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好きだからこそ許せない
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「浮気だけは駄目。絶対にそれだけは許せなかったの……!!」
「あー……うん。許せないよね」
「暴力振るわれても酷いことされても許せるけど……」
「えっ、されたの?」
「されてないよ! そんな事する人じゃないもん!! 他の事ならいくらでも許せたけど浮気だけは駄目! そうでしょうッ!?」
「……そうだね。うん」
会社で同期の女の子、笹山さん。が、すげえ酔ってる。
今の会社に入社して、同時期に入った笹山さんとは部署も同じで親しくなった。たまたまその年の新卒が部署内では俺達二人だけだったという事もあり、先輩とか上司とかには言いづらいい相談事はお互いに持ちかける事も多々ある。
金曜の会社終わり。今日もちょっと相談があると言われて近くの店に入った。
最近どことなく元気がないような感じだったから週末にでも話を聞いてみるか。俺もそう考えていたから、タイミング的にもちょうど良かった。
だけど今、少し後悔している。テーブル席に通されてから二時間弱、完璧に酔っ払いと化した彼女。先日浮気が発覚して別れたと言う元カレへのあらゆる気持ちを延々吠えまくっていた。
「好きなの! ホントに大好きなの!! 好きだからこそ浮気だけは許せなかったの!!」
「そうだよね……」
「それなのに別れようって言ったら彼、あっさり分かったって……! きっと初めからあたしの事なんて好きじゃなかったんだ!!」
「そんな事…」
「あるの!!」
すみません。と思わず返した。
ずっと一緒に仕事をしてきてテキパキと働く優秀な人だと信じていたが、いや実際にその通りなのだが。そんな彼女がまさかこうなるとは。危ない方向に崩壊している。
そういえば笹山さんとこの手の話をするのは初めてだった。恵太が寄越してきた指輪を嵌めだした頃に多少からかわれる事はあったが、俺の口からこれについての詳細を語れるはずもない。言葉を濁して誤魔化すこちらの事情を的確に汲んでくれたのか、笹山さんもそれ以降は何も言ってこなかった。過去を振り返っても、こういう話はおそらくその一回きりだっただろう。
一方の笹山さんは美人だし気が利くし、社内でも色んな意味で評判がいい。だから恋愛関係においても不自由はないだろうと勝手に思っていた。しかし実際は、このように真逆。話を聞いてみれば彼女の恋愛経歴は実に悲惨だ。
いわゆる、ダメンズ好きと言うもので。仕事もしないヒモ男とか、根っからの浮気性とか、そういうしょうもない野郎ばかりと付き合ってきたらしい。
こんなに真面目でこんなに美人で仕事もできて性格もさっぱりと潔いのに。人って意外と分からない。
「まあ、さ……今はツラい時期だろうけどそのうち忘れられるよ。きっと次はいい人見つけられるって」
「そんな気休めいらないんだよ!!」
「ごめんなさい……」
なんだか駄目そうだ。そろそろ酒をやめさせないとマズイ。日本酒を一気飲みする笹山さんの姿はもう見たくない。
彼女の手元にあるグラスをこそっと自分の方に引き寄せた瞬間、ギロッと睨まれて心停止しかけた。次いでガッシリ掴まれた右の手首には、女と言えどもギリギリと力を込められて身が竦む。
「木ノ瀬くん」
「は、はい……?」
「もう一軒行こう。飲み直すよ」
「ぇ……ええ……?」
どうしよう。帰れねえ。普段は冷静な笹山さんがぶっ壊れてる。超怖い。
その後結局二軒ハシゴして、一人では歩く事もできなくなった笹山さんを家まで送り届けた。
