No morals

わこ

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第一部

30.6-Ⅴ

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「あ、れ。昭仁さんは?」
「煙草買いに出てます。切らしたみたいで」

 その日の夕方、ミオにやって来た俺をカウンターから迎えたのは加賀だった。
 昭仁さんが自分の店を放って煙草を仕入れに出掛けることは今に始まったことではない。加賀に店番を押し付けて愛煙家としての習慣を貫く駄目な大人に苦笑しつつ、いつもの席へと腰を下ろした。

「仕方ねえな。お前も文句くらい言ったって罰当たんねえぞ」
「いえ、そんな」

 グラスを出しながら加賀はにこやかに首を左右に振った。

「俺で少しでも役に立てるなら。大したことできませんけど」
「十分過ぎるくらいだろ。つーかそれより健康管理してやれよ。昭仁さんあのままいくと近いうち確実に肺ガンで死ぬ」
「それは俺も心配なんですよね……。見てる限りほぼ一日でカートン消費してます」
「死ぬってマジで」

 むしろ死にたいのだろうか。社会の風潮を逆行しているというかもはやあれは病気だ。
 煙草依存症から抜け出す気のない診療所無届開設の医者。肩書きも危うい昭仁さんに呆れつつ、冷たい酒に口をつけたあとは小さく溜め息が漏れ出ていた。
 流れているのは穏やかな空気。なのにどうにも落ち着かない。ついつい右隣りに顔を向けても、そこには誰の姿もない。

 竜崎と別れて半日と数時間。今頃どうしているとか、父親との話し合いは上手くまとまっているのかとか、そもそも話し合いで済むのだろうかとか。気付けば一日中そのような考えを巡らせている自分がいた。
 親子の会話とはいえ、命懸け。相手はヤクザの組長だ。
 ここに腰掛けてから早くも二度目の溜め息が出てきた。そのつもりはなくても黙っていると勝手に気分が沈み込んでいく。

「……あの……大丈夫ですよ。危険なことはないと思います」
「あ?」
「恭介さん、大丈夫です」
「…………」

 店主にこき使われている健気なやつに俺まで気を使わせてしまった。

「ほんとは、あの……少し前から組と話し付けてくるって決めてたみたいなんです。滝川の一件以来、向こうからの接触も何度かあったらしいんで」
「そうなのか……」
「連れ戻すなら今だと思ったんだろうって……。これまではただ単に、時期を見計らってただけだろうって……言ってました」

 そうか。最初から全部、決めていたのか。
 以前は部屋に来いとしょっちゅう言われた。最近は腕を引かれることもなかった。冗談と分かる口振りで来いよと言われることはあっても、結局はそれだけ。それ以上はない。来いよと言いつつご丁寧にも、俺を自宅まで送り届けた。

 あの男はいつだってそうだ。冗談なのか本気なのか、その境目をはっきり見せない。
 会わせないようにしたかったのだろう。俺と、組の人間を。今朝のあの状況もそうだ。真っ先に、身内から俺を遠ざけた。

「……俺はそんなに弱そうな奴に見えるか」
「え?」

 キョトンとした加賀の顔と声。それを見て。視線を下げた。

「なんでもない……。ごめんな」
「裕也さん……」
「…………」

 俺には何も言わないくせに、昭仁さんと加賀には話す。
 どうしてなのか理解はできても、ガキくさい感情が顔を出す。どうしたって納得はできない。知らないうちに守られている。
 裏の社会のことなど何も知らない。そんな人間に弱みを見せても、あいつにとっての利益はない。

「……言うなって、言われてました。裕也さんには」

 加賀のその一言に、自嘲気味な笑い声が漏れ出た。

「……だろうな」
「いえっ、そうじゃなくて……心配するからって」
「…………」

 最初からずっとそう。この手の話とは関わらせない。へらへら笑ってつまらない冗談で俺の気を逸らしては、なんでもない大丈夫とでも言うような顔をして話題を変える。

 俺が心配するから。悪いかよ。心配したってどうせ何もできない。何もできない事に俺が焦るのをあの男はきっと分かっていた。意識不明ののち目覚めたその時、最初にごめんと言うような奴だ。
 グラスにまた口をつけた。カウンター越しにそれを加賀が見ている。

「……初めて裕也さんと話した時、恭介さんと似てるって……思ったんです」

 視線を上げた。素直で従順そうな顔が目に入る。

「優しいし、黙って話聞いてくれるし……ちょっと笑った時の感じとか、その、雰囲気って言うか……。すみません、意味分かんないですね。あんまうまく言えないんですけど……」
「……似てるか?」

