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第一部
32.7-Ⅱ
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労働後により疲れていた。それはだいぶ大きいと思う。直前の出来事には精神をこの上なく疲弊させられた。
そして何より俺は知らなかった。試したことがなかったから。酒を飲んでも正常でいられる、自分の限界というものを。
「ほら昭仁さん見てみろよ! だから途中でもう出すなっつったのに!!」
「ウチの儲けを奪う気か。いいじゃねえかよ本人が飲みてえっつってたんだから。つーかそれ、水?」
「すみません。裕也さんがどうしてもって……」
「え? あ、おい裕也ッ、もうやめとけ!」
珍しく焦ったような竜崎の声が聞こえる。持っていたはずのグラスは奪われ、それを俺から遠ざけるや否や竜崎がカウンターに向かって叫んだ。
「樹! 店中の酒しまえ! 隠せッ!!」
「ここ酒場だぞ。なんかお前すげえ必死な」
「アンタがおもしろがって飲ませるからだろ!」
竜崎は何やら忙しそう。俺は俺で取り上げられた酒を奪い返そうと手を伸ばした。しかし指先にグラスが触れる前に竜崎の手が阻んでくる。
邪魔すんなよ。口を尖らせた。ついでに竜崎の胸ぐらにガッと勢いよく掴みかかった。
「竜崎ぃッ!」
「……なんだ」
「さけのむっ!!」
「…………」
目を逸らされた。竜崎はため息。
昭仁さんは俺のグラスを隣で呆然としている加賀に預け、他人事のようにニヤついた笑みを浮かべながら竜崎に言った。
「今ちょっと可愛いとか思ったろ?」
「マジ俺死にそうだよ……」
この男らしからぬ疲弊した声。それが妙に面白くて、胸ぐらに掴みかかったままくすくすと笑いだしていた。
だって、竜崎が。あの竜崎が。疲れている。
「あははははっ……!」
「…………」
「……裕也さん」
竜崎は言葉もなく、加賀もただ呆然と俺を見つめて呟いた。
なんて愉快な夜だろう。こんなに楽しいのはいつ振りか。
「とんでもねえな。グラス三杯以上は危険か。恭介お前、来る前こいつになんかしたんだろ。珍しくヤケ酒みたいに飲んでた」
「喧嘩でもしたんですか?」
「むしろ逆だと思うぞ樹。あんま突っ込んで聞いてやるな。後になって裕也がショック死するから」
「ショック死……?」
何が起こっているか良く分からないが愉快。ふわふわとした心地は本当に浮いているかのよう。
体は完全に竜崎に預けた。もたれかかっただけの体勢でもしっかり支えられているから安定感がある。
「おい、裕也寝るなって。あぁー……もういいやこいつ連れて帰る」
「お前んち?」
「のが近ぇし。ほら裕也、立って。歩けるか?」
俺に肩を貸す竜崎は出口の方へ。一緒に付いてきた加賀がドアを開けた。
冷たい空気が頬を掠める。火照った顔には心地良い。竜崎にほとんど抱えられながら三人揃って外に出た。
「大丈夫ですか? 裕也さんかなり酒回ってますけど……つーかすみません、止めらんなくて」
「あの勢いで喚かれたら出さねえ訳いかねえよ。平気だから気にすんな」
「はぁ……。どうも……」
二人が何か話している間にも俺は竜崎にもたれかかっている。今のマイブームは竜崎の腕をバシバシとぶっ叩いて遊ぶこと。その横では加賀が遠慮がちに口を開いた。
「あの……恭介さん………」
俺が暴れると竜崎がそれを押さえ留めた。俺から視線を外さないまま、言葉だけは加賀に向けた。
「片付いた。全部な」
「…………」
竜崎は静かにそれだけ。加賀の顔はどこか不安そう。俺はというと竜崎に抱えられたまま、夜道へと連れ出された。
心許ない足取りを支えられている身分ではあるが、そのようなことはどうでも良くてひたすら喚き続けていた。竜崎は一人で頑張っている。俺を黙らせ、俺を支え、俺の腕を引いて歩かせて、どうにか俺を落ち着かせようとげんなりした顔で苦闘している。
店からはまだ数十メートル。曲がり角へ来るだけのことでも相当な時間がかかった。
「はなせバカヤロー! 誰がてめえの世話になんかなるか!!」
「分かったから大人しくしろって。どんだけ弱いんだよこの酔っ払い……」
「よってねえ!」
そういうのを酔ってるって言うんだ。項垂れた竜崎にそんな事を言われた気がするけどやはりどうでもいい。
そうこうしながらようやくたどり着いた見覚えのあるボロアパート。
竜崎に抱き抱えられて一つの部屋の前に行き、カギを開けるその動作を意識の外から眺めていた。ガチャリと重い音を立てたドア。開かれた扉の中へと連れられ、完全に体を預けながら竜崎の手に従った。
一通り騒いだから今度は猛烈に眠くなってくる。急激な睡魔はすでに頂点を突破。その場にストンとしゃがみ込み、靴を脱ぐことさえも億劫で足だけ三和土に投げ出した。
上半身を上り口の冷たい床に寝そべらせた。秒で眠れる。もう寝よう。眠い。けれどこの体を上から抱き起しにかかるのはもちろん竜崎で、俺の体重を自分にかけさせると抱きかかえる格好で靴を脱がせてくる。
「寝るならベッドで寝ろ。あとちょっと頑張れ」
「んんー……」
ゆっくり話しかけられても頭がそれを理解しない。立たされたのは辛うじて分かった。部屋の中に連れて行かれる。
目の前にはベッドがあった。それを見た途端に気が抜けて、がくりと足から崩れ落ちた。
「おっ、と……裕也、ベッド上がって」
あと一歩だ。その一歩が億劫。ベッド前でしゃがみこむと引っ張るように腕を持ち上げられた。
片手を頭上に上げさせられた格好。自分の腕をフワフワ振りながら竜崎の顔を見上げる。
「さけだせよさけぇ、てめえころすぞ」
「お前なぁ……」
