No morals

わこ

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第三部

105.決意と覚悟Ⅰ

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 腹から全身にかけて広がる痛みと、かつてないほどの倦怠感。
 まだ生きている。しかし、寒い。それでもぼやけた視界の端には裕也の姿を捉えることができて、心底安堵したのを覚えている。
 酷い怪我をさせてしまった。きっと痛みも強かった。自分だってそんな状態のくせに、今にも泣きそうな顔で俺の手を取り、死んだら許さねえ。そう言った。

 刺されて良かった。割と本気で思った。裕也には本当、悪いけど。
 この先も一緒にいたい。いつまでもずっと、このままがいい。そのためには過去を清算しないと。組と縁を切る。腹を決めた。実の親を、殺すことになっても。





***





 ガキの頃を過ごした家は昔から嫌いだった。その家にまたもや自分の意思で足を踏み入れ、憎いだけの親父の元へ向かった。
 無駄に広い敷地内。いくつもの監視用モニター。異様でしかない。ここはそういう場所だ。個人事務所を与えられてからは滅多に戻ることもなかったが、いつ訪れても虫唾が走る。そんな胸の悪さは健在だった。

 途中出くわした組員たちから頭を下げられるのを通りすぎ、断りなく奥のドアを開けた。飛び出した頃となんら変わりない、冷たい光景が目に入った。
 特別豪華な装飾がある訳でもない。屋敷の外観と比べてみればだいぶ落ち着いているだろう。
 昔からそこにある濃茶のデスクと、同じように古い大きな椅子。そこに腰掛けたまま煙草をふかしていた。
 親父の傍らにいつも控えている二人の秘書役が頭を下げてきたが、そんな事はどうでもいい。それよりも気にかかるのは、中央のソファーで偉そうなに堂々と寛いでいるこの男。

「ようっ、久々やなあ恭介。なんやお前戻ってくる言う話やから俺も帰らんで待っとった。ちょっと見ぃへんうちにまたアカ抜けよったな。やっぱし俺も会合行くんやった」
「…………」

 赤城和明。政深会若頭補佐。この歳でそこまで上り詰めた、正真正銘の実力者だ。
 こいつがいるとは想定外だが、出ていけと言ったところで無駄だろう。黙って通り過ぎたそこからすかさずやかましく声が上がる。

「なんやねん無視かいっ。なあアンタ自分の倅にどないな教育してるん?」
「うるせえぞ和明。俺が知るか。こいつはテメエで勝手にこう育ったんだよ」
「子が子なら親も親やな」

 口を挟んでくる和明に親父は薄笑いで応じる。手元の煙草をようやく揉み消し、今度は俺に目を向けた。
 何一つとして昔と変わらない。慈悲のない視線と、残酷な空気。そいつが笑って俺を見ている。

「どうした。今度こそ戻る気になったか」
「……逆だ。あんたと縁を切りに来た」

 はっきり口角を吊り上げた。次には喉を鳴らせて笑うだけ。

「絶縁宣言って訳か。ずいぶん大した口きくようになったじゃねえかよ、ええ?」
「…………」

 こいつが俺の話をまともに聞き入れた事なんてなかった。だが俺もここで引くわけにはいかない。黙ったまま静かに睨みつけると、つまらない物でも見るかのようにふんっと鼻で笑われた。

「まあいい。大事な一人息子がこうして生きて俺のとこに来たんだからな」

 ゆっくりと立ち上がり、俺の前へと足を向けてくる。後ろでは和明が面白そうに状況を眺めているのも分かった。

「情けねえだろうが恭介。滝川のクズごときに腹狙わせてどうする。おかげでウチの馬鹿共が勝手な真似してくれてよお。上から文句つけられんのは俺だぞ。どう責任とってくれる」

 あの連中が一斉に摘発を受けた後、残った奴らを片っ端から潰して回ったのはウチの人間だろう。トラブルの発端を俺が担った。会って早々に責められるのはこちらとしても都合がいい。

「言われなくても出てってやるっつってんだよ。あんたの言う情けねえ倅が自分から縁切り申し出てんだ。なんの文句もねえだろ」
「縁切り縁切りって、お前ここ出てどないする気や。黙ってたらこの組丸ごと自分のもんになる言うのに、まさか堅気にでもなって労働なんぞしよるつもりか」

 場違いに明るい声で相変わらず口を挟んでくる。こいつも昔からずっとこうだ。俺にとっては邪魔でしかない。

「……テメエは関係ねえ。黙ってろ」
「あーあ、コレや。少しは年上敬おういう気はないんか」

 こいつに構っている場合ではない。親父にだけ威嚇を向けた。バカにしたように俺を見下し、鋭い視線を突き刺してくる。

「なあ、おい。これまで俺がお前にどれだけ金注ぎ込んだと思ってる。腕っ節だけじゃねえ。テメエはそこらのボンクラ共より使えるアタマ持ってんだろ。叩き込んでやった知識は小銭稼がせるためのもんじゃねえぞ」
「…………」

