No morals

わこ

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第二部

57.崩壊劇Ⅰ

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「……センパイ?」

 後ろから声をかけられた。街中だった。日はほとんど沈んでいた。
 落ち着いた声に振り返ってみれば、そこには背の高い男。人懐っこそうなその顔を、俺は見上げることになった。

「やっぱり」
「…………根本?」

 懐かしい奴に会った。



***



 店主曰く、ミオは寂れたバーだ。それについては誰も異論がない。
 しかしそうやって自分でしょっちゅう店の評価を下しているのに、潰れそうとかクソボロいとかいつも店主にヤル気がないとか、客から貶し文句が飛んでくるとそんなことはねえと急に言い張る。

 一口にバーと言ってもそこは多種多様の業界だ。格式の高い正統派の店もあるその一方で、気軽でカジュアルな雰囲気のノーチャージも至る所に。しかしこの店に関して言うなら、それらのどれにも当てはめにくい。
 高級感がないのは言うまでもなく。かと言って入りやすい店、と宣伝するにはいかがなものかと。

 気軽というよりはむしろ粗暴。カウンターで酒を出しているのも客席に座っているのも男ばかりのこの店は、たとえるならば西部劇に出てきそうな荒っぽい酒場。
 とにかく粗末なこの店では飛び交う会話にも品がない。


「来る日も来る日も朝から晩まで殴る蹴るの暴行受けてるわけじゃん。こうも毎日いい拳食らってるとちょっと危ない思考とかに目覚めちゃいそうなんだよ。どうも最近殴られんのが快感になってきててさ。どエムの境地とか達しそう」
「このどヘンタイがっ、悟りの境地みたいに言ってんじゃねえ!」
「お、殴る? グー出る? 来て来て」
「ッ……」

 品がないのは主にこの男。俺の隣の変質者。嬉々とした表情で人を挑発してくる変態の発言にわなわなと震えた。

「こう、拳握り締めた裕也見てるとさあ……あはっ」
「…………」

 寒気がした。
 カウンターの向こうにいる二人もさすがに呆れを通り越したようだ。昭仁さんに至っては煙草を口から落としそう。

「恭介お前……とうとう来るとこまで来たな。そんなんじゃ今にも裕也に捨てられるぞ。他に男作られてもしょうがねえ」

 そこはせめて女と言えよ。

「あんたは俺をなんだと思ってんだ。男なんかシュミじゃねえ」
「こいつが言ったんだぞ。裕也はもう女抱けねえって」
「あ゛っ!?」

 竜崎を目で示した昭仁さんから聞き捨てならない暴露を受けた。

「ノンケの奴ほど一度ハマると抜け出せねえって言うからな。責任重大とかなんとか、この前ここでずっと語ってた。なあ恭介?」
「テメエはなんでそんなんばっかしか言えねえんだ!? 勝手なこと抜かすなクソがッ!」

 名誉棄損も甚だしい。人のいないところでしょうもないこと語りやがって。
 この変態は相変わらずへらへら笑いながらカウンターで呑気に頬杖をついた。

「事実だろ。裕也はもう女じゃ満足できない体になってるよ」
「っテメエ……!」
「抱いてりゃ分かる」

 悪意に満ち溢れたその一言。眩暈がした。

「つーか俺がさせねえし。たとえどんな敵が現れようと死んでも阻止する。もう気が気じゃねえよ、お前は変なところでやたら鈍いから。下心満載の変質者にお菓子貰っても付いてっちゃダ、ぐわっ」

 醜いアヒルが短く鳴いた。白鳥には到底なれそうにない。
 握りしめた拳は竜崎の横っ面に思いっきり食い込んだものの、最低的なこのクソバカ野郎は満足げにグッと親指を立てた。