「いいから酒持ってこいばかやろうっ」
竜崎はまたしてもガックリ項垂れた。楽しい。ケタケタ笑い出す。
「……後で飲ませてやるから今日はもうやめとけ。ほら、掴まって」
「ばーかばーかばーかばーか」
「…………」
笑いは全然止まらないけど悪態をつくことは忘れない。
両手は促されるまま竜崎の首に回した。直後にはすんなり抱き上げられてベッドの縁にお座りさせられた。介護業界にも転職できんじゃねえのか。
「……いつもこんくらい素直ならな」
「超疲れてる! だっさ!!」
竜崎を指さして笑い転げた。暴れる俺を押さえつける竜崎はすでにゲンナリを通り越している。
ベッドに腰掛けたままバフッと後ろに倒れ込んだ。天井を見上げる。次に竜崎の顔を見上げた。呆れたように俺を見下ろしている。その顔を見ているうちにふと思いつき、むくっと再び上体を起こした。
引っ張った。グイッと、竜崎の腕を。俺の好きなようにさせることにしたらしいこいつも抗わない。
至近距離で目を合わせ、その上着の首元に手を伸ばした。ジジッと、引き下げたのはファスナー。
「……裕也」
「切りつけられたみてえになってる」
「…………」
「コレやったのお前の親父?」
瞬間、少し強張った。そう見えた。竜崎の表情が。
単なる脅しで刃物を突きつけられた。それだけならここまで深い傷にはならない。これは相当に強い力で、脅し以上の意味があったはずだ。
竜崎の顔をじっと見上げる。観念したかのような溜め息を聞いた。
「……そうだ。でも俺だって同じだよ。先にかかってったのはこっちだから」
この手はそっと引き剥がされた。竜崎は上着を脱ぎ捨て、それが床の上にバサリと落ちる。剥き出しになったその首を凝視する俺の顔に手を伸ばしてきた。
控えめに、頬に触れてくる。黙って見上げていたら包み込まれた。
「……軽蔑するか?」
眼差しは強い。いつもと変わりない。けれど今はどこか悲しげだ。
「バカじゃねえの。今さら軽蔑もクソもねえだろ」
「…………」
この男には最も似合わない。そんな顔はすぐにでも止めさせないと。
気づいた時にはまたしても、竜崎の胸ぐらに掴みかかっている。ぐいっと、顔を近づけた。
「ヘンな顔してんじゃねえよ」
「変って……」
「情けねえ顔すんなよころすぞ。テメエはいつでもバカでいやがれ」
「……酔っ払いはメチャクチャだな」
ようやく笑った。困ったような笑みを見て、掴みかかった手も少し緩む。
頭が酷くグラグラしている。ただ笑ったのを見ただけで、苦しくなったのは酒のせいか。
へなへなと力なく体の両脇に手を下ろした。床に目を落とす。見ているのは床だろうか、分からない。妙な感覚は治まるどころか急激に悪化していく。
「……裕也? どうした、平気か……?」
急に俯いて黙った俺を心配そうに竜崎が呼ぶ。肩に触れられたのが分かった。落ち着かせるかのようにさすられる。
触るなとかやめろとか、それを言えるだけの余裕がない。初めて感じる胸の辺りの、この違和感。
のろのろと顔を上げた。目の前の竜崎を見上げる。
「……ぃ……」
「え?」
「…………キモチワリぃ」
「は!?」
竜崎の顔色が変わった。その場からバッと抱き起された俺。慌ただしくバタバタと連れていかれたのはトイレだった。
狭い空間に男二人で駆け込み、竜崎に背をさすられながら便器に向かって顔を伏せた。ぅっ、と一度えずいてしまえば吐き気が胸をせり上がり、その体勢でしばらく動きを止める。
竜崎は俺の背中をさすった。ぜいぜいと苦しく呼吸も荒れたが、次第にそれも落ち着いていく。
パタンと便座のふたを閉めた。脱力感とともに俯きながらも水を流す思考能力は戻っている。
次に腕を引かれた先は洗面所。バシャバシャ顔ごと水をかぶっていると、いつの間にか用意したらしいタオルを横から差し出された。
「大丈夫か。まだ気持ち悪い?」
「…………いや」
最悪だ。
タオルを顔に押し当てながらボソッと呟くように答えた。不快感が去ったついでに顔面まで水に浴びせたためか頭もいくらかマシになっている。酒の余韻は残っていても、幸か不幸か自らの失態を恥じる理性が今はあった。
腕を引かれても抗う元気は戻って来ない。労わるような手つきに促されながらベッドまで戻り、その前の床に腰を下ろした。ようやくタオルを顔から離して一度だけ深く息をつく。
中途半端に酔いが醒めた。思考力も若干戻った。後ろめたさから無言で俯き、隣に座りこんだ竜崎に神経を尖らせた。
何をやっているのだか。酔って喚いて竜崎に担がれ、あり得ない醜態をさらして。
笑ってくれた方がまだ救われる。しかしこういうときに限って竜崎はどこまでもとことん親切。丁寧な介抱を続ける気しかこの男にはないようだった。
「少し落ち着いた? あんな飲み方初めてなんだろ」
「…………」
「楽にしてて」
それだけ言うと自分は小さなキッチンの前に立った。がら空きのように見えている後姿は、それでいてどこにも隙がない。グラスに水を入れるとすぐにまた戻って来る。
「…………」
「大丈夫か?」
「……ああ」
水は素直に受け取った。俯き加減に答えると、竜崎は微笑して俺の隣へ。
散々世話をかけたばかりでは近づくなと言いたくても言えない。黙って一口だけ水を口にする。コクリと鳴った喉の音が異様なほど大きく聞こえた。
「正気に戻っちまったか。結構可愛かったのに残念」
わざとらしい。そんな気遣いも思いやりもいらない。
「……死ね」
「ジョーダンだって。なあ、今晩は泊まってけよ。この状態で帰すのもなんだし」
「……いい。帰る」
それはきっと純粋な厚意。断るや否や竜崎の胸に冷たいグラスを押し付けた。逃げたい一心で立ち上がる。
