No morals

わこ

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第一部

27.6-Ⅱ

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 店を出たのは夜も深まった頃。俺の左側を歩く竜崎はまたしても奇怪な行動に出ていた。

「ンだよさっきから、しつけえっ」
「恋人繋ぎ。男の夢」
「どんな夢だッ」

 暗い道を並んで歩きながら左腕をぶんぶん振った。こいつがしつこく手を繋いでくるから。店を出てから執拗に。
 気味が悪い。そのうえ繋ぎ方は悪質。指を絡めてきつく握ってくるものだからなかなか振り払えない。

「いいだろたまには。イチャイチャしたい気分なんだよ」
「キモいんだよクソが。テメエ前よりタチ悪くなってんじゃねえか」

 そこでとうとう足を止めた。強引にガッと引いたこの腕。互い違いに絡めた指を今度は竜崎も大人しく解いたが、間を置かずに手首を掴まれ、体ごとぐいっと引き寄せられた。
 直後、不意打ちに掠めた唇。感触だけの小さなキスだ。すぐ離れたその先で、竜崎とはっきり目が合った。

「久々」
「っっっ死ねッ」

 タチが悪い。意地も悪い。手首は掴まれたままであるものの、ほとんど力はこめられていない。

「……なんだよ」

 やんわりと捕らえられた腕を、労わるようにそっと撫でられた。
 鬱陶しい固定物も先日からなくなり左腕はようやく軽くなった。今が夜で、辺りは暗くて、おぼつかない街頭しか周囲になかったのは幸いだ。手首にかけての切り傷はもうほとんど跡が見えなくなっているが、それでも明るい場所に出れば薄く痕跡を残しているのが一目見ただけでも分かってしまう。

「……裕也」
「つまんねえこと言ったら殺すぞ」
「…………」

 竜崎の手からするりと逃れてすぐにまた歩き始める。隣を一緒に歩くこいつの、その顔をチラリと盗み見た。自嘲気味な表情には溜め息をつきたくなってくる。

「シケたツラしてんじゃねえよ。いちいちめんどくせえぞお前」

 突き放すように言ってやれば、ふっと弱く笑ったのが聞こえた。あれからひと月も経つというのに。
 過去の因縁に俺を巻き込んだ。この男はそう思い込んでいる。申し訳なさそうな顔つきは、こちらの調子が狂わせられるからいい加減やめてほしい。

「鬱陶しさに拍車をかけるな。人の心配するくらいならテメエの腹完治させろ、この死に損ない」

 そんな顔はしなくていい。悪態をつく自分自身が不自然になっていないか、いちいち気にしながら平静を装うのも本音を言えば楽ではない。
 竜崎は異常な回復力を見せたが、腹の傷がどうなっているのか実際には見ていない。あの出血量を考えれば、抜糸が済んだ今でも服の下は痛々しい状態になっているはず。
 心配しているとは思われたくない。どうせ見透かされているのだろうが。暴言を吐いてやったにもかかわらず、穏やかに小さく笑いながら懲りずに手を繋いでくる。

「……やめろっての」
「今のそういう雰囲気じゃねえ?」
「何をどうすりゃそう思えんだよ」

 手を振り払うと名残惜しそうに指をそっと解かれた。しかしそれでも必要以上に密接することは諦めない。窮屈な距離で歩調を合わせてくる。
 野郎二人で気色悪い。今さらそんな常識を説くこと自体バカらしい。鬱陶しいことこの上ないが、すっきりした穏やかな笑顔に安堵していることもまた事実。

「裕也といるとさ」
「あぁ?」
「甘えたくなる」
「…………」

 初めて言われた。こいつ本気で頭腐ってんな。

「……誰がお前なんか甘やかすかよ。むしろテメエだろ、お人好しなのは」
「うん?」

 暗くてはっきり見えない足元に視線を落とした。音にさせた小さな声はほとんど独り言に近い。

「加賀の奴……店にもよく馴染んでる。昭仁さんの所ならお前も安心できるだろ」

 あいつは昭仁さんにも一発で懐いた。竜崎が信頼している男なのだからそれも当然というべきかもしれない。あの性格だから住み込みの件がなくても、バイトとして雇われたのであれば懸命にせっせと働いただろう。

「お前は人のことばっかりだ」

 自分のことより人のこと。自身への評価は辛辣なのに、近しい人間にはとことん甘い。
 目を合わせずに俺が言うと竜崎は困ったように笑った。

「昭仁さんに頼っただけだけどな。俺が面倒みてやれりゃいいんだろうけど、情けねえよなあ。男として」
「今さらだろ。あの人と比べたら俺らなんか全然ガキだ」

 人徳、と言うにはあまりにもアウトローな匂いが強いが、あの店に集まってくるのはあの人を慕って来ている奴らだ。
 落ち着いていて器もデカい。思わず信頼したくなる。そんな人には到底敵わない。
 同意するようにこいつもうなずいた。そうだなと、どこか嬉しそうに、視線をいくらか上へと向けて静かな口調で呟いた。

