No morals

わこ

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第二部

83.記憶Ⅱ

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 ちょっと出てくる。
 裕也はそう言って店を出て行った。そのはずだった。しかしあれから六日が経った。

 裕也は家に帰っていない。何度連絡を取ろうとしてもスマホは一切繋がらない。別れ方はああだった。見たことのないような、不安定な顔だった。
 裕也のバイト先である量販店へも足を運び、するとそこで聞けたのは、一週間休みを取っているという事実。
 あり得ない。ああ見えてあいつはかなりの真面目男だ。保障など何もない労働生活を送っている俺達のような人間にとって、長いこと休みをもらうなんてほとんど自殺行為に近い。
 何があろうと当然のように働きに出るのが普段の裕也だ。そいつが休みを取ってまで、どこに行って、何をしている。

 何があった。何が起こっている。あの女は、いったい誰だ。聞きたい事がいくつあっても会えなければ何も始まらない。
 毎晩ミオには足を向けている。そこにいるかもしれないと思って。しかし今日まで結局会えていない。ミオに立ち寄ったその後は真っ直ぐ裕也のアパートに向かい、だがやはり明かりはついていない。

 それを繰り返すこと今夜で六回目。しつこくスマホにもかけ続けているが繋がりもしないし折り返しもない。
 知らないことが多すぎる。こうなってみてようやく思い知る。肩を落としてとぼとぼと帰路についた。
 会えない。無事なのか。どこにいる。ちょっと出てくる、そう言った時の、裕也のあの顔が頭から離れない。

 フェンス沿いを暗く歩いた。自宅アパートの真正面へと続く、短い細道へと入る。
 目の前のアパートもその周りの家屋も全て、メシ時の頃を過ぎた今は当然に静けさが漂っている。ポケットに手を突っ込んで、鍵を取る。顔を上げた。瞬間、目に入ったその光景。はっとした。明かりが見えた。
 一階の部屋。向かって左。そこは俺が借りている一部屋。建物の壁面に嵌まった窓から、かすかな明かりが漏れていた。

「っ……」

 地面を蹴った。ほんの数メートル。それすらもどかしく駆けつけて、なだれ込むように玄関に飛び込んだ。

「裕也ッ!」

 バンッと勢いよく開けた先、明るさが目に入り、その中にいる。室内を見渡せるワンルームの玄関で、ベッドの前を凝視した。
 そこに凭れかかり、床に座り込んで、何食わぬ顔で俺を見る。裕也。

「よう」
「裕也……」

 慌ただしく靴を脱ぎ散らかし、裕也のそばに駆け寄った。玄関では重いドアがようやくガチャリと音を立てていた。
 言いたいことは山のようにある。そのどれも言葉にはならず、裕也の前で膝をついてぎゅっと強く抱きしめた。
 腕の中にどれだけきつく閉じ込めても裕也は抵抗しない。何も言わず、逃げようともしない。それがいつもと違うだけで、その他はいつも通りだった。

「……どこ行ってたんだよ。心配したんだぞ」

 できるだけ静かに言ったつもりだったが思いのほか感情が滲んだ。それでも裕也は反応を変えず、どこか別の場所にでもいるような様子だ。
 いつも通り。そう思ったが、違う。まただ。どこも見ていない。
 今はしっかり目が合っているのに、こいつらしくないその雰囲気に思わず腕には力がこもった。

「……電話くらい出ろ」
「電話? ああ……ヤベ。スマホ置いてきたかも」
「置いてきた……?」
「実家行ってたんだよ。色々バタバタしててな。電話どころじゃなかった」

 ちょっと行って戻ってきたような、一週間も音信不通だったとは思わせないような口振りと態度。それが不自然に思えてならない。そっと腕を解いても、なんの反応もなく、ただ俺を見ている。見ているのに、やはり見ていない。
 無理がある。平然としたその様子。いくらなんでも、隠しきれていない。
 怪訝に見つめ返す俺の腕を、裕也がそっと緩く掴んだ。その、手つき。女がするような。誘うみたいな、甘ったるい匂いの、目つき。

