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遠山翠と高幡夕緋の場合
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机に向かい、計算するは今月のバイト代。しがない高校生にとってはハシタ金でも救いの神だ。
来週まで頑張れ俺。週明けになれば口座がちょっとだけ潤っている。今週は何があってもこの財布の中身だけで生き抜かなければならない。
なんて事をやっていたら、背後からモンスターに襲撃された。
「ぐおっ!」
「つまんない。腹減った」
「お前はいちいち人の背中に突撃してくんな!!」
背乗り珍獣、ユウヒ。ガバッと背中に圧し掛かり、腹を空かせて俺を食おうとしている。
訳ではなくて。食い物、特に甘い物の催促だ。
学校帰りにそのまま俺の部屋へと付いて来て、いつものように何をするでもなくここにタラタラ居座っていた。別にいるのは構わないけど、ちょっとしたドッキリを含んだ邪魔をするのだけはやめてほしい。
だいたい俺がこうしてせかせかと時給計算をしなければならないのも元はと言えばユウヒのせいだ。前々からユウヒが俺にタカってくるのは常だったけれど、最近はこれまで以上に際限がなくなってきている。
たぶん、きっかけはアレ。保健室での下心暴露。
あれ以来何かにつけてユウヒは俺を食い物にするようになり、そのせいで俺の財布は今日も不毛の地に成り果てている。
今だってこうして、お菓子寄越せと。その上タチの悪いことに、ユウヒは俺の弱点を巧妙に突いてくる。手ごわい。
体の前に回された、男にしては細い腕。しっかりと抱きしめられる。背後から俺の肩に顎を乗せ、ヒシッとくっ付かれていてはこっちだって邪険になんてできない。こいつは何も考えていないような顔をしてどこまで性格が破綻していやがるんだ。
「アキラ」
「……なんだよ」
「クッキー焼いて」
「…………」
いいでしょうとも。焼きましょうとも。
これから夕食作るのよってお袋に邪魔者扱いされようがめげずに粉をふるいましょうとも。
なんで俺はこんな事になっちゃってるんだろう。報われねえよ。誰がどう見たって絶対そう思う。
こんな事をしていてもヤレる訳でも手に入る訳でもないのに、はいはいと従ってしまうのはやっぱりこいつの珍獣力。
カワイイ。こんな密着されたら堪ったもんじゃない。俺の理性は自分でもビックリするくらい屈強だ。
腕真っ白だし、超細いし。女子とは違うけど全体的に華奢。これでケンカ強いんだからこいつはどこまでも人を裏切る。
髪なんかサラッサラだしな。くすみのない真っ黒ストレート。
寝起きが悪いからセットなんて言葉は頭にすらないのだろうけど、起き抜けの状態で外に出ても問題ないくらい元から整っている。
困った。可愛いヤリたい。抱きたい抱きたい抱きたい抱きたい。
「…………今から作ると時間かかるからな」
俺の理性、勝った。
煩悩と理性との激闘の果てに煩悩の方を打ち負かし、ユウヒの腕から逃れて椅子を引いた。
平静を装いつつもトボトボ向かうは一階の台所。今から作り始めたら、焼き上がって丁度よく食えるのは夕食の後になるだろう。
この時間までここにいるという事は、きっとこいつもウチの晩飯に有り付く。台所にいるおふくろもそれをしっかり分かっているから、今日はいつもより多めに用意しているはずだ。
そこに交ざってクッキーなんか焼くという事はどういうことか。花嫁修業なんてしてないで成績上げなさいこのバカタレって、おふくろからチクチクガミガミ文句を付けられに行くという事だ。
気が重いけど行く。女王に頼まれたらノーとは言えない。
前屈みなのは気にするな。高二なんだよ、若いんだよ、そういう時期なんだよ。こっち見てんじゃねえユウヒ。
「アキラは分かりやすいよね」
「…………」
こいつ、いつか絶対泣かす。
***
「……どしたよ?」
「おー……?」
「超眠そう」
だってほとんど寝てねえもん。
斉藤に問いかけられて額に手を当てた。さっきから眠くて眠くて仕方ない。
その元凶はやっぱりユウヒで、俺はあのモンスターに生命力を日々奪われている。
昨日の夜、夕食の後、ユウヒは自分の望み通り俺が焼いたクッキーと対面を果たした。クッキー食う前に飯もちゃんと食えという俺の説教にはツンと澄ましていたが、ウチのおふくろが相手となるとユウヒはコロッと素直に傾く。
この野郎は誰が見ても可愛い部類だし、おふくろは昔からユウヒを溺愛している。俺には厳しいのにユウヒには甘い。自分の手料理をなんでもかんでも食べさせたくて仕方なくて、ユウヒもユウヒでお食べと言われるまま出されたものはパクパク口へと運ぶ。
ユウヒの胃袋は見た目を裏切って底なし。勧められればいくらでも腹に収めていく。だけど夕食中もずっと、ユウヒの意識はオーブンの中で焼かれているクッキーに向いていた。
そうして食事を終え、念願叶ったユウヒは俺の部屋でクッキーをむしゃむしゃと。十七の男がクッキーを両手に、無表情の中にも幸福感を表しながらかぶりつく。いいんだろうか。
そりゃ当然その辺のムサイ男子がやっていたら一個も可愛くない。そんなのは俺だって即座に追い出す。だが残念なことにその時俺の目の前にいたのは、見た目最良のマスコット。カワイイ。なんかもうすごく可愛い。
急いでがっつくせいでポロポロとクッキーの欠片を落としていく様もどうせ許せる。本来ならば一番に来るべき「人の部屋汚してんじゃねえ」じゃなくて、「しょうがない奴だなー、コイツめコノコノっ」というように残念な感想の方が先に立つ。ああ、もう。
色んな事がマズいのだけれど何が一番何がマズいかって、俺の理性が非常に危ないことだ。
「……かわいい」
気づけば声に出ている。ハッとして慌てて口を閉じた。最近本当にマズい。
目の前のユウヒはチラッとこっちを見ただけで別に気にした様子もない。クッキーを食べる作業に夢中だ。
それもどうかと思うんだけど。もう少し違うリアクションないのかよ。
立てた片膝に肘を乗せ、頬杖を付きながら間近でユウヒを観察する。可愛いけど、心境は微妙。
「……うまい?」
「うん」
「そう……」
なんでか溜息。素直にウマいと言われたのに肩が落ちる。
もう少しこっちに興味を示してほしい。欲を出した本音で言うならそれが一つ。ユウヒが気になるのは俺ではなくて、俺が作るお菓子類その他だ。
なんて虚しい。悶々と考えていると些かの苛立ちが込み上げてくる。クッキーに貪り付くユウヒに大した意図もなく手を伸ばした。
「あのさ……」
「だめ」
「え」
肩に触れる直前、パッと俺を見上げてきたかと思うと間発入れずに止められた。
なにそれ。まさか触んなって事か。そこまであからさまな拒絶を受けるとはさすがに思っていなかったから、上げていた腕も思わずピタリと止まる。
「全部僕が食べる」
「…………」
そっちかよ。だから誰も取らねえって。
焦って損した。ユウヒの言動は拒絶を意味しているモノではなかった。クッキー取られないための防御だ。
どこまで食い意地張ってんだ。つーかそれ作ったの俺だろうが。
脱力感も一層大きなものになりながら、ガックリと項垂れたついでに行き場のない手も引っ込めた。
「食っていいよお前が全部。もうソレ持ってっていいからそろそろ帰れ」
じゃないと危ない。俺の理性が。
この前暴露をしてしまってからユウヒがやたらと絡んでくるせいで、最近の俺は常に下心との戦いを強いられている。今だって目の前に楽園があるせいで死にそうだ。
ガツガツと、しかしどういう訳か可愛い様子でクッキーに食らいつく。指にほんの少し付いたクズみたいな粉までも惜しいようで、躊躇うことなく舌を這わせている。
ちゅっと、口づけられる指先。許される事なら俺が舐めてやりたい。
いやむしろ。俺が指になりたい。
「……なに?」
「えッ?!」
じーっとユウヒから目をそらさずにいると、ユウヒが俺に向かって言った。クッキーとの戯れを中断させてまで。
あのユウヒがおやつタイムに意識を別に向けた。とんでもねえことだ。よっぽど不審だったのだろう。ていうか俺、いま何考えてた。
「あんまり見られてると食べづらい」
「え……あ、ゴメン……」
普通に食ってんじゃねえか。とは罪悪感があるせいで言えない。
とうとう俺もここまで来たんだな。この重症加減には自分で自分にドン引きだ。
頬杖を付いたまま顔の向きを僅かに逸らし、俺にとってはエロ画像と化している目の前の光景から目を背けた。
居心地が悪い。自分の部屋なのに。俺の部屋だから俺が出て行くのも変だし、かと言って帰れと言った俺の言葉は完全に聞き流したらしいし。ユウヒが出て行く気配はない。
生き地獄。生殺しってこういう事だ。
「アキラ」
「ん?」
「今日は僕こっちで寝る」
「はっ?」
「だめ?」
「いや、だめって……」
言葉も出ない。幼馴染で家も隣だからお互いの部屋に泊まる事くらいは当然のようにしょっちゅうあったけど、ここ最近はなかった。だって。
本心をぶちかまして以来、一晩を一緒に過ごせなくなった。過ごさないで済むように避けてきた。ユウヒも俺の下心が嫌でここに泊まらなくなったんだろうと。思っていたのに、どうしてこうなる。
緊張感の中でゴクリと喉が鳴った。冗談抜きで変態みてえだな俺。
「あの……ユウヒは……」
「なに?」
「いいのか。ここ泊まるの、嫌だったんじゃねえの?」
実は結構ショックを受けていた。ベタベタくっ付いてくるのは単なる嫌がらせとタカリ行為の前兆だ。それくらいは分かっていたから、ここに泊まらなくなったという事はそっちの意味で嫌われたかな、と。
聞こうにも聞けずにいた事を思い切って聞いてみる。すると当のユウヒからは、ケロッとした答えが返された。
「別に。アキラが僕のことすぐ帰らせようとするから泊まれなかっただけだよ。僕は嫌だなんて言った覚えない」
「え……」
「勝手に勘違いして一人で落ち込んでるアキラもバカみたいで可愛いと思うけど。ごめんね。面白いからずっと放っといた」
「…………」
いつものようにユウヒは無表情。だけどいつもとは違って良く喋る。
なんかバカとか言われたし。ついでに可愛いとか言われたし。十二年一緒にいるけど、可愛いは初めて言われた。
「嫌じゃ……ないのかよ、俺のこと。だって俺はお前を……」
そういう目で見てるのに。
そこまでは言えず言葉を途切らせた。この前言っちゃったんだし今更隠す必要もないが、改めて告白しようとするとやはりどうにも。
視線を少し下げ、じっと見つめてくるユウヒから逃げた。するとユウヒは何を思ったか、床に手を付き、しかしクッキーは放すことなく、身を乗り出して俺に迫ってくる。