しかし背を向けようとする俺の腕を、同じく立ち上がった竜崎が掴んだ。
「今更なに遠慮してんだ。なんもしねえから泊まってけ」
「……帰る」
ただの善意なのは分かっている。それが余計に居たたまれない。
竜崎の腕を振り切った。玄関の方へ足を向けるも、再び後ろから腕を掴まれた。
「裕也。聞けって」
「うるせえな、帰るっつってんだよッ」
今度こそ強く払いのけた。しかしそれによって足元への注意がそがれる。ほんの少し、ふらっと覚束なくなり、竜崎の手が即座にそれを支えた。咄嗟にその腕にしがみつく。
「…………」
どうにもこうにも体裁が悪い。
竜崎の腕から慌てて手を離したが、一方でこいつは俺を支えたままだ。
「こんなフラフラしてる奴放り出せるかよ。頭回っててもこれじゃ危なっかしいって」
「……うるせえ。お前だって帰ってきて早々酔っ払いの世話なんかしたくねえだろ」
腰から竜崎の手がゆっくり離れ、そのまま正面に回ってきた。子供でも諭すかのようにじっと目を合わせてくる。
「何言ってんだよ、お前らしくもねえ」
「…………」
「世話とかそんな思う訳ねえじゃん。いいから今日はここにいろ」
なあ、と顔を覗き込まれた。行く手も阻まれ、口調は優しく、それに返す言葉もない。優しくされるのは殴られるより苦手だ。結果、だんまりを決め込んだ。
ガキかよ。しかしこれ以外の反応が思いつかない。寄っていく眉間は苛立たしさが主たる原因ではなくて、もやもやする。むしろ物理的な吐き気とは違う。胸に何か、焦りのような。
「……帰る。もう放っとけ」
視線はずっと感じているから、顔の向きは少々斜めにずらした。これ以上ここにいるとまずい。耐え切れず突き放すように言うと、竜崎は俺を放すどころか腕を掴む手にぐっと力を込めた。
痛みはない。けれど重さを感じる。逃げたいのに、決して許されない。
「……さっきの……ミオに行く前のこと、気にしてんのか」
「っ……」
びりっと、全身の皮膚にまで緊張が起こった。
キスをされ、俺から二度目を求め、そして唐突に竜崎を拒んだ。される方からしてみれば意味不明でしかないだろうし、困惑したあの表情は演じてできるものではなかった。
あの時一瞬、浮かんだ。頭に。女を相手にする竜崎の姿。過去にこの男が抱いてきた女だ。
俺じゃない。どこかの淫らな女。あの一瞬の思考さえなければきっと俺は止められなかった。数秒以下の僅か一瞬で、俺達のしていることが本来ならおかしいと気づかされた。俺なんかには、あまりにも重い。
「……バカ言うな」
目を逸らしたまま呟いた。平静を装ったものの、成功した自信はない。
視線はいまだに突き刺ささっている。これをどう俺に受け止めろと言うのか。
「……放せ。帰る」
「帰さない」
「っざけんな、テメエはいい加減に……っ」
「言ったろ。なかったことにはできねえって」
「……ッ」
直視できない。怖かった。これ以上踏み込まれるのは耐えきれない。
竜崎の胸板に両手をついて、今できる最大限の拒絶意思を示した。そうでもしていないと自分がどうなるか分からない。竜崎を目の前にし、その声を聞き、こうして神経を張り詰めさせているうちにどんどんおかしくなっていく。
「放せ……っ」
すべて無かったことにしたい。それを分かっているだろうに、竜崎は俺を追い詰める。
「あの時なんで急にやめた。キスが嫌だった訳じゃねえだろ。あれはお前が自分でしてきた」
「ッうぬぼれんな……元はと言えばお前がっ……」
「始めたのは俺だった。そのあと迫ってきたのはお前だ」
その顔に笑みはなく、淡々と事実を聞かせてくる。いつも俺だけが丸裸にされる。この男は何も言わないくせに。
聞きたいことはいくつもあった。竜崎が戻って来てからすでに数時間が経っているのに、肝心なことは何一つ聞けていない。巧妙に流されて、うやむやにされる。
人の領域にはズカズカと土足で踏み込んでくる男だ。そのくせ自身のことは決して明かさず、ただただ俺を遠ざける。
ならば俺でなくてもいいはず。何も話せない、話す気にもならない程度の相手であるなら、わざわざ男を選ぶ必要はない。
「っ……放せッ……!」
顔を上げ、睨みつけた。この忌々しい感情をぶつける。頭がクラクラするような重苦しさと緊張の中で、剥き出しの敵意を保っているのは楽じゃない。つらかった。
「お前はいつも……そんなんばっかだ」
威嚇してやりたいはずなのに、出てくるのは情けない声。支離滅裂な思考が駆け巡る。せいぜい睨みつけるのが精いっぱいだ。
「俺には何も話さねえくせに……大事なことはなんも……」
「何言って……」
「お前の、家のことも、今どうなってんのかも全部、どうせ……俺には何も話さねえんだろ」
男同士になんの繋がりがある。もし俺がこのまま竜崎の隣を陣取って、居座ったとして、その先に何がある。こいつが何を考えようとも結局は邪魔にしかならない。
俺がもしも女だったら、待っていると言ってやるのはきっともっと簡単だった。所詮は男だ。どうしたって女には敵わない。男の俺に何ができるかと言えば、黙って聞いてやる事くらいなのに。
いつだって待っていることしかできなくて、女の代用にすらならない俺に、たった一つ可能なことさえこの男は取り上げようとする。
「……うちのことは関係ない」
「そうやって壁作んのはお前じゃねえかよ……」
「…………」
戻ってきたと思った理性が一瞬にしてグチャグチャだ。酒の余韻は強かった。それとも俺が、おかしいだけか。
拒むために竜崎の胸板を突っぱねていた手に力を込めて、くしゃっと、服を握りしめた。
「一度は死にかけて、今度はそんな傷作って帰ってきて……実の親にそこまでされた奴に全部終わったなんて言われて信じられると思うのか。そこまで俺は頼りになんねえか……っ?」
