No morals

わこ

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第二部

86.記憶Ⅴ

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「母さん死んで少しして、あいつが俺に渡したんだ。片方は自分が持っておくからもう片方はお前が失くさないように大事にしてろって。こんなもんとっくに……忘れてると思ってた。ずっと持ってたんだな」

 霊園を二人で出てから連れてこられたのは広い家だった。
 裕也が育ったのがこの場所だ。日当たりのいいリビングに通され、並んでソファーに腰を下ろした。預かっていた写真とピアスを渡すことができたのはその時。
 目の前のガラステーブルに裕也は静かに写真を置いた。その手のひらにはあのピアスが転がされる。

「中学の時、これのために穴開けたんだ。すっげえ嫌そうな顔されたよ。子供がつまらないことするなって」
「…………」

 それは、たぶん。いやこれは、俺の想像でしかないが。

「その時はっきり俺の耳見て言ってたから、なんも覚えてねえんだと思った。結局あいつにとって母さんは汚点でしかなかったんだなって……」
「……汚点?」

 裕也は写真の横にピアスを置いた。とさっとソファーに凭れ掛かり、投げ出すように足を伸ばした。

「族だったらしい」
「……族?」
「レディースってヤツ。一昔前の地方ってなるとそういうのもゴロゴロいたみたいで、結構デカいとこの総長やってたんだとよ。俺は話聞いただけだけど特攻服なら見た事あったな。すっげえハデ」

 探せばまだどこかにあるはず。懐かしそうに裕也は言った。
 息子には高校を出てほしかった。そういうことか。いま理解した。俺が言うのもなんだろうけど、人には人の過去がある。

「親父に会った頃には抜けてたって話だけど、女子少年院上がりでハタチ前にはガキ孕んで……。籍入れたのはたぶん俺がデキちまったからなんだろうな。あいつもまさかって感じだったろうよ。教授目指してたあいつにとっては計画狂ったのは……間違いねえだろ」

 言いたくなさそうに自分でそう言う。そうやって今までもずっと、自分を痛めつけていたのか。
 坂上さんに聞いたところによれば、裕也が初めて人を殴ったのは、十歳。小学四年生の時。馬鹿にされたそうだ。母親のことを。さっきはその詳細を聞かなかったがどういう事なのかいま分かった。

 誰がどこから聞きつけてくるのか、その手の話を好む人間は多い。母親連中が噂していたのをその子供が聞いたのかなんなのか、そもそもどこから漏れてくるのかは知らないが、侮蔑的な物言いだったのだろう。幼い裕也はそれを許せなかった。
 裕也は一緒に庇ってほしかったのかもしれない。もういない母親のことを、自分を避け始めた父親に。ほんのささいな綻びや溝が、大きくなるのは簡単だ。

「俺が何しても気に食わねえって顔されんのがムカついて、一度だけ言っちまったことがある。俺も今よりもっとガキだったし……失敗した女の子供だって腹ん中じゃ思ってんだろって」
「…………」
「言ったあと正直、後悔したよ。でもあいつはそれを否定しようともしなかった。なんも言わねえで目ぇ逸らされて、そうだって言われてる気がして……。なのにフザけてんだろ。金だけ遺して勝手に逝くんだもんな」

 悔やんでも悔やみきれない、そんな気持ちが裕也を満たしている。
 溜め息を零して天井を見上げた裕也の下では皮張りのソファーが、キシッと擦れる音がした。これもしばらく、誰にも使われてこなかったはずだ。

「自分が死んだ後のこと、あいつは全部整理してた。最後の最後まで人をバカにしやがって……」

 その視線がガラステーブルの上に向く。写真を置いた中央よりも斜め上。テーブルの端に投げ出すように置かれた大きいサイズの茶封筒だ。
 俺もそれに目を向ける。裕也は静かに肩を落とした。

「こっち戻ってきた次の日の夜に、親父から預かったって言って奈緒がこれ一式寄越してきた。テメエの親の後処理すらあいつは俺にやらせねえんだよ。俺がする事なんかハンコ持って役所とか法務局行くくらいだ」
「…………」

 茶封筒の中身はおそらく、権利や財産にかかわる書面だろう。自分の死後に必要となるものを親父さんは裕也に遺した。
 坂上さんからはこのことも粗方は聞いている。親父さんには気掛かりもあった。死んだ後に何かを遺しても、裕也は素直に受け取らないだろうと。誰に漏らすこともなかったそうだが、それでも周りは内心を汲んでいた。それが詰まった書類を見下ろし、裕也はまた溜め息をついた。

「クソだせぇ話だけどな、最初はうまくやろうとしたんだ。構ってほしくて、バカみてえに懐いて……それをあいつが嫌そうにしてんのがチビでも一応はなんとなく分かるし、だから怖かった。捨てられるんじゃねえかって……。こっちから近寄ればそれだけ、親父は俺を避けるようになって……」

