No morals

わこ

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第二部

65.望むべきもの、ほしいものⅡ

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 一人酒の味は分からない。俺の隣には裕也がいない。毎晩ミオで時間を潰していても、あいつがここに来ないのは知っている。
 数日が経った。その間に何度も家に押し掛けた。呆れるほどスマホを鳴らした。ついにはコール音さえ聞こえなくなり、完全に弾かれた事を知った。
 顔を見られない。声を聞くことも叶わない。俺がしてしまったのはそういう事だ。それくらいの過ちを犯した。



「……裕也さん今日も来ませんね」

 開かないドアを眺めながら樹が寂しそうに言った。昔から懐っこい奴ではあったがここまで懐くことは滅多にない。せっかくできた慕える相手を、俺がこいつから奪ってしまった。

「来ねえよ……。多分、もう」

 二度と来ない。
 二人も何かしら察してはいるだろうがそれだけだ。樹はただ黙って新しい酒を出し、昭仁さんはカウンターの周りに白い煙を漂わせていた。

「……昭仁さん、俺も」

 力なく腕を伸ばした。昭仁さんは無言で煙草の箱を差し出してくる。そこから一本を手にし、火をもらって肺を煙で満たした。

 謝ることももうできない。傷付けた。そして、裏切った。あの日から暇さえあれば煙草ばかりに手を伸ばしている。さっきもここに来る途中で最後の一本を吸い切ったばかりだ。こんな物に頼ったところでなんの解決にもならないが。あそこで追いかければよかったのか。俺は元々諦めが早い。

 寄越された安っぽい灰皿にトントンと灰を落とし、カウンターに肘をついて項垂れる。
 なんとも無様だ。自業自得だ。精神安定剤にもならない酒と煙草に交互に縋り、古くて重い店のドアが静かに開かれるのを聞いた。
 どうせ来ない。あいつじゃない。分かっている。だから顔は上げない。
 ここ数日ドアの音を耳にするたびはっとして、顔を上げた瞬間に落ち込む。そういうのを繰り返してきた。だから俯いたままでいたら、店に入ってきたその誰かは俺の後ろを通り過ぎ、そして隣の席に座った。
 いつもは、裕也が座る場所。

「…………」

 息をのみ、目を向けた。その途端に一瞬で凪いだ。
 裕也じゃない。むしろ今一番、会いたくない男だった。

 いくらか見上げるようになる。背が高く、人好きされそうな、懐っこくて穏やかな顔。こんばんは。そいつが言った。なんでもないように俺に向けて一言告げると、カウンターの昭仁さんを見上げて和やかな様子で声をかけた。

「俺も同じのください」
「おう。見ねえカオだな、こいつの知り合いか?」
「ええ、まあ。竜崎さんと知り合ったのは最近ですけど」

 黙ったまま、そいつが喋るのを聞いた。ニコリと静かに笑いかけてくる。樹もまたいつもの調子でこの男に話しかけた。

「あ、じゃあ裕也さんの?」
「はい。高校の後輩なんです」
「そうなんですか。……裕也さんなら最近来てませんよ?」
「そっか……。やっぱり……」

 掴みかかって殴り倒してやりたい。そんな衝動をどうにか堪え、短くなった煙草を灰皿の上で捻り潰した。
 こいつ。この、根本とかいう男。この男を初めて見た時、裕也の弱いタイプだとすぐに分かった。樹とはまた違う。物分かりがよく従順で、賢い犬のようなこいつ。この手のタイプに寄って来られたら裕也は絶対に追い払えない。

「……何しに来た」

 苛立ちはそのまま声に出た。昭仁さんと樹の視線を感じる。少なくとも良好な関係でないのは今ので伝わっただろう。
 しかしこいつは、穏やかなまま。

「先輩が言ってたの思い出したんです。竜崎さんと毎晩ここで飲んでるって。店の名前しか聞いてなかったからずいぶん探しましたけど」
「…………」
「来てよかった。だいぶこじれてますよね」

 知ったような口を。
 煙草を切らしたのはやはりつらい。気を紛らわす物でもなければ今にも殴り掛かりそうになる。

「……お前には関係ない」
「ありますよ。まずは謝らせてください。あれは俺がふざけてただけで本当に何もなかったんです。先輩はあの日ずっとあなたのことで落ち込んでて…」
「黙れ」

 遮った。聞きたくない。落ち込んでいた。ふざけるな。あの裕也が、こいつには、胸の内を晒したってのか。

「……聞いてください。あなたは誤解してます。本当はご自分でも分かってますよね。先輩が竜崎さんを裏切るはずがありません」
「黙れっつってんだ」
「なんで信じてやらないんですか」

