No morals

わこ

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第二部

56.新妻道

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 つい最近炊飯器を買った。自炊なんてしようとも思わない俺がなぜこんな買い物をしたか。
 答え。裕也が使うから。


「ったく……。どんな生活してんだお前は」

 このぼろアパートに越して来てからしばらく経つ。質素でなおかつ小さなキッチンはこれまで飾りでしかなかった。
 それが今朝になって初めて、炊事目的でそこが使われた。台の前に立つのは俺ではなくて、悪態をつきながら包丁を扱う裕也だ。

「コンビニあるし」
「ロクな死に方しねえぞ。んなことしてっから金だって貯まんねえんだよ」

 俺に背を向けたまま投げかけてくる裕也は、慣れた手つきでまな板の上の食材をトントン刻んでいる。小気味よい音を立ててカットされていく野菜。この食材たちは夕べ閉店間近のスーパーに駆け込んで脅されつつ買わされたものだ。
 裕也の手捌きは軽快であり、それでいて寸分の狂いもない。もし自分の店でも持ったとしたら間違いなく若い女の行列ができるはずだ。危ない。

 それにしてもこの部屋でこんな光景を目にすることになろうとは。
 家庭的な匂いが漂っている。見慣れた部屋であるはずなのに、台所周辺だけはおかしい。真新しい鍋もまな板も包丁も、全ては最近揃えたばかり。というより、これも買わされたと言う方が正しいのだが。
 冷蔵庫の中には缶ビールとつまみだけ。買い物はほとんどコンビニ頼り。そんな俺の堕落的生活を近くで見ていた裕也はついにキレた。

 リストに書いた物を三日以内に揃えろ。さもなくば殺す。
 そうとまで言われてしまえば慣れない買い物に奔走するしかない。亭主関白どころかこれだと恐妻家に成り果てそうだ。

「メシくらい作って少しは節約しろ。いい加減昭仁さんとこのツケも払ってやれよ」
「あー、はいはい」
「なんだその気のねえ返事は」

 イラッとしたようなその声。後ろ姿なのに圧力を感じる。
 近付いて目にした包丁の扱い方も繊細とまでは言えないし、むしろ男らしい部類だろうけど、それでも俺が目にしているのは夢にまで見たあの風景。男の夢だ。理想の最終形態。その姿を見ていると、どうしても堪え切れなくなってくる。
 ぶん殴られるのを覚悟で裕也の背後に身を寄せた。

「……おい」

 案の定低い声。後ろから腰に腕を回してピッタリと抱きついた俺を、不満そうに顔だけで振り返ってきた。

「何してやがる」
「新婚ゴッコ」

 思わぬ特技が発覚したのだからこれをやらない手はないだろう。どうせならエプロンも買っておくべきだった。そう悔やんだが、ふと気づけば包丁の音は止まっている。
 本来ならばまな板の上で使用されるべき凶器。殺気立った裕也の手により、俺の顔すれすれの位置に鋭い刃がギラッと向けられた。

「死ぬか?」
「スミマセン」

 立場を思い知らされただけだった。グーで殴られるならまだしも刃物は痛いから大人しく身を引く。確定だ。これは恐妻家ゴッコだ。
 俺が引き下がると裕也は手元の作業を再開させた。料理経験皆無に等しい俺から見ても、裕也の手際の良さには感心させられる。この使い勝手の悪そうなキッチンでよくもここまでテキパキ無駄なく効率的に動けるものだ。

 傍観している隣の俺にはいちいち因縁をつけるのも忘れない。割った卵の殻をいつもの癖なのか流しに放ろうとした裕也は、あるべきはずの場所に設置されていない三角コーナーについて文句を垂れた。そのあとは超特価の青ネギを均等に細かく切り刻み、かと思えばさっとそれを避けて隣の鍋をやや目視。これまた値引き特価で買わされた、大根その他お馴染みの食材が踊っている鍋の中にて味噌をササッと溶き始めると、そこにさっきの青ネギを投入。
 手際がいい。これがひと煮立ちってやつか。しみじみと感動する。

「こういうのどこで覚えてくるんだ?」

 思わず溢した純粋な問い。裕也はちらっと俺に顔を向けた。

「昔料理屋でバイトしてたことならあるけど……適当に覚えんだろ、男一人で暮らしてりゃ嫌でも」

 覚えようともしなかった実例が俺だ。それを目で語ってみるとどうやら通じた。諦めたように作業を再開させている。
 裕也の部屋は小ざっぱりしているが台所周りは整っている。キッチンだけじゃない。部屋中全てだ。性格はこうも荒っぽいくせに生活様式は割ときっちり。

 喧嘩はするし、口は悪いし、一見すればかなりガラが悪いけど。真面目なんだろうな、とにかく根っこが。寝坊はしないしゴミの日も守るし収入に見合った金銭感覚。
 不機嫌そうなキツめの表情さえ崩せていれば、裕也の人生は今とはだいぶ違うものになっていたかもしれない。目つきが悪くて本当に良かった。

「お前が料理屋ってあんまイメージつかねえな」
「時給が良かった。最後にバイトしてたとこは特にキッチンで雑用こなすだけだったからな。ホールで走り回らされるよりは延々仕込みやってる方がいい」

