No morals

わこ

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第一部

25.5-Ⅸ

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 目覚めない男の様子を見ながら、ようやく迎えた新しい朝は昨日よりも少し空気が冷えていた。
 この隣は昭仁さんの部屋だ。そこを使えと言われたが、その心遣いは断った。代わりに渡された大きめの毛布を適当に肩にかけ、椅子に座って壁には相変わらず右半身を寄りかからせて、数秒から数分ウトウトするのを幾度となく繰り返していた。
 今もまた秒針のカチッという音にパチリと目を開いたが、視界に入った竜崎の様子に変化はない。カーテンの隙間から漏れる光が部屋の中にそっと差し込み、頼りないライトと合わせて顔色を淡く映し出していた。

 毛布を椅子に置き、ベッドのすぐそばに立った。見下ろす表情は無機質だ。呼吸も何もかも正常なのに、こいつはまだ目覚めない。
 俺のためにこうなった。その俺がしてやれることは何もない。力になんてなれるはずもなく、いつだって待っていることしかできない。

 動かせる右手でシーツをくしゃりと握りしめた。両方の膝を床につき、開かないまぶたを近くから見る。右手に力を込めながら、掛け布団の上に顔を埋めた。

「……起きろよ」

 夜が明けるまでに何度同じことを言ったか。どれだけ言おうとも目を覚まさない。しかし今は少し違った。布団の中でその腕が、ほんの微かに、動いた。
 バッと上げたこの顔。目に映る光景に変化はない。沈んでいく気分とともに、再び顔を伏せ、目を閉じた。

「竜崎……」

 溜め息を飲み込む代わりにシーツをまた握りしめた。起きろ。小さく呟いた。
 まぶたの奥の視界は暗い。目を閉じているときは、音と感触に注意が向きやすい。スッと、僅かな衣擦れを聞いた。そのあとは髪に、何かが触れた気がした。

「…………」

 顔を伏せたまま、目を大きく開いた。今度はおそるおそる顔を上げた。
 しばらくはそのまま動くことができない。目が合った。竜崎と。

「りゅ、う……」

 声にならない。けれどもこの名前の主は、応えるように弱々しく笑った。

「っ竜崎……ッ」

 今度こそ空気を振動させた。髪に触れていた竜崎の指先が頬にゆっくりおりてきて、思わずその手を上から握ってはっきりと視線を合わせた。
 体の痛みは頭から飛んでいた。手のひらのキズ。気にならない。痛覚が抜け落ちたまま、震えそうな手で竜崎の手を握りしめた。

「……バカ野郎……遅ぇんだよ。いつまで寝てんだ……」

 絞り出した声はひどく頼りない。力ないその手を離すことができず、ギュッと掴んでしまっているから震えるのも伝わっているだろう。

「……よかった……」

 目頭は熱いし、鼻の奥は痛い。情けない面構えだろうと隠しているだけの余裕もない。
 そうやって晒した俺の顔を竜崎は見つめている。その表情はだんだんと、悲しそうになっていく。

「ごめんな……」

 最初の一言はそれだった。

「こんな……ひどい目、遭わせて……」

 額の傷に伸ばされたその手。ガーゼの上から労わるように指先でなぞられた。その手はゆっくり下りていき、首元の包帯に触れた。

「……ごめん」
「なんで……」

 この男が、こんな顔をする必要はないのに。

「っ死にかけた奴が何言ってんだよ……人の心配してる場合じゃねえだろ……ッ」

 こいつはどうしていつもこうなのか。人のことばかりで、自分のことなど顧みず、結果こういう事態になった。

「俺は、お前が……死ぬかもって……」

 怖かった。いなくなる。そう思うと、全身から血の気が引いた。
 今この男の目を見て心の底から安堵した。ここまでどれだけ長かったことか。全て分からせてやりたくて、ぼやける目で竜崎を睨んだ。

「……二度と見せんな……ふざけんなよ。お前が死ぬとこなんか見たくない」

 声が震える。あの光景が、頭にこびりついている。

「……死んだら許さねえ」
「裕也……」

 ふわっと優しく、頭に手を置かれた。ゆっくりと梳くように髪を撫で、本当なら上げているのもつらいはずのその腕で、俺を抱き寄せ、この顔を自分の胸元に埋めさせた。
 あたたかい。生きている。シーツを握り締めてその体温を感じた。優しげに髪を梳く指先の感触が、懐かしくてどうしようもない。