「しよう」
「え……?」
「セックス」
「……は?」

 言葉は出ず、焦りだけが募った。

「カラダ貸せ。抜いてやるよ」

 言うなりベルトに手をかけてきた。ガチャガチャと外しにかかるから思わず目を見開き、そしてその手を掴んだ。
 何やってんだ、こいつ。それよりもまずは自分の目を疑う。しかしどうしてもこれは現実で、裕也は不満そうに眉間を寄せた。機嫌を損ねた様子で見上げてくる。

「裕也……」
「んだよ、シケんな。ヤらせろ」
「なに……どうした……」
「どうもしねえよ。普段は無駄にサカってるくせして俺がその気の時にはノッてこねえのか」
「……裕也?」

 頑丈そうとは言い難い、その手首を掴んだまま、食い入るように裕也の顔を見つめた。こいつも負けじと見返してくるが、睨み合うくらいの勢いで見つめ合っていたのはほんの数秒。すぐにふっと、逸らされた。
 根負けとか、その類ではない。どちらかと言うと、諦めだ。
 つらそう。そういう顔だった。じわじわと心臓が押し潰される。そんなような錯覚まで起こす。
 つらいなんてもんじゃない。苦痛を通り越した無感情だった。抜け殻のように、意思を伴わず、空っぽで、どこも見ていない。

「裕也……」
「抱けよ」
「…………何があった」
「ッ抱けって! いいからっ……抱けよ……」
「…………」

 見ていられない。聞いていられなかった。こんなに痛々しいことってあるか。
 スルッと首に腕を回してきた裕也は投げやりで破滅的で、傷付いている。こうやって俺を使ったことはない。気を紛らわせるためだけに他人を利用するような奴でもない。

 望むとおりにして悲しむのは裕也だから躊躇いはあるが、放っておけるはずはなかった。抱き寄せた。さっきも思った。少し痩せたかもしれない。一週間。ほんの、短期間で。
 ちゃんと食っていたのか。今日までどうしていたんだ。こいつは何も話そうとしない。今の裕也には聞くこともできない。






 一時の快楽というのは、作用としては麻薬と同じだ。ベッドに横たえた体を組み敷き、抱いてあやして、その感情を覆った。
 そんなふうに隠してやっても意味はない。解決からは程遠く、体の熱が冷めてしまえば裕也はまたどこも見なくなる。
 悲しい嬌声を耳にしながら、何度もキスして、何度も抱いた。






***






「裕也……」
「…………悪かった」
「え?」
「…………」

 いつでも物事の筋を通し、変なところで礼儀に厳しく、こう見えてかなりの潔癖でもあるから、おそらく、後悔しているのだろう。
 布団の中で俺に背を向ける裕也を後ろからそっと抱きしめた。それを無言で拒まれて、さすがに無理強いすることはできずにおとなしく手を離そうとすれば、ごそごそと身をよじった裕也が体の向きをゆっくり変えた。
 ベッドサイドに小さなライトを置くようになったのは最近のこと。その淡い光の中で目が合うことはなかったが、様子がおかしいのは確かだ。

「……眠れないか?」

 俺の声に返答はなかった。けれど脇腹にはそっと手を伸ばされた。探るような仕草で見つけ出される、傷跡。あの時の。そこに裕也の指先が触れた。
 もうとっくに完治しているが、痕跡だけはきっと一生残る。それを俺が気にしなくても、裕也はずっと気にしている。
 こいつは自分にだって厳しい。誰に対してよりもおそらく、自分自身に、一番厳しい。

「…………お前は……」
「ん?」
「……いや……」

 何かを言いかけたがそこまで。それ以上は聞かせてもらえなかった。
 俺をここで待っていた。初めてこの部屋の合鍵が使われた。あり得ないような異常事態だが、それほどまでに裕也は弱っている。
 ここまでこいつは脆かったか。初めて裕也を見た日を思い出す。触れたらすぐに、壊してしまいそうだと。
 こうして抱きしめている裕也は儚く、今にも消えそうで、何も言わずにそっと手だけを握った。何が苦しいのかは分からない。俺にできることなんてこれくらいだ。