「知り合った時からあんなんだったけど……デケぇ人だよ。あの人には全部見えてる」
「つーかほんと何者だよ。あんな商売して情報網広くて」
「あれで相当なヤリ手だからな」

 歩く速度もゆったりした中で、おかしそうに含んだ笑みを浮かべた。

「医者として呼ばれりゃどこの事務所だって普通の顔して入ってくんだよ。やる事やったら法外でクソみてえな請求金額堂々と言い渡して平然と帰ってくる」
「肝据わりすぎだろ……。そんなんでよくサツと仲良くしてられんな」
「マル暴からすりゃ安全に情報入手できる相手でもあるからな。情報の安売りはしねえけど」

 掴んできた情報を元に警察まで動かせる。一般人にはまず不可能。法律家であっても限界はあるはず。それを昭仁さんはやってのけた。

「昭仁さんは人を見てる。あの人には嘘も通用しねえ。必要な情報は必要な分だけお互いに腹割って出し合えるから、あの人のことだけは誰も裏切らない」

 情報というものは金以上に強力な財産になることがある。少し前に竜崎がそう言っていたのを覚えている。昭仁さんが持っている情報は真新しくて正確で、なおかつ広範囲にわたる。つまりそれだけのツテがるのだと。
 誰かにとって都合の悪い情報を握っていてもなお無事でいるのは、仮に昭仁さんに手を出したとして、その結果どこから睨まれる事になるのか容易には把握しきれないためだ。はっきりとした後ろ盾はない。それこそがあの人の強みである。暗黙のルールは誰にも犯せない。

 ただの煙草飲みでないことくらい、もう十分分かっている。利害関係の一致がなくてもあの人柄に惚れる人間は多い。俺もこいつも、そのうちの一人だ。それとは真逆の位置関係にいた人間の末路も、あのビルで見た。

「……味方で良かった」
「敵にすると怖ぇよな」

 誰よりも読めない人だ。やる気がないのは単なる演出か、それが素なのかは知らないけれど。
 いつの間にか昭仁さんについて語り合う時間になっていた。しかしこれだけは見逃せず、竜崎をチラリと窺った。

「……それで。どこまで付いて来るつもりだ」

 この男のアパートに繋がる分かれ道はすでに通り過ぎている。本来ならば左折すべき道を、こいつは俺と共に右に曲がってきた。

「自分のウチも分んなくなったか。お前は方向真逆だろ」
「いや、合ってる。裕也んとこ帰るから」
「あぁッ?」

 当然のように返された答え。ついつい声を張り上げた。
 来る気なのだろうなとは思っていたが。なんと図々しい男だ。

「……泊めねえからな」
「いいじゃんもう来ちゃったんだし、泊めてよ」
「泊めねえよ。ちょっと道戻るだけだろ、帰れ」

 竜崎の腕を横から押しやった。それをあっさり受け流しながら思いついたように提案してくる。

「あ、じゃあウチ来いよ」
「誰が行くか」
「泊まってけばいい」
「ふざけんな」
「もてなすよ?」
「いらねえよ」





 などと絶えず拒否していたのに。どうしてこういう事になるのか。
 その答えは一つ。竜崎が悪い。

「飲んだら帰れ。即帰れ。居座りでもしたらブチ殺す」

 結局付いてきてしまった竜崎を仕方なく部屋に上げた。黙って帰るはずもないからとりあえず湯を沸かしてコーヒーをゴドッとテーブルに置いた。
 背の低い小さなテーブルを挟んで竜崎の向かいに腰を下した。満足そうに俺を眺めてくるこいつ。いつでもどこでも迷惑な男だ。

「んな警戒すんなっての。なんもしてねえだろ。まだ」
「なんだ、まだって」

 身の危険しか感じない。マグカップを片手に持ったまま少しだけテーブルから離れた。
 外は寒いが部屋は暖かい。手の中のカップからも温かさを感じ取れる。なのに背筋は薄ら寒い。
 機嫌よさげな竜崎の笑みはかえって不気味さが際立った。出したコーヒーに口をつけるその仕草一つにさえも疑いを立てずにはいられない。

 前回のことが頭をよぎる。この男の手にいいように扱われてしまったあの屈辱。あれから何かとごたついていたためうやむやになっていたものの、決して忘れ去ることのできない忌まわしい最低の記憶だ。
 こいつの目はじっと俺に向いていた。カップをテーブルの上に戻し、膝立ちでこっちに近づいてくる。