「大丈夫……ちゃんと生きてる。言ったろ。オトせてねえのに死ねねえよ」

 軽口は相変わらずで、その目も全部変わらない。
 焦燥はとけた。けれど締め付けられる。目頭はずっと熱いままで、そんな俺の顔をこいつは見ている。

「裕也……」

 深くまばたきをしたら零れる。だから僅かに瞬いた。竜崎は俺の片頬を包んだ。

「もっと。こっち来て」
「…………」
「ちゃんと顔見たい」

 その手と声に引き寄せられるように、竜崎の顔の真横に右手をついた。
 近付く。この男がそう望むから。顔を伏せ、キシッとベッドが小さく鳴った。
 生きて戻った。帰ってきた。俺のところにこいつは戻った。触れるまではもう距離はほぼない。その薄い唇が、やわらかいのはとっくに知ってる。

「ホントいちいち若ぇよな、お前らは」
「っっっ!?」

 咳払いとともに投げられたその声。ギリギリのところで唇が重なる寸前、現実に引き戻されて飛び上がった。
 振り返る。目にしたのは昭仁さんの呆れ顔。慌ててベッドからバッと離れて気まずい思いで立ち尽くす。
 俺は何をしようとしていた。おかしな空気に完全に飲まれた。ショックを隠せない俺とは対照的に、竜崎はだるそうな様子で溜め息をついた。

「昭仁さん……。頼むからあと二分待っとけよ……」

 その言葉にヒクっとひきつった頬。ベッドに沈んでいる竜崎は残念そうな顔をしている。
 弱ってはいる。確かに、弱っている。しかしその一言がそれを裏切った。ついさっきまでの健気な様子は一体なんだったのかと思うくらいに、ジトっとした目を昭仁さんに向けてこれ見よがしに大きなため息。

 以前にも似たようなことがあった気がする。あれはあれで色々と堪えたが、これはちょっと前まで死にかけていた人間の言動では間違いなくないし普通の人間だったらできない。
 別の意味でわなわな震えた。昭仁さんは俺をからかうように眺め、笑いながらベッドに歩みを寄せた。

「起きたと思ったらいきなりそれかよ。タフにも程があんだろ」

 そう言う昭仁さんの手には銀色のトレーが。注射器やら何やらがいくつか置いてある。
 竜崎の腕からはすでに点滴がはずされている。抗生剤か何かの薬でも打つつもりでやってきたのだろう。

「いま無茶すんのは体に障るぞ。二人ともな。お前らヘタするとあのまま本番いきそうな雰囲気だった」
「なっ……」

 さらに引きつった顔面の筋肉。

「別にそんな……っ」
「わりぃが今は邪魔すんぞ。イチャつくんなら治ってからにしろ」
「ッしねえよ!!」

 弁解の余地すら与えられない。昭仁さんは椅子の上にトレイを置くと俺を振り返り、何事もなかったかのように言った。

「お前もそろそろちゃんと寝ろ。恭介は気がついたんだからこれでもう文句ねえだろ」
「…………」

 ひと通り人をからかった直後のいきなりすぎる大人な対応。竜崎の腕を取って医者っぽく脈を確認している。アルコールを含ませた脱脂綿で肘裏を擦ると注射器を手にした。
 こんなよく分からない部屋で当然のように行われる医療行為。見れば見るほど異様だった。何よりも普段が普段だから。

 立ち尽くしている俺を見兼ねたのか、竜崎の腕を布団の上に戻すと昭仁さんはまた俺に顔を向けた。その表情がニヤッと笑みに変わる。悪戯でも思いついた子供のよう。

「恭介喜べ。裕也が添い寝してくれるらしいぞ」
「はっ!?」

 そんなことを言った覚えは一ミリもない。ベッドの上で竜崎は小さく笑い、自分の隣をポンポンと叩いた。

「来るか?」
「っ……!」

 カッと顔が熱くなった。しかし今は分が悪い。
 やむを得ずばっと背を向けて、開いたままのドアを目指した。

「誰が行くかクソがッ! 昭仁さん部屋借りるからなッ!!」

 バンッとドアを閉めてきた。逃げ込んだ隣の部屋は、向こうよりも幾分か広いが生活感がないのは同じ。必要最低限の物が置いてあるだけのこの部屋で、奥のベッドに真っ直ぐ向かってうつ伏せにボスっと倒れ込んだ。
 痛い。そうだ肋骨。アホかよ。なんて無様だ。

「……クソッたれ」

 天井を仰ぎ見た。顔半分を右手で覆って投げやりに吐き捨てたそれ。起きたと思えばその途端に人をイライラさせてくる。激昂させられた直後だというのに、不思議と悪感情は薄い。
 目を閉じた。浮かぶ。憎たらしい顔が。あの目に、あの笑い方に、俺に触れた指先も、名前を呼んでくるその声も。どれもこれも腹が立つほど、ひどく優しいものだった。

「…………」

 俺はおかしいのかもしれない。
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