 こくっと加賀がうなずいた。前に昭仁さんからも同じようなことを言われたが、似ている節など一つもない。似ているどころか正反対だ。
 毎日とことんふざけ倒し、口を開けば人を苛立たせ、しょうもない言動で陽気に振舞い、そして何より、とても優しい。俺はあそこまでデカい男じゃない。ちっぽけで、身を守ることだけを最優先にして生きてきた。逃げるための術ばかり知っているが、あの男は知っていても逃げない。

 真逆だ。考えれば考えるほど。
 ぼんやり相違を浮かべていると、グラスの中に入った氷がカランと小さく音を立てた。やる気のない店主は客の好みも聞かずに問答無用でストレートだが、客の要望に合わせる加賀が来てからはロックでも水割りでもハイボールでもなんでも好きに飲めるようになった。

「とにかく、大丈夫です」

 真正直な顔で言われてしまってはわざわざ否定するのも気が引ける。だからそれとなく、言い方を変えた。

「……組を抜けるって言うのはそんな簡単な話なのか」
「いえ……でも、恭介さんは外から入ってきた連中とは立場が違います。いくら組長の嫡男っていってもどこで生きるかは自由でしょうし」

 自由であるはずのそれを父親が許さないと、竜崎が言っていたのを思い出す。後継はあいつだと言って譲らない。だからその人と話をつけに行った。それをあいつは、ケジメだと。

「……どんな人なんだ。あいつの親父って」
「あ、すみませんあの……俺もお会いしたことはほとんどなくて……」
「なんだ。同じとこ住んでたんじゃねえのか?」
「俺が居ついてたのは恭介さんのとこだったので。あの二人がそもそも私生活で顔合わせることってほとんどなかったんです。仕事ともなれば話は別ですけど、そうでもない限り恭介さんから近づくことはあり得ません」
「……険悪だな」
「ええ……。組長は普段屋敷にいますが、恭介さんは事務所のビルに自分の仕事部屋持ってましたから。最上階のワンフロア……っつーかそのビル丸ごと恭介さんの物みたいな感じだったんで、大抵はそこに寝泊まりしてて」
「……そうか」

 俺の妄想はとことん陳腐だ。立派な日本庭園を一望できるバカでかい家屋とか、リアルな毛皮の大きな絨毯が当然のように床を敷き詰めている高級ホテル並みの一室とか。袴姿の身内同士が赤い盃を持ちながら肩を並べた仰々しい風景とか。
 描いていた極道一家の私生活というものは、ドラマや映画で誇張されていた映像をなぞったに過ぎなかった。自分の幼稚さを思い知っただけ。現実はきわめて淡白。
 ビル一つ丸ごと自由にできる立場。俺には想像もつきそうにない。それを捨ててまで今の生活を選ぶというのは余程のことだ。そこまでして実家から離れたがる息子に、後を継がせたいその意図が理解できない。

「世襲じゃねえ組もあるんだろ?」
「むしろ実子に継がせることの方が珍しいと思います」

 かつてはどうだったかは知らないが、ヤクザの息子だと自慢して回る人間はそうそう見かけることがない。よほど頭の悪い奴が中高でイキがるときのセリフだ。
 今はハンデにしかならない。昔も少なからずそうだっただろうが。暴力団排除が進む時代において実子を同じ道に進ませようなど、普通なら。
 そんな時代にあってさえ、うまく生き残って利ざやを得られる組織はそれだけの力を持っている。

「……竜崎の家に生まれてくる男はみんな揃って極道向きだって、あそこにいた時そういう話はたまに聞くことがありました」
「極道向きか……」

 その辺のチンピラとはわけが違うのだろう。カランッと軽い音を立てながら口元でグラスを傾けた。
 テーブル席からは酔った客からオーダーの声がかかった。加賀は即座に対応するが、待ち切れなかった酔っ払いはカウンターにふらふらやって来る。

 ここには滅多に一見が来ない。ほとんどの奴らが顔なじみだ。そしてみんな加賀を可愛がり、俺のことはなぜかからかって遊び、グラス片手にやって来たその客も気持ち良さげに俺達に絡んだ。
 一言二言相手をしてから俺の手には負えず加賀に任せる。そいつは待望の酒と一緒にテーブルに戻された。同じテーブルにいる奴らが後は面倒を見てくれる。あちこちから声を掛けられながら加賀だけカウンターに戻ってきた。