 接客だろうとなんだろうとやろうと思えばできそうなものだが、裕也が見つけてくるバイトはいつでも力仕事ばかり。それを知っている俺としては皿洗いでさえ想像できない。飲食店で玉ねぎを剥く裕也の姿をどうにか思い浮かべようと粘った。
 キッチンが仕事場ということは。もちろんエプロンは必須だろう。たとえ職場の支給品でもエプロン姿の裕也に出会える。

「エプロン何色?」
「は?」
「いや、違う。間違えた」
「……どうした、お前」

 妄想が口から飛び出た。怪訝そうに首を傾げられ、下心を笑って誤魔化す。
 凶器を手にした裕也を怒らせたら俺に明日はやって来ない。

「そこの料理屋バイト続けときゃよかったのに。笑顔も力も要らねえだろ」
「仕事自体は悪くなかったけど店長がクソだったんだよ。ついブン殴っちまってクビになった」

 よりにもよってなぜ店長を。

「だいたい続けるも何も今もうあの店ねえよ。他の店んなってたからたぶん潰れた。すげえいい気味」
「…………」

 何があったかは知らないが。モメたんだろうな。その哀れな店長と。
 この様子だと今後はもう裕也がエプロン姿になって雇われ労働をするなんてことはなさそう。言い方からして苦々しい過去のようだ。

「オラどけ。テメエは俺の邪魔がしてえのか」

 無駄話の最中だろうと裕也の作業ペースは落ちない。鍋にかけていた火を止め、溶いた卵はいつの間にか焼き上がり、二つしかない、しかも一つは火力がクソ弱いというコンロを最大限有効活用して作られた朝ごはん。俺を押しのけグリルを開けば、程好く色のついた特売価格の焼き鮭が現れた。
 純和風。なおかつ低予算。主婦の鑑だ。新妻にも見える。

「…………予想外」

 ここまでやるとは。一つも役に立たなかった俺の目の前に、見事なまでに仕上げられた日本の朝食が広がっていた。意外な一面にも程がある。

「しっかり食えよ。残したらテメエを野良犬に食わせる」

 最後の一言さえなければ完璧なのに。

「すげえな……さすがにビビってる。何これ、もしかして本気で新婚?」
「ふざけてねえでとっとと食え」
「食う食う食います。ありがとう。やっべぇ、ガチで新婚っぽい」
「…………」

 裕也は冷たく眉間を寄せている。俺は朝からテンションが上がった。
 低くて狭いテーブルに並べられた、ご飯味噌汁主野副菜。伝統的なジャパニーズブレックファースト。完食する自信しかないが、キッチンに目を向けてみれば鍋からはまだ湯気が出ている。

「でもさすがにちょっと多くねえ?」

 ここに出された分は食える。鍋の中身までカラにしろと言われてしまったら胃と要相談だ。しかし裕也もそこまで鬼じゃなかった。

「バカかお前。どんだけ腹に食い物詰め込んで仕事行く気だ。あっちのは若干日が持つ。煮物だから」

 分かりやすい裕也の呆れ顔。ちょっとは考えてものを言えと顔面にはっきり書いてある。

「冷蔵庫入れんのは冷めてからにしろよ。皿に移さねえで鍋ごと入れたらぶっ殺すからな。そしたら明日までには食っちまえ」
「ああ……うん。ありがと」

 子持ちの主婦みたいだ。俺はアホな子供みたいだ。
 俺の行動を先読みしたうえでの的確な指示を出すと、裕也はさっさと玄関へ。

「片付けはちゃんとやっとけ」

 去り際までお母さんか。そんな駄目な男に見えるのか。見えるか。
 早々に靴を履き出しているから、俺もいったん箸を置いて裕也のそばに。

「食ってかねえの?」
「バイト行くんだよ。テメエのせいで寝る時間が減った」
「なんかすっげえ愛を感じ…」
「黙れ」

 睨まれた。でも慣れっ子だし、裕也が一歩踏み出した瞬間に腕を伸ばした。

「ぅおっ、と……っおい!」

 後ろからひしっと抱きしめた。可愛い。無自覚なところがこれまた可愛い。

「なんなんだよいつもいつも抱きつくなッ」
「ありがとう。ほんとに嬉しい」

 ピタッと一瞬だけ止まった裕也の動作。すぐにフイッと顔を背けた。

「……そりゃ良かったな。バイト遅れる。放せ」
「素直じゃねえんだから全くもう」
「うるせえ」
「これからは俺のために毎朝味噌汁つくっ、ぅ゛ッ……」

 途切れた。容赦の欠片もない肘打ちが、みぞおちに食い込んでいる。

「バカ言ってんじゃねえクソがっ、二度と作るか死ね!」

 顔を真っ赤にさせた裕也は叫び上げてバダンッと出ていった。とりあえずみぞおちは痛い。
 一人寂しくテーブルの前に戻った。腰を下ろして改めて眺める。見れば見るほど見事な出来栄え。
 見た目も匂いも最上の、湯気の立つ料理に箸を伸ばした。

「…………うっま」

 最高だ。
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