「なん、だよ……」

 テーブル越しだった距離がすぐそばまで縮んでしまった。俺もカップを手放してジリッと後ろに下がっていく。
 そんなわずかな距離でさえもすぐにまた埋められてしまう。真意の読めない笑顔とともに、俺に詰め寄りながら言った。

「コーヒーだから」
「は……?」

 とてつもなく寒気のする笑み。憎らしいだけのその視線が、俺をからかうように捕えた。

「今夜は寝かさねえみたいなノリかなって」
「……あぁッ!?」

 頭がおかしい。見当違いにも程がある。
 咄嗟に握りしめたのは拳で頭に上った血は沸騰寸前。相変わらず口の減らないこの男の奇怪な発言に怒りが一気に込み上げてきた。
 しかし、掴みかかる想像は想像で終わった。炎が小さくなるようにしぼむ。憎たらしい顔から視線を逸らし、逃げるようにやや下に向けた。

「……バカ言ってんな。浮かれてんじゃねえよアホが」

 不発に終わる事となった拳は虚しく床と触れ合っている。その右手に竜崎が目を落とし、それから静かに俺を見つめた。
 一度はあんな傷を負った男に手を上げる気にはとてもなれない。昭仁さんのもとで療養していた時はなんでもないような顔をしていた。余計な気遣いだ。平気な訳がない。
 紛れもなく、重症だった。俺を庇ってそこまでの深手を負った。

 しつこいのは俺も同じだと思う。だがどうしたって拭い去れない。罪の意識は感情を際立たせ、おぞましい光景がその度によみがえった。
 失うことを怖いと思う。人間特有の、面倒な感情だ。

「退けよ。いちいち近寄ってくんな」

 言葉だけ素っ気なくさせても竜崎は動かなかった。それが気に食わず、ならばこちらからと黙って腰を上げようとしたところその前に俺の左腕を緩く掴んだ。
 握力は緩くても、動作は強い。ゼロ距離に反射で身構える。振り切ろうと思えば簡単にできそうな程度の掴み方だが、その視線には逆らえない。

「らしくねえじゃん」

 右肩には手を置かれた。間近に目を合わせてくる。

「いつもの威勢はどうした。抵抗しねえんならこのまま襲うぞ」
「ふざけんな……っ」
「殴ってこねえってことは食っていいってことだろ」
「ッんでそうなんだよ!」

 肘を引いて肩の上の手を振り払った。すると今度は頬に、ヒタリと。
 びくりと強張る。そんな俺に視線が真っ直ぐ突き刺さってくる。耐え切れず目を逸らすと、頬に添えられていたその手が俺の前髪をかき上げた。露になった額の左側。そこに薄い唇が触れた。

「ッ……」

 カッと羞恥が込み上げ、しかし気づいた。傷だ。それが残っている個所だった。
 すでにだいぶ薄くなって痛みも何もないような傷跡。そこから竜崎はそっと唇を離し、指先で微かに触れた。その感触がはっきり伝わる。