「お前も大変だな毎晩毎晩。酔っ払いの相手なんかよくやってられるよ」
「こういうのも結構楽しいですけどね。ここの人達はみんな親切ですし」

 カウンターに戻ってきた加賀に声を掛けるとにこやかに返された。酒さえあれば楽しめる連中だ。親切。というより、壁がない。

「色んな話も聞けるんで毎日飽きません」
「向いてんだなお前は、こういう仕事」

 ちょっとした量販店のちょっとしたレジ担当でも苦痛な俺とは大違い。接客販売と名の付くものに自分は全く向かないのだと、最近改めて思い知った。
 もっともこの店は接客マニュアルを定めているような店ではないし、そもそも店主があの感じだが。やる気のない煙草のみな店主と、ガラは悪いが気さくな客達。そんなメンツに囲まれながら、いつでも礼儀を弁えている加賀はこの場にいる誰よりも常識人だ。

「あ、お帰りなさい」

 カランと店のドアが開いた。加賀の声にこたえたのは、白い煙をまき散らしながら入ってきた昭仁さんだ。

「……早速かよ。んなことしてっからすぐにタバコ切らすんだろ」

 パンパンに膨らんだビニール袋を両手に持ってやってきた店主。咥え煙草のまま平然とカウンターに入っていった。
 半眼で俺に見られても昭仁さんは気にしない。右の口の端をいささか上げてククっと喉の奥で笑うだけ。カートンで一杯になった袋をカウンターの内側に置き、すでにだいぶ短くなっている煙草を手に持ち直すと煙を吐いた。

「俺のささやかな楽しみだぞ。誰に迷惑掛けるもんでもねえんだ」
「迷惑しかかかってねえっての、この禁煙時代に」
「デカく出たな」

 公害と副流煙の発信源はまるで他人事に煙草をふかしている。異常なまでのスモーカーにとっては自分の嗜好が最優先事項だ。

「加賀にも店任せっきりだし……。つーかシケねえ? そんなまとめ買いじゃ。ウマくもなんともねえだろ」

 袋の中に詰め込まれているのは、平均的な喫煙者であればしばらくは持ちそうな量だ。
 なあ、と隣にいる加賀にも同意を求めると困ったように笑みを向けられた。そうだ。ついさっき昭仁さんの喫煙ペースを聞いたばかり。

「……アンタ死ぬって。肺なんか真っ黒どころじゃねえよ」
「コレで死ねたら本望だな。女の腹の上より最高」
「最低だ」

 中年男のつまらない冗談に呆れる。ここまでくるとさすがの加賀でもフォローのしようがないようだった。

「むしろ昭仁さんには面倒見てくれる女が必要なんじゃねえの」
「介護か?」
「まだ早いだろ」

 自分で自分を老体扱いして何が楽しいのだか分からない。
 ほとんどフィルターしか残っていない煙草を昭仁さんはとうとう灰皿に擦り付けた。そして早速、次の煙草に点火。

「…………」
「…………」

 思わず加賀と顔を見合わせた。この人には何を言っても無駄だ。
 口やかましく言ったところでこればかりは素直に聞くような人じゃない。諦めてグラスを手に持った時、カウンターに足を寄せてきた一人の客。昭仁さんに酒代を渡しながらニヤニヤとした表情で言った。

「昭仁は女抱いてても煙草吸ってんもんな?」
「どっから聞いてたお前。余計なこと言うなよ、俺の評判落ちんだろ」

 補足とばかりに言い放ったその男は程好く酔いながらも正気のままだ。
 どうやら実話。なんてことだ。その男は昭仁さんから俺に目を移すと愉快な様子でさらに言った。

「意地でも煙草離さなくてよぉ。こいつとヤルと肌に焦げ跡付けられるって有名だった」
「なんだそれ……アンタ医者だろ。どこの鬼畜だよ」
「今はねえぞ。昔の話だ。俺にも若い時代があったっていいだろ」

 若気の至りにしてもエグい。加賀は赤い顔をして目を逸らしていた。
 ほしくなかった置き土産を残してその男は楽しげに去っていったが、謎の多い昭仁さんの武勇伝はできればもう聞きたくない。ひどい過去が明るみになりそう。昭仁さんをジトッと見上げた。

「裕也お前あからさまに引くなよ。昔の話だっての」

 薄く笑って言われたところでそうですかと納得はできない。軽蔑の眼差しを向ける俺への弁明は諦めたのか、昭仁さんは隣の加賀に援護を求めた。
 お前は俺の気持ち分るよなあ、などと絶対共感してくれないであろう善良な人間に返答を求めている。可哀そうだからやめてやれ。俺がより一層顔をしかめると再びこちらへと標的を移してきた。