 まるで親切とでも言いたげな口振りに反吐が出る。こいつらはそもそも自分が悪だとは思っていない。
 時代とともにやり方は変わる。その都度嫌というほど教え込まれた。この男の思う通りに生かされ、やれと言われればなんでもやった。

 どれだけの人間に恨まれたか知れない。俺がしてきた事のせいで、結果的に首を吊った奴らともなれば何人いたか。
 全てこの男の指示でやった。その指示を全て、聞き入れてきた。抗うことなどしようともせずに。

「今のお前を作ってやったのは俺だ。なあ? 違うか?」
「……そんなこと誰が頼んだ」

 低く呟き、正面から向き合う。好きでこうなった訳じゃない。これまではそう言って逃げ続けてきたが、今はもう逃げてはいられない。
 俺を許してくれたあいつの隣に、今度こそ胸を張って帰る。ここと切る。ここは、間違っている。人がいていい場所じゃない。

「俺はあんたの持ちモノじゃねえんだよ。こっちだって腹決めて来てんだ、何言われようがこことは縁を切る。ケジメ付けろってんなら好きにしろ」
「はっ。ケジメなあ……」

 わずか。ほんの少し、間があった。しかし、気づいた時には遅い。
 反射的に取れた行動は歯を食いしばる事だけだった。鈍くズガンと頭に響いたこの音。左頬にぶち当たった衝撃。
 体が傾きそうになるのを、辛うじて踏み止まった。だがその程度では終わらない。間髪入れず、鳩尾には重く拳が食い込んでいる。

「ッ……」

 目に入った、不気味なまでの、薄笑いを浮かべるその口元。親父の手で床に薙ぎ倒され、防ぐ隙もなく腹を蹴り上げられた。
 ガッと、ひと月前の傷が疼く。ソファーからは和明の乾いた笑い声が上がった。

「うっわぁキツ。容赦ないなあ手負いの息子に。めっちゃ入った」
「お前はそこで見物でもしてろ。良くできた倅だろ。意地でも声一つ上げやしねえ」
「あーハイハイ。親バカもええとこやね相変わらず」

 無様に床に手を付きながら睨み上げた親父のその顔。酷く歪んだ目が俺を拾い上げた。心から楽しむかのように、冷徹な感情を見せつけてくる。

「一人でふらついて少しは成長したかと思ったが今でもお前はガキだ恭介。ヤキ入れりゃ俺が満足するとでも思うか。利ザヤのねえ話は好きじゃねえんだよ。鼻ッタレのケジメなんぞ見せられたところで余興にもなりゃしねえ」

 この目もこの声も、ガキの頃から嫌悪の対象だった。人を愚弄し、敬意などない。地の底へと突き落とす事がこの男の生き甲斐であり、存在の全てを形作る本質。

 気力だけで足を立たせた。蔑まれるのは俺じゃない。こいつだ。俺には帰る場所がある。待っていてくれる奴がいる。
 あの隣に戻る。それだけを支えに、睨みつけた。おそらくそう長くはない。けれども体感的には長い。気を抜けばめまいでも覚えそうになる頃、スッと、その笑みが種類を変えた。
 ゾッとする。冷酷な顔をして俺を笑った。

「最近妙な噂が俺んとこまで流れてきててなぁ。お前、男相手に現抜かしてるって話じゃねえか」

 途端にクッと、息が詰まった。こぶしを握ってそれを堪える。しかし俺のこの変化を親父が見逃すことはなく、嘲るような笑みとともに顔をずいっと突き合わせてきた。

「お前の足カセはその野郎か。俺の倅ともあろう奴が、敵前にタダでテメエの腹差し出してやる訳がねえもんなあ?」
「……何が言いたい」

 ギリッと固く握りしめる。血も涙もないこの男は、無情に笑ってそれを言った。

「ガキの一匹、始末するのは簡単だ」
「ッ……!」

 尖った音が空を切った。親父の言葉を最後の最後まで聞いたかどうかは分からない。体が勝手に、動いていた。

「っ組長……!!」
「カシラぁあッ! それはいけねえ!!」

 控えていた秘書役二人は叫び、即座に俺を取り囲んでくる。
 忍ばせてあったナイフは、命じられるなら自分に使う気でもあった。それを右手に固く握りしめ、親父の胸ぐらに掴みかかって切っ先を喉に突きつけている。

 いつでもやれる。押し付けた手を横に引くだけ。だがこの男は余裕しか見せない。ギリギリと刃先を皮膚に食い込ませた。
 俺を取り囲む秘書役たちは懐に手を伸ばしている。俺が親父の喉を掻き切るのが早いか、タマで打ち抜かれる方が早いか。殺傷能力は俺の方が低いが、共倒れくらいにはできる。