こいつにはきっと理解できない。生き方も、生きてきた世界も、俺達に重なるものは何もない。
俺をこうさせたのはこの男なのに。深みにはまっていくのは俺だけだ。
「テメエの弱味の一つも見せらんねえで何が惚れただ。都合いいこと抜かすのも大概にしろ」
「…………」
「……お前なんか知らねえよ」
掴み上げていた服を突き放した。内心ではなく、物理的に、ぐるぐると目が回るような心地の中、後ろを向いて一歩踏み出そうとした足は想定外に重かった。
怒りよりもむしろ失望に近い。よろけそうなまま足を動かしたが、ぐっと後ろから掴まれたこの肩。元より覚束ない足は簡単に止められ、いまいち反応の鈍い体を覆い被さるようにして抱きしめてくる。
「行くな」
背中には重みと、人の温度を感じる。耳元で響いた声は切実だった。
「行くなよ……」
腹の前に回された腕にぎゅっと縋るような力がこもった。そう感じたのはきっと気のせいではない。いくらか間を置き、竜崎は言った。
「……ごめん……怖いんだ」
ふっと、拘束する腕の力が緩んだ。正面に向かされ、その手は両肩にそっと置かれた。
「あいつと刺し違えてでも、あの家から解放されたかった。初めて、親父に楯突いた……。結局返り討ちにあったけど……」
竜崎の首に目が行く。単なるかすり傷とは違う。これが親子喧嘩の域で片付けられるはずがない。事態はそれに止まらず、一歩間違えば、命にもかかわる。
「終わったって言うのも、半分は嘘じゃねえ。俺の後任もすぐに埋まるはずだ。あんな親父でも一度言ったことを翻すような真似はしねえから……向こうから接触してくることはない」
そこで竜崎は一度言葉を止めた。すでに刻まれていた眉間の縦筋が、さらにもう少し深くなった。
「でもな……言われたよ。お前は戻るって。お前はこの中でしか生きらんねえって……」
「…………」
「戻ろうなんて死んでも思わねえけど……親父に向かって否定はできなかった」
話そうとしなかった。終わったの一言しか言わなかった。そこには願望もあったのだろうか。
命がけで初めて刃向かった実の親に突き付けられた言葉に、この男は何を思ったか。
「俺が帰って来たいのはここなのに……」
肩をぐっと掴まれた。
「……お前がいい。そばにいたい」
「…………」
痛切。それしか浮かばない。そんな声と顔だった。
自ら危険を冒しに行って、怪我を負って戻ってきて、そこまでしてこの男はそう言う。
「なんで、俺だよ……」
ぽつりと口から零れた疑問には、すぐには答えが返ってこなかった。そのうちに視線は床へと落ちる。これ以上その顔は見ていられなかった。
「実家と縁切って、好きなように生きたいんだろ。普通の暮らしがしたかったんだろ。だったら選ぶ相手が違うだろ……」
なんにもならない。何もしてやれない。考えることもすでに疲れた。
俺はもう解放されたい。痛いくらいに真っ直ぐなこいつを、これ以上知ることが怖い。
「お前は間違ってる。きっと……勘違いしてるだけだ」
正常を手に入れたいのであれば、イレギュラーなこれは邪魔でしかない。竜崎のそばに俺はいなくていい。この男の人生には必要ない。
そこからは沈黙が流れた。おそらくそう長くはなかった。体感的にはとても長く感じられる空気の中で、おそるおそる顔を上げ、そこで見た。竜崎の顔。
「っ……」
ひゅっと息を吸い込んだ。悲しい。いや、怒っている。そのどちらでもないような、あるいは両方なのかもしれない。
俺の言葉は残酷だった。本当に傷つけてしまったのは、きっと今のが初めてだ。
思わず怯んだのは同情とは違う。突き放しておきながら、最後の最後で断ち切れない。この男にこんな顔をさせたのは俺なのに、腕を引かれても拒まなかった。すがるように抱きしめられて、痛いくらいに込められた力を何も言わずに受け入れている。
「これだけは……間違ってねえよ。これが勘違いのはずがない」
静かなようなその反面、唸るように押し殺した声で竜崎は言った。断定だった。断言だ。きつく力を込めた腕で、苦しくなるほど抱きしめてくる。
「裕也だから、逃げるのはもう終わりにできた……ケジメつけてこようって思えた」
すがり付いてくる。それに近い抱き方。そこから逃げることはしないくせに、受け入れて抱きとめてやることもできない。
誰とも向き合ってこなかった。煩わしいものからは全て逃げてきた。そのツケがいま回ってきている。どうすればいいのかが、分からない。
「……お前だからだ」
「…………」
痛々しい言葉も、その声も。全部、俺がさせていることだ。
「……俺には無理だ」
「裕也……」
「…………お前といると、おかしくなる」
ようやく吐き出した言葉は心なしか震えた。酒の余韻か、目元が熱い。一度深くまばたきをすれば雫となって頬を伝うだろう。
拒絶して、傷つけて、それで終わるのがいいはずなのに。最善であると理解しているのに。向けられてくるこの感情を放したくないと一瞬でも思ってしまえば、最後の制御を外してしまうのはあまりにも簡単なことだ。
酔っているから。そんな言い訳が、これでもまだ通用するだろうか。この男の顔を見つめながら、手を伸ばさずにはいられなかった。
「こんなはずじゃなかった……こんな……」
無様でみっともなくて格好悪くて、冷静ではいられなくなる。拒絶して跳ねのけてしまえば誰ともかかわらずにいられたのに、この男だけはそうならなかった。どうあがいても思い通りにならない。
その体に触れ、引き寄せた。抱きしめたのもそのすぐ後。矛盾だらけのこの行動に、キスによってトドメを刺した。
数秒だけ重なり、そっと離れた。竜崎は何も言わなかった。ただ俺の頬に触れ、今度はこの男が唇を重ねた。