「おい……」

 固まっていれば肩を引かれ、次には首に唇が触れた。咄嗟に胸板に手をついている。唇が触れてくる感覚は、舌先の生温かい感触に変わった。

「っ……」

 動物が傷口を舐めるような、そんな動作だった。薄い傷跡にそれをされた。
 丁寧に、執拗に舌が這い、チュッと吸いつかれて肩が強張る。

「竜崎っ……いい加減に……ッ」

 水っぽい音を小さく立てて唇がそこから離れた。ほっとする間もなく服の裾に注意が向かう。竜崎の手がするりと忍び込み、服の中で腹の上に触れた。

「てめえ……ッ」
「あばらは?」
「……はっ……?」

 素肌に手のひらの体温が移る。その指先が肋骨の線をなぞった。

「まだ痛むか」
「な、に……」

 服をそっとたくし上げられた。竜崎の視線は腹の上。あばらだ。
 ここからは少し伏し目がちに見える。心臓が跳ねそうになるのを堪え、竜崎の手を掴んだ。

「なんともねえっての……放せよ」

 その手から逃れるように身をよじる。だが逆効果だ。腕を引っ張られ、抱きしめられて、さっきと同じようにして首元へと唇を寄せてきた。

「りゅうっ……おい……!」

 キス程度だったのは最初だけ。傷跡を舐め、吸いつき、甘く噛みついて、くすぐったいようなやわらかいそれは肌の感覚を鮮明にさせる。

「やめろって……ッ」

 顔が熱い。本当に動物みたいだ。ペロペロと傷口を癒す時の。

「なんともねえよ……全部治ってる……」
「俺もだ」

 ちゅっと、唇がそこから離れた。

「俺だってもう治ってる。傷口だって塞がってんだし、殴られたくらいじゃどうにもなんねえよ」
「…………」

 大きな手のひらで頬を包み込まれた。後ろめたさに、目を逸らした。

「俺には気にすんなって言うのに、裕也がそんな顔する必要ない」
「……程度が違うだろ。お前は死にかけた」

 俺のはそのうち消える傷だ。この男のは、それとは違う。しかし竜崎は静かに言った。

「同じだよ……」
「…………」
「あのビルでお前を見た時……あいつら殺してやろうと思った」

 声だけは穏やかに、それでいて内面の怒りが滲み出ている。見ているから余計に分かる。あそこでもしも止めなかったら、この男は本当にそれをやった。
 何も言えずに黙り込んだ。俺の首に指で触れた竜崎は、きつく眉間を寄せていた。

「痕残るかもな……」
「……残んねよ、これくらいなら。仮に残ったとしても女じゃねえんだ。別になんとも……」
「俺が嫌だ」

 その唇は今度は喉元へ。刃先を食い込ませてできた傷も、今はただの薄い数本の線だ。その線を舌が撫でていく。

「竜崎……」

 バイトもあるから、首元を隠せるような服をここのところしばらく着ていた。それがむしろいけなかったのか。
 舌先は徐々に熱っぽさを露にしだした。追い込まれ、顔をやや上向かせる。薄い皮膚には時折ピリッと、痛みとは異なる感覚が走った。

「ッ……め、ろって……」

 傷跡の上にこの男の跡が重なる。押し返すには程遠い力で胸板についた手は役に立たない。

「竜崎っ……」

 言葉尻を強めて呼んだら、そこで竜崎が顔を上げた。目に映るその顔。じっと見てくる。不覚にも今度こそ、心臓が跳ねた。
 再び距離がゼロになることに、俺はきっと気づいていた。

「…………」

 ゆっくりと重ねられた唇。顔の向きを逸らすくらいの余裕はあった。それをせず、キスを受け入れ、そうすると竜崎は俺を抱きしめた。
 抱かれたまま触れるだけのキスは終わり、目が合ってしまえば感情が流れ込んでくる。
 どうかしている。拒絶なんてできるはずがない。気づいた時にはまた唇が重なり、この手は竜崎の服を弱く握った。
 唇を舌先で濡らされて、おとなしく口を開いている。舌と舌がちゅくっと絡まり、そこをゆっくり舐められた。

「ん……」

 口内を舐め回される感覚も、舌を吸われる気持ちよさも。全部知っている。この男のキスだ。追い込まれ、喜んで受け入れた。
 腰が引けていたのは最初だけ。自ら抱きつきしゃぶりついている。片頬を包み込まれ、求められるまま舌を絡めた。

 頭も体も、感情もおかしい。二人分の荒っぽい呼吸が聞こえる。シンとした室内に響いているのは卑猥な水音。何度も飽きずに唇を重ね、その度に深くなった。
 何も考えたくない。その必要がない。気持ちいい。それだけだ。体が熱い。
 しかしその時、ガチャンッと。

「ッ……」

 静まっていた部屋の中で場違いな音が響きわたった。はっとしてキスも中断される。
 音を立てた犯人は湯を沸かすのに使った小鍋。その横に立てかけておいた、同じ材質の蓋だった。

「…………」
「…………」

 金属音を聞くと同時に唇も腕も離していた。竜崎の手はまだ俺の腰に。俺は逃げたいが竜崎はそうさせない。
 何度愚行を繰り返せば気が済む。新種のウイルスにでも感染したのではないのかと疑いたくなるような自身の奇行に、後ろめたさやら羞恥心やらでそろっと無理やり視線を落とした。

「…………」
「…………」

 無言。これはこれで相当につらい。
 間違いだった。そうとでも言えれば多少は楽だが、この男の手は腰から離れない。小さな抵抗も封じ込められてしまいそうなほど強くだきとめられていた。
 そして何事もなかったかのように続行されそうになったキス。こいつがそれで良くても俺は良くない。唇が重なる寸前、咄嗟にバッと上げた右腕。竜崎の口元を手のひらでピタッと覆って物理的な壁を作った。

「…………」
「…………」

 再び無言。どうにも気まずくておずおず手を離したら、不満そうな目が俺を捉えた。
 これ以上分かりやすい顔もない。だが俺もここで引く訳にはいかない。ここで何もせずじっとしていたら、本当に後戻りできなくなる気がする。
 ところが一方の竜崎は、完全に男の声と目だ。