「やめときやー恭介。エエことあらへんで」

 笑い交じりに上がったその声。くくっと親父も喉の奥で笑った。

「テメエはせめて笑ってんの隠せ和明。いいか、お前らも手出しすんじゃねえぞ」

 この男に言い返すついでに俺を狙う二人にも念を押す。しかし次いで俺に向けてきた目は、誰よりもこの場を楽しんでいる。

「俺に牙向けるか。いつからそんな親不孝になった」
「遊びに来てんじゃねえんだ。あんたを殺す覚悟くらい決めてる」
「ほう。だがよお……」

 至近距離で零される嘲笑。その目はしっかりと、俺を捕えた。

「そいつは思い上がりだ」

 視覚情報と運動にはどうしたって誤差がある。咄嗟にこの体は動かない。俺の経験ごときで通用はしなかった。

 しまった。思った時には遅すぎる。目を見開いたその時点には光景が変わっていた。手首を鷲掴みにされると同時に腕をギッと捻り上げられ、弾みでわずかに緩んだ握力。そのすきを逃さず、奪われている。
 直後、目に飛び込んできた。迫りくる。銀色の切っ先。寸前で避けたがスーツと擦れ、その先にあるのは俺を待ち構えた親父の手。先読みに追いつけず胸ぐらを掴み上げられ、ガッと引き寄せられている。
 喉元の、冷えた温度。肌に感じる。俺がこいつに、したように。

「まだまだ劣っちゃいねえぞ」

 ザザッと皮膚が裂けた。斜めに傾け、押し付けるようにしながら一気に引かれた刃の感触。

「俺を殺れなくて残念だったな」
「っ……」

 引き攣るような鋭い痛覚があった。濡れた感触が首を伝い落ちる。
 急所のわずか上。故意に位置をずらした刃の線はそこを迷いなく切り裂いた。シャツにボタボタと滴る血液が重く吸い取られて染みを作っている。
 生温かいそこに手のひらを当て、よろめきそうな足で一歩下がる。睨み付けるその間にも、手からは血が溢れて染みを広げた。

「……ったく」

 カチャンと放り捨てられたナイフ。これは牽制だ。これ以上無闇に動かなければ死にはしないと。
 立場を分からせ、自分よりも劣る人間を嘲笑う。それがこの男のやり方だ。そのやり方を、教え込まれてきた。

「お前はそこまで馬鹿じゃなかったはずだぞ。テメエ見失ってどうすんだ。度胸だけじゃ生きてけねえ世の中だって事くらい知ってんだろ。とは言えまあ、しかし……竜崎の人間としては上出来だろうがな」

 情けは不要。求めるのは金と快楽。決して他人に弱みは見せるな。
 生まれた時からそう教わってきた。何代にも渡って続く古臭いこの家の生き方だ。恨み、睨み付けることによって相手を殺せるのであれば、すでに何度この男をこの世から葬り去ったか分からない。
 ずっと憎み続けてきた親父は、底冷えする片笑みを湛えて俺にゆっくり近づいた。

「その目だ恭介。ガキの頃からちっとも変わらねえ。それはお前が竜崎の人間だっていう何よりの証だろ。テメエみてえな野郎がこの世界から足洗える訳ねえんだよ」

 それだけ告げると俺を通り過ぎ、秘書役の二人もそれに付いて行く。高みの見物を一通り楽しんだ和明もソファーから腰を上げた。

「なんや、もう行くん? 親子の会話の途中やろ。放っといたらまたフラフラしよるで」
「いいからお前も付いて来い。時間だ」
「あーはいはい」

 やる気なく頷きながらこいつもそこから足を踏み出した。しかしそれでもまだ言い足りないのか、笑顔で俺を振り返ってくる。

「つまらんなあ、こっちのが絶対おもろいやん。今から納会やねん。上のじーさんの誕生会いう名目の」
「さっさとしろ。足ねえんだろ」
「せやねん、待っとけ言うたのに置いてかれた。ホンマあいつ上司をなんや思ってるん」
「神谷か。ナメられてんだろ。いいザマだな」
「あんたも十分ひどいよ。ほなな、恭介。また会おうや」

 陽気に言い置き、親父を追い越してさっさとこの部屋から出て行く。立場も何もあったものではないその態度に親父は呆れた笑いを零し、自分も部下を従えながらドアの前まで行き、そして軽く振り返った。

「そこまでして出て行きてえなら勝手にしろ。この組もなあ、長いこと若頭の役が行方くらましてたから上にもさんざん言われてんだよ。ようやく戻ってきたかと思えば会合出させろだなんだと抜かしやがって、挙句に今度は絶縁宣言ってな。いい加減呆れるとこだが、まあ望み通りにしてやらねえ事もねえ」

 今までの頑なさをあっさりと翻し、自由の宣告。しかしその先がある。

「だがな恭介、よく覚えておけ。お前は必ずテメエの意思でここに戻ってくる。お前にはここしかねえんだ。極道捨てて生きていけるはずがねえ」
「…………」
「それだけだ。チラシは出さねえぞ」

 薄く笑って出ていった。最後の言葉が耳に残る。
 チラシは出さない。ああ、そうかよ。何が望み通りだふざけやがって。
 一人ここに取り残されたあと、外から閉められたドアをしばらく睨んだ。手のひらに爪を食い込ませ、痛みでギリギリ自我を保つ。それくらいしか、できなかった。
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