「ユウ、んぐッ!?」
ところの、いきなりの攻撃。持っていた食べかけクッキーを口の中に問答無用で突っ込まれた。
俺はちょっと涙目。結構痛いよユウヒさん。
珍獣仕様で焼いたからクッキーは大きめ。アメリカの田舎のクッキーくらい。口には収まりきらなかったそれを咄嗟に持ち直す。
俺のそばに手をついたままこっちを見上げているユウヒには、抗議の視線を送りつけた。
「ッなにすん…」
「僕はアキラを嫌いにならないよ」
「……え」
クッキー持ってポカン。近頃の俺はこういう絵ヅラばっかだ。
ユウヒは新たな一枚を早くも手にし、俺ではなくクッキーを見ながら続けた。
「クッキーおいしい」
「へ?」
「この前のケーキもおいしかった」
「ケ、ケーキ?」
「その前に作ってくれたでっかいプリンも良かったし、チョコレートの買い出し頼んでも絶対に選択外さない。アキラ以上に僕の好み分かってる人ってきっといないよ。クラスの女の子がよくお菓子くれるけど実はあんまり好きじゃないんだ。僕はアキラがいなかったら低血糖で死んでるかもね」
「…………」
どっからツッコめばいいんだ。色々満載すぎて戸惑う。
でもとりあえずはコレか。どの口が低血糖なんて単語使ってんだこの野郎。
「アキラがくれるものが一番好き」
「…………」
クッキーとモグモグ戯れるユウヒを前にして俺は言葉が出ない。嬉しい事を言われたような、悲しい現実を突き付けられたような。
ユウヒが俺を嫌いにならないと言うのはつまり、俺という人間がどうのこうのではなく、単純にお菓子を作ってくれて、単純にそのお菓子が好きと言うだけで。主体はお菓子だ。俺じゃない。
クラスの女の子の話もそうだろう。ユウヒはこの見た目で周りの奴らを騙すから、飴やらチョコやらを持ち込んでいる女子達からしょっちゅうおすそ分けを貰っている。
そこで恵んでもらった物よりも、ユウヒの好みを完全に把握している俺が献上しているモノの方が、価値は上。俺の価値じゃない。お菓子の価値だ。
俺が張り合うべき対象ってなんなんだろう。
「お前にとって俺の価値はお菓子で決まるのか……」
いや、知ってたけど。ユウヒにとって俺の存在なんて所詮は都合のいい男。なんでも言う事を聞く下僕だ
いよいよ悲しくなってきた。そろそろもう泣いてもいいかな。
いい加減グズッと鼻でも啜りそうな状態になってくる。ところがクッキーを持った手にそっと温かさを感じ、俯かせていた顔を上げた。
なぜかユウヒによって取られたこの手。そのままクイッと引っ張られたかと思えば、俺に持たせたクッキーにユウヒがかぶり付いてきた。
「ッな……」
ビックリする。本当に心臓に悪い。
眼前の光景は一体なんだ。クッキー食いたきゃ自分の手元にあるの食えよ。どうしてわざわざ俺の手から食うんだヤギかお前はヤメテくれ。
手首を掴まれたまま俺は硬直。心臓は尋常じゃないくらいにうるさく鳴り響いている。振り払う事も出来なくてされるがままになっていると、パクパクと食べ進めていったユウヒの唇が俺の指先までたどり着いていた。
そしてなんの躊躇いもなく、ペロッと。舐められる。
「!?」
もうやだ。助けて。違う意味で泣きそう。
情けなくも腰を抜かしそうになりながら、腹を空かせた珍獣に詰め寄られる。
「ゆ、う……」
「物欲しそうな目」
「ぅえ?」
「してたらか」
何が。俺がか。
そんなバレバレな目だったのか。
「仕方ないからクッキーあげてみたけどやっぱ違うよね。アキラが見てたのはクッキーじゃなくて僕でしょ」
「……え、と……」
「誤魔化す必要ないから大丈夫。この前保健室で全部聞かされたし。多分あの時のこともアキラは誤解してるだろうから言っとくけど、この前も今も僕は嫌だなんて思ってないよ」
さっきから無表情でツラツラと。だけどいくらか普段より楽しそうな雰囲気を纏っていると感じるのは、長年の付き合いがなせるわざだ。ユウヒは今、楽しんでいる。
でもどうして。こいつはそれでいいのか。いくら幼馴染とは言え、いくら俺がお菓子献上マシーンとは言え、嫌だろ。普通。
「……なんで」
「それを僕に言わせるの?」
ちょっと強めに手首を引かれる。無表情の中にあっても意外と意思の強い目に、スッと射抜かれて口を閉じた。
ユウヒは自ら身を乗り出して、俺のすぐ近くにもう片方の手を付いた。すぐ目下、触れそうなくらいの距離には、何を考えているんだか一切読めないその顔が。
クッキー食ってたから当然だけど、微かに甘い香りが漂ってくる。
「ユウヒ……」
ドクンと、一際大きく胸が鳴った。ただしトキメキは一割。俺はどちらかというと気圧されている。
ユウヒは可愛い。本当にとんでもなく可愛い。だけど中身は結構男らしい。その部分をジワジワ見せて、真っ直ぐ見つめてくるユウヒの目。それは確実にこう訴えていた。
ウダウダやってんじゃねえよクソウゼエ。
「…………」
雰囲気的にはこんな感じ。なんで分かるかっていうと、そこはやはり付き合いの長さがものを言う。
可愛いけど結構男らしいユウヒが本気でキレると無言で暴力に走る。このままもたもたしていると俺もそのうちブチのめされる。
ユウヒに絡んでみて返り討ちに遭った町のヤンチャどもの数は少なくない。その上そいつらの悲惨な終末を俺はいつもこの目で見てきた。だからこそ恐怖が勝った。
こいつの強さは凶悪レベルだ。あれはきっと園児時代、俺が近所のチビッ子道場に通い始めたのがいけなかった。俺がどこに行っているか母親から聞きつけたらしいユウヒもその道場にすぐさま入った。それが全ての元凶だった。
小学校卒業と同時に道場は揃ってやめたけど、こいつはあのまま続けていた方が社会の平和のためだっただろう。中二辺りからちょいちょい色んな奴らに絡まれるようになって、身を守る手段として昔習った事をケンカに持ち込んだのは取りあえずマズかった。
武道として体を張るなら際限とか抑制とかもあっただろう。だけどケンカという縛りのない場で相手をぶちのめす快感を、どうやらこいつは覚えてしまった。
お菓子食ってるときと同じ。こいつは欲望に忠実だ。
「アキラ」
「はっ、い……」
余計な事を考えていたせいで、急に呼ばれて声が上擦る。
恐さ半分恥ずかしさ半分で思わず目を逸らす。すると相変わらず俺の手首をがっちり握り締めたまま、ユウヒは更に迫ってきた。
立てていた膝は崩れていた。すぐにでも後ろに下がりたいが下がれない。足の上にはユウヒの軽い体重がかかる。俺は動けず、ユウヒが接近してくるために、体は自ずと密接することになった。
なんだか気づけば抱っこ状態。ほぼそれに近い。
「ちょ……」
これは。冗談抜きにキツイ。恐怖心も一気に飛ぶ。
「なんでちょっと引いてんの?」
「え、いや別にそんなことは……」
「嘘つき。このヘタレ。嬉しくないの? この状況ってアキラにとって物凄く嬉しいはずだよね」
バカとカワイイの次はヘタレって言われた。しかもなんか故意にやってるみたいな発言を受けた。
そもそも状況がおいしすぎるから逆に引くんだ。とある部分に血液が集まりそうになってんのを抑えてんのに、コレどうしてくれんだよ。
なんていう裏事情は言えない。たぶんバレてるけど。とにかく今は理性第一でユウヒを軽く押し返した。
しかしその瞬間ピクッと、あんまり動かないユウヒの眉間が少しだけ動いた。黒いオーラに頬が引き攣る。
「ユウヒ、さん……?」
「…………僕がここまでしてあげてるのに」
低っ。声もそうだけど雰囲気が低音。
肩がビクッと揺れた俺はヘタレと言われても文句が言えない。あたふたしながら弁明を試みた。
「違くてッ、あの、そりゃ、すげえ状況的には嬉しいけど……っ」
「じゃあ何。迫ってよ」
「はあっ?」
「なんとかは男の恥って言葉知らない?」
え、何それ。これって据え膳だったの。
「どういう……」
「だから。それを僕に言わせるの?」
珍しくイライラしてる。表情は変わらないけど俺には分かる。
無様に混乱状態へと陥っている俺を真っ直ぐ見上げ、逸らすことなくこの目を射抜いてくるユウヒには遠慮がない。
「アキラが作ってくれるお菓子は全部僕の物だよ。だからアキラも僕のモノでいなきゃダメ。お菓子も、それを作るアキラも、みんな僕の」
「何言って……」
「今ので分かって」
疑問の言葉は即刻はね付けられた。接続詞はおそらく間違っているし、なんとか理解しようとすれば主物はお菓子で俺は従物になる。
ああほらな、やっぱりな。オマケだろ。俺はお菓子の。
「……ごめん、卑屈にしか物事考えられなくなってる」
「そうっぽいね。アキラは顔に出やすいから何考えてるか大体分かる」
お前が顔に出なさすぎるんだよ。そう言ってやろうとしたけどやめた。
床に付かれていたもう片方のユウヒの手が、俺の首に回されたからそれどころじゃなくなって。
「え……」
「こうすればアキラもさすがに分かるんじゃないかな」
「ぅ、おッ……」
直後、体に負荷が一気にかかってきた。ユウヒの腕が回されている首と、掴まれたままの手首。
ユウヒが後ろへ倒れるようにして突如俺を引っ張ったせいで、前方に向かってなだれ込むことになった。
ガタン、ばふっと。
「ッお、ま……!」
なぜか、ユウヒの上にいる。ユウヒの顔の両脇で、床に両手をついている。強引に引っ張られたその先で押し倒した、というか押し倒させられた俺の下から、じっと見上げてくるユウヒはなんつーか。
可愛いを通り過ぎて、いきなりの、扇情的なご様子。
「ッ……」
ゴクリと飲みこんだ生唾。ああ、耐えろ。俺、耐えろ。
なんて思っているそばから、ユウヒが両手でまたしても俺の首に手を回してくる。スルッと。
「なんっ……」
「どう?」
「ど、どうって……」
「僕が押し倒してもよかったんだけどアキラはこっちの方が嬉しいかなって」
そりゃ親切にお気遣いいただきどーもッ。
「ユウヒ、ちょっと……一旦離して」
かなり惜しい。それでも俺は頑張った。どうにかこうにか自分に言い聞かせて腕を立たせようとすると、しかしユウヒの両手がそれを阻む。
首をグイッと引かれた。一気に縮まった距離。息が止まる。
「……頼む。放してくれ」
「なんで?」
「まだ駄目だとりあえず駄目だまだもう少し早い」
「交換日記からなんて言い出したら八つ裂きにして海に放るよ」
「…………」
勢い余って殺されんのか俺。
「ッじゃなくて段階っつーか……まだ俺なんも言えてねえじゃん。お前が俺からちゃんと聞いたのって……ヤ、リたいってとこだけだろ」
言っていて非常に恥ずかしい。ところがこの珍獣ときたら。
「別にいいけど」
「いい訳あるかッ!」
それでいいのかよっ。お前いつからそんな奴になったんだッ。シレッととんでも発言すんな!
