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第三部
111.ずっと、いつまでもⅢ
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突如持ち出された。核心を突いたそれ。いとも簡単に告げられている。
戻る。あいつが。自分で、そう。まさかそんな。あり得ない。そんなことだけは、絶対に。
「…………嘘だ」
「なんでそう思う? それホンマに本心で言うてるの? 恭介にずっと騙されとった兄ちゃんがあいつの何を知ってるつもりや」
「…………」
この人の笑顔には容赦がない。必要に俺を追い込んでくる。とうとうこの喉も小さく音を立てた。緊張してる。だって、あいつが。
「嘘やないよ。恭介は組に戻る。それがなんでか分かる? 兄ちゃんのためや。家戻るか兄ちゃんバラされるか、そんなんあいつにとったら迷う必要もあらへん簡単な二択やろ」
脅したのか。そのつもりはないとその口で言っておきながら、俺の命を引き合いに出して。
「あんたの脅しなんかにあいつが引っ掛かるはず……」
「俺もそう思っとったけど愛の力は偉大やねえ? 兄ちゃんは関係ない言うて、あいつ情っけないツラ晒しとったよ。兄ちゃんにとって自分の存在がどれだけ都合悪いもんかようやく認める気になったんや。あいつの誠意、受け取ったってよ」
「なにが……」
誠意だ。それの、どこが。
「皮肉なもんやねえ? あいつが親父に楯突いたのも兄ちゃんと会うたのが原因やのに。それが今度は兄ちゃん守るために家戻んねん。二度手間や。会わん方が良かったかもな?」
酷薄な笑いに嫌悪感が募る。それ以上の焦燥感が思考を蝕む。
ひどく喉が渇いていた。手首を掴まれながら、ぎりっと拳を握った。
「ここまで言うても嘘や思いたいんなら事務所中探してみたらええ。ガラ悪いのようさんおるからあんまオススメせえへんけど。それにまあどうせいくら探したところで無駄や。今頃あいつは家で荷造りでもしてるしな。あーせや、忠告だけはしといたるけどアイツの実家なんぞおいそれと押しかけたら間違いなく痛い目見るで? 話し合いとか絶対無理やし、五体満足で帰れたらええ方」
切羽詰まった緊張感と、途方もない脱力が押し寄せてくる。竜崎がここを去る。俺のために。俺を一人、取り残して。
あの時だってそうだった。あいつは全てを一人で背負った。いつまで経ってもあいつの顔からあの表情は消せなくて、俺もそこには踏み込めずにいた。
行ってしまう。いなくなる。怖かったことが、本当に起こる。
「なに? 急におとなしなったね。そこまでショックやった? 張り合い甲斐あらへんな」
面白おかしく言い立ててくる。この手のひらには自らの爪が食い込み、まともに痛みを感知する事もできずにギリッとこの人を睨み上げた。
「っ放せ……ッ」
低く唸るこの声が、自分のものではないようだった。情けなく敵に怯えて、毛を逆立てる弱者の威嚇だ。
恐怖しかない。溺れそうなまでに。いなくなる。そんなの。
「ッ……セコイ脅迫なんかで帰してたまるか……ッ放せよ……放せっ!!」
「なんや止める気? かーっこええなあ? でもアカンよ。俺やって兄ちゃんこと黙って行かせられん」
にんまりと吊り上げられた口角。ソファーの背凭れに縫い留められていたこの手がそこで宙に浮いた。
手荒く引き上げられた体。ボスッと、仰向けに薙ぎ倒される。窮屈なソファーで俺の上に覆い被さったこの人。抵抗する手はあっさり阻まれ、下から沸々と睨み殺してせめてもの威嚇を示した。
「……っ放せ……はなせッ!」
「兄ちゃん喧嘩ばっかしてた割に力弱いね? 自分アレやろ。押さえ込まれるとアウトやろ」
頭の上で両方の手を一纏めに拘束された。加減のない握力に眉間が寄る。
「放せっつってんだろ……ッ」