「嫌なら拒め」
「え……?」
「じゃないと俺も止まんねえから」

 肩に手を置かれ、かと思えば次の瞬間には加重されている。直後、感じたのは背中の硬さ。床だ。一秒もかからず押し倒されていた。
 まばたきも忘れて俺は硬直。真っすぐ上の竜崎の顔。さらにその先には見慣れた天井。

「ノッてきたり拒んだり……そいのでむしろ煽ってるって自覚ねえんだろ」

 ヤバイ。それだけは直感で分かった。竜崎は俺を見下ろしたまま、拘束とまではいかない握力で俺の両手首を床に縫いとめた。
 至近距離にその顔がくる。同性に向けるには異常なまでの、熱を含んだその表情。耳元で響いた声からは、あからさまな欲情を感じた。

「裕也……」
「ッ……」

 背筋にぞくりと、何かが走った。
 正直に鳴り響く心臓の音がやたらとうるさい。いつものふざけた態度とは異なる雰囲気は俺の思考を奪っていった。ほとんど唇が触れそうな距離で、竜崎は小さく呟いた。

「キョヒれよ。ぶん殴んのは得意だろ」

 その言葉が終わるかどうか。そんな辺りで重なっている。ついばまれると従順に開きたくなる、愚かな思いはどうにか断ち切り、顔の向きをさっと逸らした。しかし意味はなかった。竜崎の唇は俺の喉元に触れ、服の裾から入ってきた手は腹の上をスルッとなぞった。

「っやめろバカ……ッ」

 肌に吸いつかれる度にぴくりと無様に肩が揺れる。服の下では指先が腹の上をスルスル移動し、すりっと、胸の突起を掠めた。
 羞恥心は殊更に倍増。その腕を慌てて掴んだ。

「はなせっ、ヘンタイ……ッ」

 器用に動くその指先。男の胸を弄んでクリクリと弧を描くようになじってくる。摘まんだり引っ掻いたりとしつこく与えられる刺激に、口を引き結んで耐えた。
 あってはならない。こんなこと。俺とこの男との間では決して起こるはずがない。それくらい理解しているのに、この手は竜崎の服を握りしめた。

「っめ、ろ……ッ」

 すがるように服を掴む手と、声にならない制止の言葉。滑稽なまでに食い違った俺の言動を竜崎は上から眺めた。
 ほんの少し触られただけだ。それでも身体は熱くなる。

 首の右側にやんわり噛みつきながら這い回る舌の動きが鮮明で、その感覚から逃れるように反対側に顔を背けた。
 そこにきゅっと吸いつかれた。肩は強張り、きつく目をつぶる。視界を閉ざしたその一瞬ののち、乳首にちゅくッと濡れた感覚が触れた。

「なんっ、やめ……竜崎……ッ」

 シャツは胸の上までまくられ、右側の突起に舌が触れている。ねっとり舐められ、しゃぶりつかれて、もう一方は指先でスリスリといじって擦られた。

「ヤっ、め……マジ、ふざけんな……っ……」

 あり得ない。あり得ない、こんなの。微かな震えが止まらない手で竜崎の頭を押し返す。

「ッ……りゅ……ヤダって……っ」
「それで抵抗してるつもりか」
「なんでっ……ッぁ……」

 カリッと、歯を立てられた。痛みとはまったく異なる。しびれるような感覚がじんわりと広がった。
 男に乳首を噛まれたショックと耐えきれないほどの羞恥心。顔が熱いのはもはや隠しようがない。いやらしく動く指先と舌には一切の手加減がなかった。

 いじめかと思うくらい執拗にそこをなじってくる。甘噛みのあとは舐められ、しゃぶられて、指先に力が入った。
 嫌なのに。体は反応を示す。指先はまたそこをクリクリ撫で、片方はちゅくっと強く吸われた。

「っ、ぁ……やめッ……こんなの……だめだ……」

 いけないと分かりながらも呼吸は乱れる。耳に入ってくる濡れた音が脳に響き、縮こまりながら竜崎の頭を押した。

「ンッ……っ」

 歯で擦られる。ゆるく噛まれた。妙な声が鼻から抜けていく。卑猥な音と刺激は竜崎による明らかな故意だ。

「やっ、ん……ッ」

 突如、はっきりした強さで噛まれた。痛みはない。ジンジンとうずく。
 そこを慰めるようにペロッと舌を這わせてから竜崎はようやく顔を上げた。

「……抵抗しろって。犯されたいのか」
「ッやめろっつって……てめえが聞かねえんだろッ……」

 理不尽な物言いに食ってかかるも聞き入れてはもらえない。わざとらしい溜め息を聞かされた。

「お前のそれは抵抗じゃない」
「勝手なこと言ってんじゃ……ッ」

 敏感になっているその箇所を爪の先で引っ掻かれた。言葉は途切れる。せめて睨みつけてやりたいと思うのに目元には力が入らない。憎たらしい顔が、ただ映りこんできた。

「なにが、してえんだよ……」

 俺も十分ちぐはぐだろうが、この男も意味が分からない。強引な真似をして見せたり、かと思えば抵抗しろと言ったり。
 真上からじっと見下ろしてくる。強い視線に、呼吸は止まりそう。