組み敷いている幼馴染を見下げて俺の頭はクラクラしている。押し倒したい衝動に何度となく耐え抜いてきたけど、押し倒させられる日が来るとはまさか想像もしていなかった。
何年も耐えてきたんだ。ここで簡単に誘惑に負けたら、今までの苦労も水の泡。
「……俺が良くねえよ。そんなんじゃ寂しすぎんだろ」
「結構純情なトコあるよね」
「お前の神経が異常なんだっての!」
反射でガナリ立てればスッと、ユウヒの手が左頬に触れた。顎の線に沿って撫でられ、変に妖艶な雰囲気を醸しだす幼馴染を前に押し黙る。
ユウヒの脳内がどういう構造になっているかはサッパリだ。糖分で埋め尽くされているんじゃないだろうか。
「段階。踏みたいんでしょ? なら言いなよ。聞いててあげる」
決定だ。こいつの脳みそは砂糖でできている。どこの世に告白を強要する奴がいるんだ。
だけど俺に拒否権はない。やっぱりユウヒは女王で、やっぱり俺は下僕だった。
顔に触れるユウヒの指先が俺の口元へと移動し、親指の腹で下唇をゆっくりと撫でられる。どこで覚えてきたのかはあんまり知りたくないものの、俺を弄ぶユウヒの目とこの行動がそれはそれはもう腰にキた。
「言ってよ。僕とシたいと思うのはなんで?」
「っ……」
フッと、俺の下でユウヒが口角を吊り上げた。ケンカに勝利した時くらいしか笑わないはずのこいつが、俺に向かって挑発的で艶っぽい微笑を投げかけている。
いつからこんな目をするようになった。いつの間にこんな、男を誘う口振りなんて身に付けてきた。
お菓子に食らいついて常にぼうっとしているユウヒしか俺は知らない。だけどここで問題なのは、得体の知れない生き物と化した幼馴染にコロッと誘われてしまっている俺自身。
「……ユウヒ」
「うん。なに?」
俺にあるのは願望的期待。ユウヒにあるのは、おそらく確信的期待。
上下関係においてどっちが強いかなんてお互いの目を見れば一発で分かるけど、そこは俺だって男だった。俺の顔を撫でるユウヒの手を上から手のひらで覆った瞬間、完全に押されていた心境の中にささやかながら支配欲が芽生える。
ユウヒの手は床に縫い留めた。上から軽く指を絡めた。男にしてはやはり、随分と繊細な指。それでもやっぱり男の手だった。躊躇いつつも握ってみれば、迷うことなく握り返される。
負けたみたいでなんだか嫌だな。だけどどうしても、これは止まりそうにない。
「…………好きだ」
言葉に表した、初めての告白。眼下ではユウヒの目元がなんとなく和らいだように見えた。
恥ずかしがる暇もなかったのは、いまだ俺の首に回っているユウヒの左手が下に向かったから。背中へとスルスルと伸び、褒めてやるとでも言いたげにポンポンと撫でられる。
クスッと小さく笑われて、赤くなったのは不本意にも俺だけ。
「……好き……です。今更だけど」
「うん」
「……ユウヒが好きだ」
「うん」
「ずっと……こう言いたかった」
「うん。ようやく言えたね。おめでとう」
あれ。なんでそんな他人事。
せっかく押し倒しているのに思ったより感動がない。
「……それだけ?」
「うん。言えたんだからいいんじゃないの」
「まあ……そうなんだけど」
もっとこう、俺の中にあった期待値は高かったと言うか。普通は告ったら、好きなり嫌いなり何がしかの反応が返ってくるわけで。この状況を見る限り、予見できるのは嬉しい返事のはずであって。
「……ユウヒの答えは?」
「答え? 僕にここまで体張らせてその上言葉まで求める?」
「…………できれば」
聞かせてください。
俺が下手に出て言うと、はあ?って感じの顔をされた。体勢は甘ったるいのに雰囲気が台無しだ。
ユウヒの言動はゴーサインを指示している。ならば言葉を欲しいと思ってもバチは当たらないだろう。
それなのになんですかこの、あからさまに面倒クセエなといった表情は。こいつは本当に俺の気持ちを受け入れるつもりがあるのか。
「俺のこと……どう思ってる」
「うん。嫌いじゃないよ」
どうにか言わせたのはそんな一言。ユウヒに乗っかりながらガックリと肩が落ちたのを感じる。
「それは……好きって事でいい?」
「嫌いじゃない」
「……つまり好きなんだよな?」
「嫌いじゃない」
「…………嫌いじゃないけど好きでもない?」
とかいうオチだったら泣くぞ。
半ば縋るような思い。上からユウヒを見下ろしたまま、ちゃんとした確信が欲しくて返事を求めた。
だけどユウヒから返ってくるのは結局、
「キライじゃない」
これに尽きる。
俺は溜息。ユウヒは鬱陶しげに目を細めた。ようやくここまで来たと言うのに、なんだか俺達は噛み合わない。
そうしてしばらくお互いに見合っていると、床の上で繋いでいたユウヒの手が俺の手から逃れていった。
「…………」
少なからずその行動にはショックを受ける。手のひらの温かさが消えていくのを無言で感じた。
ところが一気に沈んでいった心境は、ユウヒの取った次の行動で瞬時に覆る事になった。
「……分かった」
「え……?」
「僕の答えが欲しいならこれでいいよね」
ユウヒは自由になった腕を支えに、肘をついてわずかに身を起こした。寸前までは俺の腰へと回していた手で、クイッと顎を捉えられる。
へ。と思った瞬間には、ユウヒの顔が焦点の合わなくなるほど近くにあった。
「僕よりアキラの方がよっぽどワガママだ」
言って、直後に音が掻き消される。唇にしっとりと触れた温かさで俺の心臓は止まりかけた。
形のいい、綺麗な唇。何度も何度も何度だって言うけど、男にしては妙に色っぽい。
そこに食らいつきたくなる衝動にはこれまで両手で数えきれないほど耐えてきたのに、忍耐力ばかり養ってきた俺に対して、ユウヒの方から、まさか。なにこれ。
重なった唇を下からチュッと押し付けられていたのはほんの数秒。だけどその間、俺の時間は間違いなく停止していた。
ゆっくり離れていったユウヒが俺を見上げていても、脳が機能しようとしない俺の体は凍り付いている。
「……アキラ?」
「…………」
呼ばれても応答できない。俺の体で唯一動いている場所は心臓だけだ。
自分の上で微動だにしない俺を見て、ユウヒは無表情のまま呆れた雰囲気を醸した。
「ヘタレが。したかったんじゃないの? 言葉なんかよりこっちの方が分かりやすいだろ」
「…………」
「女々しいな。見ててイライラするからしっかりしてよ」
怒られた。普段しっかりしていない奴にしっかりしろとイライラ言われた。
唖然とする俺の頬を両手でムニッと挟み込み、ユウヒが真っ直ぐに見上げてくる。色気も何もあったもんじゃないけど、好きな相手とこうも間近で触れ合えばやはり鼓動は高鳴る。
ユウヒの言う通り俺はきっと女々しい男なんだ。
「僕が女の子だったらアキラはこれで絶対フラれたね。よかったね、僕で。アキラは元々僕のモノだし僕も手放す気なんてないから安心していいよ」
なんの安心だよ。つーかさっきからちょいちょい気になっていたけど、俺はいつからお前の所有物になった。
「いけない?」
「……イエ」
滅相もない。
下から詰め寄るように聞かれて多少げっそりしながら答えた。俺には拒否権なんてない。
上下関係を再認識させられたところで、驚きと羞恥に交じって頭をもたげたのは諦観。所有を宣言されるくらいならそばにいる事はできるようだが、関係性としてはこのままじゃマズイ。主導権を握れる見込みはゼロだ。
これ以上下僕扱いに加速がかかっても困る。意を決して手を伸ばした。ユウヒの髪に触れて梳くように撫でると、指先にサラサラとした感覚が心地いい。
「俺は……お前のもの?」
「当然」
当然。ああそう。
傍若無人な態度に喉がヒク付きそうになる自分は抑えた。だけど俺がユウヒのモノだと言うのなら、その逆だってちょっとくらい主張させてほしい。
「ユウヒは……俺のモノってことになんの?」
自分でも情けなくなるくらいの控えめな問いかけ。ここで答えがノーだったら泣いてやろう。いくら俺が打たれ強くてもさすがにもう心が折れる。
期待と諦めを胸に、ユウヒの目をじっと見下ろした。一瞬、困ったように目が逸らされた。でも俺の気のせいだろう。
俺の頬を両サイドから固定していたユウヒの指先が、小さく動いた。そのまま離れていくのかと思えば、両腕が俺の首に絡みついてくる。
今日の俺は固唾をのむばかり。真っ直ぐ、どこか探るように。ユウヒの目はまたもや俺を射抜く。
「……違うの?」
「…………」
可愛らしく小首を傾げて、質問を質問で返された。危ないからやめてくれ。体勢はコレだし理性が限界だ。
下半身にズクッときそうな衝動をどうにか押し殺し、目線を泳がせて耐える。とにかく耐える。
だけどユウヒにとってはそんな俺の忍耐力が気に障ったらしい。両腕に力を込めると、片腕を俺の後頭部に持ってきてクシャッと髪を撫でつけられた。
挑発的に顔を近づけさせられるものだから、逃げたくても逃げる道がない。
「ユウ……」
「しないんだ?」
「え」
なにを。
「すればいいのに」
だから何を!?
少しでも距離を遠ざけたくて腕を立たせようとするも、ユウヒがそれを許さない。
首と頭をガッチリ抱え込み、逃がさないとでも言いたげに見つめてくる。いま目を逸らしたら殴られる。
「アキラが僕のモノでいるならあとはどうでもいい」
言われている事は嬉しい。嬉しいんだけど、素直に喜べない。ハラハラとした感情の方が勝って、全速力で逃走を図りたい気分でいっぱいだった。
それなのに。それなのにこいつは。こんなモンスター、俺は知らない。
「アキラの好きにしていいよ」
ああ、もう。
***
なんていう事があった夕べ。ユウヒは結局、俺の部屋に泊まった。
教室の中。自分の机。斉藤の前でうつらうつらしながらなんとか体を起こしている俺の顔には、酷いクマが浮かんでいるはず。
「すげえカオ。黙ってればイケメンの称号が黙ってても残念に格下げされそうだな」
「…………」
斉藤の心無い一言にはどんよりだ。
黙っていればイケメン。ユウヒのオカンじゃなければ付き合いたい。いつの間にやら俺に貼られていた物凄く不本意なレッテルが、さらに嬉しくない方向へ進んでいく。
「今度は何があったよ? また早朝ケーキ作り? そういや今日、高幡は?」
「……まだ寝てる」
俺のベッドで。朝起こしたら起きなかった。
どうにか覚醒させようと思ってしつこく肩を揺らしていたら寝ぼけながらも殺気立った目を向けられ諦めたのが数時間前。ユウヒの睡眠を邪魔するとロクな目に遭わない。遠い昔に身をもって知った。
適当な頃合を見計らって起こしてやってくれ。出かける時おふくろにそう一言頼んでおいた。
俺に関わる頼み事なら百パーセント嫌な顔をされただろうが、ユウヒのためであればおふくろも素直に喜んで引き受ける。だからおそらくもうそろそろ、ユウヒはウチの朝飯に有り付く。
「…………ねっむ」
死にそうな気分で呟いていた。机に腕を投げ出して突っ伏す。
単純な寝不足だったら何もここまでにはならない。今の俺がこうなっているのは、精神の疲弊がほとんどの原因だ。
死骸みたいになった俺を見下ろしている斉藤は、からかい半分の言葉を投げつけてくる。
「お前深夜バイトでも始めた? どうすりゃ一晩でそこまでやつれんの?」
「……ちょっと戦ってて」
「は? 格ゲー?」
「……似たようなもん」
事実は全然異なるが。
夕べ押し倒されて色々言わされた後、俺のヘタレっぷりがあまりに可哀想に見えたのかユウヒは一旦そこで身を引いた。だから俺はひとまず理性人のままでいられた訳だけど、本当の地獄はそこからだった。
泊まると言うからにはユウヒが寝る場所はもちろん俺の部屋。ガキの頃からずっとそうだった。
