No morals

わこ

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第二部

72.胸中いまだ人知れずⅢ

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「あ」
「え?」
「あ、いや……あの人……」


 五時間目の数学の担当教師に雑用を押し付けられた。職員室の前通らなきゃよかった。
 お前らちょっと腕出せとか言われてボンボンぶっ積まれたノートとプリント。同じクラスの田中と二人でそれを持って廊下を歩きながら、ふと窓の外に目を向けたところで着崩した制服のその人を捉えた。

 この前助けてくれたあの人だ。助けてくれたのか、それとも本当にただ通行の邪魔だったのか、どちらなのだか分からないけど。
 その人が歩いているその場所には裏庭へ続く通路があるだけ。昼休みに入ってからまだ間もないこの時間に一人でそこへ向かっていく。

 裏庭は日当たりが悪いからランチにも昼寝にも不向きだ。その人の姿を俺が見ていると、隣の田中も顔を覗かせた。

「ああ。宮瀬裕也じゃん」
「宮瀬……?」
「うん。三年の。結構いろんな噂流れてるけど知らない?」
「……知らない」

 知っているはずがない。ここにいる奴らの話にいちいち耳を傾けていたらこっちまで頭が悪くなる。
 どこに行こうが良好な人間関係を築くのは簡単だ。愛想よくニコニコしながらそれなりに親切な人を装っておけば当たり障りのない生活を送れる。たとえ中身のまるでない話でもそれに合わせるのも難しくはない。

 しかし所詮は表面上。サラッと聞き流しまともには受け合わない。そのためあの人のことも知らなかった。噂だかなんだか知らないが、どうせ下世話な内容だろう。

「この学校であの人に逆らう奴いねえよ。毎日ケンカばっかしてるけど吹っ掛けた奴は半殺しにされるんだってさ」
「へえ……」

 この前のカツアゲ上等な三人組が見せた反応にも納得がいった。噂とやらはだいぶ定着しているようだ。そうこうしているうちに視界からは宮瀬裕也が消えていく。

「……よく退学にならないな」

 いくら偏差値最低レベルのヤンキー校とは言っても、さすがにそこまで噂になっている生徒を黙認するほどここの教師陣も教育を投げ出してはいないだろう。
 私立なんだし。むしろ処分は簡単。

「それがさ、かなり頭いいらしいんだよね。ほらここバカ高じゃん? 模試で全国上位にいるヤツなんか貴重すぎるから学校も退学にはさせたくないんだって。しょっちゅうサボってて単位なんかギリギリのはずなのにどんな汚ぇ手使ってんだよって感じじゃない? 教頭とデキてるとかって噂も色んなとこで聞くけどな」
「…………」

 ここの教頭は五十前の女だ。ヘラヘラと笑いながら田中は言うが、俺はそれに応えられなかった。
 パッと見の印象はたしかにキツイ。愛想がいいとはとても言えない。けれど根拠のない噂を流されるほど、怖い人には思えなかった。

「あんま近寄んない方がいいぞ。ヘタに話しかけると病院送りにされるから」

 教室に向かいながら田中は冗談のように言った。しかしこの時にはすでに、俺の意識は裏庭の方。あの人がどうしてそこに行くのか。

 運んでいたノートやプリントを教卓にドサッと置いて、それからすぐにまた廊下に出てきた。
 裏庭の先は行き止まりになっている。いるかどうかは定かでないが、俺が目指したのも裏庭。ではなく、その二階の通路奥だった。
 クラスが立ち並ぶ教室とは反対側の校舎だ。そこのドアから非常階段に出た。この場所からは裏庭を見下ろせることを知っていた。

 このドアノブに触れるのは夜間の見回りか教職員くらい。生徒が出入りに使うことは滅多にないドアの内鍵を開け、そこから非常階段に出た。
 欄干にそっと手をかけ、静かに眼下を覗き込む。晴れていても日差しはほとんど射し込まない。そんな場所に、あの人の姿はなかった。

「…………」

 ガッカリしたような。それでいてホッとしたような。
 そもそも俺は何をしている。ここであの人を確認したとして、それが一体何になるのか。

 半ば拍子抜けして溜め息をついた。バカバカしさに呆れてくる。昼休みを無駄にしただけだった。今から食堂に行ったところで席を見つけるのは難しいだろうし、適当に購買でも行くか。そんな事を考えながら手すりからすっと手を離した。
 しかし、ドアに向いたその時に、微かに響いてきた人の声。耳ざとく察知し、振り返った。校舎の曲がり角。そこに、人影。

「待てってこら、今やるから。歩きづれぇっての」

 ここから地上までの距離はそう離れていない。声と共にこっちに向かってくる気配。思わず身を潜めつつ、こっそり下の様子を窺った。
 やっぱり、あの人だった。しかしこの前とはずいぶん雰囲気が違う。左手にはビニール袋。そしてその表情は、笑顔。

「…………」

 笑うんだ、あの人。笑った顔なんて一ミリも想像できなかったからびっくりする。
 穏やかな表情がなんだか不思議で、何をそんなに楽しそうにしているのか、その理由もすぐに分かる。
 足元をチョロチョロしている一匹。猫だ。白と茶色の縞々の猫。そいつがずっとその人の足元に懐っこくまとわりついている。

 くっ付いてくる猫を蹴り飛ばさないように歩きながらもその人は嬉しそう。どう見ても気ままなノラなのに、猫もその人から離れない。
 この学校にはヤンキー以外にもノラ猫が良く溜まる。だがここまで人に慣れた様子を見たことは一度もない。

 猫使いみたいなその人はここからよく見える位置に腰を下ろした。校舎の壁に背を預け、そのすぐそばにはやはり猫。
 ビニール袋を持ったその手に頭を擦りつけている。猫に擦り寄られてクスクスと笑いを零すその人からは、とても暴力沙汰を起こすような印象は見受けられなかった。

「がっつくなよ。ほら、食いな」

 袋から取り出した何か。それを千切って猫に差し出し、かぶり付く様子を優しげに眺めている。

「お前最近見なかったな? どこ行ってたんだ?」

 マジか。猫に話しかけてる。どうしよう。なんだか可愛い。
 猫の頭を撫でながら食べ終わったのを確認すると、今度は抱き上げてじゃらつかせ始めた。人間相手に見せるような不機嫌な眼差しは微塵も出さない。綺麗な顔のつくりに似合う、穏やかな笑顔を浮かべている。

 いつも、そうやっていればいいのに。優しい人に動物は寄ってくる。警戒心の強い生き物ならなおさら。
 あのノラ猫は宮瀬裕也を証明していた。どんな噂が飛び交っていようと、目の前の光景があの人の内面を表していた。

 ヤンキーには死ぬほど冷たい。小さな猫にはこんなに優しい。
 宮瀬裕也。この人に、興味を持つのは当然だった。
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