「自分だって似たようなもんだろ。俺なんかよりお前のがよっぽど手ぇ早いんじゃねえのか」
「一緒にすんな。俺タバコ吸わねえし」
「ヤンキーがタバコ吸わねえで何吸うんだ」
「俺がいつヤンキーになったよ」

 手が出る、足が出る、口悪い、目つき最悪。昭仁さんはすらすらと並べ立てた。俺の目つきがいま悪くなっているのは全て昭仁さんのせいだ。
 もしもここにあの男がいたら、昭仁さんに便乗してここぞとばかりに俺を貶しただろう。その席に視線を向けて、腹の立つ想像でさらにイラッときたものの、次の瞬間には抜け落ちるようにイラ立ちが消えている。
 もしもの場合だ。今はここにいない。つい、溜め息が漏れていた。

「……分かりやす」
「あ?」

 含み笑いを交えてぼそっと呟かれたその一言。顔を上げたら意外にも、そこには穏やかな笑みがあった。

「あいつがいたんじゃ女に手出しするどころじゃねえよな?」
「…………」

 そこまで分かりやすいだろうか。昭仁さんは笑顔のまま灰皿に灰を落とした。

「恭介もなあ、前は女なら誰でもいいって感じだったのに。まさかお前に…」
「ッ昭仁さん!」

 慌てて叫んだ。加賀にそろっと目を移す。
 キョトンとしたその様子。あいつと俺との微妙な関係を加賀に知られるのは避けたい。

「そろそろ苦しくねえ? 時間経つとその分バレたときの傷が深いぞ」
「別に……つーか、そういうんじゃねえし」
「へーえ」
「…………」

 嫌な人だ。
 大人げのないニヤついたその顔を恨みがましく睨みつけた。しかし昭仁さんは本当に大人げない。これじゃつまらないとでも言わんばかりに隣の加賀へ話を振った。

「恭介のふしだらな性格は昔からか?」
「ふし……え?」

 何を聞いているんだ何を。加賀も加賀で素直なものだから聞かれた事には真面目に答える。

「ふしだら……では、ないと思います。組員が勝手に女の人連れてきてたりはしてましたけど」
「ほーう。たとえば?」
「ソープ嬢とかAV女優とか」

 何を言わせているんだ何を。加賀の口からは到底出てきそうにない単語を耳にして顔をしかめた。

「でも恭介さんはいつもあんま乗り気じゃないって感じでしたよ」
「年季入った女ばっかだったか?」
「いえ全然。若くて綺麗な人ばっかりでした」
「贅沢な奴だなあいつも」

 このおっさんは何を話しているのだろうかさっきから。

「で? 乗り気じゃねえが食うには食ったと」
「はあ……まあ……。組の中での地位もある人ですから周りの人間はやっぱ群らがってきますし」
「黙ってりゃイイ男だしな」

 余計な合いの手を入れた昭仁さんに戸惑いつつも加賀はうなずいて返した。

「初めはみんな組の後継ってことで近付いてくるんですけど、一度相手されるとマジになっちゃう女の人も多かったみたいで。ただやっぱ恭介さんには全然その気がなかったようです。部屋出入りする女性も毎回違う人でした」
「贅沢以外の何ものでもねえ」
「……すみません。余計なこと言い過ぎましたね」

 元鬼畜の暇つぶしにいいように付き合わされた加賀は素直に喋り切ってから黙った。こいつもなんと言うのかこう。
 昭仁さんは満足そうに加賀の肩をポンと叩いた。悪巧みの矛先はすぐさま俺へと向けられる。

「ショックか?」
「は?」

 眉をひそめて昭仁さんを見返した。

「……何が」
「実はショックだろ」
「なんでだよ……バカじゃねえの」
「素直じゃねえなあまったくよぉ」

 くすくすと溢される笑い声。カウンター越しに手を伸ばしてきたこの人は、俺の髪をわしゃわしゃ搔き乱した。

「ンだよッ」
「可愛いじゃねえの」
「ふざけんなっ」
「心配しなくても他にはもう手ぇ出さねえっつってたろ。組ともしっかり切れてお前のとこに戻って来るからそんな顔するなよ」
「だから何がッ。俺には関係ねえ!」

 この人は俺とあの男をどうさせたいのだろう。
 そこにあるのはおそらく、単なる遊び心。迷惑だ。俺で遊ぶな。

「ほら、あれだ。失って初めて分るってやつ」
「聞けよ人の話をっ、つーかあいつ生きてんだろ!」

 不謹慎かつ縁起でもない。にこやかに言っていい事でもない。
 竜崎がいないときは昭仁さんが俺にストレスを与える。
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