「おとなしくしいや、手ぇかかるなホンマに。兄ちゃん自分の立場分かってる? こないに気の強い美人も珍しいわ」
顎にグイッと手を掛けられて顔の向きを固定させられた。見下げてくるその目。ひどく、色が濃い。
ゾクリと背筋に緊張が走った。温度の低い笑みはこの人を表す。意思とは裏腹に、体が凍てつく。
「恭介もこれは考えてへんかったやろ。できるもんなら抵抗したらええ。喚かれんのもそれはそれで堪らんわ。この顔泣いて喘がしたらさぞ綺麗やろうね」
「……っ!!」
惨たらしい狂気的な笑み。ゾッとして目を見開き、動かない手足に力を入れた。しかし無駄な抵抗に過ぎない。
この人の笑顔が間近に迫る。聞かされた声は、冷たく、低い。
「男イケんねやったら俺の相手もしてみろや」
「ッ……」
鋭く射抜かれて息を呑んだ。同時に、唇に触れた質感。
目を見開く。キスされた。考えたくもないそれを認識した時には体がすでに逃げ出そうとしている。
この男の拘束の中にあっては手も足もできない。抵抗すらできない。もがくことさえ許されず、ただ、受けた。屈辱を。噛みつくように唇を撫でられ、するっと生温かい舌が入ってくる。
「っ……んんッ!!」
意味が分からない。なんでこんなことを。
強い力に押されてソファーの表面がひきつれた音を立てた。嫌だとか気持ち悪いとか、そんな感覚は超えている。身動きの取れないこの体は屈辱に打ち震えていた。
冒涜だ。あいつじゃない。あの男ではない別の人間が俺に触ってる。耐えられない。無理やり絡めてくるその舌に咄嗟に噛みつこうとしていた。
「ッ……」
謀ったように、ガッと。髪を鷲掴みにされたかと思えばソファーに頭を押し付けられている。噛み跡のひとつさえ残す事もできず、チュクッと舌に吸い付いてからからかうように唇を離された。
防がれ続けた抵抗の末、はあはあと呼吸が乱れる。髪はいまだに掴まれ、身動きは取れず、視線だけでぶつけた嫌悪感。
満足気に鼻で笑ったこの人。両腕を手酷く捻り上げられた。それはまた頭の上でソファーに縫い留められている。
「ッぃ……」
ギリッとひねられ、痛みによって植え付けられる屈辱感。目を細めて俺を見下ろすこの人は、悪戯でも思いつた子供のような表情を浮かべた。
その顔が再び迫ってくる。笑みを形作るその唇。それが再び俺の唇をかすめた。途端に眉根を寄せればくっと笑われ、目元から頬へ、そしてまた唇へ、脅迫的な拘束とは正反対に静かな動作れ口づけてくる。
抵抗を封じられたこの体が嫌悪感を示した。全身で表す。あいつじゃない。それだけで、体が拒否感を覚える。
「っ……やめろッ」
張り付きそうな喉で低く紡いだ。見上げたこの人は口角を上げ、底冷えするような笑みを落としてくる。
「えらい拒絶してくれるなあ。悲しいやん。恭介やないとアカンか」
「放せよ……っ放せ!」
怒りで声がわずかに震える。俺の手首を締め付けながら、この人は無情にもそれを打ち砕く。
「恭介が知ったらブチ切れるな。大切にしてる兄ちゃんが俺に手籠めになんぞされたらあいつ気ぃ狂うわ。おもろいと思わん? あの冷徹感が発狂しよったら見物やね」
「このっ……外道ッ! 放せクソが、放せ……っ」
気力だけで腹から怒鳴れば、この人の目が再び細められた。くっと、喉の上に手を被せられ、躊躇いなく上から押さえ込んでくる。堰止まる。息苦しさに身が強張った。
「しゃあないやん。シュミやねん」
邪悪な顔が真上にある。身震いしそうなまでの、惨さ。
「人の精神ブチ壊したるんが」
「ッ……!!」
叫ぶ間もなく口が塞がれ、首を押さえつけていた手がこの肩口で服をバッと掴んだ。露わにされた肩の付け根。そこに唇が這い下りてくる。
「クソッ……、っ」
ガリッと、肌に走った痛み。噛みつき、容赦なく立てられた歯に皮膚を一気に破られた。