タクシーに乗せたあとは運転手さんに任せてしまおうかと正直なところ一瞬思ったが、さすがに酔った女の子をこの状態で一人にさせておくのは良くない。こんなのを一人後部座席にぶっ積まれたら運転手さんだって迷惑だ。
そういう訳で一緒にタクシーに乗り込んだ。呂律の回らない彼女から、どうにかこうにか住所を聞きだして運転手さんにそのまま伝えた。
停車位置からはもうほとんど担ぐ勢いで肩を貸し、やっとの思いで辿り着いたアパートの二階の角部屋。
笹山さんが持っているはずの自宅の鍵を出させるためだけにこれまた相当の時間を要し、一人暮らしの女性の部屋にズカズカ入るのを心苦しく思いつつも、完全に伸びている部屋の主をベッドまでどうにか運びきった。
意識を飛ばした女の子に気安く触るのも申し訳ない。しっかり布団だけは被せて、極力俺がいた形跡を残さないようにしながら適当にメモだけ取った。
鍵はポストに入れておきます。事務的にそれだけを書き記し、起きたらすぐに目に付くであろうテーブルの上に置いておく。
去り際にベッドをチラッと振り返った。騒ぎ疲れた笹山さんは、ベッドで静かに寝入っている。
俺だって一応は男なんだけどな。異性としての感覚なんかこれっぽっちも持っちゃいねえんだろうな。
全然いいんだけどちょっと虚しい。
そうして帰宅した頃には深夜すぎ。二軒目の店に移ってすぐ、変な所で口煩い同居人には遅くなるとだけラインしておいた。
この時間ではもう寝ているだろう。俺もシャワーは明日にして少し寝よう。
そう考えながら玄関のドアを開け、電気の点いていない廊下をこそこそ歩いた。しかしその先のリビングのドアからは、なぜだか明かりが漏れている。
起きていたのか。それだけの感想をぼんやり持ちながらリビングに入った。しかしその瞬間、バタンッと真夜中に相応しくない物音が立った。
「あ……起きてたの……?」
自分の部屋から結構な勢いで出てきた恵太。乱雑なドアの開け方からもその怒りを感じ取れる。
考えるまでもなく、キレている。大股で俺の方に近付きながら浮かべる表情は鬼のよう。
なんで。ちゃんと連絡したじゃん。
「テメエ……」
「なんだよ。寝てても良かったのに」
動揺するのはとても癪だからとりあえず言い返した。けれど失敗でしかなかった。ただでさえ鬼の形相をしているのに、その額にはピキッと青筋が。
「……人のことシカトしといてその言い草はなんだ」
「シカト……って、なにが?」
だが、自分で聞いてみてハッとした。慌ててポケットに手を突っ込んで、目的のスマホを掴み取る。着信履歴を画面に出せば、恵太からの十五分ごとに及ぶ大量の不在表示が。
「……怖ぇよお前。つーかしつけえよ」
「今までどこにいた」
「どこって……ちょっと飲み屋回ってただけで……」
「ちょっとだ……?」
ピクリと恵太の表情筋が動く。ずいっと至近距離に迫られ、すでにいくらか緩んでいるネクタイを引っ掴まれた。
ガクッとバランスを崩した体を、足を踏み出して支えるが、首元を無理に引っ張られているせいでさすがにこれは少し苦しい。
間近に見る恵太の顔。だいぶ見慣れたものだけど、こういうキレ方は割と珍しい。
帰りが遅くなって連絡するのをうっかり忘れてしまった時とか。ダチの家に泊まろうとして、理不尽にキレられたこともあった。相手が幸助ならば若干許されるハードルも低くなるけど、それ以外の奴だと本気で手が付けられない程ブチ切れられる。
ギリギリと締め上げてくる。加減がない。眉間が寄った。
恵太は掴んだこのネクタイを一向に放そうとせず、そこで何を思ったか、俺の首筋に顔を近づけてスンと一度鼻を鳴らした。
「……んだよ、この匂い」
「は? ああ……酒? つーか恵太、苦し…」
「誰と一緒だった」
俺が誰とどこにいようがこいつにはなんの関係もないのに。
ついついムッとして睨み上げた。だがそれ以上の眼光で睨み落とされて口を噤んだ。
