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第二部
61.崩壊劇Ⅴ
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「いい加減にしろ。いつまでも拗ねてんじゃねえよガキが」
「…………」
「……ったく」
竜崎の機嫌が激烈に悪い。
原因は単純。そしてバカバカしい。この野郎はただの欲求不満だ。
ことの発端は昨夜であり、いわゆるその、カブトアワセってやつは最高潮に盛り上がった。
あのまま結局こいつに流されてほとんど服を脱がされていた時、本番まで秒読みだったそのタイミング。俺のスマホのバイブが鳴った。
「ぁ……」
「……いいよ、出なくて」
すでに剥ぎ取られていたジーンズの後ろポケット。服は手を伸ばせばすぐ届く位置。低い振動音によって集中は途切れたものの、竜崎は俺をベッドの背に押し付けて、自分に注意を引き戻すかのようにむぐっと唇を塞いできた。
が、思いの外しつこく鳴り続けるスマホ。だんだんと戻ってくる俺の理性。
「ん……ちょっと……待てって」
「放っとけよ。こんな時間にかけてくる奴が悪い」
時刻はまだ二十二時少々。深夜だろうと構わず人の自宅に突撃してくる男のセリフではない。
俺はいささか眉間を寄せたが、竜崎はそれ以上に不満そうだった。こういうときだけは分かりやすい。体をピタリとくっ付けたまま、太ももの内側を掴まれた。
そして当然のようにパカッと開かされた。急に恥ずかしい。この野郎。
「ッ竜崎……」
思わず手をついた。竜崎の肩に。
「お……お預け」
「…………」
なんだお預けって。
「……今日はだめだ」
言い直した。それまでしつこく震えていたスマホのバイブがピタッと止まった。
なんというタイミングの悪さ。これでもう文句はねえだろ。その視線がそう訴えてくる。
だがよくよく考えてみれば、今夜はシない。最初からそういう約束だった。さらに言うならこいつは自称、約束を守る男。
「……どけよ」
「裕也……」
「ナシだ」
「ここまでしといて?」
「いいからどけ」
気づけば何もかも許している。現状はそれを表していた。そんな自分が浮き彫りになり、部の悪さと恥ずかしさがまた一気に込み上げてきた。
「……ヌけたんだから十分だろ」
「…………」
苦し紛れに素っ気なく言い放ち、竜崎の囲いの中から抜け出た。背を向けた。地味に距離を取った。散らかった服を手早く拾い上げ、慌ただしく着込んでも竜崎は何も言ってこない。
珍しいこともある。いつもならここでなんやかんやと。しょうもない押し問答が続くことを半ば覚悟していただけに、背後をそろっと振り返った時、乱れた服を直している竜崎の姿に驚いた。
「……そんなふうに思ってた?」
「あ?」
ところがお互いに服を直し終えたその時、背中に投げつけられた一言。再び顔だけ振り向かせると、その前にガバッと覆い被さるように後ろから腕を回された。ほんの少しよろめいたこの足。それごと支えるかのようして竜崎の腕が俺を抱きとめた。
「仮にも恋人に対して言うセリフがそれかよ」
耳元で低い声が響いた。ぎゅっと抱かれ、つい黙る。
恋人。この男は恥ずかしげもなくそう言う。背中にはピタッと体温を感じた。
「ヌけりゃいいってもんじゃねえ」
「なに……はなせよ……」
「俺はこんなに欲しいと思ってんのに」
「…………」
「……裕也は違うのか?」
「…………」
罠だ。知ってる。騙されるな。これがこいつのいつもの手口だ。このペテン師にそそのかされたおかげで、これまでどれだけ卑猥な目にばかり遭わされてきたことか。