傷つけたそこを執拗に詰ってくる。押さえつけられた腕は動かせない。噛みつき、そして強く吸われ、身の毛のよだつ舌の感触が這う。
「やめろッ……っ……ふざけんなテメエぶっ殺すッ……」
「色気ないなあ。黙らせんで。それとも俺のこと怒らせたいん? 酷くされたいんやったら望み叶えたるよ。ああ、でも……。せやな、それもええ」
またしても上から見せてくる。子供みたいな、しかし寒気のする笑顔。
表情だけは笑みを作ったままスッと鋭く見下され、咄嗟に息を飲んだ。その直後。
「っ……」
パシンと高く音が鳴った。左頬に鋭く発生した熱。拳ではなく、平手で打たれた。加減のないそれによってジンジンと疼く。
「酷くしたる。せいぜい泣き喚け。いつまでその威勢保ってられるか楽しみや」
慈悲のない冷酷な目立った。楽しげに物言うこいつは、人じゃない。
「折角やし残しといたろうか。映像にでもしてなあ? 兄ちゃんが散々泣いて犯されるとこ恭介に見せたらおもろい事になるな」
「っテメエ……ッ」
この男は俺を使って、竜崎を壊そうとしている。さっきから何度その名を言った。この人の目的は俺じゃない。俺という足枷を持った、あいつだ。
「暴れたらあかんよ。楽しもうや」
「ッ、やめ……っ!」
噛みつかれたばかりの首元にねっとりと這い上がった舌先の感触。ゾワッと全身に鳥肌が立つ。込み上げる吐き気に身を捩らせた。
力の差は歴然だった。逃げられない。唇を噛みしめた。
俺を痛めつけ、屈辱を植え付け、その事実をあいつに知らしめる。その時あいつはどんな顔をするか。そんなこと、想像するまでもない。
「っ、……」
「考えごと? どーせ恭介のことやろ?」
首筋を張っていた舌が喉の上の皮膚を舐めた。カリッと今度はゆるくかじられ、嫌悪感に肩が小さく跳ねた。
服の裾からは手が差し入れられてくる。ざわざわと体を襲う、不快感。
「何かっちゅーと恭介恭介と。兄ちゃんさっきからそればっかやし」
「や、め……」
「ハッ? やめろ言いたいんは俺や。いい加減にしとけ虫唾が走る」
「ッ……」
スッと初めてこの人の顔から笑みが消えた。別人のように空気をガラリと変え、低いその声に心臓が凍る。
「お前はなんも分かってへん。自分が惚れた男は誰や思うとる。竜崎言うんはな、お前が考えとるようなセコいチンピラ集団とはちゃうねん。ゆくゆくは家背負って立つはずやった男の一生、台無しにしよったのはお前やろが」
「……なにを……」
「勘違いも甚だしい。何気取りかは知らんけど自分が信じとるもんが必ず正義やと思ったら大間違いやで。せやからなあ、ええ機会やし教えといたる」
鼻先がくっ付きそうなほど近くから射殺される。挑発的な目つきと、威嚇的な声と、対照的にゆるゆると腹の上を撫でるその手。
冷たい温度でしかなかった。吐き出される言葉に、嫌でも注意が向く。
「この世に絶対的正義なんてあらへん。誰が見るか、どう見るか、方向変えれば俺らが正義になる事もあんねん。綺麗事だけじゃどうにもならんわ。社会追放言うスタンスを形だけは取っておきながらヤクザがいつまでもこの国から一掃されへんのがその証拠やろ。自分の利得以外なんも考えとらん保守的な老害どもより、実際のところは俺らの方が人道的かもしれへんで」
それはそちら側の言い分にすぎない。けれど言い返せないのは、世の中の不条理を知っているから。
平等なんて所詮は建前。いつだって切り捨てられるのは力を持たない人間だ。どんな社会も世の中も、必ずそうやって成り立っている。吐き気がする程外ヅラだけはいい。それが表側のこの世界。
この人はそれらとは真逆の人だ。見えない裏側で人を動かす。そういう場所に、あいつもいた。
「手に入るはずやった物みんな恭介から取り上げよった。何もかもや。金も権力も女でもなんでも、あそこにおったらあいつはいくらでも自分のもんにできるはずやった」