「……ナイスパンチ」

 怖い。

「ヘンタイ! 変質者はお前だ!!」
「ちょ……マジでハマる。今のもう一回」
「ぃっ……!」

 声も出ない。握ったままのこの拳をもう一度繰り出す勇気はなかった。
 開放させようのない、煮えたぎった怒りに悶える。なんて恐ろしい男だろう。変態を地で行く竜崎から心なしか体を引かせつつ、カウンターに肘をついて最大限顔を背けた。そんな対処しかできない俺を見て昭仁さんは感心したように。

「おー、スゲエ。裕也を言い負かした。ヘンタイも度を超えると敵無しだな」
「そんなヘンタイヘンタイ言うなよ失礼な。裕也のコブシは愛の証だぞ。受け止めてやんのが男ってもんだろ」
「……なんか裕也沈没したぞ」

 これが沈まずにいられるか。
 こいつが達しそうだと言う境地へ俺は絶対に辿り着けない。行きたくない。見たくもない。

「こんな奴が年上なんて……」
「え、そこ?」
「年だろうとなんだろうとテメエより遅れとってるもんが一個でもあるのは許せねえんだよ。人より先に生まれやがってこの野郎……っ」

 こいつの年齢を正確に知った時にはなんとなく気分が塞いだが、その事実を受け止めたままあれやこれやの奇行を目にするその度に鬱憤が溜まった。
 年齢だけならこいつは先輩。こんな奴がだ。イラッとくる。

「すげえ言い掛かりな。裕也は時々変なところで子供っぽい」
「んだとコラァッ……!!」
「こんな後輩いたらヤだろうなぁ……」

 こっちだってこんな先輩ごめんだ。
 ところが自分でしてみた発言でこいつは何やら思いついたらしい。前触れなくニッと口角を吊り上げ、悪い顔を俺に向けてきた。

「なあ、一回呼んでみろよ。俺のことセンパイって」
「あっ?」
「オプション付きの風俗みたいで興奮しそう」
「死ねッ」

 早急に頭を冷やしてやらねば。思うより早く酒の入ったグラスに右手が伸びていた。だがそれを隣目がけてぶっかけてやるより、竜崎が席を立った方が先。間近から俺を見下ろし、右手をガッと掴んできた。

「帰ろう」
「はぁっ?」
「想像したらやりたくなってきた。先輩後輩ゴッコ」
「バカかよっ!」
「お前に泣きながらセンパイとか言われたら絶対たまらな…」
「寄るなッ……!!」

 一瞬でトリハダだ。今度は左手が水のグラスを掴んでいる。ほぼ無意識のまま咄嗟に腕を上げ、浮かれた変態の顔面めがけて今度こそバシャッと派手に浴びせた。
 首から上で見事に受け止めたこいつ。しかし水浸しになっても気にすることなく、前髪の毛先からポタリと水の粒を落とした。

「あーもう、つめった。水も滴る」
「イイ男?」
「昭仁さん!!」

 しょうもない合いの手を挟んできた店主を叫んで制した。こんなときばかり息を合わせなくていい。
 すかさず竜崎におしぼりを差し出していた加賀は台拭きを手にしてカウンターから出てくる。こんな奴と口論になってしまったせいで余計な仕事を増やしてしまった。申し訳ないとは思いつつも今は正直それどころではない。加賀もこの場合の被害者は俺だと判断したようで、びしょ濡れの竜崎ではなくこちらにおずおず声をかけてきた。

「あの……裕也さん、大丈夫ですか? つーかなんか涙目……」

 こんな野郎と喋っていたらそりゃもう涙腺くらい壊れる。相変わらず水を滴らせているクソバカをギッと睨んで指さした。

「こいつおかしいだろッ、なんなんだよ!? いいのかお前こんな奴に懐いたまんまでッ? 人生損するぞ!!」
「え、いや……」
「サツ呼べ! 牢獄ブチ込んどけ!!」

 ここがもしクソしょうもない酒場ではなくお上品に酒を嗜む場だったとしたらこんな状況には絶対にならない。卑猥な表現を聞かされることもなければそれに類する最低な侮辱を受けることだってあり得ない。
 こいつだからだ。この店だからだ。非難するどころかもっとやれと囃し立てるような客しか来ないからだ。店主なんかさっきからタバコしか吸っていない。
 ミオという店はそういう場所だ。ここの連中はみんなイカレている。その中でも取り立てて狂っている男は他人事のように笑って俺を見ている。