黙って受け入れ、それは深くなる。必死になって抱き合った。
愚かだ。滑稽でしかない。この瞬間をただ、逃したくなかった。
そして何より俺は知らなかった。試したことがなかったから。酒を飲んでも正常でいられる、自分の限界というものを。
「ほら昭仁さん見てみろよ! だから途中でもう出すなっつったのに!!」
「ウチの儲けを奪う気か。いいじゃねえかよ本人が飲みてえっつってたんだから。つーかそれ、水?」
「すみません。裕也さんがどうしてもって……」
「え? あ、おい裕也ッ、もうやめとけ!」
珍しく焦ったような竜崎の声が聞こえる。持っていたはずのグラスは奪われ、それを俺から遠ざけるや否や竜崎がカウンターに向かって叫んだ。
「樹! 店中の酒しまえ! 隠せッ!!」
「ここ酒場だぞ。なんかお前すげえ必死な」
「アンタがおもしろがって飲ませるからだろ!」
竜崎は何やら忙しそう。俺は俺で取り上げられた酒を奪い返そうと手を伸ばした。しかし指先にグラスが触れる前に竜崎の手が阻んでくる。
邪魔すんなよ。口を尖らせた。ついでに竜崎の胸ぐらにガッと勢いよく掴みかかった。
「竜崎ぃッ!」
「……なんだ」
「さけのむっ!!」
「…………」
目を逸らされた。竜崎はため息。
昭仁さんは俺のグラスを隣で呆然としている加賀に預け、他人事のようにニヤついた笑みを浮かべながら竜崎に言った。
「今ちょっと可愛いとか思ったろ?」
「マジ俺死にそうだよ……」
この男らしからぬ疲弊した声。それが妙に面白くて、胸ぐらに掴みかかったままくすくすと笑いだしていた。
だって、竜崎が。あの竜崎が。疲れている。
「あははははっ……!」
「…………」
「……裕也さん」
竜崎は言葉もなく、加賀もただ呆然と俺を見つめて呟いた。
なんて愉快な夜だろう。こんなに楽しいのはいつ振りか。
「とんでもねえな。グラス三杯以上は危険か。恭介お前、来る前こいつになんかしたんだろ。珍しくヤケ酒みたいに飲んでた」
「喧嘩でもしたんですか?」
「むしろ逆だと思うぞ樹。あんま突っ込んで聞いてやるな。後になって裕也がショック死するから」
「ショック死……?」
何が起こっているか良く分からないが愉快。ふわふわとした心地は本当に浮いているかのよう。
体は完全に竜崎に預けた。もたれかかっただけの体勢でもしっかり支えられているから安定感がある。
「おい、裕也寝るなって。あぁー……もういいやこいつ連れて帰る」
「お前んち?」
「のが近ぇし。ほら裕也、立って。歩けるか?」
俺に肩を貸す竜崎は出口の方へ。一緒に付いてきた加賀がドアを開けた。
冷たい空気が頬を掠める。火照った顔には心地良い。竜崎にほとんど抱えられながら三人揃って外に出た。
「大丈夫ですか? 裕也さんかなり酒回ってますけど……つーかすみません、止めらんなくて」
「あの勢いで喚かれたら出さねえ訳いかねえよ。平気だから気にすんな」
「はぁ……。どうも……」
二人が何か話している間にも俺は竜崎にもたれかかっている。今のマイブームは竜崎の腕をバシバシとぶっ叩いて遊ぶこと。その横では加賀が遠慮がちに口を開いた。
「あの……恭介さん………」
俺が暴れると竜崎がそれを押さえ留めた。俺から視線を外さないまま、言葉だけは加賀に向けた。
「片付いた。全部な」
「…………」
竜崎は静かにそれだけ。加賀の顔はどこか不安そう。俺はというと竜崎に抱えられたまま、夜道へと連れ出された。
心許ない足取りを支えられている身分ではあるが、そのようなことはどうでも良くてひたすら喚き続けていた。竜崎は一人で頑張っている。俺を黙らせ、俺を支え、俺の腕を引いて歩かせて、どうにか俺を落ち着かせようとげんなりした顔で苦闘している。
店からはまだ数十メートル。曲がり角へ来るだけのことでも相当な時間がかかった。
「はなせバカヤロー! 誰がてめえの世話になんかなるか!!」
「分かったから大人しくしろって。どんだけ弱いんだよこの酔っ払い……」
「よってねえ!」
そういうのを酔ってるって言うんだ。項垂れた竜崎にそんな事を言われた気がするけどやはりどうでもいい。
そうこうしながらようやくたどり着いた見覚えのあるボロアパート。
竜崎に抱き抱えられて一つの部屋の前に行き、カギを開けるその動作を意識の外から眺めていた。ガチャリと重い音を立てたドア。開かれた扉の中へと連れられ、完全に体を預けながら竜崎の手に従った。
一通り騒いだから今度は猛烈に眠くなってくる。急激な睡魔はすでに頂点を突破。その場にストンとしゃがみ込み、靴を脱ぐことさえも億劫で足だけ三和土に投げ出した。
上半身を上り口の冷たい床に寝そべらせた。秒で眠れる。もう寝よう。眠い。けれどこの体を上から抱き起しにかかるのはもちろん竜崎で、俺の体重を自分にかけさせると抱きかかえる格好で靴を脱がせてくる。
「寝るならベッドで寝ろ。あとちょっと頑張れ」
「んんー……」
ゆっくり話しかけられても頭がそれを理解しない。立たされたのは辛うじて分かった。部屋の中に連れて行かれる。
目の前にはベッドがあった。それを見た途端に気が抜けて、がくりと足から崩れ落ちた。
「おっ、と……裕也、ベッド上がって」
あと一歩だ。その一歩が億劫。ベッド前でしゃがみこむと引っ張るように腕を持ち上げられた。
片手を頭上に上げさせられた格好。自分の腕をフワフワ振りながら竜崎の顔を見上げる。
「さけだせよさけぇ、てめえころすぞ」
「お前なぁ……」
「いいから酒持ってこいばかやろうっ」
竜崎はまたしてもガックリ項垂れた。楽しい。ケタケタ笑い出す。
「……後で飲ませてやるから今日はもうやめとけ。ほら、掴まって」
「ばーかばーかばーかばーか」
「…………」
