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第一部
23.5-Ⅶ
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目を閉じていても光を感じる。どれほどの時間が経ったのだろうか。
見知らぬ部屋だ。知らないベッド。その上で寝かされていた。
右腕には管が繋がっている。その先を辿れば点滴が目に入る。首だけをぎこちなく動かして白っぽい室内を眺め回し、左腕が重いと思ったらギブスで固定されていることに気づいた。
全身がだるくて腕を持ち上げるのも億劫。ここが病院の一室だと理解するまでは早かった。ではなぜ自分がこのような状況になっているのか記憶を手繰れば、昭仁さんの目の前で意識を飛ばし、無様な姿をさらしたことを徐々に少しずつ思い出す。簡潔に言うと、ぶっ倒れた。
情けないことこの上ない。昭仁さん相手に格好付けたところで意味などないと分かってはいるが、申し訳なさやら恥ずかしさやらで天井を呆然と見つめていると、ガラガラっと音を立てて扉が開いた。
カツカツと近付いてくる足音。すぐ後には仕切りのカーテンが開いた。白衣を着た五十代くらいの女性。看護師だ。その人は俺の顔を見下ろすとにこりと微笑み、点滴に目を移しながら言った。
「気づかれました? どうです、具合の方は?」
「あ……はい。大丈夫です」
ハキハキとした明るい笑顔と口調に戸惑いながらも短く答えた。点滴針が刺さっている腕をテープの上から確認される。先生を呼んできますねと爽やかに告げた看護師はすぐに部屋から出て行った。
昭仁さんが店で言っていた病院とはここのことだろう。至ってまともな医療施設のようだ。あの看護師さんを見た限りでは。昭仁さんの知り合いの病院と言うからには何かしらのあれそれがあるのかと思ったが、全体的に白っぽい病室には怪しい瓶や道具も置いていない。
そしてそれから三分もしないで今度は男が入って来た。格好からしておそらくは医師。昭仁さんと同じくらいの年代だろうか。あの人がいくつか知らないが。
その男はジロジロと俺を観察し、顔の距離を近づけるようにほんの少し腰を屈めた。かと思えば、真顔で一言。
「痛む?」
「へ?」
ついついマヌケな声が出た。この人は気にせず淡々と続けた。
「まあ今は鎮痛剤効いてるよね。でも何日かは響くだろうから覚悟しといて。一応CTも撮ってみたけど頭の怪我は見た目ほど酷くなかった。良かったね。そいので意外とポックリ逝く奴とかいるんだよ。もうちょっと場所逸れてたか後頭部だったらヤバかったかな」
「……はぁ」
呆然と頷いた。着ているものは確実に白衣なのだが医者らしからぬその発言。
昭仁さんの大学の同期というのはこの人のことだろう。先々代と先代から受け継いできた病院の現院長。その病院自体は一般的でも、院長はどうにも例外的だった。医者っぽくない。
同じ医者でも親しみやすさは昭仁さんの方がまだ上だ。実験用のモルモットでも見るように俺の状態を観察しているこの人の表情は完全に無。感情らしいものを一切窺わせない。
「他もザックリ説明だけしておくから適当に聞いといて。左前腕骨折。手首、手の平、首を中心にその他諸々刺創、切創、擦過傷および全身打撲。第八肋骨不全骨折。あとは軽い衰弱、脱水症状。それと寝不足。ちゃんと寝ようね。でもホント運がいいよキミ。不全骨折ってヒビのことね。完全に肋骨折れるとかなりキツイから呼吸とか色々。キミの場合は三週間くらい過ぎれば普通に動けるようになるけど全箇所完治するまではもっとかかると思っといて。あ、あと薬出しとくね」
「……はい」
そうとしか返しようがない。淡々と無表情に診断結果を並べられて圧倒される。
「だいたい察しは付いてると思うけどここウチの病院。昭仁にキミのこと頼まれた。それなりのことしか聞いてないから詳しい事情は何も知らないけど細かいこと突っ込む気はないから大丈夫。で、どうする? 一日くらい入院してく?」
唐突に質問。テンポが読めない。
「……いや、あの……帰ります」