ユウヒが風呂に入っている間に悶々とする自分を宥めに宥め、客間から布団を持ってきたり部屋の中をうろちょろしたりしながら、間違いを起こさないように己への暗示を延々とかけていた。
ユウヒの後に俺も風呂に入って、そこでもずっと人類に備わった理性と語り合ってみて、いざユウヒの待つ自分の部屋に戻ってみると、ベッドの中で丸まっている珍獣を見てほっと撫で下ろしたこの胸。
俺だって本当ならこんな理性なんて焼却処分してしまいたい。あそこまで分かり易く誘われたんだから、今日という今日こそ本気で泣かせにかかったって誰も文句は言わないだろう。
でもやっぱ、ずっと幼馴染としてやってきたっていうのもあるし。そもそも親が一階にいるこの家で、堂々と不純行為に走る勇気が俺にはないし。
だから寝ていてくれてよかった。これ以上何かを仕掛けられたら俺の精神は崩壊する。
ベッドを見ないようにしながらコソコソと布団を敷いた。このまま朝まで数時間耐えて、何事も無かったかのように学校へ行けばいい。そうだ、それだけのことだ。そう言い聞かせ、自分を落ち着けた。
しかしその時、俺の背後のベッドにはモンスターが降臨した。
「アキラはバカなの?」
「ヒッ」
寝ていると思って油断していた敵から声を掛けられた。普通にビビった。
バッと後ろを振り返る。ベッドの上でむくっと上体を起こしたユウヒがこっちをじっと見ている。
「起きてたんだ……」
「正確には起きて待ってた。このまま放っといたら冗談抜きで交換日記から始まりそうだから。ホントにそっちで寝るんだね」
「…………」
珍獣が怖い。
「おいでよ、こっち。昔はそうしてたでしょ」
「そりゃ昔は……」
「昔は良くて今は駄目なの?」
食い下がってくる。
だけどそりゃもう、満場一致で駄目でしょうよ。告った告られたの間柄でベッドを共にするなんて危険行為でしかない。俺はそう思うんだけど、生憎こいつはそうじゃないらしい。
「ヘタレ」
「…………」
「弱虫」
「…………」
「不能」
「ではない」
最後のは否定させろ。可愛い顔してなんて単語を口走るんだこのモンスターは。
敷こうと思って手にした掛け布団を持ったまま動けない。ジクジクと責められて落ち込んでいく。
手なんか出そうと思えば出せる。いくらユウヒがケンカに強くても、俺の方がタッパも体重もある。手足さえ封じて押さえ込んでしまえば大人しくさせる事くらいできるだろう。なにより誘ってきたのはこいつだ。
でも俺は確かに、ヘタレなんだろう。
「……ずっと思ってたよ。シたいって」
若干の溜息と共にとうとう布団を手から落とし、体ごとベッドを振り返ってユウヒと目を合わせた。ユウヒもじっと座ったまま、そこから俺を見上げてくる。
「……抱きたい。ユウヒのこと」
「そう。いいよ」
「……気持ち悪いとか思わねえの?」
「アキラじゃない奴に言われれば思うだろうね」
あ、それ嬉しい。
地味に感動していると、ユウヒはベッドに手を付いて俺に腕を伸ばしてきた。服の袖をつままれ、クイッと引っ張ってくるその手に従う。
「アキラは多分、僕のこと美化しすぎなんだと思うよ」
「え……?」
「お互いまあまあ思春期だしね。僕だってそんなキレイなもんじゃない。僕達くらいの男が考えてることって大体みんな一緒だよ」
平然と言われるその内容に、俺の体は徐々に固まっていった。引っ張られてベッドに手を付き、近い距離で見たユウヒの顔はいつも通り無表情だ。
「正直、アキラには何度お世話になったか分からない」
「…………」
なんか今、頭が真っ白に。
ヤダよもう俺。可愛い珍獣は一体どこへ旅立った。いたいけな顔でそんな下品なこと言わないでくれ。
つーかなに。俺は知らないところでこいつのオカズにされていたのか。喜ぶとこか。嘆くとこか。純粋な幼馴染、カムバック全力推奨。
「ユウヒ……。そいこと言うのやめようか」
「そう言うだろうと思ってたから今まで思ってても言わなかった。勝手に美化されるこっちの身にもなって」
「……ごめん」
「ホントに」
すごく納得がいかないんだが間違っているのは俺の方か。いや、違う。俺は何も間違っていない。
この見た目でこの淡白な性格で、人間の三大欲求の中の性欲だけをどこかに落っことしてきたんじゃないかと思ってしまうような幼馴染だ。
子ウサギみたいな印象を抱く。俺だけじゃない。誰だってそうだ。趣味と特技は食べることと寝ること。チビッ子みたいで、フワフワしたイメージで、男くさい面なんて微塵も感じさせない。だから聞き間違いだと思いたい。
「お世話って……」
ダメ元で一応聞いてみた。
「言葉通りの意味だよ。アキラが僕でしてきたのとおんなじこと」
「…………」
現実は甘くなかった。簡潔なその切り返し。絶望感を通り越していっそ清々しい。なんとなく、頭を下げた。
「……お世話になってます」
「こちらこそ」
そろそろマジ泣きしてもいいかな。幼馴染が普通に男だ。
とうとう言葉も出なくなり、押し黙っている俺に対してもユウヒはとことん容赦ない。さっきと同じようにスッと頬に手を伸ばされて、ゆっくり撫でるように後ろ頭へと移動していく。
そのままユウヒの方に引き寄せらた。手のひらの下で、ベッドがキシッと軽く軋んだ。
「ねえ、分かる? 僕は特別男が好きとかそういうのではないよ。アキラだから言ってるのに、それでもアキラは来てくれないんだ」
「…………」
下から詰め寄られ、目線を外すに外せず俺はだんまり。情けないのは分かっていてもこればっかりはどうしようもない。
「シたいんでしょ? 僕はいいって言いてるよね。ここまで揃っててもまだ駄目?」
「…………」
駄目じゃない。凄くヤリたい。俺に抱かれるユウヒがどんな顔をするのか見てみたい。変態寸前の願望はいくらでも湧いてくるのに。
「アキラのそういうトコ……」
嫌なんだろうな。どうせまたヘタレって言われるんだろうな。
俺だって押し倒せるものなら今すぐ押し倒して泣かしてやりたい。それでも最後の最後で踏ん切りがつかない。
ずっと幼馴染してきたんだし。万一ホンキで嫌われる事態になったら立ち直れないし。でもそれが、ユウヒにとっては不満のようだ。
「すごく可愛いと思う」
「……ごめ、……ん?」
更なる不平不満を口に出されると思っていたから、それとは反対の意味合いで囁かれて反応が遅れた。言いたいだけ言い切ったのか、ユウヒの顔はいくらかすっきりして見える。
そして不意に、身を伸ばすと同時に俺の頭を引き寄せてきた。頬骨の辺り、チュッと柔らかい唇が触れる。
「おやすみ」
「…………」
無表情で言ってのけ、ユウヒはさっさと布団に潜りこんだ。ベッドの片側半分くらいにはスペースが空けられている。俺には背を向けて眠りに就こうとするユウヒは、一緒に寝るよう無言で促していた。
ベッドに手を付いた体勢のまま、俺はそのまましばらくキョトンだ。
さっきまでちょっとした恐怖心を覚えるくらい誘われていて。グズグズうだうだしている俺を、最後の最後になって可愛いなんて言ってのけて。
行くに行けないヘタレな俺をユウヒは簡潔に可愛いと称した。今のこれがなぜなのか好感触を持たれているという事は、ここで野獣に化けてみたとしたら一気に幻滅されるってことか。
ユウヒがああも誘ってきたのは、俺が踏みとどまると分かっていたからだ。満足げにスヤスヤと即行で寝始めたのは、俺がユウヒの言う可愛い男のままでいられたからだ。
え、何これどうしよう。もたもたしていたら強固なオアズケが決定してしまった。
タイミングというものがどれだけ大事なのか、俺はこの夜はっきりと理解する事になったようだ。
かと言ってこのまま敷布団に戻ったら間違いなくユウヒに足蹴にされるため、その後やむなく、俺もおずおずとユウヒの隣に身を倒した。
出来る限りベッドの端スレスレの位置で耐える。体が少しでも触れたらその瞬間、理性の糸はブチ切れる事だろう。
そうやって一晩を過ごした。そんな中で寝られるほど俺の神経は図太くない。
ユウヒが僅かに身じろいだだけで息を止め、寝返りを打つついでにこっちを向かれた時は体中の筋肉が緊張し。そんなのを朝まで繰り返していれば、翌朝の体力がマイナスポイントに達しているのも不思議ではない。
「ぅう゛ー……」
そして今、学校の教室で俺は無様にもこうなっている。とんでもなく眠くて、とんでもなく精神が疲弊している。
一晩中よく耐えたよ俺。エライ。マジ偉い。
「保健室行ってくれば?」
さすがに見かねたのだろう。横から斉藤に言われる。
行ってしまってもいいのだが、あの保険医に借りを作るのも気が引ける。ただでさえユウヒが常連なのに俺まで同じことをすれば、何かしらの嫌味や茶化しやおちょくりが飛んできそうだ。
「……いや、大丈夫。ユウヒ来たら田中んとこ連れてかなきゃなんねえし」
「すげえ世話焼き根性だよな。でもよお、今日はそれ必要なくねえ? 高幡がさっきからお前のこと無言でガン見してて怖えんだよ」
机に突っ伏したままパチッと目だけ見開いた。次いでガバッと身を起こす。
俺の机の前にいるユウヒが、ジッと無言で見下ろしている。
「……ユウヒ」
来てたのか。ていうか声くらい掛けろよ。ここまで真ん前にいるのに全く気が付かなかった。
「アキラ眠いの?」
「え……ああ、うん……」
スヤスヤ眠ってたお前と違ってな。
遠い目をしつつ適当に答えると、ユウヒは何を思ったか俺の隣に回り込んできた。そして持っていたカバンの中をゴソゴソ漁り、手にしたのは一枚の板チョコ。銀紙を半分くらいまで無造作にビリッと破った。
ユウヒが自分で食い物を持ってくるのも珍しい。そしてその次には珍しいどころか、今まで決して、たったの一度だって、起こらなかった現象が起きた。
「え? ユウ、んガっ!」
遠慮も労りもクソもない。昨日のクッキー同様に、板チョコの半分を口の中に突っ込まれた。
少しは幅を考えろ幅を。裂けんだろうが。どう考えてもデカすぎるチョコをいきなり口に押し込まれたせいで、口角が普通に痛い。
「っなにす…」
「あげる」
素っ気なく言い放ち、ユウヒは自分の席に着席。チョコを手に持ち直した俺はその場でしばし呆然とさせられる。
「おお、すげえ。高幡が自分の食い物ヒトにやるなんてな」
斉藤から感嘆の声が聞こえてきてハッと我に返る。びっくりするほど珍しい事態ではあるが、渡し方ってもんがあるだろう。
なんだよ、口に突っ込むって。これ結構痛いんだぞ。
貰った、と言うより突撃されたチョコレートの端に虚しくかじりつく。俺も席を立ってユウヒの所へと足を向けた。ユウヒの前の席に後ろ向きでガガッと腰かけ、じっと恨みがましく目を向ける。
早速机に身を預けて寝ようとしているこの珍獣。とりあえず今日は十カ条を言わなくて済みそう。組んだ腕に顔半分を乗せ、視線だけをこちらに向けて聞いてきた。
「おいしい?」
「……おう」
口の中に広がるチョコレートの甘みがクドイ。
「今日の僕のお昼ごはんおばさんのお弁当だよ」
「弁当? おふくろが? あ、じゃあもしかして俺にも…」
「僕の分だけ作ってくれた」
「……ああそう」
あの母親は自分の息子に作らねえで隣の家の息子に弁当作んのか。
高校入ってから俺のために弁当なんて作ってもらった覚えはない。ウキウキしながらユウヒの弁当を詰めるおふくろの姿が目に浮かぶ。
「そういやこのチョコは何?」
「あげる」
「それは分かったから、もう食っちゃってるし。なんでくれたの?」
「あげたかったから」
「……ああそう」
ユウヒに物事の筋道を聞いたところで無意味。虚しい思いでパリッと板チョコに噛みつくと、それを見ていたユウヒがむくっと起き上がった。
不意に手を伸ばしてきて手首を掴まれる。何かと思う暇もなく、強引に引っ張られたこの腕。
「あ、おい」