自分に言い聞かせてその腕に抗った。たとえ捨てられた子犬のような寂しさを全身で醸していても、所詮こいつはオスでしかない。万年発情期の馬鹿野郎だ。こんなのにいちいち耳を貸していたら、俺の身がボロボロにされるだけ。
「…………」
「…………」
そこまで分かっているというのに。
「……バカかよ」
竜崎が。ではなくて。いやこいつも確かに馬鹿だが。この場合はむしろ、俺が。
じぶじぶながら体ごと振り返った。視線はわずかに伏せていたが、竜崎はそれを肯定と受け取ったのだろう。すぐにちゅっと唇を重ねてくる。
抱きしめられ、でも抱きしめ返さない。それくらいは最後の意地だ。俺が分かりやすく同意を示さなくとも、ここまでくればこの男は引かない。
普段なら。
「ッ……」
「…………」
びくっと俺の肩が揺れ、同時に竜崎のうんざり顔を見た。
低い振動音。またしてもスマホだ、俺の。不意打ちのように再度鳴らされ、寸前までの空気感は一瞬にしてパッと散っていた。
自分の尻の辺り。ポケットの中でブルブルしているスマホにチラっと視線を落とすと、竜崎はそれを引き止めるように俺の肩に顔を埋めた。
「……出るなよ。さすがにヘコむからな」
手を伸ばした瞬間に言われたら誰だって手を止めざるを得ない。こいつにもストレスは溜まっているだろう。今日までずっとお預けさせてきた。
そして今しがたの、しかも連続の、邪魔が入った事による寸止めと中断。イライラしているのは顔を見ずとも分かるが、こっちにもこっちの都合というものがある。
「……放せ」
「出なくていい」
「お前が決めることじゃねえよ」
こいつもほぼほぼ諦めていたようだ。突っぱねたら簡単に引き剥がせた。
不満しかないその表情は視界の隅に追いやって、それでも言いようのない重圧があるからくるりと背を向けスマホをタップした。
『先輩? 根本です。すみません突然。いま大丈夫ですか?』
「ぁ……いや……全然」
相手が誰かも確認せずに出てしまったものだから歯切れが悪い。つい最近聞いたばかりの声に、なんとなく呆気にとられた。
「……どうかしたか? それよりもホント悪かったなこの前は」
『いえいえ、そんな。俺も連絡するなんて言ったきりになっちゃっててごめんなさい』
謝ったのに謝罪で返されてしまった。竜崎との間では絶対に起こり得ない常識的な会話に泣けてくる。
とは言えその非常識な奴が俺の背後にはいる訳で。視線をチクチク背中に感じるからなるべく話は手早く済ませたい。
「大変そうだな。忙しいんだろ?」
『実習とか研修とか今週までは色々詰まってまして。でもそろそろちょっと落ち着くんですよ。もしよかったら来週辺りに空いてる時間ありません?』
後輩に面倒を見させてしまったのだからその詫びくらいは入れておきたい。暇ができたら連絡をくれと言ってあったのがようやく果たせそうだ。
「いいよ俺はいつでも。先に誘ってたのこっちだし。前に入った店でいいか?」
『あ、はい。場所はどこでも。……酒置いてあるトコでいいんすか?』
「心配しなくても俺は飲まねえよ」
態悪く言い返すと笑われた。こいつから馬鹿にされる日が来るとは。
そこからは日時をちゃちゃっと決めてじゃあなと簡潔に通話を終えた。背後からの威圧感は凄まじい。できれば外にでも出て話したかったがそれだと余計に反感を買っただろう。
前回のような邪魔をされなかったのがせめてもの救いではあるが、ひとまず胸を撫で下ろしながら振り返ったところで頬がひきつった。
どちゃっくそに機嫌悪い。そんな顔して人の電話聞いてんじゃねえよ心臓に悪い。
「だれ」
「あ?」
「今の」
苛立ちは口調にも表れていた。淡々とした声が身に堪える。
バカなのは初対面の頃から変わらない。しかしここまでガキっぽい男だったか。
「……根本だよ。この前の」
「そいつにはずいぶん優しいんだな」