「会社の女か」
「は?」
「飲んでただけでこんな匂いになるはずがねえよなぁ、ああ?」
「……え?」
見当違いに凄まれて、パチパチと瞬きを繰り返す。
匂い。って、なんだ。あ、もしかして、香水か。
いつも一緒にいると慣れてしまうから俺にはもう良く分からないけど、笹山さんはちょっとふわっとする程度の香りを付けていたはず。
もちろんマナーの範囲内でだ。常識的な彼女がキツく漂わせることはない。控えめな匂い付け程度だから、余計に香りに慣れてしまっていた。
ああでも確かに、さっきの飲み屋では激し目に散々絡まれたからな。最後は担いで運んだわけだし、香りが移っても仕方ないくらいの密着はしていただろう。
そこまで考えがまとまって、目の前のキレた男を見上げた。
どう言い訳したところで今は言葉も通じなそう。そしてその予想は物の見事に的中。痺れを切らしたらしき恵太は、イライラと俺の腕を鷲掴みにした。
「ぃッ……」
力の加減なんて一切ない。問答無用で歩かされた先、押し込まれたのは恵太の部屋だ。
「ちょっ…」
「黙れ」
強引に奥へと追いやられ、行き着いたベッドに投げ倒される。背中からベッドに押し倒されて動きの遅れた俺の上には、人一人くらい余裕で殺せそうな顔をした恵太が馬乗りになった。
「恵太……」
無言でシュルッと、不格好に崩れたタイを外される。冷や汗を流しそうなほどすでに嫌な予感しかしない。俺の腕は両方ともひとまとめに縛り上げられた。
「けい……おいっ、俺そんなシュミねえって前にも…」
「うるせえよ」
ただでさえ体格差という不利な条件。加えて今はこの体勢。その上さらに酒も入っているから、こいつに力で対抗するのはまず無理な話だろう。
両手首は自分のネクタイで完全に拘束された。頭の上でキュッと固く結ばれ、いくらか青くなりながら恵太の冷徹な顔を見上げた。
「けいた……」
「三時過ぎだぞ」
「お前、誤解して…」
「少し経てば夜明けだ」
喋らせてもくれやしない。
七三くらいの割合で、呆れよりも恐怖が勝る。頼むからやめろと目で訴えかけた。だが恵太には通じる気配がない。
俺の耳元に顔を近づけたこいつは、冷たくて低い声を聞かせてきた。
「俺以外の奴と一晩明かしてみろ。殺すぞ」
「…………」
ヤバい。こいつ本気すぎる。
殺す殺すと今までだって何度も言われてきたけれど、今のは紛れもなく、本気のコロスだった。ここまで低い声で淡々と言われる恐怖感は凄まじい。
恵太相手に物怖じするのはあまりにも屈辱的だが、左右の手首を拘束されて組み敷かれたこの状況では息を呑むより他にない。目の前の殺人鬼予備軍を見上げ、引きつりそうな顔を懸命に抑えて回避策を練りに練った。
「恵太……」
「お前、俺のだろ。いくら馬鹿でもそれくらい分かってんだろうと思ってたけどやっぱテメエはしょうもねえアホだな」
無理っぽい。
顔の両サイドを囲うように、恵太がキシッと手をついた。
「分かってねえなら分からせるまでだ」
策を練っているだけの猶予なんてもらえなかった。
完全にブチ切れている時の恵太はただの危険人物。たとえ通常運転であってもセーフティー度合いは低めなのに、頭に血が上りきった今は紛う事なきデンジャラスゾーンだ。
どうして恵太からの着信に一度も気づかなかったんだろう。会社帰りにちょっと一杯。ただそれだけだったつもりが、こんな事になるなんて。
飲みに行って、酔っ払た同期の女の子に嫌というほど絡まれて、挙句一人では立つ事も出来なくなったその子を自宅まで送り届けて。
不可抗力とは言え、一人暮らしの女の子の部屋にまで上がってしまった。午前様では飽き足らず、服には他人の匂いをつけてくる始末。