パキリと、小気味よい音がした。人にくれておきながら自分でも甘い誘惑には勝てなかったらしく、俺に持たせたままの板チョコの端に食いついてくる。
腕はなぜか放されない。俺の目の前でユウヒはモグモグと口を動かした。
「ユウヒ、お前な……。惜しくなったんなら返すから放してくんない?」
「いい。あげる。けどあと一口」
再びパキッと軽い音を響かせ、ユウヒは今度こそ俺から手を離した。消えた面積の広さには笑える。
「一口デケエよ」
「残りは全部あげる」
「……そりゃどーも」
最初から最後まで行動の意味が全く分からない。まあいつもの事だけど。
モグモグするだけモグモグすると、ユウヒはようやく満足したようだ。再び机の上に腕を組み、顔の片側半分を乗せて寝る体勢。だけどなぜか視線は俺に向けたまま。
「アキラ」
「なんだよ。保健室行くとかいうなよ」
折角の十カ条回避がチリとなって消える。
「保険の先生、僕の頼みなら大体のことは聞いてくれるよ」
「……は?」
突然言われたのはそんなこと。なんの話だ。
「ベッド貸してって言えば貸してくれるし、出張中に保健室の鍵借りてたこともあるし」
そんな事してんのかよお前。つーかなんなんだあの保険医は。
「だから何?」
「先生、明日出張なんだって。昨日聞いた時に鍵借りる約束してある」
「……だから?」
「分かんない?」
嫌な予感しかしない俺に、ユウヒは視線を上げて聞いてくる。思わずその目から逃れそうになる俺は、手の熱だけでチョコレートを溶かせそう。
またもやむくっと起き上がったものだから途端にヒヤッとした。そのまま身を乗り出してくる。逃げようにも机越しに肩の上へとガシッと手を置かれ、コソッと、小さく耳打ちされる。
「僕に手ぇ出したくなったら言いなよ」
「ッ……!」
その声は周りには聞こえなかっただろう。しかし俺を赤面させるには十分。
あたふたする俺を見てユウヒは満足そうに手を下ろし、今度こそ本当に机の上で組ませた両腕に顔を埋めた。ユウヒを見下ろしチョコを片手にしたまま、俺の顔面に集中した血液は引きそうもない。
夕べに引き続き一体なんの恨みがあるんだ。毎回毎回言い逃げされる俺の身にもなってみろ。
決心がつかずに足踏みを踏んでいればバカだのヘタレだのと罵り、そうかと思えばそんな俺を可愛いなんて言ってのけ、挙句の果てにはこの誘い文句。
どこの小悪魔だ。何も考えていない珍獣の方がまだマシだった。
「…………」
明日か。
来週まで頑張れ俺。週明けになれば口座がちょっとだけ潤っている。今週は何があってもこの財布の中身だけで生き抜かなければならない。
なんて事をやっていたら、背後からモンスターに襲撃された。
「ぐおっ!」
「つまんない。腹減った」
「お前はいちいち人の背中に突撃してくんな!!」
背乗り珍獣、ユウヒ。ガバッと背中に圧し掛かり、腹を空かせて俺を食おうとしている。
訳ではなくて。食い物、特に甘い物の催促だ。
学校帰りにそのまま俺の部屋へと付いて来て、いつものように何をするでもなくここにタラタラ居座っていた。別にいるのは構わないけど、ちょっとしたドッキリを含んだ邪魔をするのだけはやめてほしい。
だいたい俺がこうしてせかせかと時給計算をしなければならないのも元はと言えばユウヒのせいだ。前々からユウヒが俺にタカってくるのは常だったけれど、最近はこれまで以上に際限がなくなってきている。
たぶん、きっかけはアレ。保健室での下心暴露。
あれ以来何かにつけてユウヒは俺を食い物にするようになり、そのせいで俺の財布は今日も不毛の地に成り果てている。
今だってこうして、お菓子寄越せと。その上タチの悪いことに、ユウヒは俺の弱点を巧妙に突いてくる。手ごわい。
体の前に回された、男にしては細い腕。しっかりと抱きしめられる。背後から俺の肩に顎を乗せ、ヒシッとくっ付かれていてはこっちだって邪険になんてできない。こいつは何も考えていないような顔をしてどこまで性格が破綻していやがるんだ。
「アキラ」
「……なんだよ」
「クッキー焼いて」
「…………」
いいでしょうとも。焼きましょうとも。
これから夕食作るのよってお袋に邪魔者扱いされようがめげずに粉をふるいましょうとも。
なんで俺はこんな事になっちゃってるんだろう。報われねえよ。誰がどう見たって絶対そう思う。
こんな事をしていてもヤレる訳でも手に入る訳でもないのに、はいはいと従ってしまうのはやっぱりこいつの珍獣力。
カワイイ。こんな密着されたら堪ったもんじゃない。俺の理性は自分でもビックリするくらい屈強だ。
腕真っ白だし、超細いし。女子とは違うけど全体的に華奢。これでケンカ強いんだからこいつはどこまでも人を裏切る。
髪なんかサラッサラだしな。くすみのない真っ黒ストレート。
寝起きが悪いからセットなんて言葉は頭にすらないのだろうけど、起き抜けの状態で外に出ても問題ないくらい元から整っている。
困った。可愛いヤリたい。抱きたい抱きたい抱きたい抱きたい。
「…………今から作ると時間かかるからな」
俺の理性、勝った。
煩悩と理性との激闘の果てに煩悩の方を打ち負かし、ユウヒの腕から逃れて椅子を引いた。
平静を装いつつもトボトボ向かうは一階の台所。今から作り始めたら、焼き上がって丁度よく食えるのは夕食の後になるだろう。
この時間までここにいるという事は、きっとこいつもウチの晩飯に有り付く。台所にいるおふくろもそれをしっかり分かっているから、今日はいつもより多めに用意しているはずだ。
そこに交ざってクッキーなんか焼くという事はどういうことか。花嫁修業なんてしてないで成績上げなさいこのバカタレって、おふくろからチクチクガミガミ文句を付けられに行くという事だ。
気が重いけど行く。女王に頼まれたらノーとは言えない。
前屈みなのは気にするな。高二なんだよ、若いんだよ、そういう時期なんだよ。こっち見てんじゃねえユウヒ。
「アキラは分かりやすいよね」
「…………」
こいつ、いつか絶対泣かす。
***
「……どしたよ?」
「おー……?」
「超眠そう」
だってほとんど寝てねえもん。
斉藤に問いかけられて額に手を当てた。さっきから眠くて眠くて仕方ない。
その元凶はやっぱりユウヒで、俺はあのモンスターに生命力を日々奪われている。
昨日の夜、夕食の後、ユウヒは自分の望み通り俺が焼いたクッキーと対面を果たした。クッキー食う前に飯もちゃんと食えという俺の説教にはツンと澄ましていたが、ウチのおふくろが相手となるとユウヒはコロッと素直に傾く。
この野郎は誰が見ても可愛い部類だし、おふくろは昔からユウヒを溺愛している。俺には厳しいのにユウヒには甘い。自分の手料理をなんでもかんでも食べさせたくて仕方なくて、ユウヒもユウヒでお食べと言われるまま出されたものはパクパク口へと運ぶ。
ユウヒの胃袋は見た目を裏切って底なし。勧められればいくらでも腹に収めていく。だけど夕食中もずっと、ユウヒの意識はオーブンの中で焼かれているクッキーに向いていた。
そうして食事を終え、念願叶ったユウヒは俺の部屋でクッキーをむしゃむしゃと。十七の男がクッキーを両手に、無表情の中にも幸福感を表しながらかぶりつく。いいんだろうか。
そりゃ当然その辺のムサイ男子がやっていたら一個も可愛くない。そんなのは俺だって即座に追い出す。だが残念なことにその時俺の目の前にいたのは、見た目最良のマスコット。カワイイ。なんかもうすごく可愛い。
急いでがっつくせいでポロポロとクッキーの欠片を落としていく様もどうせ許せる。本来ならば一番に来るべき「人の部屋汚してんじゃねえ」じゃなくて、「しょうがない奴だなー、コイツめコノコノっ」というように残念な感想の方が先に立つ。ああ、もう。
色んな事がマズいのだけれど何が一番何がマズいかって、俺の理性が非常に危ないことだ。
「……かわいい」
気づけば声に出ている。ハッとして慌てて口を閉じた。最近本当にマズい。
目の前のユウヒはチラッとこっちを見ただけで別に気にした様子もない。クッキーを食べる作業に夢中だ。
それもどうかと思うんだけど。もう少し違うリアクションないのかよ。
立てた片膝に肘を乗せ、頬杖を付きながら間近でユウヒを観察する。可愛いけど、心境は微妙。
「……うまい?」
「うん」
「そう……」
なんでか溜息。素直にウマいと言われたのに肩が落ちる。
もう少しこっちに興味を示してほしい。欲を出した本音で言うならそれが一つ。ユウヒが気になるのは俺ではなくて、俺が作るお菓子類その他だ。
なんて虚しい。悶々と考えていると些かの苛立ちが込み上げてくる。クッキーに貪り付くユウヒに大した意図もなく手を伸ばした。
「あのさ……」
「だめ」
「え」
肩に触れる直前、パッと俺を見上げてきたかと思うと間発入れずに止められた。
なにそれ。まさか触んなって事か。そこまであからさまな拒絶を受けるとはさすがに思っていなかったから、上げていた腕も思わずピタリと止まる。
「全部僕が食べる」
「…………」
そっちかよ。だから誰も取らねえって。
焦って損した。ユウヒの言動は拒絶を意味しているモノではなかった。クッキー取られないための防御だ。
どこまで食い意地張ってんだ。つーかそれ作ったの俺だろうが。
脱力感も一層大きなものになりながら、ガックリと項垂れたついでに行き場のない手も引っ込めた。
「食っていいよお前が全部。もうソレ持ってっていいからそろそろ帰れ」
じゃないと危ない。俺の理性が。
この前暴露をしてしまってからユウヒがやたらと絡んでくるせいで、最近の俺は常に下心との戦いを強いられている。今だって目の前に楽園があるせいで死にそうだ。
ガツガツと、しかしどういう訳か可愛い様子でクッキーに食らいつく。指にほんの少し付いたクズみたいな粉までも惜しいようで、躊躇うことなく舌を這わせている。
ちゅっと、口づけられる指先。許される事なら俺が舐めてやりたい。
いやむしろ。俺が指になりたい。
「……なに?」
「えッ?!」
じーっとユウヒから目をそらさずにいると、ユウヒが俺に向かって言った。クッキーとの戯れを中断させてまで。
あのユウヒがおやつタイムに意識を別に向けた。とんでもねえことだ。よっぽど不審だったのだろう。ていうか俺、いま何考えてた。
「あんまり見られてると食べづらい」
「え……あ、ゴメン……」
普通に食ってんじゃねえか。とは罪悪感があるせいで言えない。
とうとう俺もここまで来たんだな。この重症加減には自分で自分にドン引きだ。
頬杖を付いたまま顔の向きを僅かに逸らし、俺にとってはエロ画像と化している目の前の光景から目を背けた。
居心地が悪い。自分の部屋なのに。俺の部屋だから俺が出て行くのも変だし、かと言って帰れと言った俺の言葉は完全に聞き流したらしいし。ユウヒが出て行く気配はない。
生き地獄。生殺しってこういう事だ。
「アキラ」
「ん?」
「今日は僕こっちで寝る」
「はっ?」
「だめ?」
「いや、だめって……」
言葉も出ない。幼馴染で家も隣だからお互いの部屋に泊まる事くらいは当然のようにしょっちゅうあったけど、ここ最近はなかった。だって。
本心をぶちかまして以来、一晩を一緒に過ごせなくなった。過ごさないで済むように避けてきた。ユウヒも俺の下心が嫌でここに泊まらなくなったんだろうと。思っていたのに、どうしてこうなる。
緊張感の中でゴクリと喉が鳴った。冗談抜きで変態みてえだな俺。
「あの……ユウヒは……」
「なに?」
「いいのか。ここ泊まるの、嫌だったんじゃねえの?」
実は結構ショックを受けていた。ベタベタくっ付いてくるのは単なる嫌がらせとタカリ行為の前兆だ。それくらいは分かっていたから、ここに泊まらなくなったという事はそっちの意味で嫌われたかな、と。