笑いは全然止まらないけど悪態をつくことは忘れない。
両手は促されるまま竜崎の首に回した。直後にはすんなり抱き上げられてベッドの縁にお座りさせられた。介護業界にも転職できんじゃねえのか。
「……いつもこんくらい素直ならな」
「超疲れてる! だっさ!!」
竜崎を指さして笑い転げた。暴れる俺を押さえつける竜崎はすでにゲンナリを通り越している。
ベッドに腰掛けたままバフッと後ろに倒れ込んだ。天井を見上げる。次に竜崎の顔を見上げた。呆れたように俺を見下ろしている。その顔を見ているうちにふと思いつき、むくっと再び上体を起こした。
引っ張った。グイッと、竜崎の腕を。俺の好きなようにさせることにしたらしいこいつも抗わない。
至近距離で目を合わせ、その上着の首元に手を伸ばした。ジジッと、引き下げたのはファスナー。
「……裕也」
「切りつけられたみてえになってる」
「…………」
「コレやったのお前の親父?」
瞬間、少し強張った。そう見えた。竜崎の表情が。
単なる脅しで刃物を突きつけられた。それだけならここまで深い傷にはならない。これは相当に強い力で、脅し以上の意味があったはずだ。
竜崎の顔をじっと見上げる。観念したかのような溜め息を聞いた。
「……そうだ。でも俺だって同じだよ。先にかかってったのはこっちだから」
この手はそっと引き剥がされた。竜崎は上着を脱ぎ捨て、それが床の上にバサリと落ちる。剥き出しになったその首を凝視する俺の顔に手を伸ばしてきた。
控えめに、頬に触れてくる。黙って見上げていたら包み込まれた。
「……軽蔑するか?」
眼差しは強い。いつもと変わりない。けれど今はどこか悲しげだ。
「バカじゃねえの。今さら軽蔑もクソもねえだろ」
「…………」
この男には最も似合わない。そんな顔はすぐにでも止めさせないと。
気づいた時にはまたしても、竜崎の胸ぐらに掴みかかっている。ぐいっと、顔を近づけた。
「ヘンな顔してんじゃねえよ」
「変って……」
「情けねえ顔すんなよころすぞ。テメエはいつでもバカでいやがれ」
「……酔っ払いはメチャクチャだな」
ようやく笑った。困ったような笑みを見て、掴みかかった手も少し緩む。
頭が酷くグラグラしている。ただ笑ったのを見ただけで、苦しくなったのは酒のせいか。
へなへなと力なく体の両脇に手を下ろした。床に目を落とす。見ているのは床だろうか、分からない。妙な感覚は治まるどころか急激に悪化していく。
「……裕也? どうした、平気か……?」
急に俯いて黙った俺を心配そうに竜崎が呼ぶ。肩に触れられたのが分かった。落ち着かせるかのようにさすられる。
触るなとかやめろとか、それを言えるだけの余裕がない。初めて感じる胸の辺りの、この違和感。
のろのろと顔を上げた。目の前の竜崎を見上げる。
「……ぃ……」
「え?」
「…………キモチワリぃ」
「は!?」
竜崎の顔色が変わった。その場からバッと抱き起された俺。慌ただしくバタバタと連れていかれたのはトイレだった。
狭い空間に男二人で駆け込み、竜崎に背をさすられながら便器に向かって顔を伏せた。ぅっ、と一度えずいてしまえば吐き気が胸をせり上がり、その体勢でしばらく動きを止める。
竜崎は俺の背中をさすった。ぜいぜいと苦しく呼吸も荒れたが、次第にそれも落ち着いていく。
パタンと便座のふたを閉めた。脱力感とともに俯きながらも水を流す思考能力は戻っている。
次に腕を引かれた先は洗面所。バシャバシャ顔ごと水をかぶっていると、いつの間にか用意したらしいタオルを横から差し出された。
「大丈夫か。まだ気持ち悪い?」
「…………いや」
最悪だ。
タオルを顔に押し当てながらボソッと呟くように答えた。不快感が去ったついでに顔面まで水に浴びせたためか頭もいくらかマシになっている。酒の余韻は残っていても、幸か不幸か自らの失態を恥じる理性が今はあった。
腕を引かれても抗う元気は戻って来ない。労わるような手つきに促されながらベッドまで戻り、その前の床に腰を下ろした。ようやくタオルを顔から離して一度だけ深く息をつく。
中途半端に酔いが醒めた。思考力も若干戻った。後ろめたさから無言で俯き、隣に座りこんだ竜崎に神経を尖らせた。
何をやっているのだか。酔って喚いて竜崎に担がれ、あり得ない醜態をさらして。
笑ってくれた方がまだ救われる。しかしこういうときに限って竜崎はどこまでもとことん親切。丁寧な介抱を続ける気しかこの男にはないようだった。
「少し落ち着いた? あんな飲み方初めてなんだろ」
「…………」
「楽にしてて」
それだけ言うと自分は小さなキッチンの前に立った。がら空きのように見えている後姿は、それでいてどこにも隙がない。グラスに水を入れるとすぐにまた戻って来る。
「…………」
「大丈夫か?」
「……ああ」
水は素直に受け取った。俯き加減に答えると、竜崎は微笑して俺の隣へ。
散々世話をかけたばかりでは近づくなと言いたくても言えない。黙って一口だけ水を口にする。コクリと鳴った喉の音が異様なほど大きく聞こえた。
「正気に戻っちまったか。結構可愛かったのに残念」
わざとらしい。そんな気遣いも思いやりもいらない。
「……死ね」
「ジョーダンだって。なあ、今晩は泊まってけよ。この状態で帰すのもなんだし」
「……いい。帰る」
それはきっと純粋な厚意。断るや否や竜崎の胸に冷たいグラスを押し付けた。逃げたい一心で立ち上がる。
しかし背を向けようとする俺の腕を、同じく立ち上がった竜崎が掴んだ。
「今更なに遠慮してんだ。なんもしねえから泊まってけ」
「……帰る」
ただの善意なのは分かっている。それが余計に居たたまれない。
竜崎の腕を振り切った。玄関の方へ足を向けるも、再び後ろから腕を掴まれた。