そりゃ、怒るだろう。夫婦だったら即刻犬も食わない事態に発展している。同棲中のカップルだとすれば、最悪の場合それをきっかけに破局に至る事もあり得る。
それでなくとも俺にしょっちゅう難癖ばかりつけてくる男だ。こんな状態で深夜過ぎに帰ってきて、恵太がそう簡単に許すはず……
「…………」
ちょっと待て。なんかおかしい。
よくよく振り返ってみれば、これってこいつに文句つけられる筋合いがそもそもないのでは。
ふと思い立ったから考え直す。冷静になればなるほど、なんとも理不尽な状況だと分かる。
ただの同居人にどうしてここまで私生活を拘束されなければならない。恵太からの折り返し電話には結果的にシカトを決め込む形にはなったけれど、それでもちゃんと連絡は入れてあった。共同生活をする上での最低限度の義務は果たしたはずだった。
俺はあくまで純粋な悩み相談として笹山さんに付き合い、あくまで善意によって彼女を家まで送り届けた。
その経緯の一切を知りもしねえこのクソ野郎が、勝手に誤解して勝手にキレて勝手に俺を襲おうとしている。だいたい、俺のってなんだよ俺のって。俺がいつお前のものになった。ふざけんじゃねえこのゴミクズ野郎。
さっきはちょっとだけ動揺しちゃったけど俺は何も悪くない。そうと分かれば反論あるのみ。
これ以上の尻込みなんて間違ってもしないように、気分をパリッと一新させてギッと恵太を睨み上げた。
「てめえにゴチャゴチャ言われる筋合い、」
「あぁッ?」
「…………」
気合い持続時間、三秒。俺ってこいつに対してこんなに弱かったっけ。
いや、違うな。これは目の前の男が凶悪的すぎるせいだな。これ以上食ってかかったら逆に心臓食い破られる。
俺が反論しようとした事が恵太はだいぶ気に入らなかったようだ。氷点下の眼差しで俺の顔を上から見下し、さっきよりもさらに低い声を容赦なく落としてきた。
「フラフラしてるお前が悪い。泣こうが喚こうが許してやる気はねえぞ」
「…………」
ふらふらとか。してないんですけど。
たとえフラフラしていたとしても、一般的な同居人ってここまで介入してこないだろ。
こいつの考えている事は理解ができない。俺のとか、簡単に言うし。どうせそこに意味なんてないくせに。
何様だよ。人の行動まで制限しやがって。いちいち彼氏ヅラすんなクソバカ野郎。
「…………」
いやいやいやいや。ちょっと待てよ、それも違うだろ。彼氏ってなんだ彼氏って。
気っ色悪い。なんてことを考えたんだ俺。思っただけで吐きそうだ。
一人悶々としながらも恐怖感に苛まれるが、ブチ切れている恵太の手荒い動作によってシャツがビリッと引き裂かれた。
部屋の隅辺りで地味にカチャンと音を立てるのは吹っ飛んだボタン。あり得ない。何すんのこの人。俺はもはや顔面蒼白。
「ッ……、た……」
噛みつかれたのは首の横。抗議の叫びを上げる余裕もないから、拘束された自分の手を強く握りしめて痛みを堪えた。
前戯なんて生易しいものを挟んでくれるはずもなく、ベルトを早々に外しにかかられる。カチャカチャと無情な音を聞いた。
「けい……っ」
「死ぬ気ねえなら黙ってろ」
どんな二択だよ。
好きだからこそ浮気だけは許せなかったの。
恵太の低い声を聞きながら、笹山さんが叫んでいた主張が不意に頭の片隅をよぎった。それをここで突き詰めてしまうと、薄ら寒い結論に至りそうだから思い出さなかった事にする。
殴られる事はないだろう。そういうアザはきっとできない。
これから与えられるのであろう苦痛が嫌でも頭に浮かび、虚しくもただただ潔く、目を閉じる他に選択肢はなかった。
「思い知れ」
「…………」
恵太は、本気でキレさせちゃダメな男だ。
「あー……うん。許せないよね」
「暴力振るわれても酷いことされても許せるけど……」
「えっ、されたの?」