「うん、だよね。帰るって言うだろうって昭仁も言ってた。本当だったらしばらく入院するような大怪我だけどまあいいよ。首から下は絶対安静。弾みでうっかり肋骨ポキッといく場合あるから気を付けるように。頭はそれ以上に注意しといて。頭痛とか吐き気とかもしもちょっとでもおかしなことがあるようだったら迷わず昭仁に報告すること。分かった? 分かったね。点滴終わったら送らせるからそれまで寝てて」
「…………」
半ばショック状態だ。この人が院長で大丈夫なのか。
ひとまず送ってくれるというのは丁重にお断りしよう。しかし口を開きかけると途端にジロリと見下ろされ、一言どころか声を発する間もなく無感情に淡々と言われた。
「送ってくの俺の弟。主に経理担当のはずなんだけどすっごくヒマそうだし俺の脛かじって生きてる子だから遠慮はやめてね。ていうか俺が昭仁から言われてるんだよ。キミのこと送り届けろって。迷惑掛けるとか思われる方が迷惑だから黙って言うこと聞いといてくれる?」
「……………ハイ」
何やらすごい人に出会った。
***
しばらくして点滴を終えたあと、病室内の鏡にふと目がいった。映し出されているのは自分の惨めな姿。手首や首筋、頭に巻かれた大げさな包帯に加えて、三角巾で吊るされた左腕には見た目も実際にも重いギブス。
喧嘩三昧の日々を送ってきたが実のところ骨折は生まれて初めて。暴行による怪我をここまできちんと手当てされたのも初めてだった。
服の下では肋付近を覆うように包帯が巻かれている。絶対安静については再三釘を刺された。長引かせたくないならおとなしくしておきな、と。
外に出て看板を眺め、名前を知った鈴木医院。あの人は鈴木先生と言うのか。
その人の脛をかじっているらしい経理担当の弟さんが運転する車に乗せてもらって、戻ってきたのはミオだった。
店の前の通りは狭すぎて車が進入する事はできない。通りの手前で降ろしてもらい、兄貴とは違って人当たりの良さそうなのほほんとした弟に礼を言った。
夜間営業のヤル気ないバーだから昼間は当然静まり返っている。中に入ってまず目にしたのは、背凭れから上の、昭仁さんの後ろ姿。テーブルに足を投げ出しながら長椅子に座って眠っていた。
起こさないようにそっと近づく。深く刻まれた眉間の皺。疲れているのが一目で分かるが、オペをたった一人でこなせばどんな名医でもこうなるだろう。
二階から何か掛ける物でも。そう思い、その場から動いた。
ところが足元ではギシッと、床の板の目が煩く音を立てた。静かな部屋に響き渡ったその音にぎくりと止めたこの足。
「…………」
たまに気の利いた事をしようとすればこれだ。振り返れば昭仁さんが身じろぎ、案の定起こしてしまった。ゆっくり伸びをしたこの人はそこですぐに俺に気づいた。
「よう。戻ってたか」
口調ははっきりしている。俺も昭仁さんに向き直ってテーブルのそばへ戻った。
「……悪い。起こした」
「いいや。それよりどうだ、怪我の具合は。つってもそのカッコ見りゃ聞くまでもねえか」
「大袈裟なくらいだよ。頭の傷も問題ない。心配掛けたな」
情けなくも目の前で倒れたのは気疲れと寝不足によるものだろう。昭仁さんもだいたい分かっているようで、首をポキポキ鳴らしながら無理はするなと笑って付け足した。
そして椅子から腰を上げると向かったのはカウンター。まさか昼間から酒でも飲む気か。疑いは即座に晴れて、昭仁さんはお湯を沸かし始めた。少ししてからこちらまで香ってきたのはコーヒーの香ばしい匂い。自分の分を口にしながらもう一つのカップをカウンターに置いた。
ほっとするような香りに誘われて俺もカウンター席に着く。口にした濃い目のコーヒーの苦さが、ぼんやりする頭には調度良かった。
「今日一日はここに居ろ。あの周辺もまだごたついてて動きが読めねえ」
昭仁さんが俺をここに送らせた理由が分かった。黙ってうなずくとうなずき返してくる。
「バイト休めるか? どうせ絶対安静だろ?」
「ああ。さっき連絡入れといた。バイクと事故ったことにしてある」
問題なく続いているバイト先でむざむざクビを切られたくはない。病院を出てからすぐにバイト先には事情を伝えておいた。九割方は嘘で固めたが。告げた真実は体の状態くらい。
そうは言ってもアルバイトの立場で長い休みが貰えるはずもなく。これを衝突事故の怪我として切り抜けられるかは微妙なところだ。昭仁さんも思う所は同じだったようで半笑いになって煙草を咥えた。