「裕也。聞けって」
「うるせえな、帰るっつってんだよッ」
今度こそ強く払いのけた。しかしそれによって足元への注意がそがれる。ほんの少し、ふらっと覚束なくなり、竜崎の手が即座にそれを支えた。咄嗟にその腕にしがみつく。
「…………」
どうにもこうにも体裁が悪い。
竜崎の腕から慌てて手を離したが、一方でこいつは俺を支えたままだ。
「こんなフラフラしてる奴放り出せるかよ。頭回っててもこれじゃ危なっかしいって」
「……うるせえ。お前だって帰ってきて早々酔っ払いの世話なんかしたくねえだろ」
腰から竜崎の手がゆっくり離れ、そのまま正面に回ってきた。子供でも諭すかのようにじっと目を合わせてくる。
「何言ってんだよ、お前らしくもねえ」
「…………」
「世話とかそんな思う訳ねえじゃん。いいから今日はここにいろ」
なあ、と顔を覗き込まれた。行く手も阻まれ、口調は優しく、それに返す言葉もない。優しくされるのは殴られるより苦手だ。結果、だんまりを決め込んだ。
ガキかよ。しかしこれ以外の反応が思いつかない。寄っていく眉間は苛立たしさが主たる原因ではなくて、もやもやする。むしろ物理的な吐き気とは違う。胸に何か、焦りのような。
「……帰る。もう放っとけ」
視線はずっと感じているから、顔の向きは少々斜めにずらした。これ以上ここにいるとまずい。耐え切れず突き放すように言うと、竜崎は俺を放すどころか腕を掴む手にぐっと力を込めた。
痛みはない。けれど重さを感じる。逃げたいのに、決して許されない。
「……さっきの……ミオに行く前のこと、気にしてんのか」
「っ……」
びりっと、全身の皮膚にまで緊張が起こった。
キスをされ、俺から二度目を求め、そして唐突に竜崎を拒んだ。される方からしてみれば意味不明でしかないだろうし、困惑したあの表情は演じてできるものではなかった。
あの時一瞬、浮かんだ。頭に。女を相手にする竜崎の姿。過去にこの男が抱いてきた女だ。
俺じゃない。どこかの淫らな女。あの一瞬の思考さえなければきっと俺は止められなかった。数秒以下の僅か一瞬で、俺達のしていることが本来ならおかしいと気づかされた。俺なんかには、あまりにも重い。
「……バカ言うな」
目を逸らしたまま呟いた。平静を装ったものの、成功した自信はない。
視線はいまだに突き刺ささっている。これをどう俺に受け止めろと言うのか。
「……放せ。帰る」
「帰さない」
「っざけんな、テメエはいい加減に……っ」
「言ったろ。なかったことにはできねえって」
「……ッ」
直視できない。怖かった。これ以上踏み込まれるのは耐えきれない。
竜崎の胸板に両手をついて、今できる最大限の拒絶意思を示した。そうでもしていないと自分がどうなるか分からない。竜崎を目の前にし、その声を聞き、こうして神経を張り詰めさせているうちにどんどんおかしくなっていく。
「放せ……っ」
すべて無かったことにしたい。それを分かっているだろうに、竜崎は俺を追い詰める。
「あの時なんで急にやめた。キスが嫌だった訳じゃねえだろ。あれはお前が自分でしてきた」
「ッうぬぼれんな……元はと言えばお前がっ……」
「始めたのは俺だった。そのあと迫ってきたのはお前だ」
その顔に笑みはなく、淡々と事実を聞かせてくる。いつも俺だけが丸裸にされる。この男は何も言わないくせに。
聞きたいことはいくつもあった。竜崎が戻って来てからすでに数時間が経っているのに、肝心なことは何一つ聞けていない。巧妙に流されて、うやむやにされる。
人の領域にはズカズカと土足で踏み込んでくる男だ。そのくせ自身のことは決して明かさず、ただただ俺を遠ざける。
ならば俺でなくてもいいはず。何も話せない、話す気にもならない程度の相手であるなら、わざわざ男を選ぶ必要はない。
「っ……放せッ……!」
顔を上げ、睨みつけた。この忌々しい感情をぶつける。頭がクラクラするような重苦しさと緊張の中で、剥き出しの敵意を保っているのは楽じゃない。つらかった。
「お前はいつも……そんなんばっかだ」
威嚇してやりたいはずなのに、出てくるのは情けない声。支離滅裂な思考が駆け巡る。せいぜい睨みつけるのが精いっぱいだ。
「俺には何も話さねえくせに……大事なことはなんも……」
「何言って……」
「お前の、家のことも、今どうなってんのかも全部、どうせ……俺には何も話さねえんだろ」
男同士になんの繋がりがある。もし俺がこのまま竜崎の隣を陣取って、居座ったとして、その先に何がある。こいつが何を考えようとも結局は邪魔にしかならない。
俺がもしも女だったら、待っていると言ってやるのはきっともっと簡単だった。所詮は男だ。どうしたって女には敵わない。男の俺に何ができるかと言えば、黙って聞いてやる事くらいなのに。
いつだって待っていることしかできなくて、女の代用にすらならない俺に、たった一つ可能なことさえこの男は取り上げようとする。
「……うちのことは関係ない」
「そうやって壁作んのはお前じゃねえかよ……」
「…………」
戻ってきたと思った理性が一瞬にしてグチャグチャだ。酒の余韻は強かった。それとも俺が、おかしいだけか。
拒むために竜崎の胸板を突っぱねていた手に力を込めて、くしゃっと、服を握りしめた。
「一度は死にかけて、今度はそんな傷作って帰ってきて……実の親にそこまでされた奴に全部終わったなんて言われて信じられると思うのか。そこまで俺は頼りになんねえか……っ?」
こいつにはきっと理解できない。生き方も、生きてきた世界も、俺達に重なるものは何もない。
俺をこうさせたのはこの男なのに。深みにはまっていくのは俺だけだ。
「テメエの弱味の一つも見せらんねえで何が惚れただ。都合いいこと抜かすのも大概にしろ」