「涙目のお前も最高にそそるよ」
「ここに常識人はいねえのか……」

 怒鳴り散らす元気もこれ以上はない。ガックリと肩を落として一人呟いた。
 アウトローまっしぐらな闇医者は、スパスパやりながら俺にとどめを。

「お前もこの中にいるんだぞ。恭介と渡り合ってる時点でお前がある意味一番ヤバい」
「…………」

 死にたい。何も言い返せないのが余計に悔しい。
 今にも心が折れそうというかすでに半分はぶった切られた心理状態なっていると、救いの神かはたまた追い打ちか、ポケットの中でスマホが揺れた。視界の隅にはおしぼり片手に座り直した竜崎を捉えつつ、ひとまずは表示を確認。数字の羅列だ。知らない番号。これがたとえ詐欺師の魔の手であってもこいつらよりは幾分か可愛い。
 番号を変えた知り合いか。瀬戸内でもいい。酔っ払った橘でもいい。誰でもいいから普通の人間の声を聞きたい。こんな環境で孤独を感じるよりも辛いことなんてないだろうと即断して通話に応じた。

『あ、先輩? 俺です』
「ぁあッ!?」

 クソが、さっそく詐欺かよチクショウ。
 一瞬にして頬が引きつり、その勢いのまま喧嘩腰に発すると、電話越しのどこぞの誰かはクスクスと面白そうに笑った。

『ひどいな、やっぱ登録してくれてない。俺ですよ。根本です』

 落ち着いた声の調子とその名前。すぐに我に返った。
 ここではうるさいから今度は俺が腰を上げ、ドアに向かいながら返した。

「お前かよ。詐欺みてえな名乗り方すんな」
『呼びかけが先輩ってかなりピンポイントじゃないですか? そんなチャレンジャーな詐欺師いないでしょ』

 もっともだ。
 電話の相手は救いの神だった。根本。高校時代の二つ下の後輩。
 俺が卒業してからは一度も連絡を取っていなかったが、つい先日ばったり再会を果たした。その時は挨拶を交わした程度で今の連絡先だけ聞かれ、かかってきたのはこれが初めて。

「どうした。なんか用か?」
『別に用って訳じゃないんですけど、どうしてるかなって。このままだと俺の存在忘れ去られそうなんで。つーか現に忘れてましたよね? 出た瞬間にキレられたし。たった三日ですよ?』
「うるせえな、忘れてねえよ。お前が先輩とか言うからだろ」
『え、ダメなんですか?』

 いいや何も駄目じゃない。あの頃もこいつは俺をこう呼んでいた。

「……気にすんな。なんでもねえ」
『先輩こそどうしました? 大丈夫です?』

 気さくな笑い方が和む。こんな店にはいないタイプの常識人だ。加賀とはまた違う種類の癒しだ。

「……今になって思えばお前はすげえちゃんとした奴だったんだな」
『はい?』
「なんでもねえよ」

 また可笑し気にクスクス笑われた。笑われているのにイヤミは感じない。中にいるクソバカにはとても真似できない芸当だろう。
 高校時代にいい思い出なんて全くのゼロと言っても過言ではないが、評判も評価も底辺だった俺の後ろになぜか根本はくっついてきた。高校最後のあの一年間、俺が唯一まともに喋った相手は根本一人だけだっただろう。三年間を振り返っても同じく。