肌の上を這っていたその手がグイッと顎を掴んできた。視線を逸らす。そんなのは許さない。そうとでも言うように、真上から目を合わせてくる。
「竜崎恭介の人生狂わせた」
「……違う……」
あいつは家を出たがっていた。その生き方を、否定していた。それをどうにか変えようとして懸命にもがき、俺のそばに、いたいと。
「何がちゃうねん。それがお前のしたことや」
「ちが、……」
「この疫病神が」
「…………」
頭の中がぐらぐらと揺れる。ストンと、急に落ちた気がした。目を背けていた現実を一瞬で見せられた気がする。
鋭い眼差しに射殺され、冷え切った体が一切の動きを止めている。奪った。俺が。あいつから。全てを。それを言うこの人の口を、黙らせる手立てが俺に、あるのか。
言い返す事をしなくなった俺を見て、笑みを消していたこの人の口角が再びつり上がった。それは無情な嘲笑だ。憤りは湧いてこない。見たくなかったものを見せられた。この人の、言っていることは。
「なんやねん。もう降参か、つまらん。泣くなり暴れるなりしてみい。その方が犯し甲斐がある」
くすくすと笑われる。この男に人の情はない。
「……あんた……腐ってる……」
「それがどないした」
興味なさげに投げて落とされたその言葉。この人はこうやって、竜崎の何を壊した。帰るなんて自分から言うはずがない。そう言わせたんだ。言わされた。
あいつを抉った何かがあったはず。この人は、何を言った。
「付け上がんなやガキが」
またもやパシンと、高く鳴り響いたその音。左頬に平手打ちを食らい、直後に今度は右を打たれた。
パシン、パシンと、何度も続く。その音だけは頭に響くが、それ以外はほとんど認識できない。
ゆっくりと、衝撃を味わわせるかのように一定の間隔で続く平手打ち。その間にもこの人は喋った。人の弱い部分を侵食する目をして、言葉をずっと俺に聞かせる。
そうして何度目かの往復を数えた時、この人の手のひらは一際高い音を響かせた。
「思ったよりも脆いな。あいつも同じやった」
笑っている。笑うんだ、この人は。俺のことも、あいつのことも。
「あれだけ威勢良かったんがその程度か」
「…………」
パシンと、右頬を引っぱたかれたのを最後に振り上がっていたその手が止まった。左側の頬にはそっと労わるかのように、手の平を覆うように添えてくる。
耳元で落とされる笑い声。それとともに囁かれる。
「よう聞け。もっとええこと教えたる」
「…………黙れ」
「黙らへん」
どうやって壊した。どうやってあいつに、帰るなどと、その口で言わせた。
「……やめろ」
「やめへんよ」
「やめ……」
やめろ。いやだ。聞きたくない。
「聞けや」
「や、め……」
「聞け言うとるやろ」
「嫌だ……もう……」
「しっかりしいや」
「…………」
「冗談やから」
数秒間の空白ができた。その間、俺の体は、何も聞いていないし何も見ていない。
「…………は」
「冗談や」
「…………」
戻る。あいつが。自分で、そう。まさかそんな。あり得ない。そんなことだけは、絶対に。
「…………嘘だ」
「なんでそう思う? それホンマに本心で言うてるの? 恭介にずっと騙されとった兄ちゃんがあいつの何を知ってるつもりや」
「…………」
この人の笑顔には容赦がない。必要に俺を追い込んでくる。とうとうこの喉も小さく音を立てた。緊張してる。だって、あいつが。
「嘘やないよ。恭介は組に戻る。それがなんでか分かる? 兄ちゃんのためや。家戻るか兄ちゃんバラされるか、そんなんあいつにとったら迷う必要もあらへん簡単な二択やろ」
脅したのか。そのつもりはないとその口で言っておきながら、俺の命を引き合いに出して。
「あんたの脅しなんかにあいつが引っ掛かるはず……」