 自分のことをこうもすすんで話す裕也は珍しい。何かしら喋ってでもいないと、耐え切れないとでも言うように。

「母さんがいた頃はそんなんじゃなかった。俺だけになったら全部変わった。あいつが俺を嫌ってんのは分かってるつもりだったのに……なんだよ、今さら、こんな……」

 父親が託したものを、余計な事をするなとでも言いたげに見つめる裕也の、顔が歪んだ。こんな形で親の想いなんて感じたくなかったはずだ。いっそのこと本気で突き放して欲しかった。言葉には出さないけれど、そうとでも叫んでいるように見えた。
 顔は母親にそっくりだ。しかしその内面の多くは、父親に似たのだろう。
 言葉足らずで不器用で頑固。そのため人から受ける誤解も多い。

「正直まだ……実感がねえんだよ。あっけないにも程があるだろ。何年も会わずにいたら次に見るのが死に顔なんて……」

 子供がつまらないものをつけるな。親父さんが裕也に伝えたかったのは言葉通りの意味ではなかったはずだ。
 お前がとらわれる必要はないと、言ってやりたかったのではないか。いつまでも縛られていなくていいと。
 母親の形見を身につけた、妻と瓜二つの息子を目にして、そんなふうに言うのがたぶん、精いっぱいだったのではないか。だってその言い方はまるで、裕也がとても遠回りな優しさを示すときとそっくりだ。

「……どうするんだ。これから」

 やり直すには遅すぎる。やり直すための相手がいない。肉親をすべて失った裕也には、この家と金だけが残った。
 幼少から慣れ親しんだ、まして母親と過ごした場所だ。しばらく離れていたとは言え愛着がないはずがない。

 ここに戻る。移り住む。そう、言うかもしれないと思った。
 ところが裕也は軽く溜め息をついただけ。そこに重苦しさはなく、どちらかというとスッキリしたように、ソファーに凭れたその体勢のまま俺に目を向けてきた。

「別にどうもしねえよ。しばらくは行ったり来たりするだろうけど全部片付いたらあのアパートで元の貧乏生活に戻る。俺にはその方が合ってるしな」
「ここは……?」
「落ち着いたら人手に出す。住む気もねえのに管理なんてできねえし、いつまでも奈緒のとこに任せておく訳にもいかねえから」
「いいのか。それで……」

 本心なのか、強がりなのか。その判断が俺にはつかない。
 俺の問いかけにうなずいた裕也は、それでも表情にはゆとりがあった。

「俺の帰る場所はもう決まってる」
「え……?」
「こっち戻るなんて言い出したらどっかのバカがまたうるせえだろ」

 最後のそれだけは吐き捨てるように言い、そしてふいっと顔の向きを逸らした。無言の俺に耐えきれなくなったのかそこからの行動は早く、スクッとその場で立ち上がると鬱陶しそうに視線を下ろしてくる。

「おら立て、そろそろ帰るぞ。奈緒が来たらどうせまたガミガミ言われる」

 ガツッとと人の足を蹴りつけ、俺を残したまま一人リビングを出てどこかへ向かって行った裕也。階段を上り下りする微かな物音が聞こえてくる。再び戻ってきた裕也のその手には見慣れたスマホが収まっていた。
 裕也の視線はその画面上。徐々にうんざりしたような顔つきになっていく。

「……お前ストーカーか? どれだけ連絡入れてくるんだよ、履歴テメエで埋まってんじゃねえか」

 確かにかけまくっていたとは言え酷い。

「よく充電持ったな」
「いや、逆。充電しすぎ。挿しっぱなしだった」
「……ずっと?」
「ああ」
「なんだかんだ有能なんだな日本製」
「そうっぽい」

 火事にもならずスマホも壊れず。良い子はあんまり真似しない方がいい。
 基本的に良い子なのだろう裕也は根本的に良い子じゃない俺に、そう言えば、と目を向けた。

「つーかお前、今日バイトは」
「ああ……休みもらった……?」

 なんとなく疑問形。案の定呆れた眼差しが飛んできた。

「しょうもねえことで休むな。人の心配してる場合かよ。クビになっても知らねえぞ」

 テーブルの物を引っ掴みながら素っ気なく言い放たれる。いつもの強気なこの態度。心配ない。書き置きにあったその一文は今ようやく真実になった。
 しかし平然としていた裕也が俺の目の前で突如ピシッと固まった。視線は未だスマホの画面に。
 横からチラリと覗き込むも変わった様子は見られないが、ホーム画面のどこかに目を落としたままなぜか動作を一瞬止めた。そして直後、ジリッと強張った裕也の表情。

「……行くぞ。さっさと立て」

 さっきの行くぞとはなんか違う。言葉には焦りが滲んでいた。
 いきなりそわそわと落ち着きを失くし、一刻も早くここを去りたいような雰囲気を醸している。

「なに慌ててんだ……?」

 急に時間を気にしはじめた。俺の手をぐいぐい引っ張って無理やり玄関に連れて行こうとする。
 その手におとなしく従いながら後ろから問いかけてみるも、裕也には一切の余裕がない。早々に足を踏み出し、突っ込むようにして靴を履いた。