「されてないよ! そんな事する人じゃないもん!! 他の事ならいくらでも許せたけど浮気だけは駄目! そうでしょうッ!?」
「……そうだね。うん」
会社で同期の女の子、笹山さん。が、すげえ酔ってる。
今の会社に入社して、同時期に入った笹山さんとは部署も同じで親しくなった。たまたまその年の新卒が部署内では俺達二人だけだったという事もあり、先輩とか上司とかには言いづらいい相談事はお互いに持ちかける事も多々ある。
金曜の会社終わり。今日もちょっと相談があると言われて近くの店に入った。
最近どことなく元気がないような感じだったから週末にでも話を聞いてみるか。俺もそう考えていたから、タイミング的にもちょうど良かった。
だけど今、少し後悔している。テーブル席に通されてから二時間弱、完璧に酔っ払いと化した彼女。先日浮気が発覚して別れたと言う元カレへのあらゆる気持ちを延々吠えまくっていた。
「好きなの! ホントに大好きなの!! 好きだからこそ浮気だけは許せなかったの!!」
「そうだよね……」
「それなのに別れようって言ったら彼、あっさり分かったって……! きっと初めからあたしの事なんて好きじゃなかったんだ!!」
「そんな事…」
「あるの!!」
すみません。と思わず返した。
ずっと一緒に仕事をしてきてテキパキと働く優秀な人だと信じていたが、いや実際にその通りなのだが。そんな彼女がまさかこうなるとは。危ない方向に崩壊している。
そういえば笹山さんとこの手の話をするのは初めてだった。恵太が寄越してきた指輪を嵌めだした頃に多少からかわれる事はあったが、俺の口からこれについての詳細を語れるはずもない。言葉を濁して誤魔化すこちらの事情を的確に汲んでくれたのか、笹山さんもそれ以降は何も言ってこなかった。過去を振り返っても、こういう話はおそらくその一回きりだっただろう。
一方の笹山さんは美人だし気が利くし、社内でも色んな意味で評判がいい。だから恋愛関係においても不自由はないだろうと勝手に思っていた。しかし実際は、このように真逆。話を聞いてみれば彼女の恋愛経歴は実に悲惨だ。
いわゆる、ダメンズ好きと言うもので。仕事もしないヒモ男とか、根っからの浮気性とか、そういうしょうもない野郎ばかりと付き合ってきたらしい。
こんなに真面目でこんなに美人で仕事もできて性格もさっぱりと潔いのに。人って意外と分からない。
「まあ、さ……今はツラい時期だろうけどそのうち忘れられるよ。きっと次はいい人見つけられるって」
「そんな気休めいらないんだよ!!」
「ごめんなさい……」
なんだか駄目そうだ。そろそろ酒をやめさせないとマズイ。日本酒を一気飲みする笹山さんの姿はもう見たくない。
彼女の手元にあるグラスをこそっと自分の方に引き寄せた瞬間、ギロッと睨まれて心停止しかけた。次いでガッシリ掴まれた右の手首には、女と言えどもギリギリと力を込められて身が竦む。
「木ノ瀬くん」
「は、はい……?」
「もう一軒行こう。飲み直すよ」
「ぇ……ええ……?」
どうしよう。帰れねえ。普段は冷静な笹山さんがぶっ壊れてる。超怖い。
その後結局二軒ハシゴして、一人では歩く事もできなくなった笹山さんを家まで送り届けた。
タクシーに乗せたあとは運転手さんに任せてしまおうかと正直なところ一瞬思ったが、さすがに酔った女の子をこの状態で一人にさせておくのは良くない。こんなのを一人後部座席にぶっ積まれたら運転手さんだって迷惑だ。
そういう訳で一緒にタクシーに乗り込んだ。呂律の回らない彼女から、どうにかこうにか住所を聞きだして運転手さんにそのまま伝えた。
停車位置からはもうほとんど担ぐ勢いで肩を貸し、やっとの思いで辿り着いたアパートの二階の角部屋。