「……竜崎」
「ああ」
「…………どこにも行くな」

 静かなのに張り裂けそうな、こらえるような声で裕也は言った。他には何もしてやれないのだから、うんと言ってやればいい。すぐにでもそう言ってやるべきなのに、うなずくことすら躊躇した。
 裕也にはごまかしがきかない。知っているが、握った手には力を込めた。せめてこんなときくらいは。そうやって自分に言い訳しながら。

「……行かねえよ。ちゃんとここにいる」

 返事はなかった。代わりに溜め息が聞こえた。ほんの小さく、頷いて返された。


 そこから眠りに就いたのは、俺も裕也もおそらく明け方近く。仮眠と言った方が正しい。その程度だけ目を閉じている間に、裕也はまたいなくなった。
 一時間も眠ってはいなかったはず。うとうとしたような感覚の中、無意識に手を動かし、シーツの感触にパチッと目を開いた。いない。まただ。瞬間、飛び起きた。

 ついさっきまで繋いでいたはずのこの手は冷たいシーツに投げ出し、隣にあるべきその姿は見渡したどこにも捉えられない。
 床を見下ろす。裕也の服はない。俺の分だけが散らばっている。

「裕也……」

 素っ裸のままベッドを下りた。バタバタしながら風呂とトイレを確かめてみるもののやはりいない。
 そうだ。玄関。その方向を見る。靴は一組。俺の分だけ。

「…………」

 どうして。急激に不安が込み上げた。とにかくまずは連絡を。そう思い立ち上着を拾い上げ、ポケットのスマホを鷲掴みにした。
 けれどそこで思い出す。実家に置いてきた。裕也はそう言っていた。その手元にはない。連絡も取れない。
 どこに。どうして。そればかりが頭の中を占めた。

 服を着たり財布を持ったり鍵を取ったりその他全て、日常的に繰り返す動作をどうやって行ったかほとんど覚えていない。意識はすでにここになかった。夕べの裕也を思い出しては、焦るばかりの気に追い込まれた。
 目の前の物にさえ気づく余裕が欠落していて、テーブルの上をようやく捉えたのは部屋を飛び出すその寸前。紙切れがある。何かの切れ端。そこに一文。心配ない、と。
 裕也の筆跡だ。あいつが書いていった。心配ない。冗談だろ。

「…………」

 心配ないはずがなかった。あいつの心配ないは一番アテにならない。
 紙切れをくしゃりと握りしめ、そこからはまた記憶が飛んだ。無我夢中で走ったのは分かる。裕也の部屋を目指した。だって俺は、そこしか知らない。
 ピンポンピンポンと日も昇りきらない早朝から呼び鈴を連打した。普段なら近所迷惑だと言ってキレる裕也を見ることができるが、今は何度押しても出てこなかった。
 ガチャリとドアノブに手をかけた。開かない。鍵がかかっている。どう考えても留守だろう。ならば、どこに。これでは昨日までと同じだ。

 裕也が行きそうな場所を知らない。分かるのはこことミオと、後はバイト先くらい。早くから働きに行ったのならあんな紙切れは残さない。この時間にミオに行くとも考えにくい。だったら俺はどこを探せばいい。何も知らない。いつも一緒にいるのに。
 まったく分からない訳ではない。実家。そこに戻った可能性が高い。しかしそれがどこにあるのか、それだって俺は何も知らない。

 玄関の前で立ち尽くした。足を向けるべき方角も分からず、紙切れを手の中で握りしめた。
 そんな時、コツッと聞こえる。耳障りなのとは全く違う、規則正しい整った足音。人が活動を開始するにはまだ早いこの時間帯。カツカツと聞こえる、おそらくはヒールの。しまった扉を前にしながら、その音につられて顔を上げた。そしてその足音は、少し離れた後方で止まった。

「……あの、すみません」

 女の声。背中に向かって呼び掛けられた。振り返る。そこでいくらか、目を見開いた。
 知っていた。あの女だ。ナオ。裕也が確かそう呼んでいた。その人も俺に気づいたようで、この顔を見るなりいくらか表情を和らげた。