「も……十分だろ。ふざけんのはよせ……」

 上下する胸をできる限り抑え、視線を横に逸らして言った。腹から胸までは剥き出しで、濡れた乳首はそこだけヒンヤリとする。
 居た堪れない。全部なかった事にしたい。しかし竜崎は俺の顔の両脇にそっと手をつき、距離を近づけ無理やり目を合わさせてきた。

「ふざけてない」
「は……」
「いつだって本気だ。お前には」

 からかいでもなんでもない。こういうときに限って笑みもない。真面目くさった面持ちで言うと、そのまま顔を伏せてくる。
 唇に重なったこの男の体温。咄嗟に動いたこの腕は、竜崎が床に縫いとめてしまった。そこには大して力が込められず、迫りたいのか逃がしたいのかその行動に混乱させられる。唇の形にそって舌先でゆっくりなぞられた俺も、途端にどうでもよくなってくる。

「……っ……」

 甘ったるい。人をマヒさせる毒だ。深くこちらから求めたくなる。欲情されて、それに興奮させられ、床の上で指が互い違いに絡んで動揺と困惑ばかりが募る。
 拘束なんてされていない。ギリギリのところで逃げ道を提示され、拒否することなど容易にできる。押しのけて怒鳴りつけてやればいいだけの話。たったそれだけのことだ。

「ン……ふ……」

 だがそうはならなかった。怒鳴り声とは程遠く、絡まる指を解こうともしない。
 再び竜崎のキスを受け入れ、口の中を舐めまわしてくる舌はまるで俺を責めるかのよう。長いような短いような、時間の感覚は分からなくなるが、確かめ合うように交わすキスはこれ以上ないくらいに深い。

 自ら顔を傾けた。繋がりを求め、竜崎は俺に応じながら絡めた指先に力を込めた。時々焦らすかのように唇の間に隙間を作り、そこで俺の顔を見ては、目を細めて舌に吸いついてくる。

「んぅ……ん……」

 二人分の唾液が喉を通った。コクリと鳴る、その音がやけに大きく響く。大嫌いで相性は最悪で本能的に近づきたくない。そんな男とするキス以上に、気持ちいいものを俺は知らない。
 唇がこすれ、舌が絡まる卑猥な水音。熱っぽく乱れているお互いの呼吸。逃げることも拒否することも頭からは完全に抜け落ち、繋がれた手も握り返していた。もしも手を握られていなければ、腕を伸ばして抱きしめていたかもしれない。

「ン……」

 最後にチュッと舌先を吸われた。ゆっくり目を開けた。その顔はまだ間近。まぶただけ僅かに伏せつつ、指に込めた力を気まずく緩めた。そこから離れた竜崎の手が、俺の髪を梳いてくる。

「逃げねえのか」
「…………」

 優しい指先は見せかけで、声と口調からは悪意を感じる。

「どうして」
「…………」
「逃げられただろ。なんで抵抗しなかった」
「…………」
「裕也」

 からかっているようで、それとはまた少し違う。答えたくないし、答えられないし、自分でもずっと混乱している。

「…………わかんねえよ……」

 正直な感想だがいよいよ間抜けだ。頬に触れられ、ほとんど強制的に竜崎は目を合わさせてきた。

「キスが好き?」
「…………」

 その答えはイエスでもノーでもない。どちらでもなかった。今までは。ただこの男が、あまりにも。

「俺とするキスが好き?」
「…………」
「女よりもよかった?」
「…………」
「なあ?」
「…………」

 頭のおかしい質問攻めにも言い返す事すらできない。遠からずといった問いかけはわざとだろう。
 拷問か、診断か、事情聴取か。どれであろうと嬉しくはないが、竜崎は核心をつくように言った

「俺が好きだろ」
「……っ」

 とうとうパシッと払いのけた。その手を。俺の手にも軽い痛みが伝わる。

「バカじゃねえのかっ……いい加減ウゼえんだよ」

 竜崎の体を押しやるのは簡単だった。これもわざとだ。逃げ道を示され、即座にその場から立ち上がった。
 これ以上その顔を見ていられない。俺の顔も見せられない。首から上がひどく熱いのを自分ではコントロールできない。