「お前にしちゃずいぶんと間抜けな言い訳だな」
「思いつかなかったんだよ。なんとかなる」
ボッと火をつけながら今度は声を出して笑われる。笑われるだろうとは思っていたから、目を逸らしつつカップに口をつけた。
飲んでいるものと時間帯が違うだけでいつも通りの日常だ。いつの間にかここに来るのは俺にとって習慣になっていた。それが根付いた原因が、いま俺の隣にはいない。
「……あいつはどうだ」
「安定してる」
「…………」
しかしまだ目覚めてはいない。そこまで言わないならそういう事だ。
「傷……深かったか」
「まあな。辛うじて急所は外してたんだが、なんせ出血量が多かった」
つい半日前の光景を思い出す。重傷を負っても平気で動いていた。あれは、狂気でしかなかった。
年なんて俺とそう変わらない。けれど生きてきた環境は違う。それを分からせる姿だった。
思わず畏怖を抱くような、それでいて、やはりあいつだった。あの時向けられた懺悔の表情がずっと頭に残っている。俺を守るために必死になっていた。見せつけられた冷酷な姿が俺の中から消えるのは一瞬で、強いくせにあまりにも脆く、優しすぎる男の顔を見た。
座ったまま昭仁さんを見上げた。バカなあの男が生きているのは、この人がいてくれたからだ。
「……昭仁さん来てくれて本当に助かった。俺一人だったらきっと……竜崎のこと、死なせてた」
なす術もなく竜崎を抱えていた。動揺と混乱しか俺にはなかった。あの時あそこで昭仁さんの声を聞き、その顔を見てどれだけ救われたことか。この人が駆け付けてこなければ、俺は竜崎の亡骸を抱えることになっていたかもしれない。
あり得ない話ではないだろう。あり得たはずの別の未来だ。考えるだけでもゾッとする。それを拭い去るかのように昭仁さんは小さく笑った。カウンター越しに身を乗り出して、人の頭をいい子いい子してくる。
「っ……おい!」
「カワイイとこあんじゃねえか。俺がカッコいいからって惚れんなよ?」
「だから竜崎の真似はやめろ! 人がまじめに礼言ってんのになんだよ!?」
自由な右手でその手を払った。少しも悪びれた様子のない昭仁さんに悪い悪いと笑って言われる。
恨みがましく見上げた顔は優しい大人の表情だ。こんな顔をされては食ってかかれない。代わりに小さく息をついた。
「……あんなの一人いれば十分だ。クソバカでアホ丸出しなしょうもねえ奴の代理なんかいくら昭仁さんでも務まらねえだろ」
「確かにな。俺もさすがにあそこまでバカにはなれねえ」
バカでいい。あいつはそれくらいが合っている。バカがバカたるゆえんはその言動にあるから、早く目を覚ましてもらわないと。日常が戻って来るのはそのあとだ。
思い浮かべる毎日に、当然のごとく竜崎の姿がある。隣に存在していることが俺の日常になってしまったのは、いつからだろう。自然とそうなっていた。
「……これからどうなるんだ」
冷えた指先を温めるようにコーヒーカップに手を添えた。
今回のこれはあいつが抱えている問題のうちの一つに過ぎない。昭仁さんは考えを巡らせるようにしながら白い煙をふうっと吐いた。
「どのみち滝川は潰れるだろうな。たとえ生き残る奴がいたとしても長くは持たねえ。他から食い潰されるだけだ。しばらくは竜崎のとこも落ち着くだろ」
後継となるべき男が生死の境を彷徨った。竜崎の実家もそれはさすがにまだ認識下にないだろうが、一時は組に戻った身。このままで済む。そんな楽観は、いくらなんでも抱けない。
「政深会は……? 滝川組も一応は傘下の一つなんだろ?」
「今回の強制捜査の対象は実際どれも滝川が承認なしに勝手にやってた。そもそも本来クスリはご法度だ。上納実績も関与の事実もまるでねえような事件とあってはサツも上層部に手出しはしねえよ」
滝川組だけを捜査対象とさせる証拠をピンポイントで揃えてきた。昭仁さんがいつどこで何をどう動いているかは知らないが、狙いを定めた組織以外にダメージのない方法を選んだのだろう。
どうしてこうも昭仁さんの元に味方と情報が多く集まるのか。その理由が少しだけ分かった気がする。
「クソみてえな組を切り落とす建前も十分に揃ったってわけだ。態よく厄介払いができて上もさぞかしご満悦だろうよ」