 店のドアを背もたれにして暗がりを目に映しながら話した。こいつとまた会うとは思っていなかった。この国は所詮小さな島国だ。

『先輩、近いうちメシでも行きません? 時間あるときでいいんで』

 たいして中身がある訳ではないがなんとなく落ち着く会話をしゃがみこんだまま続けていると、しばらくしてそう誘われた。断る理由は特にない。何せ気ままなフリーターだ。

「そうだな。夜なら大体空いてる」
『え?』
「あ?」

 聞かれたから答えてみたところ驚いたような声が返ってきた。キョトンとしたような電話越しの反応に思わずこちらも首を傾げた。

『いや……すみません。正直断られると思ってたんで』
「なんで。いくら貧乏だって一日中バイトしてるわけじゃねえよ」
『あーいえ、そういうことでは……。でもとにかく良かった。行きましょう』
「おう」

 メシに行こうと誘われて、誘いに応じてメシに行く。世の中の連中はみんな当たり前にやっているだろうが俺にはそんな経験がほぼない。無法地帯なこの店に通うようになってからもそうだ。
 一般的、という言葉が似合いそうなやり取りを俺がしている。なんだか微妙にこそばゆい。

『じゃあ、急ですけど明日は? ダメですか?』
「明日? ほんとに急だな」
『予定あります?』
「いや、ない。いいよ。明日な」
『居酒屋とかでも……?』
「ああ」

 むしろその程度の店じゃないと困る。

「俺と飲んでも贅沢はできねえぞ。タカられても無い金は出せねえ」
『ひどいなもう、タカりませんよこっちから誘っといて。なんなら奢ります?』
「それは俺を馬鹿にしてんだろ」
『そいとこやっぱ変わんないなぁ』

 そこでまた穏やかな笑い方を聞いた。この雰囲気にも自然とのまれる。
 一年弱の付き合いに過ぎなかった年下の男ではあるが、久々の再会を果たして大人っぽくなったのは明らか。俺にはそう感じ取れた。

 男二人で喋っていても話なんて続かなそうなものだが意外にも続く。特別どうというでもない内容をそこからしばらくの間続けた。
 竜崎に出会って、この店に通うようになり、どうにも色々と状況は変わった。ほんの些細な程度ではあっても俺にとっては大きな違いで、今のようなどうとも言えない安定した心持があれば、あの頃の高校生活ももう少し違っていたのだろうかと。頭の片隅でふと思う。穏やかな心境というものを、今ははっきり感じられる。
 などとガラにもなく耽っていたところ。

「ぉっ、と……」
『どうかしました?』
「……別に」

 後ろにコテッと倒れそうになった。寄りかかっていた内開きの重いドアが中から開かれたために。屈んでいた体勢を戻し、明かりの漏れてくる後方に顔を向けた。
 通行の妨げになっているのは間違いなく俺の方。帰ろうとしている客なら即座に道を開けるところだが、しかしそこに立って俺を眺め下ろしているのはこの野郎。竜崎。
 なんのつもりかこいつまで外に出てきた。そしてドアを閉めた。俺の左側に同じように屈み込み、耳元でこそッと喋った。

「長くねえ?」
「…………」

 うるせえな。人の電話中くらい遠慮しろよ。
 横目で睨みつけ、通話を続行。すると横から手を伸ばしてくる。肘で押しやって振り払いながらこちらも意地になって根本と喋った。
 どうせ明日の夜会うのだから無理に今話す必要もないが、この男の妨害に屈したくない。右手でスマホを耳に当て、左手で竜崎を追い払う。しかしその手をパシッと掴まれ、かと思うと途端に引っ張られた。グイッと。

「ぅおっ……テメエッ……!」
『え?』

 とうとう声に出てしまった。片膝を地面に付きながら隣を睨むと悪い笑顔。この野郎。だがそれに食ってかかるより根本に言い訳する方が大事だ。

『あの……』
「いや、違う。お前じゃない。気にすんな」
『……誰かいるんですか?』
「近所のバカ犬がまとわりついてきててな。保健所送りつけてやりてえよ、この野良犬」