「帰れ。しょうもねえことばっかしやがって、なんでお前はそう…」

 そこでグイッと体が揺れた。後ろから腕を引っ張られ、背中に覆いかぶさるようにしっかり抱きしめられている。耳元では、低くその声が。

「図星か」
「っんなわけ……!」
「お前は俺に惚れてる」
「ッちげえよ! うぬぼれんな!!」

 暴れてその腕を振りほどいた。しかし距離を取る前にまた腕を掴まれ、無理やり正面を向かされた。目が合う。

「っ……」

 サッと斜めに俯いた。見られたくない。こんな顔をこの男には。

「惚れてんだろ」
「違うっつって……ッ」
「じゃあなんでそんな顔してんだ」

 顎に手をかけ、クイッと上向かされた。全てを見透かすかのようなその目。

「言っちまえよ。好きだって」
「……違うっ」
「いい加減認めろ」
「ッ……」

 胸板を押した。その手はすぐに捕まる。震えそうなのを知られたくない。

「ほら」
「んなんだよ、放せっ」
「お前のその顔。それが証拠だ」
「っ……」

 全部を奪われる。プライドも何もかも。情けない俺とは正反対に、この男はコントロールする側の顔だ。
 これ以上奪われるわけにはいかない。俺には何も残らなくなる。

 身を守るのだけは上手くなり、その癖が今ここで出た。隙だらけだった竜崎の足元を気づいた時には蹴り払っていて、あっさり揺らいだその体を床にダンッと薙ぎ倒していた。
 馬乗りになって胸倉を掴み上げ、ガムシャラに喚いた言葉が何であったかは自分でも認識できない。込み上げてきたものを根こそぎぶちまけるように、加減なくその横っ面を殴った。

 ガっという鈍い音。それと同時に自分の拳に感じたのは痛みだった。
 殴られてもこの男は平然としている。分かってる。これだってどうせわざとだ。こうも簡単に俺に殴られるはずがない。足元をガラ空きにさせるわけがない。
 腹が立つ。どれだけバカにすれば。こんな滑稽な姿を、何度晒させれば気が済む。

「ムカつくんだよテメエのその態度がッ……くたばれこのっ……ふざけんのも大概にしろッ……!!」

 悔しい。その捌け口もない。何をしてもこの男には勝てず、挙句には自ら支配されに行く。どうしたって思い通りにはいかない。俺だけがいつものめり込む。
 屈辱であったり混乱であったり、ただでさえ何がなんだかわからない。それを余計に追い込もうとするこの男が嫌でたまらなかった。

「嫌いだ……お前なんか……っ」

 掴んだ胸倉に力を込めた。余裕な表情を苦々しく見下ろす。ところが反対に真っ直ぐ見返され、一瞬の隙。そこを突かれた。
 ふっと後ろ頭を手のひらで覆われた。温厚な手つきを裏切る力強さでグッと引き寄せられ、咄嗟に胸ぐらから手を離した。トンっと床に両手をついた時には、下から奪うように口づけられていた。竜崎の顔の両横で、体を支える腕がぴくりと揺れた。

「っんん……!!」

 頭をかかええるようにして抱きしめられた。肘がくずおれ、体が密着する。下から伸ばされる竜崎の腕が緩む様子もなかった。

「っ……」

 唇に濡れた感触。舌先でなぞられ、慌てて腕を立たせ俺の腰が引けるとそこに片手を回してきた。服の裾からはスルッと指先が侵入してくる。

「やっ、め……」

 背骨に沿って這い上がってくるその手。じれったい指先の動きに意識が勝手に集中していた。

「はなせ……っ」
「逃げりゃいいだろ。気持ちよくて腕も立たねえか」
「ッ……!」

 背中から腹へ、腹から胸元へ、体をまさぐるいやらしい手つきに腕が震えて鳥肌も立った。ぞわぞわした感覚に身が竦む。もう一方の手を伸ばされても、それにさえすぐには気づかなかった。

「ぁっ……」

 その手が触れる。下半身に。ジーンズ越しにそこを包み込まれ、感情を置き去りにした男の生理現象を見せつけてくる。

「っ……や、めろッ……」

 やんわりと揉まれる。布越しであっても敏感にその動きをとらえた。少々強引に抱き寄せられれば、この腕はカクンとまた簡単に折れた。
 竜崎の体の上でヘタるように顔を伏せた。その間にも下半身では手を動かされている。僅かな主張だった下着の中のそれはすぐにはっきりと熱を持ち、耳元では竜崎が小さく笑ったのが聞こえた。