「は……?」
「……なんでもない」
そこまで言いかけておいて。妙にモヤッとする。
「なんだよ……?」
「……また飲みに行くのか」
「この前迷惑かけてそれっきりだったからな。あの時の礼っつーか……もうお前のこと呼びつけたりしねえよ」
「そういこと言ってんじゃねえってのが分かんねえかな……」
「…………」
なんなんださっきから。言葉の端々に棘を感じる。
「……文句があるならはっきり言え」
「裕也に言ってもどうせ分かんねえ」
「ああ?」
うるさい女みたいな言い方についつい食って掛かろうとして、しかしそこでまたしても邪魔が入った。手に持ったままのスマホだ。ブルブル揺れながら音を立てている。
「…………」
「出れば。俺もちょっと出かけてくる」
「は?」
「すぐ戻る」
「なんっ、おい……」
呆れと諦めが半々ずつ。そんな顔で玄関の方を向いた竜崎に手を伸ばしたものの、触れる前に足を踏み出している。そして少しだけ振り返った。
「……ごめん。頭冷やす」
「…………」
それだけ言うと本当に行ってしまった。狭い空間に一人残され、部屋の中央でポツンと佇む。
「…………」
なんなんだ。
怒鳴りつけるのを避けるかのように、自分を落ち着けるかのように、あいつは俺との距離を置く。そういう事をするようになったのは、この前のあれから。昭仁さんに言わせれば、あの忌々しいゴム事件。あの夜に俺を組み敷いてからあいつは自制に関して過敏になった。
メンヘラ二重人格野郎が。いちいち不貞腐れて逃げてんじゃねえよ。
いっそのこと一回くらい本気で殴り合いの喧嘩でもしてみれば、あいつも少しは吹っ切れるだろうか。そんなに怯えなくたっていいのに。ちょっとやそっとじゃ俺は壊れない。
手の中を呆然と見下ろした。しつこく振動を続けている。さすがに鬱陶しくなってきたが、表示されている発信元を見て余計に体から力が抜けた
『ヤッホーみやせー! 彼女とイチャついてんのかー? 出るの遅ぇよコノヤローちくしょー!!』
「…………」
出なければ良かった。耳に当てたスマホは思わず離していた。
この無駄に明るくてなおかつ頭の悪そうな声。橘だ。背後も何やら騒がしい。貧乏な留年学生のくせして今度はどこで遊んでいるのだか。
『なあ、ちょっと出てこねえー? さっきも掛けたのにお前なかなか繋がんねえんだもん。メッセージだと既読さえつかねえし。つーかちゃんと見てる?』
見てねえよ。お前みたいのがいるから通知はオフだよ。そして一回目の電話はこいつか。
「行かねえよ。それ以前にウゼぇ。一回出なかった時点で諦めろ」
『ひっどー! 恋しちゃってる奴はコレだから嫌だねッ! そんなに彼女が大事かよ初恋アイラヴュ上等だコラァッ!?』
「……近くに瀬戸内いるんだろ。代われ。お前じゃ話になんねえ」
酔ってる。まだ喚いている。後ろで状況を察したのだろう瀬戸内が代わりにスマホを取るまでスピーカーは耳から離しておいた。
『おーいみやせー。わりぃわりぃ、オレー。今ヒマー?』
こいつも軽いな。
「暇じゃねえよ。お前、自分のダチちゃんと見とけ。いちいち俺を呼ぶな」
『やー、今カラオケいんだけどさあ、女の子達にお前の写真見せたら会いたいって言うからー』
「…………いつ撮った」
『バイト中。ってか着替え中。盗撮って案外できちゃうもんだな』
やめろ。
「切るぞ。おかしな写真は即刻消せ」
『つれねえなあ。それよりなに、ホントに彼女といるの? 代わってよ』
「なんでだよ。つーかいねえよ」
毎回毎回なんなんだこいつらは。仲良くなった覚えもないのにしょっちゅう構ってくる。いい迷惑だ。
『なあマジ来ねえ? たまには付き合えって』
「ナンパ成功したんだろ。勝手に楽しくやれ。奢らされるだけ奢らされて帰られねえようにせいぜい気を付けろ」