 答えつつも視線は竜崎。こいつの首根っこを引っ掴んで保健所に引渡したら殺処分にでもしてくれるだろうか。貰い手は見つからないだろうし。
 気味悪くニコニコしているこの男を引きはがそうと突っぱねた。顎から頬にかけて手を押し当てて追いやろうとするのに負けずにガバッと抱きついてくる。それを押しのけようとしている訳だからさすがに電話越しでも異変は伝わる。

『なんかデカそうですね……犬? この辺にも今どきノラがいるんだ……大丈夫ですか?』

 大丈夫じゃない。
 徐々に体重をかけられてたまらず地面に手をついた。なぜそこまでして電話を止めさせたがるのか。意味の分らない竜崎の嫌がらせはどんどんエスカレートしていき、にっこりと深く笑ったかと思うと次の瞬間、服の下からスルッと忍び込んできたその手。

「おいッ!」
『……本当に大丈夫ですか? 保健所……は、今の時間やってないか。危なそうなら警察でも呼びます?』

 こんな馬鹿な争いのせいで後輩に身を案じられるだけでなく警察まで呼ばれたら恥だ。ここまでくると意地だなんだと騒いでいる場合ではない。

「いい、平気だっ。そろそろ切るぞ……ッ」
『あ、はい。すみません、なんか大変そうな時に。……ほんとに平気ですか?』
「問題ない!」

 問題しかないが大きく叫んだ。俺は虚しさでいっぱいだ。


 それからすぐに電話を切った。この野郎に掴みかかるのも当然。肩の上で服を握りしめ、顔を突き合わせてギッと睨みつけた。

「テメエふざけんなっ、何がしてえんだよ!?」

 怒鳴りつけても何も答えない。ただただニコニコニコニコと、本当に馬鹿にでもなっちまったのかと疑いたくなるようなその表情。
 怒りと不審とで顔をしかめたその瞬間、突如がばっと覆いかぶさるような体勢で抱きついてきた。

「っと……」

 支えきれず、結果としてドサッと押し倒されている。ドアの前は固いコンクリート。しかし背中に回された竜崎の両腕がクッションとなり、痛みはない。一瞬の衝撃だけだ。

「ッめ、おいコラっ……どけッ」

 とは言えこんな所で押し倒されるのがそもそもおかしい。じたばたともがき、喚いて、竜崎の背をバンバン殴りつけた。

「どけっつってんだろクソがっ」

 そうやって自分の下で暴れられるのが鬱陶しかったのだろう。この男はいとも簡単に俺の両手を捕らえ、そしてコンクリートに縫い止めた。俺の怒りは頂点を超えた。

「っ……テメエ、クソバカっ! 放せコラぶち殺すッ……!!」

 どれだけ罵っても竜崎は笑顔。力で勝てない俺がこの体勢で喚いていても虚しいだけだ。かといって大人しくしたらそれはそれでまずい事になるため、自分の身を守るためにも下から散々に怒鳴り散らした。

「黙ってねえで何とか言いやがれッ、スカしてんじゃねえぞクソ野郎!」

 普段は必要以上に喋るくせに黙ったら黙ったでなんだか不気味だ。ひたすら楽しそうにニコニコ笑って俺を眺め下ろしているだけ。おかげでこっちは血管が切れそう。

「……っなんとか言えっつってんだよ!」
「ワン」
「…………あ゛ッ!?」

 聞き間違いか。いや聞き間違いじゃない。こいつはたった二文字を口にした。馬鹿にしているとしか思えない。

「わん」
「っテメエ……」

 下からどす黒い気分で睨んだ。ついに人語まで失ったこいつは心から楽しそうな顔をしている。

「ワンッ、ワン」
「まだ言うかこのヘンタイッ、普通に喋れよなんのマネだ!?」
「わん?」
「…………」

 なんて可愛くないのだろう。片頬のぴくぴくが止まらない。
 俺が言葉を失うのを見て竜崎はフッと邪悪に笑った。犯罪者みたいだ。悪巧みをしているときの。背筋にはぞくっとしたものが走った。