「俺に触られんのがそんなに好きか」
「っふざけ……」
「ちょっと触られたくらいでここまで感じるのは俺だからだろ」
「バカ、言うな……っ」

 やわやわと揉まれる。自分の手を握りしめて耐えた。硬くなったそこを布越しに撫で上げ、竜崎は一度手を離した。

「俺も同じ」
「ッ……」

 熱っぽい声と重なり、下から突如押しつけられた熱。
 わざわざ見ずとも何が起きたか理解した。服を隔ててさえ硬さを感じ取り、体がビクリと緊張で揺れた。

「お前に触ってると俺もこうなる」
「……ん、のっ……!!」

 スリッと下からこすり付けてくる。勃ってる。おそらく俺以上に。下からグッと強く押し付けられて、視界は急にクリアになった。

「っっっふざけんな!!」

 理性を備えた動物が人間だ。人間として生まれたことにここまで感謝したことはない。
 立たない腕を無理やり振り上げ、重力に任せてほぼほぼ直下。肘が突き当たるその先が、竜崎の脇腹だということにこの時は意識が回らなかった。

「う゛っ……」

 目下では竜崎が息を詰めた。振り上げたのは傷口とは逆側の右手だった。そんなことはどうでもいい。

「ワイてんじゃねえクソ変態野郎がッ……!!」

 これ以上ないくらいに叫び上げて身を起こした。肘が直撃した左の脇腹を押える竜崎と瞬時に距離をとる。
 あらゆる意味で呼吸が乱れている。半歩ともう少し下がった位置で竜崎を見下ろした。竜崎は腹を擦りながらも上半身をむくっと起こした。

「ってぇ……。お前さっきまでのしおらしさはどこ行ったよ」
「テメエが言うなこのヘンタイ! 死ねっ、そのまま死ねッ!!」 

 腰を上げて迫ってくる。ジリジリと後ろに下がった。いいようにされた体はまだ熱い。その事実が何よりも受け入れがたい。
 野郎の勃起なんか触りたくない。ああやって押し付けられなかったら、俺はどうなっていただろう。少なくともここまでの反撃はできなかったと思う。ろくな抵抗をしない俺を、この男はどうしただろう。

「っ帰れ! 二度と来んなッ」

 狂ってる。こいつも、俺もだ。
 全てを振り払うように腹から叫ぶと、竜崎は面白そうに笑った。

「さっきはあんなに可愛かったのに」
「っ……!」

 くすくすと笑い声を漏らす、その姿を見て何かがキレた。考えるよりも先に体が動いている。僅かなこの距離を自ら詰めて、竜崎の胸倉をガッと引っ掴んだ。
 そうやって押さえつけたまま繰り出した右手。顔面に突き出した俺の拳は、しかし難なくかわされていた。ここまでの至近距離にもかかわらず攻撃をよけられたうえ、反対に俺の手が竜崎に捕らえられる結果で終わった。

「テメエ……ッ」

 利き腕は失ったがまだ左手がある。即座にこぶしを握って身構えたものの、そこでふと、冷静な感情が戻った。
 視線の先にあるのは脇腹。思いきり肘うちを食らわせたその部位。傷を負った箇所とは真逆ではあるが、頭に血がのぼっている中で左右どちらの手を使うかなどいちいち考えていられない。傷口を、直撃していたかもしれない。

「…………」
「……だから平気だっつーの」
「っ別に……」

 さり気ない呟きに顔を上げて声を張った。否定しきるその前に、竜崎の手が腰に添えられている。

「そんな顔してると今度こそマジで犯すぞ」
「ッ……!?」

 耳元で囁かれた低い声。条件反射で沸き上がる。危険から逃げるための、身についた防御反応が。
 馴染んだ動作でさっと後ろに引いた頭を、勢い付けて前面に押し出した。

「だっ!!」
「死ね!!」

 ゴツンと激しく立った音。お互い額にはダメージが加わっている。短く発せられた竜崎の声と同時に僅かに手の力も緩んだ。
 頭突きによって危険回避経路を手に入れ、その体をどんっと押し返した。ジンジンする額に顔をしかめる俺の目の前では、同じく額を押さえている竜崎が立ち尽くしていた。同じような打撃であってもやった側とやられた側とでは違う。

「ぃっ、たぁ……またなんつー男らしい攻撃を……」
「テメエはマジで狂ってる! 今すぐ出てけ、殺すぞッ」
「物騒なもんだ」
「どっちが!?」

 ともすれば強姦魔。最低だ。ここまで危険極まりない男を野放しにしておいていいはずがない。
 竜崎の手が届かない距離に避難して全身に威嚇を込めた。これ以上この男とは同じ空間にいられない。俺自身このままでは正常な思考が持っていかれる。

 扱いにくくて手に負えない。かと言って逃げる事もできない。悪魔のようなクソ野郎だ。
 そんな男を睨みつけ、わなわなと震える拳を握り締めて腹から叫んだ。

「出てけ!」
「泊めて?」

 会話もロクに成り立たない。手強い以前の問題だ。
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