笹山さんが持っているはずの自宅の鍵を出させるためだけにこれまた相当の時間を要し、一人暮らしの女性の部屋にズカズカ入るのを心苦しく思いつつも、完全に伸びている部屋の主をベッドまでどうにか運びきった。
意識を飛ばした女の子に気安く触るのも申し訳ない。しっかり布団だけは被せて、極力俺がいた形跡を残さないようにしながら適当にメモだけ取った。
鍵はポストに入れておきます。事務的にそれだけを書き記し、起きたらすぐに目に付くであろうテーブルの上に置いておく。
去り際にベッドをチラッと振り返った。騒ぎ疲れた笹山さんは、ベッドで静かに寝入っている。
俺だって一応は男なんだけどな。異性としての感覚なんかこれっぽっちも持っちゃいねえんだろうな。
全然いいんだけどちょっと虚しい。
そうして帰宅した頃には深夜すぎ。二軒目の店に移ってすぐ、変な所で口煩い同居人には遅くなるとだけラインしておいた。
この時間ではもう寝ているだろう。俺もシャワーは明日にして少し寝よう。
そう考えながら玄関のドアを開け、電気の点いていない廊下をこそこそ歩いた。しかしその先のリビングのドアからは、なぜだか明かりが漏れている。
起きていたのか。それだけの感想をぼんやり持ちながらリビングに入った。しかしその瞬間、バタンッと真夜中に相応しくない物音が立った。
「あ……起きてたの……?」
自分の部屋から結構な勢いで出てきた恵太。乱雑なドアの開け方からもその怒りを感じ取れる。
考えるまでもなく、キレている。大股で俺の方に近付きながら浮かべる表情は鬼のよう。
なんで。ちゃんと連絡したじゃん。
「テメエ……」
「なんだよ。寝てても良かったのに」
動揺するのはとても癪だからとりあえず言い返した。けれど失敗でしかなかった。ただでさえ鬼の形相をしているのに、その額にはピキッと青筋が。
「……人のことシカトしといてその言い草はなんだ」
「シカト……って、なにが?」
だが、自分で聞いてみてハッとした。慌ててポケットに手を突っ込んで、目的のスマホを掴み取る。着信履歴を画面に出せば、恵太からの十五分ごとに及ぶ大量の不在表示が。
「……怖ぇよお前。つーかしつけえよ」
「今までどこにいた」
「どこって……ちょっと飲み屋回ってただけで……」
「ちょっとだ……?」
ピクリと恵太の表情筋が動く。ずいっと至近距離に迫られ、すでにいくらか緩んでいるネクタイを引っ掴まれた。
ガクッとバランスを崩した体を、足を踏み出して支えるが、首元を無理に引っ張られているせいでさすがにこれは少し苦しい。
間近に見る恵太の顔。だいぶ見慣れたものだけど、こういうキレ方は割と珍しい。
帰りが遅くなって連絡するのをうっかり忘れてしまった時とか。ダチの家に泊まろうとして、理不尽にキレられたこともあった。相手が幸助ならば若干許されるハードルも低くなるけど、それ以外の奴だと本気で手が付けられない程ブチ切れられる。
ギリギリと締め上げてくる。加減がない。眉間が寄った。
恵太は掴んだこのネクタイを一向に放そうとせず、そこで何を思ったか、俺の首筋に顔を近づけてスンと一度鼻を鳴らした。
「……んだよ、この匂い」
「は? ああ……酒? つーか恵太、苦し…」
「誰と一緒だった」
俺が誰とどこにいようがこいつにはなんの関係もないのに。
ついついムッとして睨み上げた。だがそれ以上の眼光で睨み落とされて口を噤んだ。
「会社の女か」
「は?」
「飲んでただけでこんな匂いになるはずがねえよなぁ、ああ?」
「……え?」
見当違いに凄まれて、パチパチと瞬きを繰り返す。
匂い。って、なんだ。あ、もしかして、香水か。
いつも一緒にいると慣れてしまうから俺にはもう良く分からないけど、笹山さんはちょっとふわっとする程度の香りを付けていたはず。
もちろんマナーの範囲内でだ。常識的な彼女がキツく漂わせることはない。控えめな匂い付け程度だから、余計に香りに慣れてしまっていた。