「忘れてたんだよ……」
「何を?」
「今日は二十五日だ……」
「うん。だから?」

 靴箱の上に投げ出してあるこの家の鍵を裕也が手早く取った。呑気に質問した俺を、鬼気迫る表情でグルッと振り返ったこいつ。

「とっととズラかるぞ……ッ」
「いや、夜逃げじゃねえんだから」

 どうしたんだ突然。意味はまったく分からないが急かされるまま俺も靴を履いた。
 裕也はそわそわキョロキョロしながらガッとドアノブに手をかけた。そしてバッと勢い良く開け、しかし裕也の動きはピタリと。そこで一瞬停止したかと思えば、次の瞬間にはバタンッと再び閉めている。

「…………」
「……何してんの?」

 開けたり閉めたりなんなんだ。その答えは秒で分かった。

「ちょっとなに閉めてんのッ!?」

 外からガッと開かれたドア。怒声とともに坂上さんが踏み込んできた。

「こんっの、大バカ! 人様にまで迷惑かけて何してんの!?」
「うっせえなッ、っつーかてめえ学校戻れよ! 職場放棄してんじゃねえ!!」
「心配で見に来てあげたんでしょ!! お礼の一つも言えないなんてアンタ小学生以下じゃないッ!!」

 広々とした玄関ではあるが、大人三人がいるとそれなりに狭い。そんなスペースで何やら取っ組み合いが始まった。ギャアギャアわあわあ騒ぎながらどちらかと言うと坂上さん優勢でああだこうだ争っている。

「あの……その辺にしといた方が……」

 兄弟姉妹とか姉弟とかの喧嘩と言うのはこんな感じなのだろうか。なんとなくいつもより幼いように見える裕也と、それを圧倒する坂上さんの間にそろっと割って入った。
 ぴたりと坂上さんが止まる。初めて俺に気づいたような顔。裕也に掴みかかっていた手を放すと気まずそうに見上げてきた。

「あら……やあねえ、ごめんなさい。こんなところばっかりお見せしちゃってお恥ずかしい」
「……いえ」

 口元に手を当ててオホホとでも言い出しそう。

「でもありがとう。竜崎くんのおかげでこの子も元のアホに戻ったみたい」
「っんだとコラ!?」
「言葉遣いには気を付けな」

 キッと睨んだ。裕也は黙った。強い。裕也をたったのひと睨みで。
 逆らえないには逆らえないがケンカ腰の姿勢を保つ裕也をあっさりとシカトして、坂上さんは俺に向けてにこりと綺麗な笑顔を見せた。
 女というのはときに何よりも強かな生き物だと思う。

「もう帰るの? ごめんねえ、こんな子だからなんのお構いもできなかったでしょう?」
「あ、いえ。全然……」

 チラッと窺い見た裕也は物凄く何かを言いたそう。板挟み状態で乾いた笑いとともに答えて返すと、とりあえず出ましょうかと坂上さんに促されて太陽の日を浴びた。

「ちょっと先に小学校あったの分かった? あたしあそこで教師やってるの。あの学校の伝統でね、毎月二十五日は周辺の清掃活動する事になってるからちょっと出てきたのよ。あなたにもお礼言いたかったからちゃんと会えてよかった」
「いや……俺は何も」

 歩きながらにこやかに話すこの人。二十五日と言う日付を裕也が気にした理由が分かった。

「他の先生に任せちゃってるからあたしももう戻らなきゃ。重ね重ね申し訳ないんだけどこの子のことよろしくお願いします。どうしようもない馬鹿でホントにごめんなさいね」
「早く戻れ、給料泥棒」
「アンタは黙ってな」

 低く一喝。裕也はまた黙った。こいつをここまでコテンパンにできる人はきっとこの人だけだ。

「じゃあ、ここで。駅まで見送り行けなくてごめんね」
「いえ。仕事頑張ってください」
「ありがとう」

 にっこりと笑顔を向けられ、裕也とともに歩き出す。別れ際くらいもうちょっと何か。そう思って裕也を見るが、こいつは不貞腐れたままだ。
 そうやって少し足を進めた時、しかし後ろから声が響いた。

「裕也!!」

 迷いのない、強い声。裕也は足を止め、そして振り返った。つられて俺も後ろに目をやる。元の場所にいた坂上さんは、大事な家族に向けるのと、まったく同じ目を裕也に向けていた。

「いつでも戻って来な! あんたの好きな物作って待ってるからっ!!」
「…………おう」

 ぶっきらぼうな小さい返事が果たして向こうまで届いたかどうか。それは分からないけれど、坂上さんは嬉しそうに笑った。
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