『うわー、グサッとくる。けどたぶん今日もそのコースだわー。橘潰れんの秒読みそうだし』
「お前らすすんで金ヅルになってねえか……?」
ナンパをして引っ掛かったはいいが女たちは食べるだけ食べて飲むだけ飲んで遊ぶだけ遊んでタクシー代をせびり、その後に何かがある訳でもなく解散というのがこいつらのパターンらしい。
遊び呆けている割には文字通り健全だ。減っていくのは財布の中身だけ。増えていくのは心的ダメージ。全てこの二人の談だ。
『まあでもさ、華があってもなくても俺ら的には宮瀬で遊ぶのが最近のブームっていうか』
「人を遊び道具にしてんじゃねえ」
『だって宮瀬おもしろい。今度彼女と会わせてよ』
「だからいねえっての」
可哀想な男二人組のうち一人の話を受け流し聞き流し、なんとかスマホを切った時には体力も半減だ。
疲れ切った。たった数分で。ベッドの背に寄りかかった。
そしてそのままぼんやりしていたら少しして竜崎が帰ってきた。
「……おう」
「うん。ただいま」
俺の素っ気ない呼びかけに答えた竜崎は、いつもと同じような表情に戻っている。
「……どこ行ってた」
「散歩。俺いなくて寂しかった?」
「うるせえよ」
まるで何事もなかったかのような、呆気にとられるほどの変わり身の早さ。それがかえってウソくさい。隣に腰を下ろしてきた時、ふわっと、分からない程度の匂いも感じた。
煙草だ。実際に喫煙中のこいつを見たことは一度もないが。
吸い殻の入った空き缶をこの部屋で見かけることは時たまあるから、吸うのだろうとは思っていた。散歩と言いつつさっきも近くの自販機にでも行っていたのだろう。
「今晩泊まってくだろ?」
「…………」
肩にそっと手を回された。横目を向けると笑って返される。
「なんもしねえよ。今度こそ絶対にほんと。ただ一緒にいたいだけ」
たぶん、これは嘘じゃない。この男がこういう穏やかな笑い方をするときは、俺の意思をくんだときだ。
それは警戒を解いてもいいときでもある。後ろに預けていた体重を隣のこいつにポスっと移し、その体に寄りかかった。
「なあ……」
「うん?」
「…………キスしろ」
竜崎がピタッと止まった。きょとんとして見つめてくるから、その視線から懸命に逃れる。
反省とかじゃない。俺が反省しなきゃならない理由もない。詫びでもないし償いでもないし、ご機嫌取りでももちろんないが、されたくて、そう言った。
クスッと零されたのを聞いた。隣から頬に触れられても、恥ずかしくて視線は上げられない。しかしこいつを満足させるにはそれだけでも十分だったようだ。
「好きすぎてどうにかなりそう」
「……知らねえよ」
重ねられた唇。キスしながら次第に向き合い、引き寄せられ、抱きしめている。いくらか残った煙草の香り。それは全く馴染みがないが、温度と感触はいつものままだ。
微かな水音とともに甘く重なる。舐め合い、その大きな手のひらが耳元を包み、ぞくっと感じる。瞬間。
「ッ……」
「………」
鳴った。俺のスマホのバイブが。今日に限ってなぜこうも。
「…………」
「…………」
弾みで唇も腕も離してしまった。しかし竜崎の手だけは俺の腰に回ったまま。
イラッとしているのはその表情だけではなくて、手からもなんとなく伝わってきた。
「…………もう電源切っとけって言ってもいいか」
「…………」
今のこれは俺が悪いような気がする。
「…………」
「……ったく」
竜崎の機嫌が激烈に悪い。
原因は単純。そしてバカバカしい。この野郎はただの欲求不満だ。
ことの発端は昨夜であり、いわゆるその、カブトアワセってやつは最高潮に盛り上がった。
あのまま結局こいつに流されてほとんど服を脱がされていた時、本番まで秒読みだったそのタイミング。俺のスマホのバイブが鳴った。
