

「構わないが、何故?」
「水切り石の投げ方、教えてあげます。ブランコの乗り方も」

 あなたが知らない遊び方を、幼い私を、ちゃんと教えたい。

 そう囁くと、いいな、とレオンは笑った。私もますます笑顔になった。
 きっと、その旅行は人生で一番楽しい時間になるに違いない。優しく頭を撫でてくれる手に浸って、私はうっとりと、大好きな旦那様の胸の中で目を閉じたのだった。
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