「……昭仁さんってホントに何者?」
「超絶カッコイイおじさんだ」
「…………」
クセ者だ。
見知らぬ部屋だ。知らないベッド。その上で寝かされていた。
右腕には管が繋がっている。その先を辿れば点滴が目に入る。首だけをぎこちなく動かして白っぽい室内を眺め回し、左腕が重いと思ったらギブスで固定されていることに気づいた。
全身がだるくて腕を持ち上げるのも億劫。ここが病院の一室だと理解するまでは早かった。ではなぜ自分がこのような状況になっているのか記憶を手繰れば、昭仁さんの目の前で意識を飛ばし、無様な姿をさらしたことを徐々に少しずつ思い出す。簡潔に言うと、ぶっ倒れた。
情けないことこの上ない。昭仁さん相手に格好付けたところで意味などないと分かってはいるが、申し訳なさやら恥ずかしさやらで天井を呆然と見つめていると、ガラガラっと音を立てて扉が開いた。
カツカツと近付いてくる足音。すぐ後には仕切りのカーテンが開いた。白衣を着た五十代くらいの女性。看護師だ。その人は俺の顔を見下ろすとにこりと微笑み、点滴に目を移しながら言った。
「気づかれました? どうです、具合の方は?」
「あ……はい。大丈夫です」
ハキハキとした明るい笑顔と口調に戸惑いながらも短く答えた。点滴針が刺さっている腕をテープの上から確認される。先生を呼んできますねと爽やかに告げた看護師はすぐに部屋から出て行った。
昭仁さんが店で言っていた病院とはここのことだろう。至ってまともな医療施設のようだ。あの看護師さんを見た限りでは。昭仁さんの知り合いの病院と言うからには何かしらのあれそれがあるのかと思ったが、全体的に白っぽい病室には怪しい瓶や道具も置いていない。
そしてそれから三分もしないで今度は男が入って来た。格好からしておそらくは医師。昭仁さんと同じくらいの年代だろうか。あの人がいくつか知らないが。
その男はジロジロと俺を観察し、顔の距離を近づけるようにほんの少し腰を屈めた。かと思えば、真顔で一言。
「痛む?」
「へ?」
ついついマヌケな声が出た。この人は気にせず淡々と続けた。
「まあ今は鎮痛剤効いてるよね。でも何日かは響くだろうから覚悟しといて。一応CTも撮ってみたけど頭の怪我は見た目ほど酷くなかった。良かったね。そいので意外とポックリ逝く奴とかいるんだよ。もうちょっと場所逸れてたか後頭部だったらヤバかったかな」
「……はぁ」
呆然と頷いた。着ているものは確実に白衣なのだが医者らしからぬその発言。
昭仁さんの大学の同期というのはこの人のことだろう。先々代と先代から受け継いできた病院の現院長。その病院自体は一般的でも、院長はどうにも例外的だった。医者っぽくない。
同じ医者でも親しみやすさは昭仁さんの方がまだ上だ。実験用のモルモットでも見るように俺の状態を観察しているこの人の表情は完全に無。感情らしいものを一切窺わせない。
「他もザックリ説明だけしておくから適当に聞いといて。左前腕骨折。手首、手の平、首を中心にその他諸々刺創、切創、擦過傷および全身打撲。第八肋骨不全骨折。あとは軽い衰弱、脱水症状。それと寝不足。ちゃんと寝ようね。でもホント運がいいよキミ。不全骨折ってヒビのことね。完全に肋骨折れるとかなりキツイから呼吸とか色々。キミの場合は三週間くらい過ぎれば普通に動けるようになるけど全箇所完治するまではもっとかかると思っといて。あ、あと薬出しとくね」
「……はい」
そうとしか返しようがない。淡々と無表情に診断結果を並べられて圧倒される。
「だいたい察しは付いてると思うけどここウチの病院。昭仁にキミのこと頼まれた。それなりのことしか聞いてないから詳しい事情は何も知らないけど細かいこと突っ込む気はないから大丈夫。で、どうする? 一日くらい入院してく?」
唐突に質問。テンポが読めない。
「……いや、あの……帰ります」
「うん、だよね。帰るって言うだろうって昭仁も言ってた。本当だったらしばらく入院するような大怪我だけどまあいいよ。首から下は絶対安静。弾みでうっかり肋骨ポキッといく場合あるから気を付けるように。頭はそれ以上に注意しといて。頭痛とか吐き気とかもしもちょっとでもおかしなことがあるようだったら迷わず昭仁に報告すること。分かった? 分かったね。点滴終わったら送らせるからそれまで寝てて」