「俺もそう思っとったけど愛の力は偉大やねえ? 兄ちゃんは関係ない言うて、あいつ情っけないツラ晒しとったよ。兄ちゃんにとって自分の存在がどれだけ都合悪いもんかようやく認める気になったんや。あいつの誠意、受け取ったってよ」
「なにが……」
誠意だ。それの、どこが。
「皮肉なもんやねえ? あいつが親父に楯突いたのも兄ちゃんと会うたのが原因やのに。それが今度は兄ちゃん守るために家戻んねん。二度手間や。会わん方が良かったかもな?」
酷薄な笑いに嫌悪感が募る。それ以上の焦燥感が思考を蝕む。
ひどく喉が渇いていた。手首を掴まれながら、ぎりっと拳を握った。
「ここまで言うても嘘や思いたいんなら事務所中探してみたらええ。ガラ悪いのようさんおるからあんまオススメせえへんけど。それにまあどうせいくら探したところで無駄や。今頃あいつは家で荷造りでもしてるしな。あーせや、忠告だけはしといたるけどアイツの実家なんぞおいそれと押しかけたら間違いなく痛い目見るで? 話し合いとか絶対無理やし、五体満足で帰れたらええ方」
切羽詰まった緊張感と、途方もない脱力が押し寄せてくる。竜崎がここを去る。俺のために。俺を一人、取り残して。
あの時だってそうだった。あいつは全てを一人で背負った。いつまで経ってもあいつの顔からあの表情は消せなくて、俺もそこには踏み込めずにいた。
行ってしまう。いなくなる。怖かったことが、本当に起こる。
「なに? 急におとなしなったね。そこまでショックやった? 張り合い甲斐あらへんな」
面白おかしく言い立ててくる。この手のひらには自らの爪が食い込み、まともに痛みを感知する事もできずにギリッとこの人を睨み上げた。
「っ放せ……ッ」
低く唸るこの声が、自分のものではないようだった。情けなく敵に怯えて、毛を逆立てる弱者の威嚇だ。
恐怖しかない。溺れそうなまでに。いなくなる。そんなの。
「ッ……セコイ脅迫なんかで帰してたまるか……ッ放せよ……放せっ!!」
「なんや止める気? かーっこええなあ? でもアカンよ。俺やって兄ちゃんこと黙って行かせられん」
にんまりと吊り上げられた口角。ソファーの背凭れに縫い留められていたこの手がそこで宙に浮いた。
手荒く引き上げられた体。ボスッと、仰向けに薙ぎ倒される。窮屈なソファーで俺の上に覆い被さったこの人。抵抗する手はあっさり阻まれ、下から沸々と睨み殺してせめてもの威嚇を示した。
「……っ放せ……はなせッ!」
「兄ちゃん喧嘩ばっかしてた割に力弱いね? 自分アレやろ。押さえ込まれるとアウトやろ」
頭の上で両方の手を一纏めに拘束された。加減のない握力に眉間が寄る。
「放せっつってんだろ……ッ」
「おとなしくしいや、手ぇかかるなホンマに。兄ちゃん自分の立場分かってる? こないに気の強い美人も珍しいわ」
顎にグイッと手を掛けられて顔の向きを固定させられた。見下げてくるその目。ひどく、色が濃い。
ゾクリと背筋に緊張が走った。温度の低い笑みはこの人を表す。意思とは裏腹に、体が凍てつく。
「恭介もこれは考えてへんかったやろ。できるもんなら抵抗したらええ。喚かれんのもそれはそれで堪らんわ。この顔泣いて喘がしたらさぞ綺麗やろうね」
「……っ!!」
惨たらしい狂気的な笑み。ゾッとして目を見開き、動かない手足に力を入れた。しかし無駄な抵抗に過ぎない。
この人の笑顔が間近に迫る。聞かされた声は、冷たく、低い。
「男イケんねやったら俺の相手もしてみろや」
「ッ……」
鋭く射抜かれて息を呑んだ。同時に、唇に触れた質感。
目を見開く。キスされた。考えたくもないそれを認識した時には体がすでに逃げ出そうとしている。
この男の拘束の中にあっては手も足もできない。抵抗すらできない。もがくことさえ許されず、ただ、受けた。屈辱を。噛みつくように唇を撫でられ、するっと生温かい舌が入ってくる。
「っ……んんッ!!」
意味が分からない。なんでこんなことを。