 グッと奥歯を噛み締めた。裕也は俺を裏切らない。そんなことは俺が一番良く分かっている。分かっていながら傷つけた。その事実をこの男によって思い知らされるなんてまっぴらごめんだ。
 しばしの間根本は口を閉じたが、俺が黙ったまま何も言わないと分かるとさらにまた先を続けた。

「あれから話だけはしました。どうしても気になったので。先輩は大丈夫って言ってましたよ。そんな声にはとても聞こえませんでしたけど」
「……テメエには関係ねえっつってんだろ。さっさと帰れ」
「先輩と会って話してください」
「…………」
「何があっても動じない人だったのに……。あの人をああさせたのはあなたですよ」

 こいつに言われる筋合いはない。年下の男に説教を食らう理由も。

「軽はずみなことした俺が悪いんです。でも本当に、何もありません。ちゃんと話してくれば分かります」
「うるせえ」
「このままでいいんですか」
「いいも何もねえよ。もう遅い」

 吐き捨てるように呟いた。三人分の視線を感じる。

「遅いって……」
「終わった」
「……え?」
「あいつは俺に見切りをつけた」
「……どうして」

 分かっていることを聞く必要はない。悪いのは俺だ。その自嘲が声に出た。
 ふっと皮肉めいた笑いが漏れて、グラスを握る。力がこもった。

「あのあと部屋にあいつだけ残して俺はその間女と会ってた」
「は……?」
「あいつじゃなくても嫌気さすだろ。それで出てった。終わりだとよ」

 無責任に言い放ち、あからさまな避難の眼差しを根本から感じ取る。
 グラスの中に残った酒を一気に仰いだ。空になったそれをコトンと置くと、カウンターからも視線を感じる。散々傷つけて苦しめて、これ以上どう繋ぎ止めろと。

「あいつが俺を拒んでる。話も何もあったもんじゃねえよ」
「……それでいいんですか」
「お前には関係ない」
「先輩はきっと竜崎さんのこと待ってます。このまま終わらせていいはずがない」
「何度も言わせんな、もう遅ぇんだよ。これ以上は口を挟むな」

 俺が自分で招いたことだ。今度こそ証明してしまった。苦しめることしか俺にはできない。

「…………これでよかった」
「…………」

 自分に言い聞かせるように呟く。ガキの頃からこうやって逃げてきた。
 こんなときにまで、逃げようとしている。

「……あんたもかよ」
「あ……?」

 ボソッと吐き捨てたこの男。そこで初めて表情を険しくさせた。

「本気ですか」
「帰れ。これ以上話すことは何もない」
「……分かりました」

 その雰囲気がいくらか変わった気がして、視線だけではなく顔も向けた。

「なら先輩は俺がもらいます」

 迷いなく、実直な一言。思わず眉間には力が入る。
 睨みつけたくらいじゃ怯まない。あの晩もそうだった。裕也を庇おうとしていた。思い出しただけで腹が立ち、威圧すれば静かに睨み返してくる。

「これでよかったんですよね。でしたら俺が先輩とどうなろうとそれだって関係ないでしょう」
「テメエやっぱり……」
「好きですよ。俺はずっと、初めて会った時から先輩が好きだった」

 いつになく店が静かだ。邪魔に入ってくる奴もいない。だからなおさら感じ取れてしまう。真剣な感情。こいつは本気だ。俺が知らない過去の裕也を知っているこの男は、あいつを想ってる。好きだと、そう言う。
 最後の最後に残った意地で視線だけは外さなかった。悔しくてならない。指先に力が入った。あいつに惚れている男が目の前に。あいつのことを想いながら、わざわざ俺に話をしに来た。

「あんな状態の先輩を放っておけません。本当なら俺だって今すぐあなたのことなんか忘れさせたい。あなたのせいでああなってるんだ」
「…………」
「でもそれじゃダメだってことくらい分かります。だからここに来ました」

 それこそが、本気の証拠。裕也とこの男の関係なんて知らない。知りたくもないが、こいつは、本気で。

「あなたには責任がありますよ。あなたはあの人を変えたんです」

 屈辱感と、それ以上の敗北感。こんな聖人みたいな真似を、俺ならできない。こいつはやってる。裕也のためだ。俺を見て、睨みながら溜め息を零した。

「……あの人にあんな顔をさせるあなたが俺は羨ましい」

 最初に会った夜、俺のだと言って裕也を抱きかかえたのは、ほとんどもう牽制でしかなかった。こいつの肩に寄りかかって安心しきっている裕也の姿に、苛立った。触らせたくなかった。
 そんな俺をこいつは羨ましいと言う。静かな視線を寄越してきた。