聞こうにも聞けずにいた事を思い切って聞いてみる。すると当のユウヒからは、ケロッとした答えが返された。
「別に。アキラが僕のことすぐ帰らせようとするから泊まれなかっただけだよ。僕は嫌だなんて言った覚えない」
「え……」
「勝手に勘違いして一人で落ち込んでるアキラもバカみたいで可愛いと思うけど。ごめんね。面白いからずっと放っといた」
「…………」
いつものようにユウヒは無表情。だけどいつもとは違って良く喋る。
なんかバカとか言われたし。ついでに可愛いとか言われたし。十二年一緒にいるけど、可愛いは初めて言われた。
「嫌じゃ……ないのかよ、俺のこと。だって俺はお前を……」
そういう目で見てるのに。
そこまでは言えず言葉を途切らせた。この前言っちゃったんだし今更隠す必要もないが、改めて告白しようとするとやはりどうにも。
視線を少し下げ、じっと見つめてくるユウヒから逃げた。するとユウヒは何を思ったか、床に手を付き、しかしクッキーは放すことなく、身を乗り出して俺に迫ってくる。
「ユウ、んぐッ!?」
ところの、いきなりの攻撃。持っていた食べかけクッキーを口の中に問答無用で突っ込まれた。
俺はちょっと涙目。結構痛いよユウヒさん。
珍獣仕様で焼いたからクッキーは大きめ。アメリカの田舎のクッキーくらい。口には収まりきらなかったそれを咄嗟に持ち直す。
俺のそばに手をついたままこっちを見上げているユウヒには、抗議の視線を送りつけた。
「ッなにすん…」
「僕はアキラを嫌いにならないよ」
「……え」
クッキー持ってポカン。近頃の俺はこういう絵ヅラばっかだ。
ユウヒは新たな一枚を早くも手にし、俺ではなくクッキーを見ながら続けた。
「クッキーおいしい」
「へ?」
「この前のケーキもおいしかった」
「ケ、ケーキ?」
「その前に作ってくれたでっかいプリンも良かったし、チョコレートの買い出し頼んでも絶対に選択外さない。アキラ以上に僕の好み分かってる人ってきっといないよ。クラスの女の子がよくお菓子くれるけど実はあんまり好きじゃないんだ。僕はアキラがいなかったら低血糖で死んでるかもね」
「…………」
どっからツッコめばいいんだ。色々満載すぎて戸惑う。
でもとりあえずはコレか。どの口が低血糖なんて単語使ってんだこの野郎。
「アキラがくれるものが一番好き」
「…………」
クッキーとモグモグ戯れるユウヒを前にして俺は言葉が出ない。嬉しい事を言われたような、悲しい現実を突き付けられたような。
ユウヒが俺を嫌いにならないと言うのはつまり、俺という人間がどうのこうのではなく、単純にお菓子を作ってくれて、単純にそのお菓子が好きと言うだけで。主体はお菓子だ。俺じゃない。
クラスの女の子の話もそうだろう。ユウヒはこの見た目で周りの奴らを騙すから、飴やらチョコやらを持ち込んでいる女子達からしょっちゅうおすそ分けを貰っている。
そこで恵んでもらった物よりも、ユウヒの好みを完全に把握している俺が献上しているモノの方が、価値は上。俺の価値じゃない。お菓子の価値だ。
俺が張り合うべき対象ってなんなんだろう。
「お前にとって俺の価値はお菓子で決まるのか……」
いや、知ってたけど。ユウヒにとって俺の存在なんて所詮は都合のいい男。なんでも言う事を聞く下僕だ
いよいよ悲しくなってきた。そろそろもう泣いてもいいかな。
いい加減グズッと鼻でも啜りそうな状態になってくる。ところがクッキーを持った手にそっと温かさを感じ、俯かせていた顔を上げた。
なぜかユウヒによって取られたこの手。そのままクイッと引っ張られたかと思えば、俺に持たせたクッキーにユウヒがかぶり付いてきた。
「ッな……」
ビックリする。本当に心臓に悪い。
眼前の光景は一体なんだ。クッキー食いたきゃ自分の手元にあるの食えよ。どうしてわざわざ俺の手から食うんだヤギかお前はヤメテくれ。
手首を掴まれたまま俺は硬直。心臓は尋常じゃないくらいにうるさく鳴り響いている。振り払う事も出来なくてされるがままになっていると、パクパクと食べ進めていったユウヒの唇が俺の指先までたどり着いていた。
そしてなんの躊躇いもなく、ペロッと。舐められる。
「!?」
もうやだ。助けて。違う意味で泣きそう。
情けなくも腰を抜かしそうになりながら、腹を空かせた珍獣に詰め寄られる。
「ゆ、う……」
「物欲しそうな目」
「ぅえ?」
「してたらか」
何が。俺がか。
そんなバレバレな目だったのか。
「仕方ないからクッキーあげてみたけどやっぱ違うよね。アキラが見てたのはクッキーじゃなくて僕でしょ」
「……え、と……」
「誤魔化す必要ないから大丈夫。この前保健室で全部聞かされたし。多分あの時のこともアキラは誤解してるだろうから言っとくけど、この前も今も僕は嫌だなんて思ってないよ」
さっきから無表情でツラツラと。だけどいくらか普段より楽しそうな雰囲気を纏っていると感じるのは、長年の付き合いがなせるわざだ。ユウヒは今、楽しんでいる。
でもどうして。こいつはそれでいいのか。いくら幼馴染とは言え、いくら俺がお菓子献上マシーンとは言え、嫌だろ。普通。
「……なんで」
「それを僕に言わせるの?」
ちょっと強めに手首を引かれる。無表情の中にあっても意外と意思の強い目に、スッと射抜かれて口を閉じた。
ユウヒは自ら身を乗り出して、俺のすぐ近くにもう片方の手を付いた。すぐ目下、触れそうなくらいの距離には、何を考えているんだか一切読めないその顔が。
クッキー食ってたから当然だけど、微かに甘い香りが漂ってくる。
「ユウヒ……」
ドクンと、一際大きく胸が鳴った。ただしトキメキは一割。俺はどちらかというと気圧されている。
ユウヒは可愛い。本当にとんでもなく可愛い。だけど中身は結構男らしい。その部分をジワジワ見せて、真っ直ぐ見つめてくるユウヒの目。それは確実にこう訴えていた。
ウダウダやってんじゃねえよクソウゼエ。
「…………」
雰囲気的にはこんな感じ。なんで分かるかっていうと、そこはやはり付き合いの長さがものを言う。
可愛いけど結構男らしいユウヒが本気でキレると無言で暴力に走る。このままもたもたしていると俺もそのうちブチのめされる。
ユウヒに絡んでみて返り討ちに遭った町のヤンチャどもの数は少なくない。その上そいつらの悲惨な終末を俺はいつもこの目で見てきた。だからこそ恐怖が勝った。
こいつの強さは凶悪レベルだ。あれはきっと園児時代、俺が近所のチビッ子道場に通い始めたのがいけなかった。俺がどこに行っているか母親から聞きつけたらしいユウヒもその道場にすぐさま入った。それが全ての元凶だった。
小学校卒業と同時に道場は揃ってやめたけど、こいつはあのまま続けていた方が社会の平和のためだっただろう。中二辺りからちょいちょい色んな奴らに絡まれるようになって、身を守る手段として昔習った事をケンカに持ち込んだのは取りあえずマズかった。
武道として体を張るなら際限とか抑制とかもあっただろう。だけどケンカという縛りのない場で相手をぶちのめす快感を、どうやらこいつは覚えてしまった。
お菓子食ってるときと同じ。こいつは欲望に忠実だ。
「アキラ」
「はっ、い……」
余計な事を考えていたせいで、急に呼ばれて声が上擦る。
恐さ半分恥ずかしさ半分で思わず目を逸らす。すると相変わらず俺の手首をがっちり握り締めたまま、ユウヒは更に迫ってきた。
立てていた膝は崩れていた。すぐにでも後ろに下がりたいが下がれない。足の上にはユウヒの軽い体重がかかる。俺は動けず、ユウヒが接近してくるために、体は自ずと密接することになった。
なんだか気づけば抱っこ状態。ほぼそれに近い。
「ちょ……」
これは。冗談抜きにキツイ。恐怖心も一気に飛ぶ。
「なんでちょっと引いてんの?」
「え、いや別にそんなことは……」
「嘘つき。このヘタレ。嬉しくないの? この状況ってアキラにとって物凄く嬉しいはずだよね」
バカとカワイイの次はヘタレって言われた。しかもなんか故意にやってるみたいな発言を受けた。
そもそも状況がおいしすぎるから逆に引くんだ。とある部分に血液が集まりそうになってんのを抑えてんのに、コレどうしてくれんだよ。
なんていう裏事情は言えない。たぶんバレてるけど。とにかく今は理性第一でユウヒを軽く押し返した。
しかしその瞬間ピクッと、あんまり動かないユウヒの眉間が少しだけ動いた。黒いオーラに頬が引き攣る。
「ユウヒ、さん……?」
「…………僕がここまでしてあげてるのに」
低っ。声もそうだけど雰囲気が低音。
肩がビクッと揺れた俺はヘタレと言われても文句が言えない。あたふたしながら弁明を試みた。
「違くてッ、あの、そりゃ、すげえ状況的には嬉しいけど……っ」
「じゃあ何。迫ってよ」
「はあっ?」
「なんとかは男の恥って言葉知らない?」
え、何それ。これって据え膳だったの。
「どういう……」
「だから。それを僕に言わせるの?」
珍しくイライラしてる。表情は変わらないけど俺には分かる。
無様に混乱状態へと陥っている俺を真っ直ぐ見上げ、逸らすことなくこの目を射抜いてくるユウヒには遠慮がない。
「アキラが作ってくれるお菓子は全部僕の物だよ。だからアキラも僕のモノでいなきゃダメ。お菓子も、それを作るアキラも、みんな僕の」
「何言って……」
「今ので分かって」
疑問の言葉は即刻はね付けられた。接続詞はおそらく間違っているし、なんとか理解しようとすれば主物はお菓子で俺は従物になる。
ああほらな、やっぱりな。オマケだろ。俺はお菓子の。
「……ごめん、卑屈にしか物事考えられなくなってる」
「そうっぽいね。アキラは顔に出やすいから何考えてるか大体分かる」
お前が顔に出なさすぎるんだよ。そう言ってやろうとしたけどやめた。
床に付かれていたもう片方のユウヒの手が、俺の首に回されたからそれどころじゃなくなって。
「え……」
「こうすればアキラもさすがに分かるんじゃないかな」
「ぅ、おッ……」
直後、体に負荷が一気にかかってきた。ユウヒの腕が回されている首と、掴まれたままの手首。
ユウヒが後ろへ倒れるようにして突如俺を引っ張ったせいで、前方に向かってなだれ込むことになった。
ガタン、ばふっと。
「ッお、ま……!」
なぜか、ユウヒの上にいる。ユウヒの顔の両脇で、床に両手をついている。強引に引っ張られたその先で押し倒した、というか押し倒させられた俺の下から、じっと見上げてくるユウヒはなんつーか。
可愛いを通り過ぎて、いきなりの、扇情的なご様子。
「ッ……」
ゴクリと飲みこんだ生唾。ああ、耐えろ。俺、耐えろ。
なんて思っているそばから、ユウヒが両手でまたしても俺の首に手を回してくる。スルッと。
「なんっ……」
「どう?」
「ど、どうって……」
「僕が押し倒してもよかったんだけどアキラはこっちの方が嬉しいかなって」
そりゃ親切にお気遣いいただきどーもッ。
「ユウヒ、ちょっと……一旦離して」
かなり惜しい。それでも俺は頑張った。どうにかこうにか自分に言い聞かせて腕を立たせようとすると、しかしユウヒの両手がそれを阻む。
首をグイッと引かれた。一気に縮まった距離。息が止まる。
「……頼む。放してくれ」
「なんで?」
「まだ駄目だとりあえず駄目だまだもう少し早い」
「交換日記からなんて言い出したら八つ裂きにして海に放るよ」
「…………」
勢い余って殺されんのか俺。
「ッじゃなくて段階っつーか……まだ俺なんも言えてねえじゃん。お前が俺からちゃんと聞いたのって……ヤ、リたいってとこだけだろ」
言っていて非常に恥ずかしい。ところがこの珍獣ときたら。
「別にいいけど」
「いい訳あるかッ!」
それでいいのかよっ。お前いつからそんな奴になったんだッ。シレッととんでも発言すんな!