強い力に押されてソファーの表面がひきつれた音を立てた。嫌だとか気持ち悪いとか、そんな感覚は超えている。身動きの取れないこの体は屈辱に打ち震えていた。
冒涜だ。あいつじゃない。あの男ではない別の人間が俺に触ってる。耐えられない。無理やり絡めてくるその舌に咄嗟に噛みつこうとしていた。
「ッ……」
謀ったように、ガッと。髪を鷲掴みにされたかと思えばソファーに頭を押し付けられている。噛み跡のひとつさえ残す事もできず、チュクッと舌に吸い付いてからからかうように唇を離された。
防がれ続けた抵抗の末、はあはあと呼吸が乱れる。髪はいまだに掴まれ、身動きは取れず、視線だけでぶつけた嫌悪感。
満足気に鼻で笑ったこの人。両腕を手酷く捻り上げられた。それはまた頭の上でソファーに縫い留められている。
「ッぃ……」
ギリッとひねられ、痛みによって植え付けられる屈辱感。目を細めて俺を見下ろすこの人は、悪戯でも思いつた子供のような表情を浮かべた。
その顔が再び迫ってくる。笑みを形作るその唇。それが再び俺の唇をかすめた。途端に眉根を寄せればくっと笑われ、目元から頬へ、そしてまた唇へ、脅迫的な拘束とは正反対に静かな動作れ口づけてくる。
抵抗を封じられたこの体が嫌悪感を示した。全身で表す。あいつじゃない。それだけで、体が拒否感を覚える。
「っ……やめろッ」
張り付きそうな喉で低く紡いだ。見上げたこの人は口角を上げ、底冷えするような笑みを落としてくる。
「えらい拒絶してくれるなあ。悲しいやん。恭介やないとアカンか」
「放せよ……っ放せ!」
怒りで声がわずかに震える。俺の手首を締め付けながら、この人は無情にもそれを打ち砕く。
「恭介が知ったらブチ切れるな。大切にしてる兄ちゃんが俺に手籠めになんぞされたらあいつ気ぃ狂うわ。おもろいと思わん? あの冷徹感が発狂しよったら見物やね」
「このっ……外道ッ! 放せクソが、放せ……っ」
気力だけで腹から怒鳴れば、この人の目が再び細められた。くっと、喉の上に手を被せられ、躊躇いなく上から押さえ込んでくる。堰止まる。息苦しさに身が強張った。
「しゃあないやん。シュミやねん」
邪悪な顔が真上にある。身震いしそうなまでの、惨さ。
「人の精神ブチ壊したるんが」
「ッ……!!」
叫ぶ間もなく口が塞がれ、首を押さえつけていた手がこの肩口で服をバッと掴んだ。露わにされた肩の付け根。そこに唇が這い下りてくる。
「クソッ……、っ」
ガリッと、肌に走った痛み。噛みつき、容赦なく立てられた歯に皮膚を一気に破られた。
傷つけたそこを執拗に詰ってくる。押さえつけられた腕は動かせない。噛みつき、そして強く吸われ、身の毛のよだつ舌の感触が這う。
「やめろッ……っ……ふざけんなテメエぶっ殺すッ……」
「色気ないなあ。黙らせんで。それとも俺のこと怒らせたいん? 酷くされたいんやったら望み叶えたるよ。ああ、でも……。せやな、それもええ」
またしても上から見せてくる。子供みたいな、しかし寒気のする笑顔。
表情だけは笑みを作ったままスッと鋭く見下され、咄嗟に息を飲んだ。その直後。
「っ……」
パシンと高く音が鳴った。左頬に鋭く発生した熱。拳ではなく、平手で打たれた。加減のないそれによってジンジンと疼く。
「酷くしたる。せいぜい泣き喚け。いつまでその威勢保ってられるか楽しみや」
慈悲のない冷酷な目立った。楽しげに物言うこいつは、人じゃない。
「折角やし残しといたろうか。映像にでもしてなあ? 兄ちゃんが散々泣いて犯されるとこ恭介に見せたらおもろい事になるな」
「っテメエ……ッ」
この男は俺を使って、竜崎を壊そうとしている。さっきから何度その名を言った。この人の目的は俺じゃない。俺という足枷を持った、あいつだ。
「暴れたらあかんよ。楽しもうや」
「ッ、やめ……っ!」
