No morals

わこ

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第三部

103.出会いと遭遇の裏側Ⅵ

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「もう、にーちゃんガード固いよ。もーちょっと気ぃ張らんと生きなな長生きできへんで。潰れた兄ちゃんめっちゃ見たかった」
「……もう十分キてます」
「ちゃうねん、介抱とかしてみたいねん。で、どさくさに紛れてセクハラ」
「セク……」
「あっはっは! ジョークやジョーク!……兄ちゃん平気か? 真っ直ぐ歩けてへんよ。掴まっときや、セクハラせんから」
「…………」

 差し出されたその腕にやむを得ず掴まった。足元がやや覚束ないのは本当。あと一歩酒の量を間違えればどんな事態になっていたことか。
 どれだけ勧められようとも最後の境界だけは越えなかった。踏みとどまれて本当に良かった。そんな俺を支えながら赤城さんは残念そうに歩いている。

「あーあ、もっと仲良くならなね。兄ちゃんの警戒解いて気ぃ緩めさせなホンマに酒弱くても押しには強い! また飲み行こうなあ? 次はオトすよ」

 赤城さんは完全にザルだった。シラフでも陽気な人に掴まりながらゲッソリと開いたこの口。

「……もう結構です」
「んな冷たいこと言わんで! 忘れた頃に突然誘うから俺の番号消したらアカンよ? こっちから行かんと兄ちゃん俺のこと放置や」
「…………」

 いつの間に引っ手繰られたのか、店でチビチビと飲んでいる最中に赤城さんは俺のポケットからこっそりスマホを掠め取っていた。パスワード入れてなどと言われて断るのももはや面倒で、俺がロックを解除すると再びそれを手に取った赤城さんが、「俺の番号入れとくな!」と。まるで親切とでも言うかのように勝手に連絡先を登録していた。
 部下の車を乗り回すような人だ。他人のスマホくらい簡単にいじくる。普段から一言、借りんでー、でなんでも済ませてやりたい放題やっていそう。

「どっか休んでく? タクシー拾うわ」
「大丈夫です……歩いて自分ち帰ります。適当に落ち着くんで赤城さんも帰ってもらって平気ですよ。ウチそんな遠くないですし」

 話しながら前から来た通行人と擦れ違う。反射で体をいくらか避けると、その途端に足がよろけた。
 スッと、それを支えられる。赤城さんの腕にしっかりと抱かれた。おかしげな笑い声が耳を掠めてくる。

「あかんやん自分フラッフラやん。家辿り着くまでに兄ちゃん事故って死んだら俺のせいやで。寝覚め悪いよ」
「……枕元には立たないんで安心して帰ってください」
「え、何それギャグ?」
「…………」

 笑いには厳しい。真顔で聞き返された。ギャグだったつもりこそないのだが。
 とにかくこの人と離れないと。いまだ正体は怪しいままであり、仮に怪しくない人だとしても部屋まで連れ帰ってもらうなんてそこまで世話になる訳にはいかない。
 ついつい掴んでしまったその腕から離れようと身を引けば、反対にスルッと腕を取られて腰にガッチリ手を回された。足元が少々不安定な今、体勢的に楽には楽だが男としては精神的にくる。

「どう? 俺、紳士?」
「……紳士ゴッコ……?」
「正解! よう分かるねっ」

 新婚ゴッコが好きなアホならごく身近にいるものですから。だんだん泣きたくなってきた。

 赤城さんが放してくれる気配はなく、まだもう少し距離があるとはいえ行き先は俺の自宅だ。送り届けられてしまうのは何かと困る要因が多い。
 面倒を見てくれた人が玄関前にいるならお茶でもどうですかと言うのが基本的な礼儀になるし。お茶を出すくらい別に構わなくても、この人に、住所を知られて良いものかどうか。

 赤城さんにチラリと目をやれば拒絶を奪われそうなにこやかさ。それに思わず気圧されるものの、言い訳のための言葉を探した。

「あの、赤城さん…」

 その時、ブブッと鳴った。ポケットの中。またしてもスマホ。

「あ……すみません、ちょっと……」

 もういい。誰でもいい。瀬戸内でもいいし橘でもいい。この状況を打破できるかもしれない一縷の望みにかけスマホを手に取り、表示を見下ろす。不覚にも、ほっとした。
 竜崎。その名前が出ている。藁よりも使い道の少ない男だが今は救いの神でしかない。
 すぐに出た。

『裕也っ? 今どこ? つーかスマホ切んなよ!!』

 耳に当てたスマホをやや離した。心配した寂しい死にそう。言い立てられてイライラしてくる。
 このまま一人で喋らせておくとヘタすれば夜が明けるから、煩い男の言葉を遮りボソッと吐き捨てるように言った。