組み敷いている幼馴染を見下げて俺の頭はクラクラしている。押し倒したい衝動に何度となく耐え抜いてきたけど、押し倒させられる日が来るとはまさか想像もしていなかった。
何年も耐えてきたんだ。ここで簡単に誘惑に負けたら、今までの苦労も水の泡。
「……俺が良くねえよ。そんなんじゃ寂しすぎんだろ」
「結構純情なトコあるよね」
「お前の神経が異常なんだっての!」
反射でガナリ立てればスッと、ユウヒの手が左頬に触れた。顎の線に沿って撫でられ、変に妖艶な雰囲気を醸しだす幼馴染を前に押し黙る。
ユウヒの脳内がどういう構造になっているかはサッパリだ。糖分で埋め尽くされているんじゃないだろうか。
「段階。踏みたいんでしょ? なら言いなよ。聞いててあげる」
決定だ。こいつの脳みそは砂糖でできている。どこの世に告白を強要する奴がいるんだ。
だけど俺に拒否権はない。やっぱりユウヒは女王で、やっぱり俺は下僕だった。
顔に触れるユウヒの指先が俺の口元へと移動し、親指の腹で下唇をゆっくりと撫でられる。どこで覚えてきたのかはあんまり知りたくないものの、俺を弄ぶユウヒの目とこの行動がそれはそれはもう腰にキた。
「言ってよ。僕とシたいと思うのはなんで?」
「っ……」
フッと、俺の下でユウヒが口角を吊り上げた。ケンカに勝利した時くらいしか笑わないはずのこいつが、俺に向かって挑発的で艶っぽい微笑を投げかけている。
いつからこんな目をするようになった。いつの間にこんな、男を誘う口振りなんて身に付けてきた。
お菓子に食らいついて常にぼうっとしているユウヒしか俺は知らない。だけどここで問題なのは、得体の知れない生き物と化した幼馴染にコロッと誘われてしまっている俺自身。
「……ユウヒ」
「うん。なに?」
俺にあるのは願望的期待。ユウヒにあるのは、おそらく確信的期待。
上下関係においてどっちが強いかなんてお互いの目を見れば一発で分かるけど、そこは俺だって男だった。俺の顔を撫でるユウヒの手を上から手のひらで覆った瞬間、完全に押されていた心境の中にささやかながら支配欲が芽生える。
ユウヒの手は床に縫い留めた。上から軽く指を絡めた。男にしてはやはり、随分と繊細な指。それでもやっぱり男の手だった。躊躇いつつも握ってみれば、迷うことなく握り返される。
負けたみたいでなんだか嫌だな。だけどどうしても、これは止まりそうにない。
「…………好きだ」
言葉に表した、初めての告白。眼下ではユウヒの目元がなんとなく和らいだように見えた。
恥ずかしがる暇もなかったのは、いまだ俺の首に回っているユウヒの左手が下に向かったから。背中へとスルスルと伸び、褒めてやるとでも言いたげにポンポンと撫でられる。
クスッと小さく笑われて、赤くなったのは不本意にも俺だけ。
「……好き……です。今更だけど」
「うん」
「……ユウヒが好きだ」
「うん」
「ずっと……こう言いたかった」
「うん。ようやく言えたね。おめでとう」
あれ。なんでそんな他人事。
せっかく押し倒しているのに思ったより感動がない。
「……それだけ?」
「うん。言えたんだからいいんじゃないの」
「まあ……そうなんだけど」
もっとこう、俺の中にあった期待値は高かったと言うか。普通は告ったら、好きなり嫌いなり何がしかの反応が返ってくるわけで。この状況を見る限り、予見できるのは嬉しい返事のはずであって。
「……ユウヒの答えは?」
「答え? 僕にここまで体張らせてその上言葉まで求める?」
「…………できれば」
聞かせてください。
俺が下手に出て言うと、はあ?って感じの顔をされた。体勢は甘ったるいのに雰囲気が台無しだ。
ユウヒの言動はゴーサインを指示している。ならば言葉を欲しいと思ってもバチは当たらないだろう。
それなのになんですかこの、あからさまに面倒クセエなといった表情は。こいつは本当に俺の気持ちを受け入れるつもりがあるのか。
「俺のこと……どう思ってる」
「うん。嫌いじゃないよ」
どうにか言わせたのはそんな一言。ユウヒに乗っかりながらガックリと肩が落ちたのを感じる。
「それは……好きって事でいい?」
「嫌いじゃない」
「……つまり好きなんだよな?」
「嫌いじゃない」
「…………嫌いじゃないけど好きでもない?」
とかいうオチだったら泣くぞ。
半ば縋るような思い。上からユウヒを見下ろしたまま、ちゃんとした確信が欲しくて返事を求めた。
だけどユウヒから返ってくるのは結局、
「キライじゃない」
これに尽きる。
俺は溜息。ユウヒは鬱陶しげに目を細めた。ようやくここまで来たと言うのに、なんだか俺達は噛み合わない。
そうしてしばらくお互いに見合っていると、床の上で繋いでいたユウヒの手が俺の手から逃れていった。
「…………」
少なからずその行動にはショックを受ける。手のひらの温かさが消えていくのを無言で感じた。
ところが一気に沈んでいった心境は、ユウヒの取った次の行動で瞬時に覆る事になった。
「……分かった」
「え……?」
「僕の答えが欲しいならこれでいいよね」
ユウヒは自由になった腕を支えに、肘をついてわずかに身を起こした。寸前までは俺の腰へと回していた手で、クイッと顎を捉えられる。
へ。と思った瞬間には、ユウヒの顔が焦点の合わなくなるほど近くにあった。
「僕よりアキラの方がよっぽどワガママだ」
言って、直後に音が掻き消される。唇にしっとりと触れた温かさで俺の心臓は止まりかけた。
形のいい、綺麗な唇。何度も何度も何度だって言うけど、男にしては妙に色っぽい。
そこに食らいつきたくなる衝動にはこれまで両手で数えきれないほど耐えてきたのに、忍耐力ばかり養ってきた俺に対して、ユウヒの方から、まさか。なにこれ。
重なった唇を下からチュッと押し付けられていたのはほんの数秒。だけどその間、俺の時間は間違いなく停止していた。
ゆっくり離れていったユウヒが俺を見上げていても、脳が機能しようとしない俺の体は凍り付いている。
「……アキラ?」
「…………」
呼ばれても応答できない。俺の体で唯一動いている場所は心臓だけだ。
自分の上で微動だにしない俺を見て、ユウヒは無表情のまま呆れた雰囲気を醸した。
「ヘタレが。したかったんじゃないの? 言葉なんかよりこっちの方が分かりやすいだろ」
「…………」
「女々しいな。見ててイライラするからしっかりしてよ」
怒られた。普段しっかりしていない奴にしっかりしろとイライラ言われた。
唖然とする俺の頬を両手でムニッと挟み込み、ユウヒが真っ直ぐに見上げてくる。色気も何もあったもんじゃないけど、好きな相手とこうも間近で触れ合えばやはり鼓動は高鳴る。
ユウヒの言う通り俺はきっと女々しい男なんだ。
「僕が女の子だったらアキラはこれで絶対フラれたね。よかったね、僕で。アキラは元々僕のモノだし僕も手放す気なんてないから安心していいよ」
なんの安心だよ。つーかさっきからちょいちょい気になっていたけど、俺はいつからお前の所有物になった。
「いけない?」
「……イエ」
滅相もない。
下から詰め寄るように聞かれて多少げっそりしながら答えた。俺には拒否権なんてない。
上下関係を再認識させられたところで、驚きと羞恥に交じって頭をもたげたのは諦観。所有を宣言されるくらいならそばにいる事はできるようだが、関係性としてはこのままじゃマズイ。主導権を握れる見込みはゼロだ。
これ以上下僕扱いに加速がかかっても困る。意を決して手を伸ばした。ユウヒの髪に触れて梳くように撫でると、指先にサラサラとした感覚が心地いい。
「俺は……お前のもの?」
「当然」
当然。ああそう。
傍若無人な態度に喉がヒク付きそうになる自分は抑えた。だけど俺がユウヒのモノだと言うのなら、その逆だってちょっとくらい主張させてほしい。
「ユウヒは……俺のモノってことになんの?」
自分でも情けなくなるくらいの控えめな問いかけ。ここで答えがノーだったら泣いてやろう。いくら俺が打たれ強くてもさすがにもう心が折れる。
期待と諦めを胸に、ユウヒの目をじっと見下ろした。一瞬、困ったように目が逸らされた。でも俺の気のせいだろう。
俺の頬を両サイドから固定していたユウヒの指先が、小さく動いた。そのまま離れていくのかと思えば、両腕が俺の首に絡みついてくる。
今日の俺は固唾をのむばかり。真っ直ぐ、どこか探るように。ユウヒの目はまたもや俺を射抜く。
「……違うの?」
「…………」
可愛らしく小首を傾げて、質問を質問で返された。危ないからやめてくれ。体勢はコレだし理性が限界だ。
下半身にズクッときそうな衝動をどうにか押し殺し、目線を泳がせて耐える。とにかく耐える。
だけどユウヒにとってはそんな俺の忍耐力が気に障ったらしい。両腕に力を込めると、片腕を俺の後頭部に持ってきてクシャッと髪を撫でつけられた。
挑発的に顔を近づけさせられるものだから、逃げたくても逃げる道がない。
「ユウ……」
「しないんだ?」
「え」
なにを。
「すればいいのに」
だから何を!?
少しでも距離を遠ざけたくて腕を立たせようとするも、ユウヒがそれを許さない。
首と頭をガッチリ抱え込み、逃がさないとでも言いたげに見つめてくる。いま目を逸らしたら殴られる。
「アキラが僕のモノでいるならあとはどうでもいい」
言われている事は嬉しい。嬉しいんだけど、素直に喜べない。ハラハラとした感情の方が勝って、全速力で逃走を図りたい気分でいっぱいだった。
それなのに。それなのにこいつは。こんなモンスター、俺は知らない。
「アキラの好きにしていいよ」
ああ、もう。
***
なんていう事があった夕べ。ユウヒは結局、俺の部屋に泊まった。
教室の中。自分の机。斉藤の前でうつらうつらしながらなんとか体を起こしている俺の顔には、酷いクマが浮かんでいるはず。
「すげえカオ。黙ってればイケメンの称号が黙ってても残念に格下げされそうだな」
「…………」
斉藤の心無い一言にはどんよりだ。
黙っていればイケメン。ユウヒのオカンじゃなければ付き合いたい。いつの間にやら俺に貼られていた物凄く不本意なレッテルが、さらに嬉しくない方向へ進んでいく。
「今度は何があったよ? また早朝ケーキ作り? そういや今日、高幡は?」
「……まだ寝てる」
俺のベッドで。朝起こしたら起きなかった。
どうにか覚醒させようと思ってしつこく肩を揺らしていたら寝ぼけながらも殺気立った目を向けられ諦めたのが数時間前。ユウヒの睡眠を邪魔するとロクな目に遭わない。遠い昔に身をもって知った。
適当な頃合を見計らって起こしてやってくれ。出かける時おふくろにそう一言頼んでおいた。
俺に関わる頼み事なら百パーセント嫌な顔をされただろうが、ユウヒのためであればおふくろも素直に喜んで引き受ける。だからおそらくもうそろそろ、ユウヒはウチの朝飯に有り付く。
「…………ねっむ」
死にそうな気分で呟いていた。机に腕を投げ出して突っ伏す。
単純な寝不足だったら何もここまでにはならない。今の俺がこうなっているのは、精神の疲弊がほとんどの原因だ。
死骸みたいになった俺を見下ろしている斉藤は、からかい半分の言葉を投げつけてくる。
「お前深夜バイトでも始めた? どうすりゃ一晩でそこまでやつれんの?」
「……ちょっと戦ってて」
「は? 格ゲー?」
「……似たようなもん」
事実は全然異なるが。
夕べ押し倒されて色々言わされた後、俺のヘタレっぷりがあまりに可哀想に見えたのかユウヒは一旦そこで身を引いた。だから俺はひとまず理性人のままでいられた訳だけど、本当の地獄はそこからだった。
泊まると言うからにはユウヒが寝る場所はもちろん俺の部屋。ガキの頃からずっとそうだった。
ユウヒが風呂に入っている間に悶々とする自分を宥めに宥め、客間から布団を持ってきたり部屋の中をうろちょろしたりしながら、間違いを起こさないように己への暗示を延々とかけていた。
ユウヒの後に俺も風呂に入って、そこでもずっと人類に備わった理性と語り合ってみて、いざユウヒの待つ自分の部屋に戻ってみると、ベッドの中で丸まっている珍獣を見てほっと撫で下ろしたこの胸。
俺だって本当ならこんな理性なんて焼却処分してしまいたい。あそこまで分かり易く誘われたんだから、今日という今日こそ本気で泣かせにかかったって誰も文句は言わないだろう。
でもやっぱ、ずっと幼馴染としてやってきたっていうのもあるし。そもそも親が一階にいるこの家で、堂々と不純行為に走る勇気が俺にはないし。
だから寝ていてくれてよかった。これ以上何かを仕掛けられたら俺の精神は崩壊する。
ベッドを見ないようにしながらコソコソと布団を敷いた。このまま朝まで数時間耐えて、何事も無かったかのように学校へ行けばいい。そうだ、それだけのことだ。そう言い聞かせ、自分を落ち着けた。
しかしその時、俺の背後のベッドにはモンスターが降臨した。
「アキラはバカなの?」
「ヒッ」
寝ていると思って油断していた敵から声を掛けられた。普通にビビった。