噛みつかれたばかりの首元にねっとりと這い上がった舌先の感触。ゾワッと全身に鳥肌が立つ。込み上げる吐き気に身を捩らせた。
力の差は歴然だった。逃げられない。唇を噛みしめた。
俺を痛めつけ、屈辱を植え付け、その事実をあいつに知らしめる。その時あいつはどんな顔をするか。そんなこと、想像するまでもない。
「っ、……」
「考えごと? どーせ恭介のことやろ?」
首筋を張っていた舌が喉の上の皮膚を舐めた。カリッと今度はゆるくかじられ、嫌悪感に肩が小さく跳ねた。
服の裾からは手が差し入れられてくる。ざわざわと体を襲う、不快感。
「何かっちゅーと恭介恭介と。兄ちゃんさっきからそればっかやし」
「や、め……」
「ハッ? やめろ言いたいんは俺や。いい加減にしとけ虫唾が走る」
「ッ……」
スッと初めてこの人の顔から笑みが消えた。別人のように空気をガラリと変え、低いその声に心臓が凍る。
「お前はなんも分かってへん。自分が惚れた男は誰や思うとる。竜崎言うんはな、お前が考えとるようなセコいチンピラ集団とはちゃうねん。ゆくゆくは家背負って立つはずやった男の一生、台無しにしよったのはお前やろが」
「……なにを……」
「勘違いも甚だしい。何気取りかは知らんけど自分が信じとるもんが必ず正義やと思ったら大間違いやで。せやからなあ、ええ機会やし教えといたる」
鼻先がくっ付きそうなほど近くから射殺される。挑発的な目つきと、威嚇的な声と、対照的にゆるゆると腹の上を撫でるその手。
冷たい温度でしかなかった。吐き出される言葉に、嫌でも注意が向く。
「この世に絶対的正義なんてあらへん。誰が見るか、どう見るか、方向変えれば俺らが正義になる事もあんねん。綺麗事だけじゃどうにもならんわ。社会追放言うスタンスを形だけは取っておきながらヤクザがいつまでもこの国から一掃されへんのがその証拠やろ。自分の利得以外なんも考えとらん保守的な老害どもより、実際のところは俺らの方が人道的かもしれへんで」
それはそちら側の言い分にすぎない。けれど言い返せないのは、世の中の不条理を知っているから。
平等なんて所詮は建前。いつだって切り捨てられるのは力を持たない人間だ。どんな社会も世の中も、必ずそうやって成り立っている。吐き気がする程外ヅラだけはいい。それが表側のこの世界。
この人はそれらとは真逆の人だ。見えない裏側で人を動かす。そういう場所に、あいつもいた。
「手に入るはずやった物みんな恭介から取り上げよった。何もかもや。金も権力も女でもなんでも、あそこにおったらあいつはいくらでも自分のもんにできるはずやった」
肌の上を這っていたその手がグイッと顎を掴んできた。視線を逸らす。そんなのは許さない。そうとでも言うように、真上から目を合わせてくる。
「竜崎恭介の人生狂わせた」
「……違う……」
あいつは家を出たがっていた。その生き方を、否定していた。それをどうにか変えようとして懸命にもがき、俺のそばに、いたいと。
「何がちゃうねん。それがお前のしたことや」
「ちが、……」
「この疫病神が」
「…………」
頭の中がぐらぐらと揺れる。ストンと、急に落ちた気がした。目を背けていた現実を一瞬で見せられた気がする。
鋭い眼差しに射殺され、冷え切った体が一切の動きを止めている。奪った。俺が。あいつから。全てを。それを言うこの人の口を、黙らせる手立てが俺に、あるのか。
言い返す事をしなくなった俺を見て、笑みを消していたこの人の口角が再びつり上がった。それは無情な嘲笑だ。憤りは湧いてこない。見たくなかったものを見せられた。この人の、言っていることは。
「なんやねん。もう降参か、つまらん。泣くなり暴れるなりしてみい。その方が犯し甲斐がある」
くすくすと笑われる。この男に人の情はない。
「……あんた……腐ってる……」
「それがどないした」