ああでも確かに、さっきの飲み屋では激し目に散々絡まれたからな。最後は担いで運んだわけだし、香りが移っても仕方ないくらいの密着はしていただろう。
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どう言い訳したところで今は言葉も通じなそう。そしてその予想は物の見事に的中。痺れを切らしたらしき恵太は、イライラと俺の腕を鷲掴みにした。
「ぃッ……」
力の加減なんて一切ない。問答無用で歩かされた先、押し込まれたのは恵太の部屋だ。
「ちょっ…」
「黙れ」
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「恵太……」
無言でシュルッと、不格好に崩れたタイを外される。冷や汗を流しそうなほどすでに嫌な予感しかしない。俺の腕は両方ともひとまとめに縛り上げられた。
「けい……おいっ、俺そんなシュミねえって前にも…」
「うるせえよ」
ただでさえ体格差という不利な条件。加えて今はこの体勢。その上さらに酒も入っているから、こいつに力で対抗するのはまず無理な話だろう。
両手首は自分のネクタイで完全に拘束された。頭の上でキュッと固く結ばれ、いくらか青くなりながら恵太の冷徹な顔を見上げた。
「けいた……」
「三時過ぎだぞ」
「お前、誤解して…」
「少し経てば夜明けだ」
喋らせてもくれやしない。
七三くらいの割合で、呆れよりも恐怖が勝る。頼むからやめろと目で訴えかけた。だが恵太には通じる気配がない。
俺の耳元に顔を近づけたこいつは、冷たくて低い声を聞かせてきた。
「俺以外の奴と一晩明かしてみろ。殺すぞ」
「…………」
ヤバい。こいつ本気すぎる。
殺す殺すと今までだって何度も言われてきたけれど、今のは紛れもなく、本気のコロスだった。ここまで低い声で淡々と言われる恐怖感は凄まじい。
恵太相手に物怖じするのはあまりにも屈辱的だが、左右の手首を拘束されて組み敷かれたこの状況では息を呑むより他にない。目の前の殺人鬼予備軍を見上げ、引きつりそうな顔を懸命に抑えて回避策を練りに練った。
「恵太……」
「お前、俺のだろ。いくら馬鹿でもそれくらい分かってんだろうと思ってたけどやっぱテメエはしょうもねえアホだな」
無理っぽい。
顔の両サイドを囲うように、恵太がキシッと手をついた。
「分かってねえなら分からせるまでだ」
策を練っているだけの猶予なんてもらえなかった。
完全にブチ切れている時の恵太はただの危険人物。たとえ通常運転であってもセーフティー度合いは低めなのに、頭に血が上りきった今は紛う事なきデンジャラスゾーンだ。
どうして恵太からの着信に一度も気づかなかったんだろう。会社帰りにちょっと一杯。ただそれだけだったつもりが、こんな事になるなんて。
飲みに行って、酔っ払た同期の女の子に嫌というほど絡まれて、挙句一人では立つ事も出来なくなったその子を自宅まで送り届けて。
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そりゃ、怒るだろう。夫婦だったら即刻犬も食わない事態に発展している。同棲中のカップルだとすれば、最悪の場合それをきっかけに破局に至る事もあり得る。
それでなくとも俺にしょっちゅう難癖ばかりつけてくる男だ。こんな状態で深夜過ぎに帰ってきて、恵太がそう簡単に許すはず……
「…………」
ちょっと待て。なんかおかしい。
よくよく振り返ってみれば、これってこいつに文句つけられる筋合いがそもそもないのでは。
ふと思い立ったから考え直す。冷静になればなるほど、なんとも理不尽な状況だと分かる。