「……迎え来い」

 言いたくなかった、できることなら。こんな男にこんな頼みを。
 ごくごく小さな声になったが竜崎にはちゃんと聞こえたようで、しかしすぐには返答がない。一拍置き、聞いたのは真剣な声。

『どうした。平気か?』

 過保護だ。こいつは変なところで。

「……大丈夫だ。そういうんじゃねえけど……。来いよ……迎え」

 不必要な心配をさせた。この男はその辺に敏感だ。
 しかし俺の返答によって危険はないと判断したようで、微かに張り詰めさせた雰囲気を電話越しに解いたのが分かる。

『あ……そうか、うん。分かった行く行く。すぐ行く。どこ?』

 命令されてなぜ喜ぶんだか。理解からは程遠いが、これで何度目の借りだろう。
 しかし迎えが来るとなれば赤城さんからは解放される。居場所を告げて通話を切り、赤城さんにはぺこっと頭を下げた。

「あの、迎え呼んだんで。本当にもう大丈夫です。世話かけてすみませんでした」

 俺が帰りがけ事故に遭って死ぬのが気掛かりだと言うのなら、俺を支える手が他に現れれば何も問題ないだろう。
 両足がふらつかないように根性でピンと立つ。ところがこの人は笑顔のままだ。立ち去る気配を見せないどころか、腰に回された腕も離れない。

「そら残念やなあ。もっと兄ちゃんこと連れて歩きたかったのに。待ち合わせどこでしたん? 友達来るまで一緒に待ってるよ、今の兄ちゃん危なっかしくて見てられへん。変質者なんぞに目でもつけられたらエライこっちゃ」

 クラっときた。

「見ての通り俺は男ですが……。この辺で変質者騒ぎも聞いたことないです」
「えーやん細かいこと気にすんなや」

 グイッと腰を押されて足が踏み出る。断り続けることもできずに最終的には待ち合わせ場所も教えた。
 赤城さんに付き添われながらやって来たのは近くの公園。誰も座っていないベンチまで歩き、促されて腰掛けた。

「電話してきてもええ? 待ってて」
「あ、ハイ……」

 言い置いてベンチから遠ざかっていく。公園内の照明前で足を止めた赤城さんの姿が、辺りの薄暗い空気の中でぼんやりと照らし出された。
 遠目にも分かる。背中には隙がない。まっすぐに伸びて、どこか威圧感を周りに覚えさせる。

「…………」

 やはり、少し重なるか。容姿は全く似ていない。そう思ったが後姿を見ていると、あいつの顔が自然と浮かぶ。
 その職業は俺の考えすぎではないだろうし、掴みどころのないあの雰囲気も。ニコニコしているようでいて、鋭く周囲を見渡している。
 付け入る隙はどこにもない。見れば見るほど濃厚に重なる。その姿を、ここから遠く眺めた。

 電話での話し声までは届いてこない。浮かべているのは笑顔だろうか。それとも残酷なあの冷笑か。
 後ろ姿からそこまでは把握できず、けれども通話を終えて戻ってきた赤城さんは陽気な笑顔。俺の隣にどさっと座り込み、穏やかそうに目を向けてきた。

「疲れた? 俺も今日ははしゃぎ過ぎやったな。兄ちゃんが付き合うてくれてめっちゃ嬉しかった。無理に酒飲ますおっちゃんは今の若いコに嫌われんのになあ」
「いえ……。それよりいいんですか? 今のって仕事の電話なんじゃ……」

 さっきだって街でひと悶着あった。俺に付き添っている場合ではないはず。その意味をおそらくは汲み取りながら、赤城さんはニコッと笑った。

「よう分かるね兄ちゃんは。せやけど何も気にする事あらへんよ。俺が好きでここにおんねん」

 ポンッと肩を叩いてくる、この人の真意は読み取りにくい。

「次は俺に介抱させてな?」
「……嫌です」
「はっきり言うなあ。そういう兄ちゃんもええけど」

 俺がげんなりするとその分この人は明るく喜ぶ。座ったまま身を乗り出し、横から俺の顔を覗きこんできた。

「今から迎え来るの友達?」
「え……?」
「仲ええコとはやっぱ気軽に話すんねんなあって。ちょっと羨ましい」
「……そうですか……?」

 あの素っ気ない受け答えを聞いてどうすればそう思えるのだろう。少なくとも仲良し同士の電話の光景ではなかったはずだ。
 顔をしかめた俺の横で赤城さんはブツブツ言っている。

「やっぱアレやな。最初客やったんがマズかったな」
「は……?」

 そこで低い音を聞いた。ブーブーと。
 俺のとは若干違うがスマホのバイブ音だと分かる。低い振動音の出所は隣。うんざりした顔になってスーツの内ポケットに手を突っ込んでいる。