「あなた……確かあのお店に……」
「……どうも」

 お互いに会釈し合いながら、その人は足を進めてきた。俺と同じようにドアを眺める。困ったような溜め息を微かに聞いた。

「この前はごめんなさいね。急に騒がせちゃって。……あの子まだ戻ってきてない?」
「……そうみたいです」
「昨日一緒にこっちまで来たんだけど途中でいなくなっちゃって。おかげでホテル探す羽目になるし……まったくあの子は……」
「……あの……」

 あっ、とこの人は口を噤んだ。決まり悪そうに笑いかけてくる。

「ごめんなさい、つい。あの子にはずっと手を焼いてきたから」
「……裕也とはどういう……?」
「姉弟みたいなものかな。実家がお隣同士なの」
「…………」

 元カノでもヤリ友でもなく、姉弟みたいなもの。内心でホッとするよりもどことなく腑に落ちた。この人も改まって俺と向き合い、気取らない笑みを向けてくる。

「坂上奈緒です。いつもあの子がお世話になってます」
「いえ、そんな……とんでもない。……竜崎です」

 ぎこちなく向き合い、その様子をそれとなく観察する。この前見た時のキツさはそこになく、なんの不備もなく社会に馴染む気品のようなものを感じた。
 この人は昨日まで裕也と一緒にいた。握りしめていたせいでクシャクシャになった紙切れを雑に伸ばし、坂上さんに向けて見せたそれ。

「あの……これ裕也が今朝書き置いていったんです。夕べあいつ俺のとこに来てまして……。様子がおかしいとは思ってたんですけど、朝起きたらその……いなくなってて」
「そう……」

 書き置きの文字から視線を上げ、坂上さんはドアを眺めた。つられて俺もそこに目をやるが、誰もいない部屋の中を思うと空虚な心地が込み上げてくる。

「……あいつの実家ってどこですか? スマホ忘れてきたって言ってたんで戻ってるかもしれません」

 他に探せる場所はそこくらいしかない。実家が隣だったという坂上さんに尋ねると、この人はいささか驚いたように俺の顔を見返した。
 しかしそれもすぐに緩められる。どこか嬉しそうに小さく笑い、穏やかな口調で答えた。

「ありがとう。あの子にも心配してくれる人がいて安心した」
「……いえ」
「根はいい子なんだけどね。なかなか周りと関わろうとしないの」
「…………」

 知っている。最初は本当に、手負いのノラ猫みたいだった。
 誰も信じていない。周りは敵ばかり。関わったら痛い目に遭う。そうとでも思っているような警戒心の強い目をしていた。

「大丈夫。あの子のことは心配しないで。あたしももう地元に戻らないといけないから、向こうにいるなら裕也とも会えるだろうし。あなたにも連絡するように伝えておく」
「でも探さないと……」
「地元にいるとしたら行く場所は決まってるの。あの子、人前じゃ泣けないから。昔からずっとそう。意地っ張りで手に負えない」
「……何があったんですか」

 この人は全部知っている。俺とは違って冷静だった。事情を把握しているこの人に縋る思いで詰め寄ると、迷ったような顔を見せてから、その手はバッグの中に伸びた。
 取り出されたのは白い封筒。それから手の中に十分収まる、小さな黒い巾着袋。

「本当は昨日ここに戻ってからあの子に渡すつもりだったんだけど……。あたしからじゃ素直に受け取らないだろうし、ずっと出しそびれててね」

 手に取ったそれらを差し出してくる。躊躇いつつも受け取った。
 坂上さんの顔に再び視線を向けると、やわらかく笑って返された。

「このあと時間取れる?」
「え?」
「こんなこと、初対面でいきなり頼むようなことじゃないんだけど……」

 俺を見て何を思ったのか、この人の笑顔はずっとあたたかい。

「あたしは向こうに着いてもすぐに仕事行かなきゃならないの。裕也の様子見てこられるのは、後になると思うから」
「…………」

 躊躇いがちなその願いを、断る理由が、どこにあるだろう。
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