「ぁ……」
「……いいよ、出なくて」
すでに剥ぎ取られていたジーンズの後ろポケット。服は手を伸ばせばすぐ届く位置。低い振動音によって集中は途切れたものの、竜崎は俺をベッドの背に押し付けて、自分に注意を引き戻すかのようにむぐっと唇を塞いできた。
が、思いの外しつこく鳴り続けるスマホ。だんだんと戻ってくる俺の理性。
「ん……ちょっと……待てって」
「放っとけよ。こんな時間にかけてくる奴が悪い」
時刻はまだ二十二時少々。深夜だろうと構わず人の自宅に突撃してくる男のセリフではない。
俺はいささか眉間を寄せたが、竜崎はそれ以上に不満そうだった。こういうときだけは分かりやすい。体をピタリとくっ付けたまま、太ももの内側を掴まれた。
そして当然のようにパカッと開かされた。急に恥ずかしい。この野郎。
「ッ竜崎……」
思わず手をついた。竜崎の肩に。
「お……お預け」
「…………」
なんだお預けって。
「……今日はだめだ」
言い直した。それまでしつこく震えていたスマホのバイブがピタッと止まった。
なんというタイミングの悪さ。これでもう文句はねえだろ。その視線がそう訴えてくる。
だがよくよく考えてみれば、今夜はシない。最初からそういう約束だった。さらに言うならこいつは自称、約束を守る男。
「……どけよ」
「裕也……」
「ナシだ」
「ここまでしといて?」
「いいからどけ」
気づけば何もかも許している。現状はそれを表していた。そんな自分が浮き彫りになり、部の悪さと恥ずかしさがまた一気に込み上げてきた。
「……ヌけたんだから十分だろ」
「…………」
苦し紛れに素っ気なく言い放ち、竜崎の囲いの中から抜け出た。背を向けた。地味に距離を取った。散らかった服を手早く拾い上げ、慌ただしく着込んでも竜崎は何も言ってこない。
珍しいこともある。いつもならここでなんやかんやと。しょうもない押し問答が続くことを半ば覚悟していただけに、背後をそろっと振り返った時、乱れた服を直している竜崎の姿に驚いた。
「……そんなふうに思ってた?」
「あ?」
ところがお互いに服を直し終えたその時、背中に投げつけられた一言。再び顔だけ振り向かせると、その前にガバッと覆い被さるように後ろから腕を回された。ほんの少しよろめいたこの足。それごと支えるかのようして竜崎の腕が俺を抱きとめた。
「仮にも恋人に対して言うセリフがそれかよ」
耳元で低い声が響いた。ぎゅっと抱かれ、つい黙る。
恋人。この男は恥ずかしげもなくそう言う。背中にはピタッと体温を感じた。
「ヌけりゃいいってもんじゃねえ」
「なに……はなせよ……」
「俺はこんなに欲しいと思ってんのに」
「…………」
「……裕也は違うのか?」
「…………」
罠だ。知ってる。騙されるな。これがこいつのいつもの手口だ。このペテン師にそそのかされたおかげで、これまでどれだけ卑猥な目にばかり遭わされてきたことか。
自分に言い聞かせてその腕に抗った。たとえ捨てられた子犬のような寂しさを全身で醸していても、所詮こいつはオスでしかない。万年発情期の馬鹿野郎だ。こんなのにいちいち耳を貸していたら、俺の身がボロボロにされるだけ。
「…………」
「…………」
そこまで分かっているというのに。
「……バカかよ」
竜崎が。ではなくて。いやこいつも確かに馬鹿だが。この場合はむしろ、俺が。
じぶじぶながら体ごと振り返った。視線はわずかに伏せていたが、竜崎はそれを肯定と受け取ったのだろう。すぐにちゅっと唇を重ねてくる。
抱きしめられ、でも抱きしめ返さない。それくらいは最後の意地だ。俺が分かりやすく同意を示さなくとも、ここまでくればこの男は引かない。
普段なら。
「ッ……」