「…………」
半ばショック状態だ。この人が院長で大丈夫なのか。
ひとまず送ってくれるというのは丁重にお断りしよう。しかし口を開きかけると途端にジロリと見下ろされ、一言どころか声を発する間もなく無感情に淡々と言われた。
「送ってくの俺の弟。主に経理担当のはずなんだけどすっごくヒマそうだし俺の脛かじって生きてる子だから遠慮はやめてね。ていうか俺が昭仁から言われてるんだよ。キミのこと送り届けろって。迷惑掛けるとか思われる方が迷惑だから黙って言うこと聞いといてくれる?」
「……………ハイ」
何やらすごい人に出会った。
***
しばらくして点滴を終えたあと、病室内の鏡にふと目がいった。映し出されているのは自分の惨めな姿。手首や首筋、頭に巻かれた大げさな包帯に加えて、三角巾で吊るされた左腕には見た目も実際にも重いギブス。
喧嘩三昧の日々を送ってきたが実のところ骨折は生まれて初めて。暴行による怪我をここまできちんと手当てされたのも初めてだった。
服の下では肋付近を覆うように包帯が巻かれている。絶対安静については再三釘を刺された。長引かせたくないならおとなしくしておきな、と。
外に出て看板を眺め、名前を知った鈴木医院。あの人は鈴木先生と言うのか。
その人の脛をかじっているらしい経理担当の弟さんが運転する車に乗せてもらって、戻ってきたのはミオだった。
店の前の通りは狭すぎて車が進入する事はできない。通りの手前で降ろしてもらい、兄貴とは違って人当たりの良さそうなのほほんとした弟に礼を言った。
夜間営業のヤル気ないバーだから昼間は当然静まり返っている。中に入ってまず目にしたのは、背凭れから上の、昭仁さんの後ろ姿。テーブルに足を投げ出しながら長椅子に座って眠っていた。
起こさないようにそっと近づく。深く刻まれた眉間の皺。疲れているのが一目で分かるが、オペをたった一人でこなせばどんな名医でもこうなるだろう。
二階から何か掛ける物でも。そう思い、その場から動いた。
ところが足元ではギシッと、床の板の目が煩く音を立てた。静かな部屋に響き渡ったその音にぎくりと止めたこの足。
「…………」
たまに気の利いた事をしようとすればこれだ。振り返れば昭仁さんが身じろぎ、案の定起こしてしまった。ゆっくり伸びをしたこの人はそこですぐに俺に気づいた。
「よう。戻ってたか」
口調ははっきりしている。俺も昭仁さんに向き直ってテーブルのそばへ戻った。
「……悪い。起こした」
「いいや。それよりどうだ、怪我の具合は。つってもそのカッコ見りゃ聞くまでもねえか」
「大袈裟なくらいだよ。頭の傷も問題ない。心配掛けたな」
情けなくも目の前で倒れたのは気疲れと寝不足によるものだろう。昭仁さんもだいたい分かっているようで、首をポキポキ鳴らしながら無理はするなと笑って付け足した。
そして椅子から腰を上げると向かったのはカウンター。まさか昼間から酒でも飲む気か。疑いは即座に晴れて、昭仁さんはお湯を沸かし始めた。少ししてからこちらまで香ってきたのはコーヒーの香ばしい匂い。自分の分を口にしながらもう一つのカップをカウンターに置いた。
ほっとするような香りに誘われて俺もカウンター席に着く。口にした濃い目のコーヒーの苦さが、ぼんやりする頭には調度良かった。
「今日一日はここに居ろ。あの周辺もまだごたついてて動きが読めねえ」
昭仁さんが俺をここに送らせた理由が分かった。黙ってうなずくとうなずき返してくる。
「バイト休めるか? どうせ絶対安静だろ?」
「ああ。さっき連絡入れといた。バイクと事故ったことにしてある」
問題なく続いているバイト先でむざむざクビを切られたくはない。病院を出てからすぐにバイト先には事情を伝えておいた。九割方は嘘で固めたが。告げた真実は体の状態くらい。
そうは言ってもアルバイトの立場で長い休みが貰えるはずもなく。これを衝突事故の怪我として切り抜けられるかは微妙なところだ。昭仁さんも思う所は同じだったようで半笑いになって煙草を咥えた。
「お前にしちゃずいぶんと間抜けな言い訳だな」
「思いつかなかったんだよ。なんとかなる」
ボッと火をつけながら今度は声を出して笑われる。笑われるだろうとは思っていたから、目を逸らしつつカップに口をつけた。