「あーもー、しつっこい」

 さっきまでの笑みを引っ込めて悪態づきながら腰を上げた。その眉間に入った縦筋が、電話の相手に対する煩わしさを示している。

「スマンな、もっぺん行ってくる。兄ちゃんに口悪いの聞かせられん」
「……どうぞ」
「ああ、友達来ても帰らんといて? どんなんか俺も顔見たい」
「……は……?」

 なぜ。それを聞く前に赤城さんは行ってしまった。歩きながら話し出したその声は、最初の方だけ俺の耳にも届いた。
 本人の言う通り丁寧な喋り方とは程遠い。どうして迎えに来る人間の顔を見たがるのか。物好きなその人の後ろ姿を目で追った。

 かつて根本との一件があったから、赤城さんと鉢合わせたらあいつはきっと嫌な顔をする。そもそもウマが合うとも思えない。どちらも不躾でどちらも馴れ馴れしくどちらも陽気なふうを装っているが、竜崎はたぶん、嫌いだと思う。ああいうタイプ。特に男は。
 竜崎がやってきたら面倒な事が起きる。その前にさっさと礼を言ってさっさと逃げよう。
 逃走経路を目視で確保しながら公園の前の通りを眺め、竜崎の到着を待った。赤城さんはまだ電話の最中。照明の下のその人の姿と通りとを交互に見比べながら、それを数回繰り返したところで向かってくる人影をふと捉えた。

 来た。早い。すぐ行くと言っていたが本当にすぐに来た。
 早足、というか完全にダッシュして公園の入り口に差し掛かる。

「裕也……!」
「…………」

 敷地内に足を踏み入れると同時に俺の姿を確認するや否や大声で叫んで駆け寄ってくる。犬かお前は。いつから忠犬になった。
 目の前まで来ると肩で息をしながら俺の無事をジロジロと確かめていた。

「どした? 平気? 酔った? 立てる?」

 うるさい。
 ベンチの前で身を屈め、恭しくこの腕を取って気遣うように立たせてくる。介護が必要な訳ではないのだしそこまでしてくれる必要は一つもないが、俺の意識がはっきりしているのが分かると馬鹿みたいに嬉しそうな顔を見せてくる。

「……何ヘラヘラしてんだよ」
「いやあ、ビックリ! お願いだから迎え来てなんて可愛いことをまさかお前が…」
「言ってねえ! 誰が言うかよアホがッ、捏造すんのやめろっ!」

 支えてくるその手を力任せに振り切った。すると途端に、よろっと、足が。

「っと、危ねえ。なんだ、マジで飲んでんの? 何してんだよお前」
「……うるせえ」

 再びそっと腕を取られ、ついでに腰にも手を回される。なんて情けないザマだろう。
 竜崎は早々に俺の手を引いて歩こうとしたが、それに掴まっている俺は足を踏み出さずに引き止めた。

「待った……」
「ん?」
「ちょっと……」

 待っていろと言われたからには、さすがに。
 俺がそうやって引き止めれば竜崎はすぐに応じた。どうした。そう聞かれたが、それへの答えを口に出す前に竜崎の目がふっと俺の背後に向いた。瞬間。

「ッ……!」

 ザッと、竜崎の顔色が変わった。穏やかだった雰囲気は一瞬にして消えている。
 驚愕に開かれたその目。それだけじゃない。怒りか、恐怖か、あらゆるものがぐちゃぐちゃに混ざっている。全身から醸し出されるビリビリとした緊張感は、その身に触れている俺の方にまでじわじわと伝わってきた。

「……りゅう…」

 呼ぶ前に止めていた。足音。俺も顔だけ振り返らせ、赤城さんが歩いてくるのを目にした。気配は全然、感じなかったのに。

「すまんかったなあ兄ちゃん。友達来たん?」
「あ、はい。あの…」

 とにもかくにもひとまずは礼を。そのための言葉を出すよりも早く、ひどく荒っぽい力強さがガッと俺の腕を引っ張った。

「っなに、」
「テメエ……ッ」

 振り向くような暇もないくらい、後ろに隠され、そして響いた唸り声。威嚇的な竜崎のその言動にハッとして顔に目を向ければ、睨みつけている。殺す勢いで。赤城さんを、ギリッと、鋭く。
 真っ先に背に庇われた。なぜ。それは分からない。俺の前に踏み出した竜崎は低い声でこの人と対峙した。

「どういうつもりだっ……なんでテメエがここにいる……ッ」

 激高し、さらにその口振り。知り合いなのか。思うよりも、ただ息をのんで立ち尽くす。

「こそこそ近づきやがって……ッこいつは関係ねえっつってんだろ!?」
「なに言うとんのや意味分からん。兄ちゃん、なんや自分のツレおかしいで」
「ッふざけんじゃねえぞクソが!!」