「…………」
びくっと俺の肩が揺れ、同時に竜崎のうんざり顔を見た。
低い振動音。またしてもスマホだ、俺の。不意打ちのように再度鳴らされ、寸前までの空気感は一瞬にしてパッと散っていた。
自分の尻の辺り。ポケットの中でブルブルしているスマホにチラっと視線を落とすと、竜崎はそれを引き止めるように俺の肩に顔を埋めた。
「……出るなよ。さすがにヘコむからな」
手を伸ばした瞬間に言われたら誰だって手を止めざるを得ない。こいつにもストレスは溜まっているだろう。今日までずっとお預けさせてきた。
そして今しがたの、しかも連続の、邪魔が入った事による寸止めと中断。イライラしているのは顔を見ずとも分かるが、こっちにもこっちの都合というものがある。
「……放せ」
「出なくていい」
「お前が決めることじゃねえよ」
こいつもほぼほぼ諦めていたようだ。突っぱねたら簡単に引き剥がせた。
不満しかないその表情は視界の隅に追いやって、それでも言いようのない重圧があるからくるりと背を向けスマホをタップした。
『先輩? 根本です。すみません突然。いま大丈夫ですか?』
「ぁ……いや……全然」
相手が誰かも確認せずに出てしまったものだから歯切れが悪い。つい最近聞いたばかりの声に、なんとなく呆気にとられた。
「……どうかしたか? それよりもホント悪かったなこの前は」
『いえいえ、そんな。俺も連絡するなんて言ったきりになっちゃっててごめんなさい』
謝ったのに謝罪で返されてしまった。竜崎との間では絶対に起こり得ない常識的な会話に泣けてくる。
とは言えその非常識な奴が俺の背後にはいる訳で。視線をチクチク背中に感じるからなるべく話は手早く済ませたい。
「大変そうだな。忙しいんだろ?」
『実習とか研修とか今週までは色々詰まってまして。でもそろそろちょっと落ち着くんですよ。もしよかったら来週辺りに空いてる時間ありません?』
後輩に面倒を見させてしまったのだからその詫びくらいは入れておきたい。暇ができたら連絡をくれと言ってあったのがようやく果たせそうだ。
「いいよ俺はいつでも。先に誘ってたのこっちだし。前に入った店でいいか?」
『あ、はい。場所はどこでも。……酒置いてあるトコでいいんすか?』
「心配しなくても俺は飲まねえよ」
態悪く言い返すと笑われた。こいつから馬鹿にされる日が来るとは。
そこからは日時をちゃちゃっと決めてじゃあなと簡潔に通話を終えた。背後からの威圧感は凄まじい。できれば外にでも出て話したかったがそれだと余計に反感を買っただろう。
前回のような邪魔をされなかったのがせめてもの救いではあるが、ひとまず胸を撫で下ろしながら振り返ったところで頬がひきつった。
どちゃっくそに機嫌悪い。そんな顔して人の電話聞いてんじゃねえよ心臓に悪い。
「だれ」
「あ?」
「今の」
苛立ちは口調にも表れていた。淡々とした声が身に堪える。
バカなのは初対面の頃から変わらない。しかしここまでガキっぽい男だったか。
「……根本だよ。この前の」
「そいつにはずいぶん優しいんだな」
「は……?」
「……なんでもない」
そこまで言いかけておいて。妙にモヤッとする。
「なんだよ……?」
「……また飲みに行くのか」
「この前迷惑かけてそれっきりだったからな。あの時の礼っつーか……もうお前のこと呼びつけたりしねえよ」
「そういこと言ってんじゃねえってのが分かんねえかな……」
「…………」
なんなんださっきから。言葉の端々に棘を感じる。
「……文句があるならはっきり言え」
「裕也に言ってもどうせ分かんねえ」
「ああ?」
うるさい女みたいな言い方についつい食って掛かろうとして、しかしそこでまたしても邪魔が入った。手に持ったままのスマホだ。ブルブル揺れながら音を立てている。