バッと後ろを振り返る。ベッドの上でむくっと上体を起こしたユウヒがこっちをじっと見ている。
「起きてたんだ……」
「正確には起きて待ってた。このまま放っといたら冗談抜きで交換日記から始まりそうだから。ホントにそっちで寝るんだね」
「…………」
珍獣が怖い。
「おいでよ、こっち。昔はそうしてたでしょ」
「そりゃ昔は……」
「昔は良くて今は駄目なの?」
食い下がってくる。
だけどそりゃもう、満場一致で駄目でしょうよ。告った告られたの間柄でベッドを共にするなんて危険行為でしかない。俺はそう思うんだけど、生憎こいつはそうじゃないらしい。
「ヘタレ」
「…………」
「弱虫」
「…………」
「不能」
「ではない」
最後のは否定させろ。可愛い顔してなんて単語を口走るんだこのモンスターは。
敷こうと思って手にした掛け布団を持ったまま動けない。ジクジクと責められて落ち込んでいく。
手なんか出そうと思えば出せる。いくらユウヒがケンカに強くても、俺の方がタッパも体重もある。手足さえ封じて押さえ込んでしまえば大人しくさせる事くらいできるだろう。なにより誘ってきたのはこいつだ。
でも俺は確かに、ヘタレなんだろう。
「……ずっと思ってたよ。シたいって」
若干の溜息と共にとうとう布団を手から落とし、体ごとベッドを振り返ってユウヒと目を合わせた。ユウヒもじっと座ったまま、そこから俺を見上げてくる。
「……抱きたい。ユウヒのこと」
「そう。いいよ」
「……気持ち悪いとか思わねえの?」
「アキラじゃない奴に言われれば思うだろうね」
あ、それ嬉しい。
地味に感動していると、ユウヒはベッドに手を付いて俺に腕を伸ばしてきた。服の袖をつままれ、クイッと引っ張ってくるその手に従う。
「アキラは多分、僕のこと美化しすぎなんだと思うよ」
「え……?」
「お互いまあまあ思春期だしね。僕だってそんなキレイなもんじゃない。僕達くらいの男が考えてることって大体みんな一緒だよ」
平然と言われるその内容に、俺の体は徐々に固まっていった。引っ張られてベッドに手を付き、近い距離で見たユウヒの顔はいつも通り無表情だ。
「正直、アキラには何度お世話になったか分からない」
「…………」
なんか今、頭が真っ白に。
ヤダよもう俺。可愛い珍獣は一体どこへ旅立った。いたいけな顔でそんな下品なこと言わないでくれ。
つーかなに。俺は知らないところでこいつのオカズにされていたのか。喜ぶとこか。嘆くとこか。純粋な幼馴染、カムバック全力推奨。
「ユウヒ……。そいこと言うのやめようか」
「そう言うだろうと思ってたから今まで思ってても言わなかった。勝手に美化されるこっちの身にもなって」
「……ごめん」
「ホントに」
すごく納得がいかないんだが間違っているのは俺の方か。いや、違う。俺は何も間違っていない。
この見た目でこの淡白な性格で、人間の三大欲求の中の性欲だけをどこかに落っことしてきたんじゃないかと思ってしまうような幼馴染だ。
子ウサギみたいな印象を抱く。俺だけじゃない。誰だってそうだ。趣味と特技は食べることと寝ること。チビッ子みたいで、フワフワしたイメージで、男くさい面なんて微塵も感じさせない。だから聞き間違いだと思いたい。
「お世話って……」
ダメ元で一応聞いてみた。
「言葉通りの意味だよ。アキラが僕でしてきたのとおんなじこと」
「…………」
現実は甘くなかった。簡潔なその切り返し。絶望感を通り越していっそ清々しい。なんとなく、頭を下げた。
「……お世話になってます」
「こちらこそ」
そろそろマジ泣きしてもいいかな。幼馴染が普通に男だ。
とうとう言葉も出なくなり、押し黙っている俺に対してもユウヒはとことん容赦ない。さっきと同じようにスッと頬に手を伸ばされて、ゆっくり撫でるように後ろ頭へと移動していく。
そのままユウヒの方に引き寄せらた。手のひらの下で、ベッドがキシッと軽く軋んだ。
「ねえ、分かる? 僕は特別男が好きとかそういうのではないよ。アキラだから言ってるのに、それでもアキラは来てくれないんだ」
「…………」
下から詰め寄られ、目線を外すに外せず俺はだんまり。情けないのは分かっていてもこればっかりはどうしようもない。
「シたいんでしょ? 僕はいいって言いてるよね。ここまで揃っててもまだ駄目?」
「…………」
駄目じゃない。凄くヤリたい。俺に抱かれるユウヒがどんな顔をするのか見てみたい。変態寸前の願望はいくらでも湧いてくるのに。
「アキラのそういうトコ……」
嫌なんだろうな。どうせまたヘタレって言われるんだろうな。
俺だって押し倒せるものなら今すぐ押し倒して泣かしてやりたい。それでも最後の最後で踏ん切りがつかない。
ずっと幼馴染してきたんだし。万一ホンキで嫌われる事態になったら立ち直れないし。でもそれが、ユウヒにとっては不満のようだ。
「すごく可愛いと思う」
「……ごめ、……ん?」
更なる不平不満を口に出されると思っていたから、それとは反対の意味合いで囁かれて反応が遅れた。言いたいだけ言い切ったのか、ユウヒの顔はいくらかすっきりして見える。
そして不意に、身を伸ばすと同時に俺の頭を引き寄せてきた。頬骨の辺り、チュッと柔らかい唇が触れる。
「おやすみ」
「…………」
無表情で言ってのけ、ユウヒはさっさと布団に潜りこんだ。ベッドの片側半分くらいにはスペースが空けられている。俺には背を向けて眠りに就こうとするユウヒは、一緒に寝るよう無言で促していた。
ベッドに手を付いた体勢のまま、俺はそのまましばらくキョトンだ。
さっきまでちょっとした恐怖心を覚えるくらい誘われていて。グズグズうだうだしている俺を、最後の最後になって可愛いなんて言ってのけて。
行くに行けないヘタレな俺をユウヒは簡潔に可愛いと称した。今のこれがなぜなのか好感触を持たれているという事は、ここで野獣に化けてみたとしたら一気に幻滅されるってことか。
ユウヒがああも誘ってきたのは、俺が踏みとどまると分かっていたからだ。満足げにスヤスヤと即行で寝始めたのは、俺がユウヒの言う可愛い男のままでいられたからだ。
え、何これどうしよう。もたもたしていたら強固なオアズケが決定してしまった。
タイミングというものがどれだけ大事なのか、俺はこの夜はっきりと理解する事になったようだ。
かと言ってこのまま敷布団に戻ったら間違いなくユウヒに足蹴にされるため、その後やむなく、俺もおずおずとユウヒの隣に身を倒した。
出来る限りベッドの端スレスレの位置で耐える。体が少しでも触れたらその瞬間、理性の糸はブチ切れる事だろう。
そうやって一晩を過ごした。そんな中で寝られるほど俺の神経は図太くない。
ユウヒが僅かに身じろいだだけで息を止め、寝返りを打つついでにこっちを向かれた時は体中の筋肉が緊張し。そんなのを朝まで繰り返していれば、翌朝の体力がマイナスポイントに達しているのも不思議ではない。
「ぅう゛ー……」
そして今、学校の教室で俺は無様にもこうなっている。とんでもなく眠くて、とんでもなく精神が疲弊している。
一晩中よく耐えたよ俺。エライ。マジ偉い。
「保健室行ってくれば?」
さすがに見かねたのだろう。横から斉藤に言われる。
行ってしまってもいいのだが、あの保険医に借りを作るのも気が引ける。ただでさえユウヒが常連なのに俺まで同じことをすれば、何かしらの嫌味や茶化しやおちょくりが飛んできそうだ。
「……いや、大丈夫。ユウヒ来たら田中んとこ連れてかなきゃなんねえし」
「すげえ世話焼き根性だよな。でもよお、今日はそれ必要なくねえ? 高幡がさっきからお前のこと無言でガン見してて怖えんだよ」
机に突っ伏したままパチッと目だけ見開いた。次いでガバッと身を起こす。
俺の机の前にいるユウヒが、ジッと無言で見下ろしている。
「……ユウヒ」
来てたのか。ていうか声くらい掛けろよ。ここまで真ん前にいるのに全く気が付かなかった。
「アキラ眠いの?」
「え……ああ、うん……」
スヤスヤ眠ってたお前と違ってな。
遠い目をしつつ適当に答えると、ユウヒは何を思ったか俺の隣に回り込んできた。そして持っていたカバンの中をゴソゴソ漁り、手にしたのは一枚の板チョコ。銀紙を半分くらいまで無造作にビリッと破った。
ユウヒが自分で食い物を持ってくるのも珍しい。そしてその次には珍しいどころか、今まで決して、たったの一度だって、起こらなかった現象が起きた。
「え? ユウ、んガっ!」
遠慮も労りもクソもない。昨日のクッキー同様に、板チョコの半分を口の中に突っ込まれた。
少しは幅を考えろ幅を。裂けんだろうが。どう考えてもデカすぎるチョコをいきなり口に押し込まれたせいで、口角が普通に痛い。
「っなにす…」
「あげる」
素っ気なく言い放ち、ユウヒは自分の席に着席。チョコを手に持ち直した俺はその場でしばし呆然とさせられる。
「おお、すげえ。高幡が自分の食い物ヒトにやるなんてな」
斉藤から感嘆の声が聞こえてきてハッと我に返る。びっくりするほど珍しい事態ではあるが、渡し方ってもんがあるだろう。
なんだよ、口に突っ込むって。これ結構痛いんだぞ。
貰った、と言うより突撃されたチョコレートの端に虚しくかじりつく。俺も席を立ってユウヒの所へと足を向けた。ユウヒの前の席に後ろ向きでガガッと腰かけ、じっと恨みがましく目を向ける。
早速机に身を預けて寝ようとしているこの珍獣。とりあえず今日は十カ条を言わなくて済みそう。組んだ腕に顔半分を乗せ、視線だけをこちらに向けて聞いてきた。
「おいしい?」
「……おう」
口の中に広がるチョコレートの甘みがクドイ。
「今日の僕のお昼ごはんおばさんのお弁当だよ」
「弁当? おふくろが? あ、じゃあもしかして俺にも…」
「僕の分だけ作ってくれた」
「……ああそう」
あの母親は自分の息子に作らねえで隣の家の息子に弁当作んのか。
高校入ってから俺のために弁当なんて作ってもらった覚えはない。ウキウキしながらユウヒの弁当を詰めるおふくろの姿が目に浮かぶ。
「そういやこのチョコは何?」
「あげる」
「それは分かったから、もう食っちゃってるし。なんでくれたの?」
「あげたかったから」
「……ああそう」
ユウヒに物事の筋道を聞いたところで無意味。虚しい思いでパリッと板チョコに噛みつくと、それを見ていたユウヒがむくっと起き上がった。
不意に手を伸ばしてきて手首を掴まれる。何かと思う暇もなく、強引に引っ張られたこの腕。
「あ、おい」
パキリと、小気味よい音がした。人にくれておきながら自分でも甘い誘惑には勝てなかったらしく、俺に持たせたままの板チョコの端に食いついてくる。
腕はなぜか放されない。俺の目の前でユウヒはモグモグと口を動かした。
「ユウヒ、お前な……。惜しくなったんなら返すから放してくんない?」
「いい。あげる。けどあと一口」
再びパキッと軽い音を響かせ、ユウヒは今度こそ俺から手を離した。消えた面積の広さには笑える。
「一口デケエよ」
「残りは全部あげる」
「……そりゃどーも」
最初から最後まで行動の意味が全く分からない。まあいつもの事だけど。
モグモグするだけモグモグすると、ユウヒはようやく満足したようだ。再び机の上に腕を組み、顔の片側半分を乗せて寝る体勢。だけどなぜか視線は俺に向けたまま。
「アキラ」
「なんだよ。保健室行くとかいうなよ」
折角の十カ条回避がチリとなって消える。
「保険の先生、僕の頼みなら大体のことは聞いてくれるよ」
「……は?」
突然言われたのはそんなこと。なんの話だ。
「ベッド貸してって言えば貸してくれるし、出張中に保健室の鍵借りてたこともあるし」
そんな事してんのかよお前。つーかなんなんだあの保険医は。
「だから何?」
「先生、明日出張なんだって。昨日聞いた時に鍵借りる約束してある」
「……だから?」
「分かんない?」
嫌な予感しかしない俺に、ユウヒは視線を上げて聞いてくる。思わずその目から逃れそうになる俺は、手の熱だけでチョコレートを溶かせそう。
またもやむくっと起き上がったものだから途端にヒヤッとした。そのまま身を乗り出してくる。逃げようにも机越しに肩の上へとガシッと手を置かれ、コソッと、小さく耳打ちされる。
「僕に手ぇ出したくなったら言いなよ」
「ッ……!」
その声は周りには聞こえなかっただろう。しかし俺を赤面させるには十分。
あたふたする俺を見てユウヒは満足そうに手を下ろし、今度こそ本当に机の上で組ませた両腕に顔を埋めた。ユウヒを見下ろしチョコを片手にしたまま、俺の顔面に集中した血液は引きそうもない。
夕べに引き続き一体なんの恨みがあるんだ。毎回毎回言い逃げされる俺の身にもなってみろ。
決心がつかずに足踏みを踏んでいればバカだのヘタレだのと罵り、そうかと思えばそんな俺を可愛いなんて言ってのけ、挙句の果てにはこの誘い文句。
どこの小悪魔だ。何も考えていない珍獣の方がまだマシだった。
「…………」
明日か。
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