「ワン!」
「……ッどけっつってんだろ」

 こいつの犬語は理解できないが最後のワンは経験則で察した。
 なんかマズイ。血の気も失せる。ところが竜崎は俺にぐいっと顔を近づけ、悪い笑顔で一言。

「野良犬が人を襲って何が悪い」
「…………」

 筋が通っているとかいないとか。そんなものはこいつに通用しない。
 元々が野獣みたいな男を犬にたとえたことを激しく後悔。とはいえ後に悔やむから後悔と言う。
 それはそれはもうにこやかに、竜崎は綺麗な笑みを作った。

「獣姦ゴッコしよっ」
「ギッ……」

 悲鳴になるはずだった声がかき消える。発する前に塞がれていた。
 口にバグッと食いつかれ、舌を捕らえられた時にはこの男が本物の獣に思えた。

「んんんっ……!」

 首を左右に振れば追い回される。そして執拗に舐めまわされた。
 あれだ。あれに似ている。近所の野良犬。まだ俺が小学校に入りたてだったチビの頃、自治会で問題になっていた大きくて黒い野良犬がいた。不運にもそれに追いかけられたことがあったが、このキスでその記憶がよみがえった。
 まさに野犬。デカいし髪の色も黒。本能のままに生きる姿が野生の犬そっくりだ。

「っ……」

 獣姦。などとこいつが言うから、こっちまで変な気分になってくる。熱っぽい舌に捕らえられ追いかけ回され、心臓の鳴り方も様子がおかしい。
 恐怖心というか危機感というか。違うか。どちらとも正解ではない。

 夜の屋外。下はコンクリート。粗野を通り越して野性じみたこのキス。キスなんて毎日のようにしているはずだが今はどことなく新鮮な気分だ。
 恐怖でもないし危機感でもないし、どちらかというと、期待感。

「ん……」

 絶望的だ。血迷った。この男の下で自ら、今まさにメス犬になろうとしている。
 押し負けた後はさっそく受け入れ、上から与えられるキスに応える。唇が擦れる感覚も、ねっとりと絡み合う舌も、どれをとっても真新しいものなどないはずなのに妙な興奮が引き起こされた。
 そっと手のひらで頬を覆われ、指先が肌をくすぐる。気持ちいい。自由になったこの手で竜崎の背を抱き、唇を深く重ねた。

 なんともいえない野生味がある。野外だからだ。そりゃそうだ。ここは吹きさらしの屋外。
 時折肌で感じる夜風を遮断することのない状況が、煽ってくる。そそられた。異常な欲情の兆しが分かる。
 ここは竜崎の部屋ではない。俺の部屋の中でもない。何度でも頭は理解する。硬い、コンクリートの上だ。

「おい、テメエら」

 ガチャリという音と共に、その声は頭上から降ってきた。
 反射的に唇は離れた。中から照らすように漏れてくる光。暗がりの中にあった視界が室内の明るさを察知する。

 ここがどこか。今度こそはっきり思い出す。半ば青ざめてそろっと見上げた。そこには呆れ顔の昭仁さんが。
 半開きのドアに手を掛けながら俺達を見下ろしている。獣姦ゴッコの序盤だったため俺はいまだに竜崎の下。行き場を失った両腕は、ぎこちなく竜崎の背から離した。

「外で騒ぐのは構わねえが急に静かになるなよ、生々しいだろ。青姦してえなら場所移れ。ここが発展場だなんつー噂でも出たらどうしてくれんだ」
「…………」

 反論できない。だって現行犯。獣姦と称してここで及ぼうとしていた。
 昭仁さんからそろりと視線を外し、それとなく竜崎に目を向けた。へラッと笑った竜崎の顔面をやむを得ず殴り飛ばしたのは、普通に八つ当たりだった。
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