「…………」
「出れば。俺もちょっと出かけてくる」
「は?」
「すぐ戻る」
「なんっ、おい……」
呆れと諦めが半々ずつ。そんな顔で玄関の方を向いた竜崎に手を伸ばしたものの、触れる前に足を踏み出している。そして少しだけ振り返った。
「……ごめん。頭冷やす」
「…………」
それだけ言うと本当に行ってしまった。狭い空間に一人残され、部屋の中央でポツンと佇む。
「…………」
なんなんだ。
怒鳴りつけるのを避けるかのように、自分を落ち着けるかのように、あいつは俺との距離を置く。そういう事をするようになったのは、この前のあれから。昭仁さんに言わせれば、あの忌々しいゴム事件。あの夜に俺を組み敷いてからあいつは自制に関して過敏になった。
メンヘラ二重人格野郎が。いちいち不貞腐れて逃げてんじゃねえよ。
いっそのこと一回くらい本気で殴り合いの喧嘩でもしてみれば、あいつも少しは吹っ切れるだろうか。そんなに怯えなくたっていいのに。ちょっとやそっとじゃ俺は壊れない。
手の中を呆然と見下ろした。しつこく振動を続けている。さすがに鬱陶しくなってきたが、表示されている発信元を見て余計に体から力が抜けた
『ヤッホーみやせー! 彼女とイチャついてんのかー? 出るの遅ぇよコノヤローちくしょー!!』
「…………」
出なければ良かった。耳に当てたスマホは思わず離していた。
この無駄に明るくてなおかつ頭の悪そうな声。橘だ。背後も何やら騒がしい。貧乏な留年学生のくせして今度はどこで遊んでいるのだか。
『なあ、ちょっと出てこねえー? さっきも掛けたのにお前なかなか繋がんねえんだもん。メッセージだと既読さえつかねえし。つーかちゃんと見てる?』
見てねえよ。お前みたいのがいるから通知はオフだよ。そして一回目の電話はこいつか。
「行かねえよ。それ以前にウゼぇ。一回出なかった時点で諦めろ」
『ひっどー! 恋しちゃってる奴はコレだから嫌だねッ! そんなに彼女が大事かよ初恋アイラヴュ上等だコラァッ!?』
「……近くに瀬戸内いるんだろ。代われ。お前じゃ話になんねえ」
酔ってる。まだ喚いている。後ろで状況を察したのだろう瀬戸内が代わりにスマホを取るまでスピーカーは耳から離しておいた。
『おーいみやせー。わりぃわりぃ、オレー。今ヒマー?』
こいつも軽いな。
「暇じゃねえよ。お前、自分のダチちゃんと見とけ。いちいち俺を呼ぶな」
『やー、今カラオケいんだけどさあ、女の子達にお前の写真見せたら会いたいって言うからー』
「…………いつ撮った」
『バイト中。ってか着替え中。盗撮って案外できちゃうもんだな』
やめろ。
「切るぞ。おかしな写真は即刻消せ」
『つれねえなあ。それよりなに、ホントに彼女といるの? 代わってよ』
「なんでだよ。つーかいねえよ」
毎回毎回なんなんだこいつらは。仲良くなった覚えもないのにしょっちゅう構ってくる。いい迷惑だ。
『なあマジ来ねえ? たまには付き合えって』
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『うわー、グサッとくる。けどたぶん今日もそのコースだわー。橘潰れんの秒読みそうだし』
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ナンパをして引っ掛かったはいいが女たちは食べるだけ食べて飲むだけ飲んで遊ぶだけ遊んでタクシー代をせびり、その後に何かがある訳でもなく解散というのがこいつらのパターンらしい。
遊び呆けている割には文字通り健全だ。減っていくのは財布の中身だけ。増えていくのは心的ダメージ。全てこの二人の談だ。
『まあでもさ、華があってもなくても俺ら的には宮瀬で遊ぶのが最近のブームっていうか』