飲んでいるものと時間帯が違うだけでいつも通りの日常だ。いつの間にかここに来るのは俺にとって習慣になっていた。それが根付いた原因が、いま俺の隣にはいない。
「……あいつはどうだ」
「安定してる」
「…………」
しかしまだ目覚めてはいない。そこまで言わないならそういう事だ。
「傷……深かったか」
「まあな。辛うじて急所は外してたんだが、なんせ出血量が多かった」
つい半日前の光景を思い出す。重傷を負っても平気で動いていた。あれは、狂気でしかなかった。
年なんて俺とそう変わらない。けれど生きてきた環境は違う。それを分からせる姿だった。
思わず畏怖を抱くような、それでいて、やはりあいつだった。あの時向けられた懺悔の表情がずっと頭に残っている。俺を守るために必死になっていた。見せつけられた冷酷な姿が俺の中から消えるのは一瞬で、強いくせにあまりにも脆く、優しすぎる男の顔を見た。
座ったまま昭仁さんを見上げた。バカなあの男が生きているのは、この人がいてくれたからだ。
「……昭仁さん来てくれて本当に助かった。俺一人だったらきっと……竜崎のこと、死なせてた」
なす術もなく竜崎を抱えていた。動揺と混乱しか俺にはなかった。あの時あそこで昭仁さんの声を聞き、その顔を見てどれだけ救われたことか。この人が駆け付けてこなければ、俺は竜崎の亡骸を抱えることになっていたかもしれない。
あり得ない話ではないだろう。あり得たはずの別の未来だ。考えるだけでもゾッとする。それを拭い去るかのように昭仁さんは小さく笑った。カウンター越しに身を乗り出して、人の頭をいい子いい子してくる。
「っ……おい!」
「カワイイとこあんじゃねえか。俺がカッコいいからって惚れんなよ?」
「だから竜崎の真似はやめろ! 人がまじめに礼言ってんのになんだよ!?」
自由な右手でその手を払った。少しも悪びれた様子のない昭仁さんに悪い悪いと笑って言われる。
恨みがましく見上げた顔は優しい大人の表情だ。こんな顔をされては食ってかかれない。代わりに小さく息をついた。
「……あんなの一人いれば十分だ。クソバカでアホ丸出しなしょうもねえ奴の代理なんかいくら昭仁さんでも務まらねえだろ」
「確かにな。俺もさすがにあそこまでバカにはなれねえ」
バカでいい。あいつはそれくらいが合っている。バカがバカたるゆえんはその言動にあるから、早く目を覚ましてもらわないと。日常が戻って来るのはそのあとだ。
思い浮かべる毎日に、当然のごとく竜崎の姿がある。隣に存在していることが俺の日常になってしまったのは、いつからだろう。自然とそうなっていた。
「……これからどうなるんだ」
冷えた指先を温めるようにコーヒーカップに手を添えた。
今回のこれはあいつが抱えている問題のうちの一つに過ぎない。昭仁さんは考えを巡らせるようにしながら白い煙をふうっと吐いた。
「どのみち滝川は潰れるだろうな。たとえ生き残る奴がいたとしても長くは持たねえ。他から食い潰されるだけだ。しばらくは竜崎のとこも落ち着くだろ」
後継となるべき男が生死の境を彷徨った。竜崎の実家もそれはさすがにまだ認識下にないだろうが、一時は組に戻った身。このままで済む。そんな楽観は、いくらなんでも抱けない。
「政深会は……? 滝川組も一応は傘下の一つなんだろ?」
「今回の強制捜査の対象は実際どれも滝川が承認なしに勝手にやってた。そもそも本来クスリはご法度だ。上納実績も関与の事実もまるでねえような事件とあってはサツも上層部に手出しはしねえよ」
滝川組だけを捜査対象とさせる証拠をピンポイントで揃えてきた。昭仁さんがいつどこで何をどう動いているかは知らないが、狙いを定めた組織以外にダメージのない方法を選んだのだろう。
どうしてこうも昭仁さんの元に味方と情報が多く集まるのか。その理由が少しだけ分かった気がする。
「クソみてえな組を切り落とす建前も十分に揃ったってわけだ。態よく厄介払いができて上もさぞかしご満悦だろうよ」
「……昭仁さんってホントに何者?」
「超絶カッコイイおじさんだ」
「…………」
クセ者だ。
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