ただの同居人にどうしてここまで私生活を拘束されなければならない。恵太からの折り返し電話には結果的にシカトを決め込む形にはなったけれど、それでもちゃんと連絡は入れてあった。共同生活をする上での最低限度の義務は果たしたはずだった。
俺はあくまで純粋な悩み相談として笹山さんに付き合い、あくまで善意によって彼女を家まで送り届けた。
その経緯の一切を知りもしねえこのクソ野郎が、勝手に誤解して勝手にキレて勝手に俺を襲おうとしている。だいたい、俺のってなんだよ俺のって。俺がいつお前のものになった。ふざけんじゃねえこのゴミクズ野郎。
さっきはちょっとだけ動揺しちゃったけど俺は何も悪くない。そうと分かれば反論あるのみ。
これ以上の尻込みなんて間違ってもしないように、気分をパリッと一新させてギッと恵太を睨み上げた。
「てめえにゴチャゴチャ言われる筋合い、」
「あぁッ?」
「…………」
気合い持続時間、三秒。俺ってこいつに対してこんなに弱かったっけ。
いや、違うな。これは目の前の男が凶悪的すぎるせいだな。これ以上食ってかかったら逆に心臓食い破られる。
俺が反論しようとした事が恵太はだいぶ気に入らなかったようだ。氷点下の眼差しで俺の顔を上から見下し、さっきよりもさらに低い声を容赦なく落としてきた。
「フラフラしてるお前が悪い。泣こうが喚こうが許してやる気はねえぞ」
「…………」
ふらふらとか。してないんですけど。
たとえフラフラしていたとしても、一般的な同居人ってここまで介入してこないだろ。
こいつの考えている事は理解ができない。俺のとか、簡単に言うし。どうせそこに意味なんてないくせに。
何様だよ。人の行動まで制限しやがって。いちいち彼氏ヅラすんなクソバカ野郎。
「…………」
いやいやいやいや。ちょっと待てよ、それも違うだろ。彼氏ってなんだ彼氏って。
気っ色悪い。なんてことを考えたんだ俺。思っただけで吐きそうだ。
一人悶々としながらも恐怖感に苛まれるが、ブチ切れている恵太の手荒い動作によってシャツがビリッと引き裂かれた。
部屋の隅辺りで地味にカチャンと音を立てるのは吹っ飛んだボタン。あり得ない。何すんのこの人。俺はもはや顔面蒼白。
「ッ……、た……」
噛みつかれたのは首の横。抗議の叫びを上げる余裕もないから、拘束された自分の手を強く握りしめて痛みを堪えた。
前戯なんて生易しいものを挟んでくれるはずもなく、ベルトを早々に外しにかかられる。カチャカチャと無情な音を聞いた。
「けい……っ」
「死ぬ気ねえなら黙ってろ」
どんな二択だよ。
好きだからこそ浮気だけは許せなかったの。
恵太の低い声を聞きながら、笹山さんが叫んでいた主張が不意に頭の片隅をよぎった。それをここで突き詰めてしまうと、薄ら寒い結論に至りそうだから思い出さなかった事にする。
殴られる事はないだろう。そういうアザはきっとできない。
これから与えられるのであろう苦痛が嫌でも頭に浮かび、虚しくもただただ潔く、目を閉じる他に選択肢はなかった。
「思い知れ」
「…………」
恵太は、本気でキレさせちゃダメな男だ。
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そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________
※
・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜のたまにシリアス
・話の流れが遅い
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
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