 ガッと地面を蹴った竜崎は直後赤城さんに掴みかかっている。胸ぐらをギリギリと握り上げ、殴る寸前。それだけは察知する。豹変した竜崎の片腕に後ろから咄嗟にしがみついていた。

「竜崎ッ、待てって何してんだよ!?」

 押さえ込もうと俺が叫べば、ギリッと奥歯を噛みしめた竜崎。間近から見上げる。殺気立っている。それを向けられている赤城さんは動じる気配さえもなく、竜崎と真正面に向かい合いながら口元には変わらず笑みを浮かべていた。
 なんで、そんな。挑発だ。楽しんでいる。この人は竜崎で、遊んでる。

「……竜崎」

 張り詰めた空気の中で小さく呼びかけ、ぎゅっと腕を掴んだ。竜崎は怒りで震えながらもバッと乱雑に手を離し、それでもなおシラを切っている赤城さんは素知らぬ態度を貫くが、弄ぶかのようなその目には冷たい笑みが深く刻まれていた。

 どこまでだ。この人は、どこまで知っていてこれを。俺を飲みにつれて行ったのは、どういうつもりで、なんの目的があって。
 二人の間の緊張感に触れながらも竜崎の手は離さない。よくない。ここでこの人を殴らせて、その後どうなるか予測がつかない。
 俺の手を振り払うことはせず、竜崎は威嚇を込めた声で唸った。

「……こいつに近付くな。次があったら殺す……お前でも」
「こわー。物騒やなぁ」

 ふふっと笑うこの人に、怒りを越えた竜崎の殺意をひしひしと肌で感じた。依然として俺を守るかのように決して前には出させない。この人に背を向けて歩き出しても鋭利な威圧感は消すことをせず、この腰に腕を回しながら隔てにでもなるように出口を目指した。
 俺を守るかのように、その腕が赤城さんを阻んでいる。

「兄ちゃん」

 しかし半分ほど行ったところで、呼ばれ、つい、微かに振り返る。視界の隅であの笑顔を捉えた。どことなく、ゾッとした。

「またな」

 俺の腰に回った竜崎の手に、ギリッと力がこもったのが分かった。痛い。少し。竜崎は気づかない。どれだけわずかでも俺に苦痛を与えることを嫌うこの男が、冷静さを欠いている。後ろにいるあの人への、憤りしかその中にはない。
 急かすようにグイッと腰を抱かれ、竜崎に従って公園を出た。



 そこからしばらくは無言で歩いた。普段のような過剰なまでの気遣いなど欠片も見せずに、そんな余裕はどこにもないようでただ逃げるように歩かされた。
 公園の前の通りを一つ逸れた脇道に連れられ、暗闇の広がるそこでガッと両肩を掴まれている。建物の壁に押し付けるようにして怖い顔をしながら迫ってきた。

「何された……ッ」
「は……?」
「怪我はっ!?」
「……いや……別に……」

 困惑しつつも答えると、その顔が一気に痛々しく歪んだ。息を詰め、震えそうな腕で、閉じ込めるように抱きしめてくる。
 痛いくらいに力を込められた。微かだがやはり、震えている。生き物が怒る背後にはいくつかあって、恐怖も、またその一つ。

「……竜崎……?」

 何かが起きた。とっくに起きていたのかもしれない。顔を上げた竜崎の表情は、感情が複雑に絡んでいるみたいだった。
 あの人を見てこうなった。俺を庇った。真っ先に。

「なんか……勘違いしてねえか……。あの人に何かされる覚えなんてねえよ。赤城さんとはさっきたまたま出くわしただけで……」
「赤城さん……?」

 クッと、その眉間が寄った。瞬時に声色も変わっている。俺を見る目は、少し、怖い。

「……どこで知り会った」

 それは俺への怒りじゃない。あの人だ。冷たいその目は、ここにはいない赤城さんへの威嚇に思えた。

「パチ屋に来てた……だから、客だよ。さっきはミオ行く途中でたまたま会って……」

 不思議な人で、職業の推測もできるが、危害を加えてくる素振りはなかった。そうしたいならとっくにできていたはず。あの人の運転する車にだって乗った。
 どこまで言おうか。いま全て話して、この男は大丈夫だろうか。それが気がかりでそれ以上は言えず、黙り込むと再び手を引かれた。
 今度はそっと。むしろ、力なく。

「りゅう…」
「行こう。……帰ろう」
「…………」

 ずっと目を逸らしてきたものに、とうとうぶち当たった気がした。
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