「だから余計にガッカリですよ。この程度の人だったなんて」
「ッテメエ誰に向かって……!」
「樹」

 呼べば、止まる。一瞬で怒りに満ちた樹の目は根本を厳しく睨んでいるが。
 ここまで黙って俺達を見ていた。それが今にもカウンターを飛び越えてこの男に掴みかかりそうな勢いだ。

「いいよ。お前は黙ってろ」

 俺が言うとそこでやめたが、毛を逆立てた動物のようにジリジリと威嚇している。樹のそんな豹変ぶりにもこの男は動じる気配すら見せない。

「……ここまで言って分かってもらえないなら本気で先輩のこと奪いますよ」

 確かな意思を持って投げつけられる。その言葉が突き刺さってきた。
 こいつはよく分かっている。裕也がどういう奴か。
 この男に甘いことも。俺を裏切らないことも。全部分かったうえで言うのだから、それは俺への挑発に他ならない。

「……用件がそれだけなら帰れ。もう気は済んだだろ」
「後悔します」
「うるせえよ」
「先輩がです。アンタがどうなろうと俺の知ったことじゃない」
「…………」

 やっぱりな。この猫かぶり野郎が。
 一瞬で冷たくなった目と声をこいつは俺に向けてくる。

「何年経とうが大切な人です。恩人でもあるから、余計に大事です。そんな人に後悔なんてしてほしくない」

 恩人か。あいつならそれも不思議じゃない。本人にその自覚があるのかどうかは知らないが。
 自分の本心も何もかも、この男は裕也に伝えていないだろう。言っているならここには来ていない。

「アンタは知らないだろ、昔のあの人を。俺は知ってる。毎日そばにいた」
「…………」
「……だから嫌でも分かりますよ。あの人がどれだけ変わったか」

 何を言い返せるはずもなく、ただ黙って聞いていた。そこで初めて下げられたこの男の視線。じっと自分の手元を見て言った。

「今じゃアンタのことしか考えてない」

 裕也を想い、静かに呟く。俺への敵意を込めながら、ここにいないあいつへの優しさもにじむ。
 特別なのだろう。それが分かる。俺にとってもそうだから。大事な相手を傷つけた俺に、こいつは説教でもするかのように。

「自分であんなふうにさせといてなに子供みたいに不貞腐れてるんですか」

 非難でしかない。しかしその通りだ。威嚇的でもある言葉は静かだが、まっすぐ突き刺さってくる。

「一人でイジケてる場合じゃないだろ。先輩に後悔させたら俺はあんたを許さない」

 そう言ったきりしばらく黙った。俺が何も答えないと分かると、手元の酒をぐいっと一気に。
 小さく溜め息をついてから、椅子からそっと腰を上げた。カウンターには金だけを置く。いまだに威嚇の姿勢を保つ樹を気にすることもなく、何事もなかったかのようにカウンター内に向けて会釈を一つ。

「……おい」

 俺にはもう目もくれず、背を向けたところで呼び止めた。そこで一度足を止めたが、振り返らない。そこから言葉だけ寄越してくる。

「先輩は何も知りません。これは俺が勝手にしてることです。けどここまで言って何もしないならその時はもう遠慮しませんよ」

 淡々と述べるその口調。本気だと分からせてくる。

「あの人がアンタを選んだってだけだ。アンタが相応しいなんて俺は思ってない」

 それだけ言い残し、出て行った。背の高い男の物静かなその立ち去り方。印象には深く刻み込まれ、手にしたグラスを無言で見つめた。その中に液体をトポッと昭仁さんが注ぎ足した。
 一気にガッと仰いだこの酒。喉が焼ける。これでいい。酔えないけど、目は覚めた。

「…………ダセぇ」
「今に始まった事じゃねえだろ」

 あっさり言い放ったのは昭仁さん。店の雰囲気はすっかりいつもの通り。俺から灰皿を取り上げるとカウンターの内側に戻した。

「ガキだし情けねえし器は小せえし……最低だし」
「良く分かってんじゃねえか。それだけ言えりゃ上等だよ」

 ガキだろうが情けなかろうが汚くて小さな器だろうが、裕也を傷つけることだけは、何があってももう二度としてはいけないことだった。
 泣きそうに歪んだ顔は何日経っても忘れられない。せっかくもらったオモチャをぶっ壊すクソガキと全く同じだ。裕也はオモチャとは、違うのに。
 白い煙がゆらゆらと舞い、ドアの方へと流れて行った。それに促されるようにして上げたこの顔。心拍ははやくなる。

 その時にはもう立ち上がっていた。気ばかりが急く。そんな俺の背中に、投げかけてくるのはやはり昭仁さん。

「またツケかよ」
「……わりぃ」

 呟いて店を飛び出した。
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