興味なさげに投げて落とされたその言葉。この人はこうやって、竜崎の何を壊した。帰るなんて自分から言うはずがない。そう言わせたんだ。言わされた。
あいつを抉った何かがあったはず。この人は、何を言った。
「付け上がんなやガキが」
またもやパシンと、高く鳴り響いたその音。左頬に平手打ちを食らい、直後に今度は右を打たれた。
パシン、パシンと、何度も続く。その音だけは頭に響くが、それ以外はほとんど認識できない。
ゆっくりと、衝撃を味わわせるかのように一定の間隔で続く平手打ち。その間にもこの人は喋った。人の弱い部分を侵食する目をして、言葉をずっと俺に聞かせる。
そうして何度目かの往復を数えた時、この人の手のひらは一際高い音を響かせた。
「思ったよりも脆いな。あいつも同じやった」
笑っている。笑うんだ、この人は。俺のことも、あいつのことも。
「あれだけ威勢良かったんがその程度か」
「…………」
パシンと、右頬を引っぱたかれたのを最後に振り上がっていたその手が止まった。左側の頬にはそっと労わるかのように、手の平を覆うように添えてくる。
耳元で落とされる笑い声。それとともに囁かれる。
「よう聞け。もっとええこと教えたる」
「…………黙れ」
「黙らへん」
どうやって壊した。どうやってあいつに、帰るなどと、その口で言わせた。
「……やめろ」
「やめへんよ」
「やめ……」
やめろ。いやだ。聞きたくない。
「聞けや」
「や、め……」
「聞け言うとるやろ」
「嫌だ……もう……」
「しっかりしいや」
「…………」
「冗談やから」
数秒間の空白ができた。その間、俺の体は、何も聞いていないし何も見ていない。
「…………は」
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「…………」
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日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。
その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。
青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。
その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
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病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
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。
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※現時点で小説の公開対象範囲は全年齢となっております。しばらくはこのまま指定なしで更新を続ける予定ですが、アルファポリスさんのガイドラインに合わせて今後変更する場合があります。(2020.11.8)
■2024.03.09 2月2日にわざわざサイトの方へ誤変換のお知らせをくださった方、どうもありがとうございました。瀬名さんの名前が僧侶みたいになっていたのに全く気付いていなかったので助かりました!
■2024.03.09 195話/196話のタイトルを変更しました。
■2020.10.25 25話目「帰り道」追加(差し込み)しました。話の流れに変更はありません。
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