「人を遊び道具にしてんじゃねえ」
『だって宮瀬おもしろい。今度彼女と会わせてよ』
「だからいねえっての」
可哀想な男二人組のうち一人の話を受け流し聞き流し、なんとかスマホを切った時には体力も半減だ。
疲れ切った。たった数分で。ベッドの背に寄りかかった。
そしてそのままぼんやりしていたら少しして竜崎が帰ってきた。
「……おう」
「うん。ただいま」
俺の素っ気ない呼びかけに答えた竜崎は、いつもと同じような表情に戻っている。
「……どこ行ってた」
「散歩。俺いなくて寂しかった?」
「うるせえよ」
まるで何事もなかったかのような、呆気にとられるほどの変わり身の早さ。それがかえってウソくさい。隣に腰を下ろしてきた時、ふわっと、分からない程度の匂いも感じた。
煙草だ。実際に喫煙中のこいつを見たことは一度もないが。
吸い殻の入った空き缶をこの部屋で見かけることは時たまあるから、吸うのだろうとは思っていた。散歩と言いつつさっきも近くの自販機にでも行っていたのだろう。
「今晩泊まってくだろ?」
「…………」
肩にそっと手を回された。横目を向けると笑って返される。
「なんもしねえよ。今度こそ絶対にほんと。ただ一緒にいたいだけ」
たぶん、これは嘘じゃない。この男がこういう穏やかな笑い方をするときは、俺の意思をくんだときだ。
それは警戒を解いてもいいときでもある。後ろに預けていた体重を隣のこいつにポスっと移し、その体に寄りかかった。
「なあ……」
「うん?」
「…………キスしろ」
竜崎がピタッと止まった。きょとんとして見つめてくるから、その視線から懸命に逃れる。
反省とかじゃない。俺が反省しなきゃならない理由もない。詫びでもないし償いでもないし、ご機嫌取りでももちろんないが、されたくて、そう言った。
クスッと零されたのを聞いた。隣から頬に触れられても、恥ずかしくて視線は上げられない。しかしこいつを満足させるにはそれだけでも十分だったようだ。
「好きすぎてどうにかなりそう」
「……知らねえよ」
重ねられた唇。キスしながら次第に向き合い、引き寄せられ、抱きしめている。いくらか残った煙草の香り。それは全く馴染みがないが、温度と感触はいつものままだ。
微かな水音とともに甘く重なる。舐め合い、その大きな手のひらが耳元を包み、ぞくっと感じる。瞬間。
「ッ……」
「………」
鳴った。俺のスマホのバイブが。今日に限ってなぜこうも。
「…………」
「…………」
弾みで唇も腕も離してしまった。しかし竜崎の手だけは俺の腰に回ったまま。
イラッとしているのはその表情だけではなくて、手からもなんとなく伝わってきた。
「…………もう電源切っとけって言ってもいいか」
「…………」
今のこれは俺が悪いような気がする。
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前編・後編+後日談の全3話
SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。
※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。
※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。
受け付けの全裸お兄さんが店主に客の前で公開プレイされる大人の玩具専門店
ミクリ21 (新)
BL
大人の玩具専門店【ラブシモン】を営む執事服の店主レイザーと、受け付けの全裸お兄さんシモンが毎日公開プレイしている話。
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