「…………」
「……お前なんか知らねえよ」
掴み上げていた服を突き放した。内心ではなく、物理的に、ぐるぐると目が回るような心地の中、後ろを向いて一歩踏み出そうとした足は想定外に重かった。
怒りよりもむしろ失望に近い。よろけそうなまま足を動かしたが、ぐっと後ろから掴まれたこの肩。元より覚束ない足は簡単に止められ、いまいち反応の鈍い体を覆い被さるようにして抱きしめてくる。
「行くな」
背中には重みと、人の温度を感じる。耳元で響いた声は切実だった。
「行くなよ……」
腹の前に回された腕にぎゅっと縋るような力がこもった。そう感じたのはきっと気のせいではない。いくらか間を置き、竜崎は言った。
「……ごめん……怖いんだ」
ふっと、拘束する腕の力が緩んだ。正面に向かされ、その手は両肩にそっと置かれた。
「あいつと刺し違えてでも、あの家から解放されたかった。初めて、親父に楯突いた……。結局返り討ちにあったけど……」
竜崎の首に目が行く。単なるかすり傷とは違う。これが親子喧嘩の域で片付けられるはずがない。事態はそれに止まらず、一歩間違えば、命にもかかわる。
「終わったって言うのも、半分は嘘じゃねえ。俺の後任もすぐに埋まるはずだ。あんな親父でも一度言ったことを翻すような真似はしねえから……向こうから接触してくることはない」
そこで竜崎は一度言葉を止めた。すでに刻まれていた眉間の縦筋が、さらにもう少し深くなった。
「でもな……言われたよ。お前は戻るって。お前はこの中でしか生きらんねえって……」
「…………」
「戻ろうなんて死んでも思わねえけど……親父に向かって否定はできなかった」
話そうとしなかった。終わったの一言しか言わなかった。そこには願望もあったのだろうか。
命がけで初めて刃向かった実の親に突き付けられた言葉に、この男は何を思ったか。
「俺が帰って来たいのはここなのに……」
肩をぐっと掴まれた。
「……お前がいい。そばにいたい」
「…………」
痛切。それしか浮かばない。そんな声と顔だった。
自ら危険を冒しに行って、怪我を負って戻ってきて、そこまでしてこの男はそう言う。
「なんで、俺だよ……」
ぽつりと口から零れた疑問には、すぐには答えが返ってこなかった。そのうちに視線は床へと落ちる。これ以上その顔は見ていられなかった。
「実家と縁切って、好きなように生きたいんだろ。普通の暮らしがしたかったんだろ。だったら選ぶ相手が違うだろ……」
なんにもならない。何もしてやれない。考えることもすでに疲れた。
俺はもう解放されたい。痛いくらいに真っ直ぐなこいつを、これ以上知ることが怖い。
「お前は間違ってる。きっと……勘違いしてるだけだ」
正常を手に入れたいのであれば、イレギュラーなこれは邪魔でしかない。竜崎のそばに俺はいなくていい。この男の人生には必要ない。
そこからは沈黙が流れた。おそらくそう長くはなかった。体感的にはとても長く感じられる空気の中で、おそるおそる顔を上げ、そこで見た。竜崎の顔。
「っ……」
ひゅっと息を吸い込んだ。悲しい。いや、怒っている。そのどちらでもないような、あるいは両方なのかもしれない。
俺の言葉は残酷だった。本当に傷つけてしまったのは、きっと今のが初めてだ。
思わず怯んだのは同情とは違う。突き放しておきながら、最後の最後で断ち切れない。この男にこんな顔をさせたのは俺なのに、腕を引かれても拒まなかった。すがるように抱きしめられて、痛いくらいに込められた力を何も言わずに受け入れている。
「これだけは……間違ってねえよ。これが勘違いのはずがない」
静かなようなその反面、唸るように押し殺した声で竜崎は言った。断定だった。断言だ。きつく力を込めた腕で、苦しくなるほど抱きしめてくる。
「裕也だから、逃げるのはもう終わりにできた……ケジメつけてこようって思えた」
すがり付いてくる。それに近い抱き方。そこから逃げることはしないくせに、受け入れて抱きとめてやることもできない。
誰とも向き合ってこなかった。煩わしいものからは全て逃げてきた。そのツケがいま回ってきている。どうすればいいのかが、分からない。
「……お前だからだ」
「…………」
痛々しい言葉も、その声も。全部、俺がさせていることだ。
「……俺には無理だ」
「裕也……」
「…………お前といると、おかしくなる」
ようやく吐き出した言葉は心なしか震えた。酒の余韻か、目元が熱い。一度深くまばたきをすれば雫となって頬を伝うだろう。
拒絶して、傷つけて、それで終わるのがいいはずなのに。最善であると理解しているのに。向けられてくるこの感情を放したくないと一瞬でも思ってしまえば、最後の制御を外してしまうのはあまりにも簡単なことだ。
酔っているから。そんな言い訳が、これでもまだ通用するだろうか。この男の顔を見つめながら、手を伸ばさずにはいられなかった。
「こんなはずじゃなかった……こんな……」
無様でみっともなくて格好悪くて、冷静ではいられなくなる。拒絶して跳ねのけてしまえば誰ともかかわらずにいられたのに、この男だけはそうならなかった。どうあがいても思い通りにならない。
その体に触れ、引き寄せた。抱きしめたのもそのすぐ後。矛盾だらけのこの行動に、キスによってトドメを刺した。
数秒だけ重なり、そっと離れた。竜崎は何も言わなかった。ただ俺の頬に触れ、今度はこの男が唇を重ねた。
黙って受け入れ、それは深くなる。必死になって抱き合った。
愚かだ。滑稽でしかない。この瞬間をただ、逃したくなかった。
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